善太郎さん

[ リスト | 詳細 ]

記事検索
検索

全2ページ

[1] [2]

[ 次のページ ]

 善太郎さんは休日になると一郎のキャッチボールの相手をしたり、映画を見に連れて行ってくれた。

映画館で一番近いのは京浜急行の逗子海岸駅の横にある東映映画館である。主に時代劇が多かった。

美空ひばりや中村錦之助、東千代乃助、片岡知恵蔵、市川歌右衛門、悪役の山形勲、お姫様役の花園

ひろみ、これらの俳優が勧善懲悪の時代劇のスクリーンで活躍する。日曜日などは立ち見が出るくら

いの盛況だった。なぎさ通りにある日活の映画館は石原裕次郎や小林旭、北原みえ、浅岡るり子の映画

が上映された。映画を見るくらいしか娯楽がなかった時代どこの映画館も人であふれかえっていた。

しかし、映画が斜陽になるとパチンコ屋に代わるか、取り壊されて駐車場になってしまった。

 師走三日、空は薄い雲に覆われ時々日差しはあるものの冬がもうそこまで来ているような木枯らしが

吹いていた。庭の三本ある柿の葉が枯れ落ち、家の周りに敷き詰めたように積みかさなっていて、歩く

たびにかさこそと音を立てる。今年珍しく紅葉した満天星(どうだんつつじ)は葉を落とし、来年の新芽が

付いた枝がみんな上を向き針の山のようにつんつんと尖って密生している。来年の春には釣鐘の形をした

白くてかわいい花をつけるだろう。去年の冬に刈り込んだままの柘植の木やモチの木が葉を目いっぱい

茂らせているのでまた刈り込まなければならないと思った。放って置くと庭に日が当たらなくなるのだ。

一郎がその役目である。刈り込むまでは面白いのだが、膨大な量の枝の後始末が億劫で嫌だった。義父と

庭掃除をかねて庭で燃やすことにしていた。火が広がらないように三方向にトタン板を立てかけ、ごみと

一緒に燃やすのである。今ではダイオキシンが出るからと言って焚き火は禁じられている。モチの木は

火が付きにくいのだがいったん燃え出すとすごい勢いで燃え盛る。中でも葉は空気を多く含んでいてしゅ

うしゅうと音を立てながら空気を噴き出し、その圧力で一瞬火を吹き消すのだ。焚き火は真っ白な煙を

上げるので火事と間違えられることがある。一郎は冬休みになってから切ろうと思った。

 その日の夕方善太郎さんは少し興奮した顔をして帰宅して来た。

「急に新潟へ転勤になってしまったよ。三日後に行かなければならないんだ」

「ずいぶん急な話じゃないか、それで善太郎は何て言ったんだ?」たまたま居合わせた義父が驚いたよう

な顔をして言った。

「少し考えさせて下さいっていったら、是非行ってくれ。お前を見込んで決めたんだ。もう決まったこと

だって言った。嫌も応もないので仕方なく返事をしてしまったよ」

「ずいぶん強引な話だなあ」

「俺だって相談したい人もいれば後始末しなきゃならないことがあるんだって言ったら、どうせお前は独

身で身軽だから三日もあれば支度はできるだろうって言いやがんの。」

「あははは、それもそうだな。うまいこと言うじゃないか」義父は楽しげに相槌を打つ。

善太郎さんは転勤に不満があったが新しい環境に乗り込んでいく期待と不安で興奮していた。

 何でも新潟に新工場ができたのでそこへ転勤するのだそうだ。若い子ばかりの新工場には善太郎さん

くらいの年齢のまとめ役が必要になったのである。善太郎さんは一郎の家に来たときと同じようにボス

トンバッグ一つ持ってひょいと出て行った。半年の短い期間ではあったが兄のように思っていた善太郎

