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ゲーム理論についていくつか記事を書いた。

与えられた状況の中で与えられた条件でそれぞれの個人が合理的な選択をするという設定であるが、あくまでもそれぞれの個人は自分にとってのもっとも合理的な選択という前提がある。

相手が損をしようがそれは構わない。

自分にとっての最大の利益・効用を求めるわけである。

つまり自己中心的であるということ。

囚人のジレンマにおいてもアリとキリギリスでも個人にとって合理的な選択は自分と相手が得る利益を最大にするものではない。

相手と自分が得る利益の合計、あるいは全体が得る利益を最大にするのは通常、お互いが裏切らずに強調するという選択をしたときだ。

しかし、個人から見てそれが合理的な選択とならないのは、自分にとっての合理的な選択を追求する以上相手も相手にとって合理的な選択を追求するだろうという前提があるからだ。

自分のみが協調の選択をした場合相手は最大の利益を得るが、自分は大きな被害を被ってしまう。

だから相手は裏切る動機があり、というより裏切ることが合理的な選択となるわけである。

しかし、ここで設定を変えてみよう。

たとえばプレーヤが家族であった場合。

そうすれば、お互いの信頼関係は強まり、裏切る可能性は小さくなる。

いや、たとえ裏切ったとしても場合によっては相手が最大の利益を得ることが喜びとなる場合も考えられる。

そうなると合理的な選択は異なったものになってくる。

整理するとプレーヤーが自分の利益のみを追求するのか、自分と相手の利益の合計を追求するのかあるいは、相手の利益のみを追求するのか、いずれかで合理的な選択は変わってくる。

金融サミットでは世界が保護主義に走ることを戒めている。

かつての大恐慌の教訓から自国の利益のみを追求し保護主義に走ることが、結局自分の首をしめることになり、景気のさらなる悪化と縮小を招いたことを教訓としたからである。

自国の利益をつきゅうすることが結果的に自国のためにはならないことを世界は学んでいる。

これは、見方を変えれば、自国中心主義のジコチュウの国々が大人になって自分さえよければという考え方を変え成熟した国になったということにもなる。

日本人はどうか。

多分、自分さえ良ければという人は多いだろうし、ある意味それが生きていく上で正しい考え方と思っているのかもしれない。

しかし、マザーテレサやシュバイツアが選択した生き方は個人を中心としてはまったく合理的な選択ではないが、人類の幸福を中心とした生き方の哲学から見ると一番合理的な選択だったのだと思う。

人類一家族というスローガンは耳にする。

本当に人類がそういう意識になったとすれば、経済から何からすべて現在とは異なったものになるのだろう。

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