浪人生活その1

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 暑かった夏もようやくその勢いを削ぎ、やがて秋風が吹き始めると一郎の心の中に言いようの

ない不安が襲ってくるようになった。今年は何が何でも合格しなければならない。

もう後がないのだ。現役のときは試験に落ちたら浪人すればいいやと言う余裕があった。

だが今回はそんな余裕がない、まさに背水の陣を敷いた武将の心境なのである。

代ゼミで行う模擬試験は合格ラインに達しそうもない成績で、そのたびに気持ちが落ち込んでゆく。

こんな成績が続くのなら受けても無駄だと思ったから、一郎はしばらく代ゼミの模擬試験を受け

ないことにした。そのかわりに、英語、国語、公文の「傾向と対策」シリーズを買い、また過去

3〜4年に出題された類似問題を徹底的に拾い出して繰り返し勉強した。

中でも不得意な英語を集中してやった。国語は大体レベルに到達していたので公文に力を注いだ。

12月に代ゼミの模擬試験を受けた。まだ早慶レベルには達しないがそこそこの成績だった。

あと二ヶ月集中して同様の勉強をすれば早慶レベルまで到達するだろう。

あと少しだと思うと俄然やるきになって来た。12月1月2月は一郎が過去にこれほど力を入れて

勉強したことがないと思わせる集中の仕方だった。

暮れも正月もない力の入れようで、義父も母親も一郎が身体を壊すのではないかと心配する

有様だった。2月の模擬試験の結果は上々である、ようやく早慶レベルに到達することが出来た。

ある程度自信が付いてきた。去年のときの試験直前の心理状態から見れば雲泥の差がある。

後は試験に臨むだけだ。今年も早稲田大学の第一政経学部、法学部、第一商学部に願書を提出する。

当時、第一は全日制、第二は夜間に分かれていた。

そのほか多少ためらいがあったが慶応大学法学部にも願書を出しておいた。

慶応の法学部には去年大峰が行っているから、受けるには受けるがあくまでも第4志望で本当は

行く気がしない。つくづく変なプライドだと思う。大峰も一郎が慶応の法学部を受けると聞いて

何かと心配してくれたし、田川も、郡山から帰っていた山完も顔を見せて励ましてくれた。

普段神様なぞ信じていない一郎も、一郎の部屋の上に鎮座ましましている神棚に手を合わせ

「合格させてください、お願いします」と頼んだ。虫のいい話だとは思うが藁をも掴む心境だった。
 
 2月の最終週に早稲田の法学部を初めとして、第一政経学部、第一商学部、慶応法学部の順で

試験を受けた、試験の結果は上々である。今回は自信があった。

政経の公文の試験用紙を提出するとき、何気なく隣の受験生の回答を見た。

空欄を埋める問題だったが半分ぐらいの空欄を埋めてあるだけで、後はほとんど何も書いてない。

一郎は公文の試験問題をほぼ完璧に仕上げたと思っていたから、そんな隣の受験生を見て、

「去年の自分と同じだ」と、思わず苦笑をもらしながら、この程度で受験するのはおこがま

しかったなと思った。例によって英語はどの学部も苦労したが国語は自信があった。

 3月に入ってすぐ第一次の合格者が発表された。早稲田の法学部には名前が無かった。

去年の二の舞かと落胆したが、政経、商学、慶応の法学部は一次試験に合格していた。

二次試験は面接である。一安心した。受かったも同然である。ところが、政経の二次試験の結果は

案に相違して落ちていた。一郎にとって政経学部こそ第一志望だったのでまたまた落胆した。

ところが発表の翌日郵便局に勤めているツネちゃんが血相を変えて一郎の家に飛び込んできた。

手に電報を高々と上げて「早稲田大学に受かったぞ」と叫んでいる。

