横浜日記 2007

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「横浜日記」(108) 07・12・20 梅本浩志

<裏切ることができるかどうか=ジャーナリストたることとは>

 安倍晋三が自滅する形で政権を投げ出してしまい、その後、福田政権が誕生したものの、日本の政治社会は身動きがつかない有り様で、死に体同然の状態だと言ってもよい。日本の民衆が、年金だまし盗り、C型肝炎薬害、障害者や母子家庭あるいはワーキング・プア等々の深刻な問題や物価急上昇などで塗炭の苦しみに喘いでいるというのに、アメリカ国務省日本課分室に成り下がってしまっている日本政府は、ただただインド洋上の米国海軍艦船への石油無料サービスを再開するためだけを目的とする法案を成立させるためだけに、国会の会期を延長して税金の無駄遣いばかりしている。挙げ句の果ては大臣どもの愚劣なUFO談義である。まさにこの世は末世の有り様だ。
 こうしたことになるであろうことは、このブログ第104号『小泉・安倍「改革」時代を総括してみる』(07・9・16)の終わりの辺りの部分で書いておいた予想どおりである。そこでは、自民、民主両党の大連立が画策される可能性があるだろうとも書いておいた。茶番でしかないそんな愚行を、実際にやったのだから、なんと言ってよいのやら。
 しかもその「立役者」が読売新聞グループを率いている通称「なべつね」こと渡辺恒雄・同グループ会長兼主筆だったことが分かり、ライバル・メディアの朝日新聞が、ここは敵失とばかり噛み付いたというか大喜びして、批判を書き立てた。黒幕気取りの「なべつね」の振る舞いはジャーナリズムの道から外れるものだとの言い分で、例えば07年11月9日付紙の天声人語ではこう批判するのである、
 「渡辺氏はロマンチストなのだろう。実現したい夢があり、それに向けて現実を動かし得る立場だ。とはいえ、ありのままを見て聞いて、書くのが記者。当事者として、つまり現実の一部になって書いたのでは、観察者の『見る聞く』作業が甘くならないか」
 こうした批判に「なべつね」はお冠である。「私は記者だ。だから(今回の連立騒動についても)書いてやりますよ」と俄然、ジャーナリスト魂なるものを見せてくれた。まるで売られた喧嘩は買ってやるよ、と言わんばかりのヤクザか子どもの台詞を吐くのだが、国民の大多数はそんな「なべつね」の言うことなど信用していない。彼の過去の政治的人生や日頃の言動から、権力亡者で権威を振り回してやまないあの「なべつね」がジャーナリストなどとは誰も思わないからだ。
 同時に朝日新聞のほうもよくぞ天声人語のようなご立派なことを言ったものだと呆れるほかない。自民党の中枢に登り詰めた緒方竹虎や書かざる記者として有名だった河野一郎から始まって小沢一郎の掌に乗って踊らされた細川護煕に至るまで、あるいはゾルゲ事件に加わった尾崎秀実等々、書くことよりも政治を動かそうとすることのほうに熱心であった朝日新聞記者たちがなんと多かったことだろうか。面と向かって「なべつね」批判などできないことは、朝日新聞の歴史を繙けば一目瞭然である。