さんが去った部屋はがらんとして広くなったように見える。以前の生活に戻るだけなのになぜかもうこれ

で会えないかもしれないと、寂しい気持ちがした。

 三年後、善太郎さんは突然帰ってきた。24歳になり、しかもお嫁さんを連れていた。何でも、善太郎

さんが下宿をしていたところのお嬢さんだそうだ。遠く離れた北国での慣れない生活をしている中で、

人恋しさに傍にいる人に親切にされると、つい恋心を抱くことがある。多分善太郎さんもその陥穽に落

ちたのだろうと、いらぬ推測をする。世間ではよくある話だ。でもお嫁さんは多少太めだが、雪国の女

の人が持つ色白で清楚な美人である。ところが善太郎さんは勘当の身であったから結婚するつもりで帰っ

てきたのに実家へ挨拶にいけない。困った善太郎さんは義父のところに相談に来た。

「叔父さん、結婚の挨拶に実家へ行きたいんだけれど、ご承知のとおりお父っちゃんは頑固だから許し

てくれないと思うんだ」善太郎さんはお嫁さんになる人と連れ立って義父の前で神妙にかしこまり話し始

めた。

「そこで叔父さんにお願いがあるんだ、お父っちゃんに結婚を許して貰いたいので、ご足労をかけますが

間に立ってもらえませんか。伯父さんが言えばお父っちゃんも嫌とはいわないと思うんだ」

「そうだな、善太郎も許しがなければ結婚出来やしないなあ。いくら成人だから自由に結婚出来るとは言

え、親の許しがなくては完全に実家とは切れてしまうもんな」

「今でも勘当同然の身なんだから、これ以上勝手なことはできないと思っている」

「本当にこの人と結婚したいんだな」善太郎さんはお嫁さんをちらりと見た。

「もちろん、一緒になりたい。どうしても許してくれなけりゃ仕方がない、二人で生きていくしかない」

ぐっと唇をかんで決意を示した。

「よし、分かった。早速佐島にいって話をしてこよう。なーにお父っちゃんも本心はもうとっくに許して

いるさ。頑固だから一度言い出したら後に引けないのさ。分かる気がするよ」同じ大正生まれの男の生き

様に共感するところがあるのだろう、しばし考えてから、義父は胸を張って説得を引き受けた。

 翌日、義父は善太郎さんの実家へ行き伯父さんと伯母さんを説得した。はじめ伯父さんは頑なに拒ん

でいた。しかし伯父さんは長男の善太郎さんを追い出したことを後悔していたのだ。だから本当は渡りに

船と、二つ返事で許してやりたかった。義父は半日粘って、ついに敷居を跨ぐことを許すと言わせること

が出来た。善太郎さんが家を出てから4年の月日が経っていた。翌日二人は義父に伴われて伯父さんの前

で無事結婚の許しを得た。伯父さんは苦虫を噛み潰したような顔をして、あまり口は利かなかったがどこ

かほっとしている様子だったと、後に義父が言っていた。一番喜んだのは伯母さんに違いない。

 さし当たって二人の住む家がないので、善太郎さんは金沢八景に家を借りることにした。そこから本社

に通っていたがしばらくすると会社を辞めた。誰か有力な伝があったのだろう、南足柄にある神奈川県

青年の家の管理人として二人とも住み込みで就職することができた。純然たる公務員である。その地で

女の子が、次いで男の子が生まれた。善太郎さんは定年まで勤め上げ、小田原市の梅林の近く、下曽我に

新居を構えた。今はそこで悠々自適の生活をしている。善太郎さんの偉いところは短い間ではあったが

一番苦しいときに下宿させてくれた上、伯父さんとの間に立ってくれた義父に恩義を感じて、毎年盆暮れ

には必ず本人が訪れて贈り物を欠かしたことはない。     (おわり)