一大事件が起きたぞと言わぬばかりに興奮している。

一郎が慌てて開いてみると「第一政経学部経済学科補欠入学合格。

希望なら所定の手続きをされたし」と書いてある。一郎は天にも昇る気持ちになった。

「お母さん、受かったよ、早稲田大学に合格だってさ」

「よかったね、よかったね。この日の来るのを待っていたよ」

母親は割烹着で手を拭きながら台所から出てきて玄関の上がりかまちに座り込んだまま、

もう半分涙声になっている。

「ボクチン、やったじゃないか、すげえ、すげえ」

まだボクチンである。ツネちゃんにとって一郎は何時までもボクチンなのだ。

「ツネちゃん有り難う。明日っからテレビを堂々と見ることが出来るよ。頼むね」

「おうっ、いつでも来いよ、好きなの見てもいいぞ」

 夕方帰宅した義父に合格したことを報告すると、相好を崩し、母親に向けて怒鳴った。

「お母さん、ビールだ、ビール持って来い。お祝いしよう。一郎も飲め」

義父は一晩中上機嫌だった。
 
翌日商学部も合格していた。面接のとき試験管は成績表を見て、満足そうにニコニコ笑いながら

「商学部を受けた理由は何ですか」と聞いてきたので

「スペイン語を勉強したかったからです」と答えると

「将来は商社マンとして南米で活躍したいのですね」

「ええそうです」と調子よく答えたが一郎の頭には商社と言う言葉はなかった。

ああ、そうとられるのかと思っただけだ。そのときのやり取りで「あ、受かったな」と確信を持った。

このときはもう政経に行こうと決めていたから慶応の二次試験も断念した。

横須賀高校から去年受験に失敗して浪人していた高田民輔は第一志望の日本教育大学に受かり、

鈴川礼二は念願どおり一橋大学へ、佐藤正は東京外語大学、秀才稲盛は東大へそれぞれ合格を果たした。

あとで聞いた話だが高田も鈴川も早稲田の法科、と政経を受け、法科には合格したが政経は

落ちたそうだ。このレベルになると受験の首尾不首尾は紙一重だと思った。

そのときの体調やたまたま得意分野に当るかどうかで当落が決まるのだろう。

 一郎が早稲田大学に合格したとご近所に伝わり、街中で顔を合わせる人々が祝福してくれる。

小林塾で一緒に学び立教大学経済学部に行った峰岸義弘と、栄光学園から推薦で上智大学に

進んだ熊谷弘とが連れ立って歩いているのにばったり出会った。

「一郎じゃないか、早稲田の政経学部経済学科合格だって?おめでとう、すごいじゃないか」

義弘が目を丸くして声をかけてきた。

「すごくはない、補欠合格だよ」

「補欠だろうが受かればいいのさ、さすがだよ」

「政経かあ、おめでとう、俺もいきたかったな」

熊谷弘が感慨深そうに溜息をついた。彼なら十分合格できたと思う。

中学受験の時、方や合格し,方や落ちてからの6年間の間に運命の針がぶれてしまったのだ。

ぶれたと言ってもそう極端にぶれたのではない。熊谷は学業優秀だったのであろう、

推薦入学を勝ち取った結果、大学入試の苦しさを味わうことなく上智大学に進んだのである。

しかし、彼の本当に行きたかったのはどの大学であろうか、熊谷なら東大でも早稲田にでも

合格できたかもしれない。

唯、入試と言う難関に挑戦せず、心ならずも安全な道を選んでしまっただけである。

優秀であっただけに岐路に臨んでつい、選択を間違えたのかもしれない。

人生塞翁が馬と言われるように皮肉な結果をもたらすことがある。

だから若いうちの一度や二度の失敗は気にすることはない。挽回のチャンスは必ずある。

まだ人生始まったばかりだよ。これからが勝負じゃないか。

一郎は自分の惨めな躓きも将来糧になるのかもしれないと思った。

 3月半ばに入学手続きを済ました。去年まで授業料は3万円だったのに今年から5万円に

