全体表示

[ リスト ]

「横浜日記」(186)その5 11・6・15 梅本浩志

<樺美智子「死」の真相=丸屋博医師が決定的証言>

 樺美智子さんのご両親はわざわざ代々木病院にまで訪ねてきて丸屋医師に「美智子の死の真相を明らかにしてほしい」と丁重に頼まれたというが、樺さんの父・俊雄氏もまた学者であり(注・立正大、中央大、神戸大、東京外語大、東北大等で教授)、そんな学者に対して上野教授たちはどのように、真理を追究する使命を帯びている学者として、対応したのだろうか。
     
     嘘が公式「真実」に
 
 こうしていったんはうやむやの闇の中に放り込まれ、多数の日本人も、人なだれ圧死説を正しいものだと受け取り始めていたことは、例えば60年安保闘争当時東大文学部学生自治会「学友会」委員長だった金田晋広島大学名誉教授ですら「私自身、樺さんはデモの隊列の崩れるナダレの中で圧死したという当局の説明に、そうだったかもしれないと、なかば思い込みはじめていました」という2000年11月8日付け御庄博美(梅本注・丸屋博医師の詩人としてのペンネーム)宛手紙でも明らかである。
 司法解剖を執刀した中舘慶応大教授の鑑定書「訂正」や上野東大教授の「再鑑定」といった、事実歪曲ともいえるふらつきで、樺美智子の死の真相はこうしてうやむやにされ、検察当局の世論操作キャンペーンによって、胸腹部への警棒様鈍器の突き入れや前頚部扼絞(首の前側の喉仏の両側を手で絞められたこと)といった「第一次鑑定書」に書かれた事実は後景へと遠のかせられて行った。

     黙過できなかった医師

 しかし司法解剖の際の「プロトコール」(口述筆記)を読み、激しく出血した膵臓の摘出標本を自分の目で見て、その後の検察側の解剖医たちへの圧力のかけ様を中山浄助手から聞き、「第一次鑑定書」の内容も知っていた丸屋博医師は、そうした状況を黙過することができなかった。
 丸屋医師はこうして、さらに関係者たちにあたり、新聞記者用語でいう裏を取り(注・裏付け取材すること)、事実を確定し、真実を見極め、真相を明らかにする作業に取り組んで行った。
 その作業の最大のポイントは「『人なだれ』は、デモの後方で起きており、当夜(注・6月15日の学生デモ)『人なだれによる死』が、彼女(注・樺美智子)ただ1人であって、そのために骨折など怪我をしたりした学生のあったことは聞いたことがありません。1人の学生が『死』に至るような『はげしい人なだれ』は、あったのでしょうか?」という1点にあった。
 解剖に立ち会った社会党の坂本参議院議員も「障害を受けた彼女の当夜の位置が何処にあったのか、何とか確認したいと、しきりに言って居られました」からだし、丸屋医師自身も「当夜の国会の状況を知りませんでしたので、そのことはずっと心の奥に滞ったままでした」からである。

     40年後の再取材

 どうしても1960年6月15日夜の国会南通用門での全学連主流派学生デモ隊の東大「学友会」部隊の動きを中心に、その前後の事情について知りたいと丸屋医師は積極的に動いた。「6・15」から既に40年経っていた2000年暮れの頃からである。
 丸屋医師がまず取りかかったのは、元「学友会」委員長だった金田晋・広島大学名誉教授で、下関市の東亜大学総合人間・文化学部長をしていた人物への手紙差し出しから作業をはじめた。
 その返事が2000年11月8日に来た。手紙には主として、6月15日夜の遺体の身許確認と前日の学生大会の模様とが記載されていた。
 この返事を受けて丸屋医師は1カ月半後の同年12月22日にデパートのそごうで会い、丸屋医師が「60年6月15日、その夜、実際にどのようなことが起こったのか?率直にお尋ねしました」。
 そしてその時の会話の感想を丸屋医師が述べた後で、再度、6月15日夜の出来事について再確認すべき質問を書いた手紙を丸屋医師が書き、年明けの2001年1月13日に金田氏が「6・15」の夜に起こったかなり詳細な状況を記述した返信を書いた。
 この2通の返信の文章を引用しつつ、その前夜と当日のデモの光景を再現することとするが、ここでは理解しやすくするために時系列的に整理して、記述することとする。
 根拠、引用文献はこの丸屋レポートに記述されている2通の金田返信の文章と、樺美智子さんのご母堂・光子さんが「6・15」事件被告団機関誌「24人」に寄稿された文章で、このブログ「時代状況 横浜日記」第123号(08年6月14日付け)に掲載してある文章『あれから2年』からの再引用文である。なお既述のとおり、「6・15」の樺さんたちのデモについてはほかにかなり正確で詳細な記録もあるので、その方の記述は別稿にする。