 手元に置かれたワイングラス様の細長いコップに、黄色がかった液体はサイダーのようにシュン

シュンと泡立っていた。本当にアルコールの入っていない飲み物なのか半信半疑で、恐る恐る口を

つけた。多少生姜の味がしたが甘くてラムネと同じだと思った。善太郎さんのコップの中身は黒茶色

の飲み物で、やはり泡立っていた。ウイスキーをコカコーラと言う飲み物で割ったものだそうだ。カク

テルの一種として最近はやりだした飲み物だと善太郎さんは得意げに一郎に話して聞かせた。それまで

主流だったのはウイスキーを炭酸で割ったハイボールだそうだ。その頃は水割りと言うウイスキーの

飲み方は一般的ではなかった。コカコーラは市場に出回り始めたばかりのアメリカンテイスト飲料水で

ある。しばらくするとこのコーラが爆発的売れ行きを示すようになる。当代の若者に受け入れられた

のだ。ママは小皿の上に塩ピーナッツを一つまみずつ入れて二人の前に置いた。

「ごめんね、今日はこんなものしかないのよ。つまんでて」ママは申し訳なさそうな顔をして付け加えた。

「でもこの塩ピー結構美味しいのよ。食べ始めると止らなくなるって?そうなのよ、つい食べ過ぎてし

まうの。バターで炒ってあるから気を付けないと気持ち悪くなるわよ」と言いながら、ママは2〜3粒

口の中に放り込み、悪戯っぽくにこっと笑った。一郎にはママが余計若く見えた。きれいな人だとは

思ったがどこか違うなと感じた。一郎もつられて目の前の小皿から塩ピーをつまみ、ふた粒ほど口に

入れた。ピーナッツの香りとバターの香りが鼻に抜け、かりっと噛むと口中にバターの塩分とまぶした

塩が広がり程好い塩加減で美味かった。なるほどこれは止まらないかもしれないと思った。善太郎さん

はママと取り留めのない話をしているうちに一杯目のコークハイを開け、二杯目を注文した。酒があま

り強くないのでもう真っ赤な顔をしている。

「善さん、善さんもいい男だけどこの子はいい顔しているねえ。もう少ししたら女の子を泣かせるよう

になるんだろうね」一郎をしみじみと見ながらママは言った。

「私が後10歳ぐらい若かったら放っては置かないんだけどね」

何で俺が女の子を泣かせなきゃいけないんだろうと一郎には意味が分からなかったので、作り笑いを

して誤魔化した。

「ママ、だめだよ、この子はこれから大学を受験しなければならないんだから。誘惑しないでよ」一郎は

二人が冗談を言っているのだろうと思いながらも悪い気はしなかった。

バーへお酒を飲みに来る人たちがどんな会話をしているのだろうか、どんな目的で来ているのか興味が

あったので今日は観察してみようと思った。とそこへ勢いよくドアーを開けて、慌ただしく入ってきた

のは派手な化粧をした若い女の子だった。

「ごめんなさい、遅くなっちゃった。アーラ、善さんいらっしゃい。熊さん今日はお一人?」年齢は二十歳

ぐらいであろう、長い髪をポニーテールにして、ぴたっとした七分ズボンにティ―シャツ姿で、いかにも

活発な女の子のように見える。善太郎さんがママに聞いていたケイちゃんという子らしい。

「いいから早く着替えておいでよ」ケイちゃんはボックス席の後ろにあるドアーを開けて出て行き、しば

らくすると横にあるドアーからカウンターの中に入って来て善太郎さんと一郎の前に立った。胸を大き

く開けたワンピースに着替えていた。私服のときより年齢は上に見える。ママにどこか似ているような

綺麗な顔立ちをしている。

「何か飲むかい?」善太郎さんは急にニコニコしてケイちゃんに声をかけた。

「有り難う。駅前から早足できたんで喉が渇いちゃった。ビールをいただくわ」

ケイちゃんは冷蔵庫からビールを取り出してきてグラスに注ぎ、「乾杯」と言ってグラスを合わせて

から、ごくごくと音を立てて一気に飲んだ。一郎はその飲みっぷりに驚いた。年も大して違わないのに、

やはりバーで働く女の子は商売柄そうせざるを得ないのだろう。高校と言う垣の中でぬくぬくと生活し

ている自分たちに比べれば数段厳しい環境におかれているのだと思った。

「アー、生き返るようだわ。こちらは初めてね、どちらなの」一郎のほうに目をやり、善太郎さんに

尋ねた。

「従兄弟の一郎って言うんだ。高校生だよ。まだ酒は飲まないけど未来のお客さんになるぜ、それも

あと1〜2年の間にな」

「アーラ、それじゃあ大事にしなくっちゃ。あたしケイコって言うの、恵に子よ。よろしくね。未来の

お得意様」一郎は恥ずかしくて顔を上げることができなかった。大人の雰囲気を持った綺麗な女の人と

こんなに身近に話すことなどなかったから、すっかり緊張してしまったのである。善太郎さんはご機嫌

でケイちゃんと取り留めのない話をしているし、隣に座っている熊さんと呼ばれた客はママと顔をつき

合わせて小さな声で話しこんでいる。一郎は手持ち無沙汰になって座っているのが苦痛になってきた。

 その時、ドアーが開いて若い集団が入って来た。ボックス席だけでは座りきれず3人がカウンターに

腰掛けた。みんな日焼けして真っ赤な顔をしている。

「ママ、ビール」リーダー格が注文した。常連らしい。ママは満面に笑みを浮かべてカウンターの中から

出てきた。

「いらっしゃい、あらあら、皆さん真っ赤に日焼けしてどうしたの?」

「野球の試合だったんだ。えっ、どうだったかって?もちろん我が方が勝ったさ。相手は宿敵逗葉慶応

会だよ。逗子葉山地区の早慶戦さ」早稲田大学の学生のようだ。

「それでは、逗葉早稲田会の勝利を祝して乾杯!!」リーダーがグラスを高く掲げて音頭をとると他の

学生がそれにあわせて「乾杯」と声をそろえた。そして彼らは今日の試合の反省会を始めた。一郎は興味が

あったので彼らの会話に耳を傾けていると、彼らがしゃべっている内容が手に取るように分かった。みん

な底抜けに明るく「いいなあ」と思ってどんどん引き込まれていった。

 一郎は認識を新たにすることができた。逗子葉山地区にこんなに多くの早稲田や慶応の学生がいると

は思わなかったし、そんな組織があるのは知らなかった。今まで大学と言うものに漠然と抱いていた

イメージが膨らんで早稲田、慶応と言う名前が頭の中に植えつけられたのはこのときだった。
 
 義父は私立なんてとても行かせられないから公立大学を目指せと命令口調でいっていた。言っている

意味は分かっているが一郎は無理だと思っていた。何故なら公立の受験科目が多岐にわたっていたか

らだ。そしてこのことがストレスとなり学力が徐々に低下していくのである。それはまた後ほどお話し

ましょう。

 いい時間になったので善太郎さんに帰りたい旨を告げた。

「先に帰るか?俺はもう少し飲んでいくから、気をつけて帰れよ」

ケイちゃんは外まで付いてきて送ってくれた。別れ際に

「また来て下さいね。今度はお酒が飲めるようになったら、待っています。さようなら」並んで立つと

ケイちゃんは小柄だった。近くで見ると肌はきめが細かくて案外若いのかもしれないと思った。

                           (つづく)

