|
ハモニカ長屋のすぐそばに購買部の学食がある。そこで売っているのはせいぜい25円のラーメンと
20円のコッペパンである。コッペパンは横腹を裂くように包丁を入れ、その間にマヨネーズで和えた
キャベツの千切りが溢れるくらいに入れてあった。販売を始めるのが二時限終了時、AM10時40分
である。先輩達が二時限の終了と共に学食の前で屯しているので何をしているのか見ていると、その
コッペパンを我先に買い求めかぶりついていた。10分しか休憩時間がないので誰もが三時限の開始に
間に合うように夢中で頬張り、中には喉に詰まらせて目を白黒させている者もいた。みんな弁当持参だ
が、昼まで腹が持たない。食べ盛りの高校生にとってはちょうどお腹がすいてくる時間である。一郎も
一度その味を覚えてからは二時限終了間際になると、パブロフの犬同様涎が出そうになる。一郎はコッペ
パンと牛乳を買い部室で食べていた。このコッペパンはなかなかの味で気に入っていた。さすがに女子は
こんなはしたない真似をする子はいない。
高校の授業は一定の教室ではなく、教科によって教室が変わる。四月のオリエンテイションの時に
決まる時間割は大切なものであった。そして食べ終わると、鞄を抱えて所定の教室へ、あたふたと移動
して行く。ただ、困ったことは人間、腹がくちくなると睡魔が襲ってくることだ。70分我慢して授業
を受けなければならないはめになる。三時限目が山田銀次郎先生の英語の時間に当たる時は最悪である。
銀ちゃんは定年間際のお爺さん先生なのだ。ひどい発音で教科書を読み、生徒を煙に巻くのを得意として
いた。bat,catなどのAの発音を「げろ音」だなどと言って生徒一人一人に「おえっ」と発音させた。一郎は
銀ちゃんがあまり好きではなく、おかげで英語の成績はあまり自慢できるものではなかった。
青洋の原稿締め切りが迫っていたが一郎はとうとう書き上げることが出来ず、今回は見送ることにし
た。田川はスポーツクラブを中心に青春恋愛物語を書き上げていた。短い時間しかなかったにも拘らず
よく仕上げたものだと感心した。一郎は何も書けなかったことでひどく落胆した。部室を利用するために
入ってきた田川が短編小説を書いたのに、文学をそれなりに意識して入った自分はいったい何をしている
のだと自己嫌悪に陥った。
「すみません。どうしても書けませんでした。次の機会には必ず発表するようにします」編集に携わって
いる紀本さんと郷田さん、お化けの伊藤さんに頭を下げた。なんでも今回の目玉は郷田さんの比較的長い
小説だという。田川の小説との二本立てであとは三年生の岩沢幸子さんと植田悟さんが長編の詩、二年の
伊藤さんは短い詩、紀本さんは太宰治の作品に対する評論を載せることになった。北川邦夫さん中田正さ
ん、小山洋子さんは一郎と同じように書けないと言って発表を差し控えた。編集を終えたのは7月10日
である。印刷屋に提出して出来上がるのは9月1日だそうだ。夏休みが終わると同時に手元にやってくる
という仕組みである。紀本さんと郷田さんは夏休みの間に校正を済ますのだと言った。
新学期が始まった。昼休みに部室に顔を出すと、郷田さんがうず高く積まれた青洋を前にして早速読ん
でいた。自分の書いた作品だろう、熱心に読んでいて一郎が入ってきたのも気づかない様子である。
「おっ、東谷と田川か、見ろよ、出来上がってきているぞ。読んでみろよ」
「出来ましたね。一冊貰います。」田川は目を輝かして青洋を手に取り一心に読み始めた。誰でもそうだが
自分の書いた作品は一番興味があるのは当然で、作品を発表していない一郎にとっては寂しいことだっ
た。こんな気持ちになるのは全て自分がやることをやってないためだ。それでも一郎は気を取り直して、
評判の郷田さんの作品に目を通した。内容はかなり衝撃的であった。高校生が恋愛の末妊娠をして、ひそ
かに出産した胎児の処理に困った二人は理科室の標本棚へホルマリン漬けにして並べることにする。二人
の心理的な葛藤と共に最終章の悲劇へと巧み描かれていた。一郎は読み終わって深い溜息をついた。一郎
の頭の中に無い設定なのに郷田さんは大胆に取り上げていた。「俺にはこんな作品は書けない」と思った。
一郎はコンプレックスの深淵に沈み込んでゆく自分を見つめていた。田川の小説もそれなりに面白かっ