 では、ジャーナリストはどういうスタンスで取材対象と関わるべきか。ジャーナリストであればあるほど、政治や社会をなんとかよいものにしたい、歴史を作り変えたい、社会正義、人権擁護、自由の実現のために尽くしたいと思い、理想を胸に秘め、アンガジェ(政治や社会へ主体的に関わり、参画し、行動すること)したいと切なく思うものである。だから取材対象に積極的に関わることはジャーナリズムの本道に反すると単純化して言うのはおかしい。
 また、取材、執筆の技術的方法論から言っても、取材対象の外側に位置して冷静な第三者として「ありのままを見て聞いて、書く」ことなど不可能だし、そうした「観察者」的な取材の方法では、核心に迫った報道などできない。「現実の一部になって」取材して、書かなければ、隠された事実を発掘し、真実を抉ることなどできやしない。少しでも苦労して取材したことのある人間ならば、こうしたことは分かるはずである。大新聞社の社旗を立てた黒塗りハイヤーで乗りつけたり、記者クラブの権威を傘に着てのやり方では限界があり、だからそうした権威主義的な日本のマスコミは概してダメなのである。
 欧米のジャーナリストたちの実績とアンガジェとの関わりをみるとこのことが裏付けられよう。
 例えば、ジョージ・オーウェル。ロンドンやパリの貧困街に身をおいてル・モンド紙に寄稿したり、スペイン内乱でPOUM軍に身を投じて名作『カタロニア讃歌』を書いた。ジョン・リードはロシアのボリシェヴィキの側に身を置いて『世界をゆるがした10日間』を書いた。アルベール・カミュは対ナチ・レジスタンス闘争に参加して「コンバ」で腕を振るった。アグネス・スメドレの対日抵抗中国共産党軍に参加しての『中国の歌ごえ』、アーネスト・ヘミングウェイにおけるスペイン内乱と『誰がために鐘は鳴る』との関係、アンドレ・マルローにおけるスペイン共和軍支援と『希望』との関係、アイザック・ドイッチャーのポーランド共産主義者グループへの関わりと名作『武装せる予言者・武力なき予言者・追放された予言者』のトロツキー伝三部作等々まさに枚挙に暇がない。これを詩人にまで拡大するとランボーやヴェルレーヌからロルカに至るまで、その数はおびただしい。キャパの写真は歴史を動かした。
 実際、『誰がために鐘は鳴る』1つとっても、この一見ラヴ・ロマンスに見える作品ではあるが、作者ヘミングウェイがいかに、ゲリラ戦誕生の地スペインで、共和派ゲリラの内奥深く入り込んで、山岳ゲリラ戦の極意を習得し、体得して作品の中に織り込んだか、そしてそれが「ヘミングウェイがスペイン共和制の大義のためにたたかうことを決意したとき、その決意は確固としたものであった。この戦争は絶対に勝たなければならない、と彼は思った」(ノルベルト・フェンテス『ヘミングウェイ キューバの日々』)という思想、信念と一体的なものであるか、知るだけで、この作品の価値と興味は高まり深まるのである。
 だからこの単なる文芸作品は、世界の山岳ゲリラ戦の教則本としても読まれ、国際旅団に身を投じてスペイン内乱に参加した後のユーゴ大統領チトーに受け継がれて、対ナチ武装抵抗戦に勝利することを可能ならしめたほどである。

 こうしてジャーナリズムにおける取材対象とジャーナリストとの位置関係はまことに微妙で、朝日新聞の天声人語子が言うほど、単純でみてくれのよいものではない。時には誤解を受けても振る舞わなければならない場合もある。
 では具体的にどのような考えと姿勢で、取材対象と関わりあうのか、あうべきか、私がかねてから体験的に考えてきたことをここで語ってみたい。
 私は取材記者とスパイとは極めて近い職種でありながら、しかし違うのはどこなのか、という設問を課して考えてみたことがある。ともに、幾重にも秘密のベールに包まれ、往々にしてスキャンダラスな闇に閉じ込められている取材対象に接近し、内側に入り込み、事実を掴み、情報を広く深く収集し、真実と本質を見極めるという点において、ジャーナリストとスパイとは同じだと考えている。時にはそうした状況の核心に迫るために、取材対象の深奥に入り込み、これぞというキーパーソンに接触し、信頼を勝ち得てコミュニケートを図ることが絶対的に必要な場合がある。
 そのためには、相手と同じ立場にたつか、思想を共有し、時には行動までともにしなければならないことがあるし、そうしないかぎり相手は決して胸襟を開いて、本音を語ることはないだろう。信頼されないかぎり、会うことさえもできないものだ。きわどいテーマを取材したり、厳しい状況に相手も自分も置かれていればいるほどそうなのである。相手から信頼されず、警戒されていては、相手が本心を明かしたり、極秘事項を教えることなどありえないことはちょっと考えてみただけで分かるだろう。
 そのいわば壁をぶち破って、肉迫して、取材するのだから、よほどの信頼を相手から得ていないかぎり取材など不可能というものである。スパイは常に二重スパイなのであると言われることもそうした事情から必然的なのである。