 心を残して餃子屋を後にした二人は国鉄逗子駅に向かって三軒先の「珠屋」と言う喫茶店に入った。

入り口にはケーキを陳列したガラスケースになっていて、その一番奥にはレジがあり、腰の曲がった

おばあさんが座っている。おばあさんの横は大きなガラスの一枚板で仕切ってあり、その後ろ側が

喫茶室になっている。照明を落としてあるらしく中は薄暗く、意外に中は広くて二段に分けられている。

4人掛けのテーブルと6人がけのテーブルが整然と並び、30人は座れる広さだ。椅子席の左隣が

厨房になっていて、喫茶だけでなく食事もできるようになっている。逗子にはこれ以上大きな喫茶店は

なく、日活の青春スター石000郎や、川00雄、0木00郎と言った連中と逗子、葉山の取り巻きが

良く屯しているらしい。彼らとは年代が少し下だったので接触することはない。

 一郎と善太郎さんは右端の席に着いた。ウエイトレスがお冷とお絞りを持って注文を取りに寄って

きた。

「善さん、いらっしゃい。きょうは二人なの?」

「やあ、多恵ちゃん、相変わらずきれいだね。今日は従兄弟が喫茶店に入ったことがないって言うから、

どんな所か見せてやろうと連れてきたのさ」

「へえ〜、どこの高校?えっ、横高なの?すごいじゃん、頭いいんだ」多恵ちゃんと呼ばれたウエイト

レスは大仰に驚いて見せた。一郎は恥ずかしくて下を向いてしまった。ここでも善太郎さんは常連ら

しく気安く声を掛け、聞いているこちらが恥ずかしくなるくらい調子の良いお世辞を言う。

「ところでご注文は何にしましょう」多恵ちゃんは言葉を改めて注文を取った。

「そうだなあ、ブレンドコーヒー二つ。それと、一郎はケーキ食べるか?食べるって?それじゃショート

ケーキ二つ」善太郎さんは足を組んでそっくり返るように座りなおした。そしておもむろに懐からピース

の両切りを取り出して口にくわえた。一郎は緊張して周りを見る余裕もなかったが、、ようやく暗い

照明になれ、うすぼんやりと店内の様子が見えてきた。ほぼ満席のようで三人いるウエイトレスがあち

らのテーブルこちらのテーブルと忙しく歩き回っている。隣の席では若いカップルが食事をしていた。

いろいろな年齢層の人たちがコーヒーやジュースを飲み、煙草を吸いながら談笑しており、一段上の

フロアーの奥は6人がけのテーブルになっていて、そこに陣取って騒いでいる女性を含む一団は大学生

らしい。男の学生は善太郎さんと同じように椅子に浅く掛け、足を組み煙草をふかしている。一郎には

喫茶店の中にいる人々がどこか一般の人たちとは違って見えた。と同時に自分は場違いなところに座っ

ているのではないかと思うとお尻がむずむずしてじっと座っていることが出来なかった。コーヒー

とショートケーキを運んできたのはさっきの多恵ちゃんとは違うウエートレスである。善太郎さんは

その子にも気安く声を掛けた。

「チーちゃん、今日は早番なのかい?ご苦労さん」どうでもいいような言葉だが、女の子に話しかけて

きっかけを掴むつもりらしい。それにしてもすぐ名前を覚えて、すかさず使う善太郎さんは少し軽々

しいのではないかと思った。一郎にはそんな勇気もないし、第一恥ずかしくてとても口に出せるもの

ではない。しかしチーちゃんと呼ばれたウエートレスは嬉しそうな顔をした。

 コーヒーはやはり初めて口にするもので、どんな味がするのか興味があった。一郎は鼻を近づけて、

立ち上る香りを胸いっぱいに吸い込んだ。香りはいかにも美味しそうで、えもいわれぬ香ばしさだ。

一郎は善太郎さんの真似をして砂糖をスプーンで三杯、ミルクを少々たらした後スプーンでかき回して

口をつけた。はじめ甘さを感じ、飲み込むとほろ苦さが口いっぱいに広がってきた。第一印象は「こん

な苦い飲み物のどこが美味いのだろう」である。

「うへ〜、苦げー」と言うと善太郎さんはからからと笑った。

「ハハハ、すぐケーキを食べてみろ。ケーキの甘さが苦味をとってくれるぞ」そう言われて一郎は大急ぎ

でケーキにかぶりついた。すると生クリームの甘さが口中に広がり、次いで柔らかいスポンジが口の

中の苦さを吸収した。
 
 一郎が今日経験したことはどれも始めての出来事であった。またひとつ大人の世界に足を踏み入れた

ような気がした。頭の中で描いていた喫茶店の印象が始めて現実のものになったのである。一段上の

フロアーにいた大学生の一団は男も女も煙草を吸っていたが、それを見て大学に入ったら一郎も煙草を

吸うようになるのかなと思った。底抜けに明るい彼らの会話を聞いていて、一郎は大学に憧れに似た

感情が湧き上がってくるのを止めようもなく、入ったら同じことをしようと、この時点で始めて大学

入試の迫ってきたことを実感した。だからまだ一郎は煙草を吸ってみようという気にはならなかった。

すべて大学に入ってからだと覚悟を決めた。喫茶店を出ると善太郎さんは駅前に向かって歩きながら

一郎に聞いてきた。

「俺はこれからパチンコへ行くがおまえはどうする?」駅前の大時計は4時を指していた。

「パチンコはまずいよ。俺先に帰るわ。今日はありがとう。餃子も初めてだし、喫茶店だって初めて

だもん、本当にありがとう」一郎は善太郎さんにお礼を言って、駅前の停留所からバスに乗った。
 
 その後、一月ほど立った6月の末に、善太郎さんは逗子なぎさどおりにあるバーに連れていってく

れた。高校生がバーに入ることは許されていないし、まして飲酒などは停学になる。

「こういうところへ入るのも社会勉強だから」と言って嫌がる一郎を強引に引っ張ってきたのだ。一郎は

善太郎さんの後からドアーを開けて薄暗い部屋の中に足を踏み入れた。カウンターの前には背の高い

椅子が6つ置いてある。その後ろには狭いながら4人がけのボックス席がある。早い時間のせいでお

店は空いていたが、カウンターの一番はずれの椅子に一人中年の男性が座っていた。カウンターの中に

この店のママと思しき厚化粧をした女の人が煙草をふかしながら客を相手にビールを飲んでいた。

「アーラ、いらっしゃい。善さんじゃないの、今日当たり来るんじゃないかと思っていたのよ。お二人?

こちらはまだお若いわね」と言いながらお絞りをカウンターの上に二つ並べて置いた。

「まだ高校生、アルコールはだめだよ。それよりケイちゃんはまだ?」

「まだお化粧中なのよ。もうまもなく来ると思うから、いっぱい飲んで待っててよ。お婆さん相手で

嫌だろうけどさあ、ところで何を飲むの?」本人はお婆さんといっているがどう見ても30歳代くら

いにしか見えない。

「コークハイひとつと、一郎は何飲む?ジンジャーエールにするか?アルコールはだめだって?生姜の

ジュースだから心配するな」一郎は生姜ってあの辛いやつだろうか、辛かったら嫌だなと一瞬思った。      
                          (つづく)

