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「横浜日記」(80)その1 07・1・10 梅本浩志
<軸足が決してぶれなかった男>
新年が悲報で明けた。40年来の友の死である。彼の名は中村克(まさる)。生涯一記者を貫き通し、言行を限り無く一致させた真のジャーナリストだった。私にとっては、時事通信闘争で苦楽を共にしてきた掛け替えのない存在だった。
中村克君のことを語ることは時事通信闘争を語ることでもあるが、この壮大な闘争を語るには、あまりにもスペースが少なすぎる。そのためここでは、中村克君とのことを万分の一だけメモ書きすることによって、故人を歴史に刻み込んでおきたい。
中村克君との出合いは、私が京都支局から本社経済部に転勤した1967年のことだから、40年も昔のことである。当時、時事通信社は長谷川才次・代表取締役の独裁専制下にあって、「時事地獄」と呼ばれる非人間的な状況下に置かれていた。
そうした地獄状況を打破せんとして、少数の人間が御用組合とは別の少数派の抵抗的労組を結成して闘いを挑むことにした。そのための地下組織を結成したときに、中村君と知り合った。私がちょうど30歳、中村君が25歳のときである。
若いのに非常にしっかりした男がいるなあ、というのが第一印象である。2人は共に経済部に所属していた。経済部は、敗戦直後に経済通信社として再出発し、成長した時事通信社の心臓部にあたる中枢機関だった。私は大蔵省の、中村君は日銀の記者クラブにそれぞれ所属していた。
1968年7月19日に結成した新組合(時事通信労組)は、当初約100名が加入し、やがて140名ほどになったものの、中年社員が多く、会社側の弾圧を極度に恐れてほとんどが匿名組合員で、とうてい公然と闘える組合員ではなかった。そこでまず三役と中執11名だけで公然浮上し、闘いの火ぶたを切った。その11名の中に、組織部長の私と青年部長の中村君がいた。この2人のコンビネーションが運動展開の強力な推進力となり、勝利を確実なものとしていったのである。
「青年部」こそは唯一、戦略を持ち、運動を推進し、展望を切り拓く前衛部隊だと、私と中村君との間で自然と合意しあっていた。一般の組合で設けている「青年婦人(対策)部」とは全く異なる組織に作り上げることで、2人は合意していた。それは組合内の組合であり、唯一闘う実動部隊としての青年行動隊として、実践活動の中で育成、強化していく、というのが2人の考えであった。それが唯一、勝利を切り拓く途だった。
折しも時代状況は全共闘運動全盛の季節に差しかかりつつあり、若者たちはそうした時代の息吹に触れ、感覚や発想は新鮮だった。そんな若者たちこそ、時事通信闘争が最も必要とする人間だった。わずか10数名の若者たちだったが、経済部を中心に、社会部、スポーツ部、外信部に配属された新入社員が、「青年部」のメンバーとなった。中村君がその中心的リーダーだった。
間もなく新組合の運動の成否を決する、最大の闘争に取り組むこととなった。運命を決する闘いだったと言っても決して言い過ぎではないだろう、そんな大闘争だった。
「36協定闘争」である。36協定とは、経営者が従業員に時間外労働を行わせる場合には、職場従業員の過半数を代表する人間が使用者との間で時間外労働に従事することに同意する旨の協定書を締結しなければならない、と決めてある労働基準法第36条に基づく労使協定のことを言う。
当時の時事通信社の場合、御用組合化していた既存の労働組合(時事通信社労組)の委員長と称する男が、密かに会社側と36協定を締結していたので、私はここに眼をつけた。
旧組合は従業員の過半数を組織しておらず、従って旧労組の委員長は36協定の代表者としての資格はなく、逆に新組合が従業員の過半数から支持されていて、36協定の真の代表者は新組合の委員長であることを証明すれば、「時事地獄体制」は法的にも虚構の経営と労務管理を行っていることを内外に証明することとなり、長谷川体制は社会的信用を失い、危機に追い詰められていくだろう、と私は考えたのである。
つまり、表面的には少数の組合だったが、署名者目標数を達成することによって実質的には本社職場全従業員の過半数から支持されている多数派であることが証明できるのであり、これが証明できれば、社員の大多数から支持されていると豪語してやまない長谷川独裁体制の威信を地に落とすことができるのであった。
「36協定闘争」と呼んだこの闘争は、私と中村君とで完全一体化し、新組合を引っ張った。本社職場において、職制をも含む全従業員の過半数の署名をとるという、誰も考えられない署名活動を展開したのである。
実動部隊は、入社間もない青年部員10数名。新聞記者の特技と言える「夜討ち朝駆け」を署名運動に活かして、夜間や休日に従業員の自宅を訪れて、あるいは退社する従業員を喫茶店などに誘うなどして、説得し、新組合のPRをし、労働基準監督局以外には決して署名簿を明かさないということを約束して、署名を集めたのである。
