|
「横浜日記」(108) 07・12・20 梅本浩志
<裏切ることができるかどうか=ジャーナリストたることとは>
安倍晋三が自滅する形で政権を投げ出してしまい、その後、福田政権が誕生したものの、日本の政治社会は身動きがつかない有り様で、死に体同然の状態だと言ってもよい。日本の民衆が、年金だまし盗り、C型肝炎薬害、障害者や母子家庭あるいはワーキング・プア等々の深刻な問題や物価急上昇などで塗炭の苦しみに喘いでいるというのに、アメリカ国務省日本課分室に成り下がってしまっている日本政府は、ただただインド洋上の米国海軍艦船への石油無料サービスを再開するためだけを目的とする法案を成立させるためだけに、国会の会期を延長して税金の無駄遣いばかりしている。挙げ句の果ては大臣どもの愚劣なUFO談義である。まさにこの世は末世の有り様だ。
こうしたことになるであろうことは、このブログ第104号『小泉・安倍「改革」時代を総括してみる』(07・9・16)の終わりの辺りの部分で書いておいた予想どおりである。そこでは、自民、民主両党の大連立が画策される可能性があるだろうとも書いておいた。茶番でしかないそんな愚行を、実際にやったのだから、なんと言ってよいのやら。
しかもその「立役者」が読売新聞グループを率いている通称「なべつね」こと渡辺恒雄・同グループ会長兼主筆だったことが分かり、ライバル・メディアの朝日新聞が、ここは敵失とばかり噛み付いたというか大喜びして、批判を書き立てた。黒幕気取りの「なべつね」の振る舞いはジャーナリズムの道から外れるものだとの言い分で、例えば07年11月9日付紙の天声人語ではこう批判するのである、
「渡辺氏はロマンチストなのだろう。実現したい夢があり、それに向けて現実を動かし得る立場だ。とはいえ、ありのままを見て聞いて、書くのが記者。当事者として、つまり現実の一部になって書いたのでは、観察者の『見る聞く』作業が甘くならないか」
こうした批判に「なべつね」はお冠である。「私は記者だ。だから(今回の連立騒動についても)書いてやりますよ」と俄然、ジャーナリスト魂なるものを見せてくれた。まるで売られた喧嘩は買ってやるよ、と言わんばかりのヤクザか子どもの台詞を吐くのだが、国民の大多数はそんな「なべつね」の言うことなど信用していない。彼の過去の政治的人生や日頃の言動から、権力亡者で権威を振り回してやまないあの「なべつね」がジャーナリストなどとは誰も思わないからだ。
同時に朝日新聞のほうもよくぞ天声人語のようなご立派なことを言ったものだと呆れるほかない。自民党の中枢に登り詰めた緒方竹虎や書かざる記者として有名だった河野一郎から始まって小沢一郎の掌に乗って踊らされた細川護煕に至るまで、あるいはゾルゲ事件に加わった尾崎秀実等々、書くことよりも政治を動かそうとすることのほうに熱心であった朝日新聞記者たちがなんと多かったことだろうか。面と向かって「なべつね」批判などできないことは、朝日新聞の歴史を繙けば一目瞭然である。
では、ジャーナリストはどういうスタンスで取材対象と関わるべきか。ジャーナリストであればあるほど、政治や社会をなんとかよいものにしたい、歴史を作り変えたい、社会正義、人権擁護、自由の実現のために尽くしたいと思い、理想を胸に秘め、アンガジェ(政治や社会へ主体的に関わり、参画し、行動すること)したいと切なく思うものである。だから取材対象に積極的に関わることはジャーナリズムの本道に反すると単純化して言うのはおかしい。
また、取材、執筆の技術的方法論から言っても、取材対象の外側に位置して冷静な第三者として「ありのままを見て聞いて、書く」ことなど不可能だし、そうした「観察者」的な取材の方法では、核心に迫った報道などできない。「現実の一部になって」取材して、書かなければ、隠された事実を発掘し、真実を抉ることなどできやしない。少しでも苦労して取材したことのある人間ならば、こうしたことは分かるはずである。大新聞社の社旗を立てた黒塗りハイヤーで乗りつけたり、記者クラブの権威を傘に着てのやり方では限界があり、だからそうした権威主義的な日本のマスコミは概してダメなのである。
欧米のジャーナリストたちの実績とアンガジェとの関わりをみるとこのことが裏付けられよう。
例えば、ジョージ・オーウェル。ロンドンやパリの貧困街に身をおいてル・モンド紙に寄稿したり、スペイン内乱でPOUM軍に身を投じて名作『カタロニア讃歌』を書いた。ジョン・リードはロシアのボリシェヴィキの側に身を置いて『世界をゆるがした10日間』を書いた。アルベール・カミュは対ナチ・レジスタンス闘争に参加して「コンバ」で腕を振るった。アグネス・スメドレの対日抵抗中国共産党軍に参加しての『中国の歌ごえ』、アーネスト・ヘミングウェイにおけるスペイン内乱と『誰がために鐘は鳴る』との関係、アンドレ・マルローにおけるスペイン共和軍支援と『希望』との関係、アイザック・ドイッチャーのポーランド共産主義者グループへの関わりと名作『武装せる予言者・武力なき予言者・追放された予言者』のトロツキー伝三部作等々まさに枚挙に暇がない。これを詩人にまで拡大するとランボーやヴェルレーヌからロルカに至るまで、その数はおびただしい。キャパの写真は歴史を動かした。