 紗っちゃんと呼ばれた女の子は今年中学を卒業したばかりらしく、どことなく垢抜けない格好である。

比較的短い髪の毛を二つに分け。ゴム紐で束ねてあるだけでひっつめ髪のような印象を与える。目鼻立ち

は整っているが肌の色は黒い。だが年頃になれば見違えるように白くなり人の目を惹きつけるだろうと

思わせる。色の黒い子が突然白い子に変身するのは良く見かける。ただ愛想がなく、おどおどしていて

食器を運ぶ手つきもおぼつかない。善太郎さんに声を掛けられると顔を赤くしてこそこそと暖簾の陰に

逃げ込んだ。開成高校の学生に睨みつけられた善太郎さんは別段気にした風もなく、おもむろに懐から

ピースの両切りを出して火をつけ、一服吸うと天井に向けて煙を吐き出した。学生は体格のいい連中で

みんな坊主頭である。格好からすると柔道部に違いないと思った。横高の柔道部の連中もやはり同じ雰

囲気を持っている。どうやら、紗っチャンは彼らのアイドルなのだろう、自分たちのアイドルに親しげ

に声を掛けた主を許せないと思ったに違いない。一郎は彼らから呼び出されるのではないかとびくびく

していたが、それ以上は何も起こらず大声で「お愛想」と言ってぞろぞろ席を立つと、一人を残し出て

行った。

「全部でいくらかなあ」残った一人が代表で支払うらしい。

「毎度ありがとうございます。餃子ライス大盛り5つですね。250円頂戴します。紗ッチャン,お愛想

受け取って食器かたしといて」と店長が声をかけると紗っちゃんは奥から小走りで出てきて方づけ始め

た。「紗っチャン、また来るからね」残った学生が気安く声を掛けると、外に出ていた学生が暖簾を掻き

分けて顔を出し、口々に「ご馳走さん、紗っちゃん、また来るからね」と言って帰っていった。

 学生が帰るとすぐに子供二人を連れた家族が入ってきた。すかさず紗っチャンはお冷と小皿を4個

づつ家族連れの前に並べた。その間終始無言である。

「ヘイ、お待ち、餃子ライス大盛りです。ごゆっくりどうぞ」店長がカウンター越しに餃子と蜆の味噌汁、

それにお新香と丼に盛ったご飯を一郎と善太郎さんの前に置いた。いい匂いが鼻をくすぐる。餃子は

一皿に8個乗っていた。一郎は善太郎さんの真似をして、先ほど作った小皿のたれにたっぷりつけて口

に入れた。噛むと餃子の中身が飛び出してきて口の中に広がり、その熱さに飛び上がった。あわてて水

を飲んだ。舌と言わず上顎といわず火傷したようにひりひりしている。その上に意地悪するようにラー油

の辛さが襲い掛かってきた。が、一時のパニックが終わると今度は餃子の美味しさが伝わってきた。

一郎はしばし舌を出してハアハア言い、火傷を和らげようとしながら、二つ目からは慎重に口に入れ恐る

恐る噛んだ。外の皮のぱりっとした舌ざわりの後から、熱い中身の美味さが広がる感じは初めての体験で

ある。一郎は口の火傷も気にせぬくらい夢中で、たちまち8個食べ終わった。蜆の味噌汁も、丼飯もみん

な美味かった。タンメン同様、こいつは病み付きになるぞと思った。そのとき暖簾の影で、店長が紗っち

ゃんに、店の中のお客さんに聞こえないように小さな声で注意しているのが聞こえてきた。

「だめだよ、紗っちゃん。いつも言ってるだろう。お客さんが来たら大声で(いらっしゃい)帰るときは

(毎度ありがとうございます。またのお越しをお待ちしています)って言わなくちゃだめだよ。何度言った

ら分かるんだ。それとブスっとしていないで笑顔をみせなければ。この店に来てからかれこれ2ヶ月に

なるんだろう。いい加減に慣れてもらわなければ困るんだよ」

「すいません。気をつけます」紗っちゃんは蚊のなくような小さな声であやまった。

「開成の学生たちだって紗っちゃんが笑顔を見せればもっと来てくれるよ。可愛いんだから自信を持っ

て、元気溌剌なところを見せなくちゃ。いつまでも今のままじゃ考えなくちゃならなくなるぞ。とりあ

えず挨拶をきちんとしろよ」紗っちゃんはしきりに謝っていた。店長は説教しているうちに興奮してき

たのだろういらいらして言葉が乱暴になってきた。

「いつまでも中学生じゃないんだ。甘えるのもいい加減にしろ。泣くな、お客さんの前で泣いた顔なんか

見せるんじゃねえ。顔を洗ってから店に出ろ。こっちは金を払ってんだぞ」紗っチャンは泣き出したらし

い。一郎はやり取りを聞いていて中学を出たばかりでも社会人ともなれば許されることと許されないこと

があるのだと思った。だが、店長の説教に身を縮めている紗っちゃんの気持ちをおしはかると、自分の

ことを怒られているようで悲しく、一緒に泣きたくなった。店長は暖簾を押し分けてカウンターに出て

きた。顔つきはもう商売人の顔に戻り、餃子を焼いてる鉄なべの上に水を入れた。シュワッと湯気が立っ

たのをみて素早く蓋をすると、ジャーというくぐもった音がして餃子の焼ける匂いが店内に充満した。そ

のときラッキーストライクを吹かしていた隣の女の人が「お愛想、いくら?」と席を立ちながら言った。

「毎度ありがとうございます。餃子ライスは50円です。紗っちゃん、お釣り持ってきて」

紗っチャンは顔は洗ってきたと見えて涙の痕はもうなかったが、目は赤く、まぶたも脹れ気味である。

女の人はお釣りを受け取りながら

「ご馳走さん、あんた頑張りなさいよ。かわいそうに、店長、あんたももうちょっと優しくしてやりな

よ。まだ子供じゃないか」そういって長いスカートを翻して出て行った。

「ありがとうございました。またどうぞ」紗っちゃんは小さな声を搾り出すようにお礼を言った。

一郎はいい匂いを撒き散らして席を立った女の人が自分の言いたいことを代弁してくれたように思われ、

嫌な気分が晴れていくような気がした。あの人も聞こえていたのだ。

「そうだよ、紗っちゃん、やれば出来るじゃないか」一郎は心の中で声援を送っていた。 (つづく)
                                    