た。あんな短い期間に一本書き上げたのであるから立派である。紀本さんの太宰評も面白いと思った。
その年、昭和33年は横須賀高校の創立30周年に当たっていた。記念行事として文化祭をすることに
なった。紀本さんは狭い部室に部員全員を集めて何を展示するか議論することにした。しかし誰も熱心で
はなくやる気がなかったが、それでもお座なりとは言え二つの提案があり、決定した。一つは歴代発行
された青洋を年代順に並べること、他校から送られてきた同人誌の展示、神奈川県にゆかりのある作家
の作品や、動向を調べて展示することだった。では誰が調べ、どのように展示するか議論されたが、誰も
やりたがらないため仕方なく、部長の紀本さんを中心に一年生の一郎と田川が手伝うということに決まっ
た。実施は9月末である。9月中は下調べに追われ、図書館に通ったり、鎌倉の観光協会に聞きにいった
りして忙しかった。鎌倉は昔から文人墨客が多く住み着き、鎌倉文学を名乗り文壇の一角を占めている。
また昔、鎌倉時代源頼朝が金沢文庫を作り貴重な文献を保存したり、学問を奨励した所である。
文化祭前日、土曜日には与えられた教室で簡単な飾り付けをし、模造紙に苦労して調べ上げた神奈川県
にゆかりのある作家をマジックペンで書いて壁に貼り付けた。また教室の真ん中に机を並べ青洋を歴代に
並べた。豪勢とは言えなかったがそれなりに文芸部らしくなった。当日一郎は青洋を販売する係りだっ
た。青洋は一日中ぽつぽつと売れた。他校からの訪問客も多く、中には女の子を連れているものもいたが
みんな私服で来ているので何処の高校かわからなかった。文芸部が展示している部屋には郷田さんが昼前
に、伊藤さんは午後から2時間ほどいて帰ってしまった。その他の二年生は誰も来ない。三年の岩沢さん
と植田さんは二人揃って4時頃顔を出した。噂の二人だそうで、岩沢さんが植田さんに熱を上げているの
だと、二人が帰ってから紀本さんが教えてくれた。植田さんは見るからに格好がよかった。
夕方文化祭が終了し展示したものを撤去して部室に運んだあと、再び教室に戻った。がらんとした教室
の窓辺に寄りかかって紀本さんと植田さんが寛いで話をしていた。一郎は二人の会話を聞くとはなしに聞
いていた。
「お袋がよう、止めてくれって言ってんのに洗濯した下着にオーデコロンを振りまくんだ。ぷんぷん匂う
だろう、格好悪くてしょうがない」植田さんは自分のシャツに鼻を付けながら嘆いた。一郎は興味深く
聞いていた。下着に香水とは考えてもみなかった。随分おしゃれなお母さんだ、俺の母親はそんなこと考
えてもみないだろうなと思った。
「ところで先輩、岩沢さんは帰ったんですか?先ほどご一緒なのを見かけましたが」
「うん、なんだか機嫌悪そうにして先に帰ったわ」紀本さんが「何したんですかね」と聞くと
「実はな、受験勉強するのに差しさわりがあるから受験が終わるまで会うのは止めるんだって。俺の顔を
見ると心が乱れて勉強に身が入らないらしい」
「それはお付き合いを止めるということですか?」
「そうだ、学校であっても声をかけてくれるなと言った。俺にとってもこの際受験に力を入れなけりゃあ
ならないからいい機会さ。これからは受験に懸かりっきりだよ」悲壮感もなくさらりとしていた。それか
ら植田さんはおもむろにポケットからタバコを取り出して火をつけ、美味そうに煙を吐き出した。一郎は
吃驚した。高校生が当たり前のように何の躊躇もなく、しかも学校の教室でタバコを吸うなどとは考えて
みなかったのである。横須賀高校じゃないか、あってはならないことが目の前で行われていた。真面目な
学生に見える植田さんがこんな不良行為をするとは、三年になるとみんなこうなるのかと思った。
「おい、新入生、今日はご苦労さん。東谷といったっけ、お前もタバコ吸ってみるか?」手持ち無沙汰にし
ていた一郎を見て、手招きしながらタバコの箱を手にとり声をかけてきた。
「いいえ、結構です。まだ吸ってません」と言いながら首を左右に振って拒んだ。
「そうか、まだタバコを吸ったことがないのか。タバコ吸ってみるのも悪いもんじゃないんだけどな。
まあいいか、まだ入ったばかりだもんな」
どんな意味なのか、何が悪くないのか一郎にはまだ解らなかった。
(つづく)
|