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保護主義について

第二回のG20金融サミットが近づいている。

前回、確認された事項のひとつに保護主義を避けるということがあった。

それにもかかわらず、保護主義的傾向のある施策が各国で実施されている。

29年の大恐慌の教訓を人類は真の意味で学んではいなかったのかと嘆く事態ではあるが、見方を変えて見ると、ある意味当然のことかもしれない。

仏教の逸話にこういう天国(極楽?)はどういうところかという話がある。

そこは地獄と一見なんら変わらず、食事をするときには極端に長い箸が置いてあるそうである。

地獄では各々が食べようとして長い箸を使って自分の口に運ぼうとして、口に届かず、食べられないので苦しんでいた。

しかし、天国では、お互いが食べさせあおうとしてお互いの口に食べ物を運ぶので食べることが出来満足していたというものである。

なるほどと思う。

この世界同時不況の中で自国の利益を守ることのみに走ることでますます不況を拡大する結果になることはこの逸話から得られる教訓であろう。

しかし、ひとりの人間において自分さえよければという自己中心は明らかに悪ではあるが、とりあえず、自分を守るという行為は悪ではなく、むしろ必要なことである。

それぞれの危機的状況というのは、自分自身しか感知しえない部分もあるので他人任せにはできず、天国のように他人が救ってくれるかもしれないが、とりあえず、自分で自分を守る行動を自分で起すしかなく、周りが助けてくれたとしても自分がまず、SOSを発するしかない。

家族のように本当にお互いのことが心配であるならいざ知らず、お互いの繁栄のためにという大義名分の下に実は、やはり自国を最優先に助けたいというホンネはミエミエなのだから、予測しえない最悪の事態にならないとも限らないこの状況では、まず、自国のことを考えるというのはある意味必要なことではないかと考えるようになった。

ゲーム理論では、プレーヤーは合理的な判断をするかまたは最低限そのようにしようとしているという前提の下で理論が組み立てられている。

合理的な判断とはAかとBかという選択をするときに自分の得られる利得がどうであるかである。

もし、利得がAの場合が2でBの場合が1であればAを選ぶはずである。

しかし、もし、相手プレーヤーの利得が自分がAを選んだ場合に100でBを選んだ場合に2であれば、どうなるか。

合理的なプレーヤーであれば相手の利得とは無関係に自分の利得のみで判断するはずである。

これを実際に実験するという研究が行われているそうだ。

実験では、実際の人間はBを選択する人間が一定の割合で存在するということのようである。

「公平性」という観点からAの選択ではあまりにも公平性を欠いているという判断が働き、損をしてもBを選択して少しでもバランスを保とうとする傾向が人間にはあるらしい。

つまり、人間には合理的ではない部分があるのである。

いや、もしかしたら歴史的にありえないほどの危機的状況を生き抜いてきたわけであるから、そのような性向も実は長い目で見たときにはより合理的であり、リスク回避的であるのかもしれない。

これに関連して思うのはたとえば、自衛隊のイラク派遣のときにアメリカに協力することが、北朝鮮問題を抱える日本にとってはもっとも国益に合致するという論理が幅をきかせた。

この論理は水戸黄門の印籠のごとくに誰も反論をしなかった。

これでは保護主義はだめだという論理と矛盾する。

先にも書いたとおり自国優先は仮面の下に書いてある。

国連もその機能が充分に発揮できない現状も各国の国益中心の主張が収拾できないからである。

世界政府のような国家権力を超える権力を持って交通整理をする機能が国連にはない。

世界中心ではなく、自国の国益中心でしか考えられないからである。

昨年グルジア問題で、多くの評論家は経済でこれほどグローバル化している中でその恩恵をロシアも享受しており、経済の悪影響を考えれば早晩解決するだろうと発言していたが、メドベージェフ大統領は「冷戦再来の展望も含め、何もわれわれを恐れさせることはできない」と発言し驚かせた。

結局はロシア軍が撤退し収束することになるが、この結果必然ではなく、経済的合理性以外の部分でロシアが暴走した可能性はゼロではない。

今回の世界同時不況のように急速にあらゆるものがスパイラル的に悪化している中では、単なる合理性のみで人や国の行動を予測したり縛ることはむしろ、リスクがあるのではないかと思う。

ある程度の保護主義は容認し、それも含めてより大きな回復への道筋を作ることが必要なのではないか。

下村治

日本の高度成長を支えたエコノミストとして下村治はその名が知られている。

当時旺盛な設備投資に裏付けられて日本の経済成長は10%以上の成長率が可能だとして、下村は安定成長路線に真っ向から異を唱え、池田内閣による所得倍増計画の理論的支柱となった。

安定成長路線とは高過ぎる成長率は様々な摩擦や弊害を生じるので、適度な成長率が望ましく、もしもそれ以上に景気が加熱した場合は、それを抑えるように金融政策等を講じるべきだという考えである。