 善太郎さんは風呂から出てくるとすぐ布団に入ったので一郎も寝ることにした。すると善太郎さんが

話しかけてきた。

「毎日夜遅くまで勉強して大変だな。勉強って面白いか?」

「どちらかって言えば辛いけど新しい知識を知ること、それが身についていくのがわかると興味が湧いて

くる。面白いって言えば面白いかもしれないね」

「そうか、それならいいんだ。俺は学校が嫌いで、よくサボって逃げ歩いていたっけが、おとっチャンに

はいつもぶん殴られた。だって漁師に学問なんていらないといわれて育ったんだぜ、まじめに勉強なんか

する気になるもんか」

「さぼってなにやってたの?」

「俊夫と貞夫を連れて山ん中に逃げ込み、木の上に巣屋を作って隠れて遊んだり、海に潜って貝を採って

いた。船から下りるんだったら勉強しとけばよかったって思う。ずっと船に乗っているもんだと決めてい

たからな。何にもわからないってのも辛いものがあるんだ」と後悔しているようにしみじみ語った。

「俺も時々善太郎さんみたいに逃げ出したくなることがある。でも俺は大学に行かなければならないん

だ。ここで投げ出すわけには行かない」

「後何年勉強しなければならないんだ?大学は4年だろう、あと6年もあるぞ。いやにならないか?俺は

考えただけでも頭が痛くなる。ところで大学まで行って勉強して、卒業したら何になるんだ?会社員か?