値上げされていた。この授業料は入学時3万円だとすると卒業するまで同一金額である。

一郎は自分が失敗しなければ授業料も3万円で済んだのに、と思うと親に余分な負担を掛けさせる

ことが心苦しかった。つくづく親不孝な奴だと自分を責めた。(この項終わり

 じめじめした雨がもう4日も降り続いて、一郎は代ゼミにも行かず家に篭っていた。

梅雨寒という言葉があるが、春先並みのブラウスにセーターを着込んでいても、

寒さが足元からじわじわと上ってくる。試しに毛布を下半身に巻いてみる。

どうやら寒さは防げるようだ。ツネちゃんの家と一郎の家の間にある母親の畑にはジャガイモが

青々と茂っている。収穫が近いらしい。一緒に採れてくる小芋を醤油、砂糖、味醂で味付けした

出汁で煮付けると、これがなかなか美味なのである。皮が柔らかいので皮ごと煮る。

味醂の力で照りが出たのを口に放り込む喜びは生産者の特権とも言える。

母親が作る煮っ転がしを頭に描いて唾液が出てくるのを楽しむ。

ジャガイモの畝と平行して右側に茄子、左側にトマトが何本か植えてある。

子供の頃学校から帰ってくるとトマトが冷やしてあったのを思いだした。
 
 勉強はまだ気合が入らないので、教科書を読み返すことから始めた。

特に社会科は世界史では手に余ったので公文に切り替えることにした。

公文は覚えなければいけない項目が多く面倒くさかったけれど、なぜかしっくり来るようで何回も

読み返した。英語は誰でもやるように主に英単語を、裏に日本語訳を書いた紙を束ねて暗記する

ことに専念した。平行して1年2年3年の教科書を読み返した。

国語はなんとなく出来る気がしたが、長文読解の参考書を買ってきて設問を解いた。

後は漢字の読み書き、特に四字熟語、普段お目にかからない漢字の読み書きは徹底的に練習し

覚えこんだ。


 梅雨も末期のある日、大峰浩二が尋ねてきた。大峰は慶応の法科に受かり競争部で活躍している。

一郎の親友の一人である。

「どうだ、勉強は進んでいるか?」 新米の大学生らしく大峰は溌剌としている。

もともと屈託がないので、人の良さそうな笑顔を浮かべながら、部屋に入ってくるなり言った。

「まだぜんぜん駄目だ。先が長い分、気合が入らない」

「そんなこと言ってるとあっという間に時間がなくなるぞ」

「分かってるさ、そんなこと。だがなあ、四六時中集中していられる訳もなかろう」

「甘い、甘い、早稲田に行きたいんだろう?人並みの努力じゃ受からないぞ。お前も分かって

いるように早稲田は難関中の難関じゃないか。しかも政経だろう?」

「分かった、分かった。ところで今日は何の用で来たんだ?」

「お前が勉強しているかどうか見に来たに決まっている、とこれは冗談だ。

7月の25日に二泊三日のキャンプを計画したんだ。

それで思い出して一郎を連れて行こうということになったのさ。行かないか?」

大峰はどうだ、いいアイデアだろうと言わんばかりに一郎を誘った。

「おい、俺は浪人中だぞ。そんなことして浮かれていられない。第一お前、さっきあっという間に

時間がなくなると言ったじゃないか」

「ま、それはたとえだ。気にするな。実はな、樋口裕子、知ってるだろう6組の樋口だよ。

そうそう、行進曲、お前が作曲した、あの作詞をした子だよ。俺、今付き合っているんだ」

「えっ、樋口とかい?考えられん。お前とどんな接点があったんだ?」

「まあ、いいじゃないか。それでな、あと女の子は中学3年のとき同級生だった佐川良枝と

田川千草、プティちゃんだよ、それと山田登紀子を誘ったんだ。男は須田進とお前と田川勝人が

どうかと思っている。お前行くんなら田川勝人を誘ってくれないかな」

誰が女の子の人選をしたのか分からなかった。樋口は3組の女の子たちとはあまり親しくなかった