実際、『誰がために鐘は鳴る』1つとっても、この一見ラヴ・ロマンスに見える作品ではあるが、作者ヘミングウェイがいかに、ゲリラ戦誕生の地スペインで、共和派ゲリラの内奥深く入り込んで、山岳ゲリラ戦の極意を習得し、体得して作品の中に織り込んだか、そしてそれが「ヘミングウェイがスペイン共和制の大義のためにたたかうことを決意したとき、その決意は確固としたものであった。この戦争は絶対に勝たなければならない、と彼は思った」(ノルベルト・フェンテス『ヘミングウェイ キューバの日々』)という思想、信念と一体的なものであるか、知るだけで、この作品の価値と興味は高まり深まるのである。
だからこの単なる文芸作品は、世界の山岳ゲリラ戦の教則本としても読まれ、国際旅団に身を投じてスペイン内乱に参加した後のユーゴ大統領チトーに受け継がれて、対ナチ武装抵抗戦に勝利することを可能ならしめたほどである。
こうしてジャーナリズムにおける取材対象とジャーナリストとの位置関係はまことに微妙で、朝日新聞の天声人語子が言うほど、単純でみてくれのよいものではない。時には誤解を受けても振る舞わなければならない場合もある。
では具体的にどのような考えと姿勢で、取材対象と関わりあうのか、あうべきか、私がかねてから体験的に考えてきたことをここで語ってみたい。
私は取材記者とスパイとは極めて近い職種でありながら、しかし違うのはどこなのか、という設問を課して考えてみたことがある。ともに、幾重にも秘密のベールに包まれ、往々にしてスキャンダラスな闇に閉じ込められている取材対象に接近し、内側に入り込み、事実を掴み、情報を広く深く収集し、真実と本質を見極めるという点において、ジャーナリストとスパイとは同じだと考えている。時にはそうした状況の核心に迫るために、取材対象の深奥に入り込み、これぞというキーパーソンに接触し、信頼を勝ち得てコミュニケートを図ることが絶対的に必要な場合がある。
そのためには、相手と同じ立場にたつか、思想を共有し、時には行動までともにしなければならないことがあるし、そうしないかぎり相手は決して胸襟を開いて、本音を語ることはないだろう。信頼されないかぎり、会うことさえもできないものだ。きわどいテーマを取材したり、厳しい状況に相手も自分も置かれていればいるほどそうなのである。相手から信頼されず、警戒されていては、相手が本心を明かしたり、極秘事項を教えることなどありえないことはちょっと考えてみただけで分かるだろう。
そのいわば壁をぶち破って、肉迫して、取材するのだから、よほどの信頼を相手から得ていないかぎり取材など不可能というものである。スパイは常に二重スパイなのであると言われることもそうした事情から必然的なのである。
こうした点でジャーナリストとスパイとは同じ職種だと言ってよいだろう。だが両者には決定的な違いが存在する。それはなにか。
それはまず取材した結果を書いたり発表するのかどうか、そのためには取材相手を裏切ることに躊躇しないかどうか、という点にあり、差違にあると私は考える。特に信頼してくれていた相手にとっては裏切りになろうとも、社会に知らしめるために、たとえ相手が不利益を被るかもしれないと予測できても、そしてそのことによって相手との人間関係を決定的に傷づけたり、信頼関係を崩壊させてでも、発表すべきときには怯むことなく発表するのかどうか、その結果、ジャーナリストは大変な損害を受けたり、時には生命さえも危険に曝されることとなろうとも、そうするのかどうか、という1点において、ジャーナリストとスパイとは決定的に違うのである。
スパイは、二重スパイであろうとなかろうと、常に知りえた情報を社会に発表することはないし、命令や指令を受けた存在や契約を結んだ相手を裏切ることはない。二重スパイの凄さは、そこのところの識別をわきまえていて、裏切った振る舞いは行わないために、二重スパイであるかどうか、長時間にわたって正体を見破られることはない。スパイたちの思慮の深さと身のこなしの巧みさには感心するばかりだ。
だがジャーナリストにはこうした巧みさは必要ではない。だがその反面、常に相手を裏切ることができるのかどうか、という勇気と心構えがなくてはならない。相手を裏切らないジャーナリストは、結局は政治家の鞄持ちになったり、様々な利権に浴したり、政府機関である審議会メンバーになったり、日銀や大企業の官僚などになり、権力や社会的強者の側に身を置き、ジャーナリズムという職を汚すだけである。
こうした意識を持ってあらゆる取材技術を駆使して、対象に接近し、信頼をかち得て、情報を収集して事態や状況の核心に迫り、掴み、今こそ報じなければならないというまさにその時、相手の信頼を敢えて裏切ってでも発表するのが、ジャーナリズムの本道ではなかろうか。そのために自己一身を賭ける。本質的に言行を一致させる。
その時、たとえ数行の記事、あるいは1冊の本であっても、そうした記事は人々の心をとらえ、感動を呼び起こし、社会を突き動かし、歴史を作るのではなかろうか。そのための日頃から鍛えた取材の錬度高い技術習得と高度の意識が必要である。ニュース記事であれ、ルポであれ、解説であれ、写真であれ、映像であれ、本物のジャーナリズム作品にはそうしたものが滲み出ているのである。衝撃と感動がある。
その場合、取材した材料の選択の仕方や表現の方法あるいは描き方によって、作品の価値が自ずと決まるが、そこにジャーナリストの思想性、教養や学識の深さ、歴史に対する味方、人権や社会正義に対する感覚や主体的な意識が決定的に作用するのである。自己の思想と取材テーマが一致する時のジャーナリストのえに言われぬ幸せ。
|