     その前夜

 「6・15」の前日の1960年6月14日の樺美智子さんを中心とする状況から。
 「6月14日午後、銀杏並木沿いの三四郎池側にあるアーケードのうえの文学部階段教室で学生大会を開催し、国会突入を決議しました。といっても出席者は50名足らず、大会は定足数に達せず、正式には有志決議ということでした。私の前の期の学友会副委員長であった樺さんは4月からは卒業論文の準備をしていましたが、それでもデモや集会にはよく顔を出してくれました。
 学生大会では、反対の意見も出ました。樺さんは階段教室の一番上に坐っていて、決議したときは拍手をしてくれました」(2000年11月8日付け、金田晋書簡)
 帰宅してからの樺美智子さんの様子はご母堂・光子さんの記述にかなり詳しく出ている。(「時代状況 横浜日記」2008年6月14日付け『樺美智子さん追想の2人の言葉』参照)
 「前日の14日の夕方、思いがけなく早く帰った美智子を私は笑顔で迎えた。それに応えて今日はデモに行かずに、仕事をしていたと言った。私はそれならあしたもそうしたらいいと言った。私はなんとしても心配だった。美智子は私を叱るように大きな声で『とんでもない』と言い、あしたはどうしても国会に入ると言った」。
 そこで母と子との間で、やり取りが始まる。
 「私は黙っていられなかった。学生がしなくくてもいいし、学生だけでしたってだめだと言い張った。美智子は落ち着いた調子で『もちろん学生だけで何をしたってそれは弱い。ゼネストを本気でしなければ何にもならない。だけど革命をするというのではないけれど、安保改悪に対しては相当に闘うべきだ。とにかく国会に入るのだ。むこうはできないと思っているだろうから、できるということを知らせるのだ」、そんなふうに言っていたと思う。今にしては味わい深い言葉だったとおもう」
 「私は美智子の言うことをきいているうちにつり込まれたように言った、『多勢はいればよい、1万も2万も3万も』と。そして水くらいかけられるだろうと言った。美智子は催涙弾も出るだろうし、検束も多いだろうと暗い顔になった。きっと留置場は一杯になって議事堂の中が留置場に使われるだろうと暗く笑った」

     無防備学生への国家テロ

 この時、親子いずれも、男子学生はワイシャツ、女子学生はブラウスで、頭には学生帽も被っていない、完全に無防備な姿の若者たちに、まさか警視庁機動隊が、樫のような固い木の警棒(こん棒)を手にもって、まずデモ隊の無防備学生に胸元めがけて突きを入れ、列を乱す学生たちの頭からこん棒を振りかざして、めっためったに殴り掛かるような暴力団まがいの攻撃をかけようなどとは思ってもみなかったことがうかがわれる。 (つづく)

閉じる コメント(0)

コメント投稿

顔アイコン

顔アイコン・表示画像の選択

名前パスワードブログ
絵文字
×
  • オリジナル
  • SoftBank1
  • SoftBank2
  • SoftBank3
  • SoftBank4
  • docomo1
  • docomo2
  • au1
  • au2
  • au3
  • au4
投稿

.


プライバシー -  利用規約 -  メディアステートメント -  ガイドライン -  順守事項 -  ご意見・ご要望 -  ヘルプ・お問い合わせ

Copyright (C) 2019 Yahoo Japan Corporation. All Rights Reserved.

みんなの更新記事