当時は貿易収支の天井というものがあって、景気が良くなると輸入が増加し、外貨が不足するようになるので、景気を意図的に冷やすような政策が執られた。

下村理論によると、景気が拡大局面であると、需要が増加し、輸入は増えるが、それ以上に輸出が増えるので、景気を冷やす必要はまったくないということになる。

実際、輸出超過が続くようになると、むしろ日米の貿易摩擦が問題となり、貿易収支の天井はまったくなくなった。

つまり間違った政策が執られていたということになる。

たかが、30年40年という期間で、常識と考えられていたことが常識でなくなったりするわけだ。

下村は石油危機を契機にしてゼロ成長論に転換した。

それは89年に没するまで変わらなかったという。

客観的には彼は高度成長期においては正しく、その後の彼は間違いを犯したということになる。

しかし、彼の理論は一貫しており、国際収支の均衡、国内の均衡を図りながら正しい経済成長を目指すべきであり、欧米のキャッチアップが出来る時代において大きく成長が出来る局面において企業家の熱意や創意工夫を害するような政策はやめて自由な経済活動に任せるべきであり、均衡ある成長が望める環境が失われた段階では財政の均衡を崩した形であるとかいう無理な成長を望むべきではないという考えである。

80年代において実体のない数字だけの成長はやがて経済を崩壊させると警告した。

下村が活躍した時代と現代においては時代や環境が大きく変化しており、そのままの理論があてはまるわけではないと思うが、80年代の日本、90年代からつい2年前までのアメリカという数字だけの好景気に浮かれていた時代、何かが間違ってしまったことは間違いがない。

歴史的な経緯や、経済のあり方について根本的なところから見直すことは必要ではないかと思う。

ゲーム理論についていくつか記事を書いた。

与えられた状況の中で与えられた条件でそれぞれの個人が合理的な選択をするという設定であるが、あくまでもそれぞれの個人は自分にとってのもっとも合理的な選択という前提がある。

相手が損をしようがそれは構わない。

自分にとっての最大の利益・効用を求めるわけである。

つまり自己中心的であるということ。

囚人のジレンマにおいてもアリとキリギリスでも個人にとって合理的な選択は自分と相手が得る利益を最大にするものではない。

相手と自分が得る利益の合計、あるいは全体が得る利益を最大にするのは通常、お互いが裏切らずに強調するという選択をしたときだ。

しかし、個人から見てそれが合理的な選択とならないのは、自分にとっての合理的な選択を追求する以上相手も相手にとって合理的な選択を追求するだろうという前提があるからだ。

自分のみが協調の選択をした場合相手は最大の利益を得るが、自分は大きな被害を被ってしまう。

だから相手は裏切る動機があり、というより裏切ることが合理的な選択となるわけである。

しかし、ここで設定を変えてみよう。

たとえばプレーヤが家族であった場合。

そうすれば、お互いの信頼関係は強まり、裏切る可能性は小さくなる。

いや、たとえ裏切ったとしても場合によっては相手が最大の利益を得ることが喜びとなる場合も考えられる。

そうなると合理的な選択は異なったものになってくる。

整理するとプレーヤーが自分の利益のみを追求するのか、自分と相手の利益の合計を追求するのかあるいは、相手の利益のみを追求するのか、いずれかで合理的な選択は変わってくる。

金融サミットでは世界が保護主義に走ることを戒めている。

かつての大恐慌の教訓から自国の利益のみを追求し保護主義に走ることが、結局自分の首をしめることになり、景気のさらなる悪化と縮小を招いたことを教訓としたからである。

自国の利益をつきゅうすることが結果的に自国のためにはならないことを世界は学んでいる。

これは、見方を変えれば、自国中心主義のジコチュウの国々が大人になって自分さえよければという考え方を変え成熟した国になったということにもなる。

日本人はどうか。

多分、自分さえ良ければという人は多いだろうし、ある意味それが生きていく上で正しい考え方と思っているのかもしれない。

しかし、マザーテレサやシュバイツアが選択した生き方は個人を中心としてはまったく合理的な選択ではないが、人類の幸福を中心とした生き方の哲学から見ると一番合理的な選択だったのだと思う。

人類一家族というスローガンは耳にする。

本当に人類がそういう意識になったとすれば、経済から何からすべて現在とは異なったものになるのだろう。

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アリとキリギリス

先日触れたゲーム理論に関連して身近で面白い話。

どんな企業もアリとキリギリスのように一生懸命に頑張って全体に貢献している人と、適当にサボって足を引っ張っている人がいるものだが、不思議なことに真面目に頑張っている人たちだけを集めて仕事をしてみるとやはりその中からサボる人が一定の割合で出てくるし、逆にサボってばかりいる人たちだけを集めたグループも必ず一定の割合でその中から一生懸命に頑張る人が出てくるということが良く言われる。