役人か?それとも学者になるのか?」この質問を聞いて一郎はどぎまぎした。よく考えてみれば特別目標

があったわけではなく、ただ大学へ行かなければならないと思っているだけなのを思い知らされたのであ

る。

「とにかく大学へ入ること、何になるかは大学に行ってから考えようと思っている」

「じゃあ、大学へ何を勉強に行くんだ?」善太郎さんはなかなか鋭く迫ってくる。そう言われると、なるほ

ど、何の分野の学問を学びに行くのか何も考えていないことに気がついた。

「そういわれてみると、俺、何を勉強しようなんて考えたこともないな」

「じゃあ、何しに行くんだ?」一郎は答えに詰まってしまった。善太郎さんの疑問は当然だと思った。確か

に今まで考えてみたこともなかったのだ。初めて自分自身に問いただしてみた。大学へ行く目的は何な

のだ。小さい頃から優秀な子だなどと言われていたから大学まで行かなければならない、周りで期待し

ている人々を落胆させないためなどと思っているのではないだろうか。もしそうなら自分は二本のレール

の上を必死になって先頭を駆け続けさせられている人形みたいじゃないかと思った。そのレールの上は

決められた方向にしか進まない、降りることのできない気の遠くなるような未来に向かっているのだ。

また大学に入ってしまえば何とかなる、それから考えればいいじゃないか。大学という未知の世界で起

こるであろうもろもろの出会いや経験を積み、世間を見つめる目を養い大人になるための4年間にし

たい。それじゃあ悪いのだろうか。なかなか結論は出なかったので改めて考えてみることにした。

「う〜ん、一言では言い表せないな」と言うと、善太郎さんは「何だ、そんなもんか」という顔をした。

「そうか、まあいいや。その話はやめよう。ところで、一郎は餃子食ったことあるか?」

「いいや、一度もない。なに、それ?」

「そんなら、今度の休み食べに連れてってやるよ。これが結構美味いんだ。一度食べると病み付きになる

ぞ。逗子でいいところ見つけたんだ」

「本当?そいつは楽しみだ。どんな味がするのかなあ?逗子のどの辺にあるの?」

「其れが、銀座通りの、ほら、珠屋があるだろう、その三軒手前に小さな店が出来たんだ」

「俺、珠屋にも入ったことないんだ」

「随分真面目な学生なんだな。今時喫茶店に入ったことのない奴なんていないぞ。よ〜し、餃子食べ

たら珠屋でコーヒーだ。明日早いからもう寝るぞ」善太郎さんは大きな欠伸を一つするとすぐ寝息を

立て始めた。一郎は新しいことが経験出来そうだとあれこれ想像すると胸がわくわくしてすぐには眠

ることが出来なかった。

 待ちに待った日曜日がやってきた。朝から五月晴れで暑い日曜日になりそうだ。庭のツツジはすでに

盛りを終え、今咲いているのは皐月ばかりである。母親が小さな苗を買ってきて植えたのがちょうど

いい大きさに成長したのだ。日曜日なので一郎も善太郎さんも朝寝坊して9時ごろ朝食をとった。

「叔母さん、今日の昼飯は一郎と外で食べるから、用意しなくてもいいよ」

「あら、そう、一郎も一緒なの?悪いねえ。何食べるんだい、ラーメンかい?」当時、外食と言えばラーメ

ンと相場が決っていた。母親の感覚ではそれ以外の発想はない。

「ラーメンなんか食べに行かないよ。餃子って知っているか?」

「何だね、そりゃあ。中国料理なの?」当時ようやく一般社会で認知されてきた食材だったので田舎ものの

母はまだ知らなかった。

12時前に二人で家を出て徒歩で桜山トンネルを抜けた。戦後すぐの頃とは違いトンネル内には50m

おきに裸電球がぶら下がっていたが、電球と電球の間は真っ暗だった。歩道はまだない。一郎はこの

長いトンネルを抜けるたびに子供の頃、米軍の若い兵隊の乗ったジープがふざけて鳴らしたバックファ