ような気がする。大峰が誰かの意見を聞いて人選したのだろうとあまり気にすることはなかった。

だが田川千草がメンバーに入っていたので何故だろう、と疑問を持ったが一郎は行く気になっていた。

「行ってみるかなあ、正直くさくさしていたんだ。ところでどこへ行くんだ?」

「おうそうだ、山中湖へ行くんだがどうだい?」

「へえ、また随分ポピュラーなところを選んだものだな。

予約は取れたのか?バンガローに泊まるんだろう?」 この時代よほどの物好きでない限り

テントを持っているものはなく、バンガロウを借りるのが一般的だった。

「もちろん取れたさ。申し込みは早かったからな」

「よし、行こう。田川には俺が話しておく。あいつ暇もてあましているからすぐ乗ってくるぞ。

女っけないからな」

案の定、田川は一も二もなくこの話に乗ってきた。


 当日逗子駅に集合して御殿場に向かった。リュックには食料と下着を少々入れ、

飯盒をくくりつけた。男たちは山登りの道具を持っていなかったのでバスケットシューズに

ジーパン、開襟シャツで身を固めた。麦藁帽子をかむり、腰に手拭でもぶら下げると一昔前の

勤労学生に見える。そのてん女の子達はさすがで山登りの格好がよく似合う。

登山シュウズもズボンもリュックも当時の先端を行くスタイルを整えていた。

彼女たちは曲がりなりにも給料がもらえるから男供よりお金持ちなのは当たり前である。

男供は親のすねかじりばかりで外見などにかまっていられないのだ。

 樋口裕子は大峰の相棒然と振る舞い、何かにつけて大峰に接触を図ろうとする。

大峰はこのキャンプに参加する一行のキャプテンだから、樋口ばかりかまっていられないのだ。

いきおい元3組の女の子たちは固まり、樋口が浮いてしまうことになる。

それは行く前から懸念されたことでキャンプが進むにつれ、徐々に現実味を帯びてきた。

大峰の手前あからさまに批判するようなことはないがどこかよそよそしい。

 一郎は樋口裕子のようなタイプの女の子は苦手である。

彼女は頭も良かったし小柄でスタイルも悪くない。が、色黒の上に、大きくて媚びるような

黒い目と爬虫類を思わせる分厚い唇は生理的に受け付けない。

その上彼女と瓜二つのお袋さんは、樋口裕子をさらに醜悪にした顔に口紅を濃い目に、

メガネをきらきらさせて、しばしば学校にやって来る。二人並ぶと想像するだに恐ろしい。

しかし弁解しておくが、彼女は一般的に言うと美人に相当するらしい。

単に一郎が受け付けないだけかもしれない。田川は後に彼女と付き合ったらしい、あとで聞いた。

多分このキャンプがきっかけとなったのだろう。
 
 キャンプはそれなりに楽しかった。湖ではボートに男女一組ずつ乗って競争したり、

キャンプ場主催のキャンプファイヤーで歌を歌ったりした。その頃歌声喫茶がはやり始めた頃で、

ロシア民謡を初め各国の民謡を声を合わせて心行くまで歌った。

また朝早くバンガローを出て5合目まで上ぼり、富士の裾野の雄大さを眺め感嘆の声を上げたりした。

一郎は小学生の頃山中湖でキャンプしたのを思い出した。

「そうだ、小林塾で来たんだっけ、あの時は見るもの聞くもの初めてだったから感激したけど、

今回は曲がりなりにも女の子連れであるため全てが新鮮なんだ。」

一郎はキャンプ中自分が浪人であることを忘れていることが出来た。

企画してくれた大峰に感謝しなければならない。しかしこの8人の中で恋心が芽生えていた。

まだはっきりと現れたのではなく各人の心の中にぽっと炎が灯っただけなのだが、

鈍感な一郎には分からなかった。(つづく)

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