従業員の過半数といっても、職制を含めての過半数とは実質的に本社職場全従業員のほぼ3分の2にあたるほどの人数だから大変だった。当然、会社側はわれわれの動きに対抗して、デマ攻勢をかけ、圧力をかけ、弾圧し、妨害してきた。
私と中村君は、この至難の署名活動オルグ闘争を通して、青年部とそのメンバーが、鍛えられて、闘う活動家となり、文字どおりの青年行動隊に成長していく好機と捉えていた。そして実際に、そうなっていった。闘いの中で若者たちは鍛えられていったのである。
そして遂に、過半数を獲得したのである。次長級職制以下の本社職場全従業員の半数プラス1人の署名を獲得することに成功したのである。新組合は直ちに労基局に署名簿を持っていき、時事通信社の労基法違反を告発し、同社の36協定が偽物であることを証明してみせた。
新組合結成後、約3年で長谷川取締役会は崩壊したが、その関ヶ原の戦いは実にこの36協定闘争の成功にあった。以後、強力な闘争集団に成長した青年部を中心に、長谷川体制打倒闘争は激しく展開され、勝利を手にすることができたのである。
こうして一応、長谷川体制打倒闘争に勝利はしたのだが、社内はまことに見苦しい事態となった。それまでおっかなびっくりで、勇気の片鱗だになかった中年の組合員たちが、いまや経営権力を握ったと大きい顔をして、一斉に猟官運動を恥臆面もなくはじめた。もう新組合結成の当初の理念もどこへやら、まことに浅ましい動きが目立った。
そんな社内の風潮を利用して、組合三役経験者を中心に、経営権力内部に公然と移り変わり、「会社は経営危機にある」と扇動して、一挙に新組合を御用化した。御用化されていた旧組合は取締役会崩壊とともに消滅していた。新権力者たちは傀儡の取締役会を牛耳って支配した。その一方で、組合を完全に御用化し、労務機関化した。
こうした社内情勢に外部の勢力が乗じ、影響力を行使し始めた。既に創価学会の感化を強く受けていた組合ボスたちは、それまでの組合の実質的顧問弁護士を会社の顧問弁護士に寝返らせ、「労組管理」を指南させた。代々木共産党がハイエナのように組合の重要役員ポストを牛耳った。こうしてまことに不思議にも創価学会と代々木共産党との連合経営支配が時事通信社において実現したのである。
創価学会にとっても代々木共産党にとっても、新聞・テレビ・ラジオにニュース記事を配信し、全ての記者クラブへの加入権を保持し、あらゆる官庁や財界・企業・証券業界、金融界・大企業に情報を提供し、政府機関にしっかりと食い込み、政府機構とも言える「中央調査社』という調査機関を持ち、「内外情勢調査会」という影響力ある情報宣伝組織を運営する時事通信社に対して、影響力を持ち、経営のヘゲモニーを握れるということはまことに魅力あるものだったのだ。
そうした新たなる情勢に対して、長谷川体制打倒闘争の先頭に立って闘ってきた青年部が結集する経済班と、新鮮な感覚で力強く運動を開始した札幌支局(現在は札幌支社)の北日本支部の組合員たちに対して、経営権力と組合権力が示し合わせて、経済班と北日本支部に襲いかかってきた。
この経営=労組幹部一体の戦略を指南したのが、後に公明党国会議員になるそれまでの組合側の実質的な顧問弁護士だった。その弁護士は時事通信社の全職制を一堂に集めて、経済班と北日本支部を壊滅させる思想と手口を伝授し、指南した。やがて時事通信社経営陣は、「私は創価学会青年部の皆さん方以上の池田大作フアンです」と公言した創価学会系の弁護士(注・この弁護士もまた組合の、組合設立時からの実質的な顧問弁護士だった)も会社側顧問弁護士に寝返らせて、経済班と北日本支部への弾圧に狂奔することとなり、3人もの活動家が毒牙にかかり、馘首攻撃を受けることとなるのである。
いまや新組合をも内包する新経営権力と経済班・北日本支部との間で、物事の考え方自体からして、決定的に違うことが明らかになった。
最大の違いは、「仕事」に対する考え方と、そのことに規定される組合および経営に対する考えや姿勢にあった。
新経営権力側の思想と戦略は、創価学会系の会社側顧問弁護士に寝返ったばかりのそれまでの組合側弁護士が会社職制を前にして指南した言葉で明白だった。その弁護士はこう指南したのである、「はっきいりいって労働組合の原理はいかにして高い報酬を得、いかにしてできるだけ働かないか、ということだ」。そして「労組管理」の必要性を説いた。労組を使用者が管理してはならないことは、労働組合法に違反する明白な違法行為である。
この指南の言葉は、当時の成り上がり労務担当取締役(後に代表取締役社長)によって、全国の各職制に対して出された秘密通達として徹底された。その文書の中見出しには「高い報酬・働かない−−それが労組の原理だ」と明記されていた。
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