何故か?ということについてやはり個人の行動の選択においてそれぞれが最適と思われる選択をしているからということで説明可能だという。

これは実際には厳密にゲーム理論の枠の話だったかどうかははっきりしないが、当たらずとも遠からずだと思う。

ネタ本はあり、そこに、ゲーム理論とともに説明してあった部分である。

数字は今自分で設定したものだがたとえばこういう条件を設定してみよう。

2人で組んで仕事をする。

頑張るタイプをAタイプとし怠けるタイプをBタイプとする。


AAの組み合わせ出れば100点づつの評価をもらえる。

BBだと50点づつでABの組み合わせだとAが70点でBが120点の評価とする。

ABの組み合わせの場合頑張った方が評価が低くなるがこういうことは良くあることで怠けた方が手柄を持っていってしまうようなことだ。

ちょっとケースは違うが、エレベータで並んでいると一番最後に並んだ人が出るときには一番最初で混んでいるお店に入るときなどは遅くエレベータに入った方が早く案内されるなんていうことがある。

さて、ある会社だとAタイプの社員が60%いてBタイプの社員が40%いるとしよう。

自分は頑張った方が得か怠けた方が得か。

それをA、Bそれぞれのタイプの社員の期待値を計算することでどちらのタイプが得かを考えてみる。う。

Aタイプの社員から見てパートナーがAである確率は60%でBである確率は40%であるから期待値は

期待値(A):100×0.6+70×0.4=88

同様にしてBタイプの社員から見て、

期待値(B):120×0.6+50×0.4=92

となり期待値(B)>期待値(A)となってしまう。

つまり自分がBタイプであった方が得られる期待値は大きく、それに気がつくとAタイプであった社員がBタイプに変身してしまう。

それで徐々にBタイプの割合が増えて行く。

割合が変わると期待値も変わってくるがAタイプの割合をXとし、Bタイプの割合を1−xとして期待値(B)>期待値(A)の不等式を解くとx>0.5となるつまり半分以上がAである限り自分はBであった方が得なのであるから徐々にBタイプが増えて行き、半々になったところで均衡状態となる。

従って、評価がそのような評価になっている限り、Aタイプの人たちだけを集めてみてもBタイプに変身する人が徐々に出てきて半々になるまでそれは続くというわけだ。

なるほど!!ということで面白いと思った。

この場合評価の仕方を考えなければこの会社はたとえリストラをしても余分な人員を常に半分抱えることになる。

時代の転換

世界的不況の中、自動車産業も大変な状況に陥っている。

トヨタは戦後初の赤字だという。

昨年、史上最高益からの急激すぎる落ち込みである。

アメリカでもビッグ3が政府の救済を仰いでいる。

20世紀は自動車の時代だったといっても良いだろう。

自動車に限らず、かつて3種の神器と言われたテレビ・冷蔵庫・洗濯機また3Cといわれたカラーテレビ・クーラー・自動車、いずれも人々の暮らしを豊かにし、人々は次々とこれらの物を買っていった。

欲しいものがあったので企業はそれを生産した。

人々は、そこで働いて得た賃金でそれを買った。

高度成長時代というのは輸出とか色々な要素があるのだろうけれど、一番基本にはそういう人々が豊かになっていくための循環があったのだと思う。

バブルがはじけて経済が冷え込んでいったときにバブルの前後で人々の心理がまったく逆方向に向かってしまったわけであるが、しかし、もう一度盛り返そうにも、日本人が欲しいと思うようなものはすでにほとんどの人が持っていた。

だから、難しいんだろうなと思っていた。

あの時代から何か人々が欲しいとおもうような何か新しいものが出来たかといえば、それはインターネット、PC、携帯だろう。

これらの通信に関わる技術の進歩はめざましい。

アメリカでも90年代ITバブルが発生しそれが2000年にはじけて世界にその影響が広がった。

しかし、バブルがはじけたとはいってもバブルを発生させるだけの商品価値というものがITにはあった。

今の世界的不況から抜け出すためにはそういう意味での新しい技術、新しい商品が必要になるのではないか。

そういう流れで言えば自動車はやはり過去のものである。

むしろ今の時代まで花形産業のひとつでいられたことが奇蹟なのではないか。

本来は徐々に売り上げが減少し、ある一定のレベルで需要(買い替えがメイン)と供給が平衡状態となるのがソフトランディングなのだと思うのだが、新しい車種を売り出し、新しい機能をつけてそこに消費者の車に対する虚栄心をくすぐりながら売り上げを伸ばしてきた。

大事に乗れば10年くらい載れるところを数年で買い換えるというような購買行動を奨励しながら。

しかし、それ自体がバブルなのだと思う。

もう自動車は欲しい人は持っている。

それほど無理をしても買いたいものではなかったのだと思う。

しかし、時代の転換は徐々にではなく劇的な形で訪れるものである。

時代がはっきりと転換するその直前まではあたかもゆるぎない産業であり、今後もますます発展するかのようであったわけだから。

あらゆる面で時代は大きく変わろうとしている。

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