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第廿三 久遠の事 より
また「繕わず」とは、虚栄ではなく、信心に徹し、ありのままの人間性でいくことをいうのである。本文に、「卅二相八十種好を具足せず」の卅二相八十種好とは、現実生活の上でいえば、虚栄であり、肩書きである。これを求むることに懸命となり、自己を誇張しようとしたり、背のびして特別な人間に見せようとすることである。そんなことは、徹底的にはまったく必要ない。所詮、信心に生き、自分らしく、最も個性を発揮し、社会のため、人々のため、価値創造していく人生こそ、まさに「繕わず」なのである。 また「本の儘」とは、題目を唱える姿こそ、最も大宇宙のリズムにかなった、本然の姿であり、本有の姿である。自らは、十界本有の当体である。題目を唱えたとき、己心の地獄界は、地獄界のまま、餓鬼界は餓鬼界のまま、妙法に照らされ、すべて幸福へと動き働くのである。これ「本の儘」ではないか。 また、信心に生き、本因妙の精神に徹することである。大御本尊には行き詰まりがなく、また、信心も、常に無量の智慧を発現する源泉である。昨日までの功績にひたり、未来を開くことを忘れた人は、大御本尊を忘れ信心を忘れた人であり、行き詰まってくる。このとき、再び信心に戻り、本因妙の精神で未来を開くとき、必ず成長があり、前進がある。これ、本有常住の振舞いであり「本の儘」に帰着した人の姿といえる。 『御義口伝講義』より
無作の三身について、勘違いしがちですよね。(私だけかな…)
確かに「ありのままの姿で」と先生も書かれておりますが、「妙法に照らされた」ありのままで、安直に現状肯定って話ではありませんよね。
現状肯定、そのままの姿でいいんだ!と安直に捉えれば、天台宗の堕落と同じ。
全てのものが因果の理法に則り、変化変化の連続であり、留まっていることは絶対にできないわけで
先生の言われるところの「信心に生き、本因妙の精神に徹する」中で、幸福へと自らを導いていくことができる――。
不器用ながら、そこらへんが少し解ってきた気がする、今日このごろ。
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『御義口伝講義』
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