イアーの恐ろしかった記憶が蘇ってくる。走っている車の数はだいぶ増えたけれど、そんなに多くは

なく、車種は相変わらずアメ車が多い。日本車の中で異色だったのは荷台にたくさんの労働者を乗せ、

ボデイに白い二重丸をつけた4tトラックである。ニコヨン(当時公共職業安定所の斡旋で働いていた

労働者の俗称。昭和25年ごろの日当が240円)だ。トンネルを抜けて坂を下っていき田越川橋を渡る

と京浜急行の逗子海岸駅にでる。そこを越えると商店街が続き、古びた郵便局を過ぎて三叉路に行き

着く。三叉路を左に行くと池田通り商店街で、右に行くと逗子銀座商店街がつづく、そこは逗子のメイン

通りである。銀座通りをまっすぐ進んでいくと国鉄逗子駅にぶつかり、駅前から鎌倉方面に向かって

なぎさ通りが線路に平行に延びて池田通りと交差する。逗子の商店のほとんどはトライアングル状に

繋がった街路の両側に集中している。

 目指す店は銀座通りの中央付近にあった。善太郎さんは慣れた手つきで「餃子 吉野家」とかかれた暖簾

を掻き分けて入っていった。

「いらっしゃい、毎度どうも、お二人ですか?奥が空いてますからどうぞ」善太郎さんはどうやら顔なじみ

らしい。店内は鰻の寝床のように細長い造りだ。間口が狭くカウンターが鍵型になっており、10人も

座れば満員になる。座った後ろに人一人がやっと通れるほどのスペースがある。カウンターの中でこの

店の店長であろう比較的若い男が立ち働き、カウンターの中と外を受け持っているのはまだ中学出たてく

らいの女の子である。昼飯時のため店は混んでいて二人は二つ空いていた一番奥の席に座った。入り口

付近を占めていたのは逗子開成高校の5人の学生だ。午前のクラブ活動帰りらしく大きなスポーツバッグ

を足元に置き一心に丼飯を掻き込んでいる。真ん中あたりには中年のご夫婦が餃子をつまみにしてビール

を飲んでいる。一郎の隣の席では派手な化粧だが、どこか崩れたところのある美しい女性がビールを

飲みながらラッキーストライクを吹かしている。

「何にしますか?」店長が声を掛けてきた。

「餃子ライス二つ。二つとも餃子大盛りにしてな」

「餃子ライス大盛り二丁」店長が大きな声で復唱するとすかさず女の子がお冷と小皿を持ってきた。

善太郎さんは出てきた小皿に醤油と酢を入れ、最後にラー油を二、三滴たらした。一郎もそれに習った

が、最後のラー油は二滴にした。金龍のタンメンでその辛さを経験していたからだ。善太郎さんは歩いて

きて喉が渇いたのだろうお冷を一気に飲んで、そしてさも親しげに女の子に声を掛けた。

「紗っチャン、お冷もう一杯。今日もかわいいね」一郎はえらく調子がいいなと思った。すると丼飯を

掻き込んでいた開成高校の学生たちが一斉に善太郎さんを睨みつけた。一郎は一瞬ドキッとして善太郎

さんの袖を引いた。(つづく)

全2ページ

[1] [2]

[ 次のページ ]


.
遊人A
遊人A
男性 / A型
人気度
Yahoo!ブログヘルプ - ブログ人気度について
1 2 3 4 5 6 7
8 9 10 11 12 13 14
15 16 17 18 19 20 21
22 23 24 25 26 27 28
29 30 31

Yahoo!からのお知らせ

よしもとブログランキング

もっと見る

[PR]お得情報

ふるさと納税サイト≪さとふる≫
実質2000円で好きなお礼品を選べる
毎日人気ランキング更新中!

その他のキャンペーン


プライバシー -  利用規約 -  メディアステートメント -  ガイドライン -  順守事項 -  ご意見・ご要望 -  ヘルプ・お問い合わせ

Copyright (C) 2019 Yahoo Japan Corporation. All Rights Reserved.

みんなの更新記事