 こうした点でジャーナリストとスパイとは同じ職種だと言ってよいだろう。だが両者には決定的な違いが存在する。それはなにか。
 それはまず取材した結果を書いたり発表するのかどうか、そのためには取材相手を裏切ることに躊躇しないかどうか、という点にあり、差違にあると私は考える。特に信頼してくれていた相手にとっては裏切りになろうとも、社会に知らしめるために、たとえ相手が不利益を被るかもしれないと予測できても、そしてそのことによって相手との人間関係を決定的に傷づけたり、信頼関係を崩壊させてでも、発表すべきときには怯むことなく発表するのかどうか、その結果、ジャーナリストは大変な損害を受けたり、時には生命さえも危険に曝されることとなろうとも、そうするのかどうか、という1点において、ジャーナリストとスパイとは決定的に違うのである。
 スパイは、二重スパイであろうとなかろうと、常に知りえた情報を社会に発表することはないし、命令や指令を受けた存在や契約を結んだ相手を裏切ることはない。二重スパイの凄さは、そこのところの識別をわきまえていて、裏切った振る舞いは行わないために、二重スパイであるかどうか、長時間にわたって正体を見破られることはない。スパイたちの思慮の深さと身のこなしの巧みさには感心するばかりだ。
 だがジャーナリストにはこうした巧みさは必要ではない。だがその反面、常に相手を裏切ることができるのかどうか、という勇気と心構えがなくてはならない。相手を裏切らないジャーナリストは、結局は政治家の鞄持ちになったり、様々な利権に浴したり、政府機関である審議会メンバーになったり、日銀や大企業の官僚などになり、権力や社会的強者の側に身を置き、ジャーナリズムという職を汚すだけである。 
 こうした意識を持ってあらゆる取材技術を駆使して、対象に接近し、信頼をかち得て、情報を収集して事態や状況の核心に迫り、掴み、今こそ報じなければならないというまさにその時、相手の信頼を敢えて裏切ってでも発表するのが、ジャーナリズムの本道ではなかろうか。そのために自己一身を賭ける。本質的に言行を一致させる。
 その時、たとえ数行の記事、あるいは1冊の本であっても、そうした記事は人々の心をとらえ、感動を呼び起こし、社会を突き動かし、歴史を作るのではなかろうか。そのための日頃から鍛えた取材の錬度高い技術習得と高度の意識が必要である。ニュース記事であれ、ルポであれ、解説であれ、写真であれ、映像であれ、本物のジャーナリズム作品にはそうしたものが滲み出ているのである。衝撃と感動がある。
 その場合、取材した材料の選択の仕方や表現の方法あるいは描き方によって、作品の価値が自ずと決まるが、そこにジャーナリストの思想性、教養や学識の深さ、歴史に対する味方、人権や社会正義に対する感覚や主体的な意識が決定的に作用するのである。自己の思想と取材テーマが一致する時のジャーナリストのえに言われぬ幸せ。

「横浜日記」(107) 2007年12月12日 梅本浩志

<中村克追想集『生涯一記者、堂々たる哉』刊行へ>

 このブログ『時代状況 横浜日記』をしばらく休んでしまった。前回の106号が10月23日付で翌24日に掲載しているから、実に50日間近くの永きにわたってごぶさたしていたことになる。その失礼をお詫びし、なぜ休載していたのか、釈明を兼ねて、再開記事の第1号としたい。
 実は、10月下旬から、故・中村克君の追想文集の編集に全力をあげていたのである。中村君のことについては、このブログの第80号『軸足が決してぶれなかった男』(07年1月10日付)で紹介しておいたが、高い見識を持ち、言行一致を貫いて、日本の人権運動、ジャーナリズム運動、労働者運動と多方面にわたって歴史的足跡を残した希有のジャーナリストである。そんな人物の記憶が遠のかないうちに、確固とした記録をできるだけ正確に書き残しておくことが大切だと考えて、彼の死の直後から「追想集」を制作しようと考え、準備を始めていた。
 とはいえ、私のような高齢になると、自分自身の健康状態や体力はもちろんのこと、家族も病気になったりで、時間だけが早く過ぎ去り、そこへいまや6人になってしまった(うち現役記者の組合員はわずか2名)超少数派組合になってしまったわれらが時事通信労働者委員会である。財政力も弱くなり、1冊の書物を編集、刊行するのは大変なことで、当初は秋口に出したいと思っていた「追想集」も切羽詰まる10月末を迎えてしまった。中村君が死去したのは正月2日だったから、間もなく1年祭(1周忌)を迎える。それまでになんとか刊行したいと、決意を新たにして10月下旬から、あらゆるものを犠牲にしてでも、これに集中することとした。
 以来、こうしたものは独裁的にしかやれないことを経験的に承知していたから(委員というのはそもそも委せられた人間をいうのだ!)、自己一身の責任において、協力してもらうスタッフを選び、編集し、足らざる部分は書き足し、これまで19冊の自著単行本を出した経験を利用して、独断専行、ようやく刊行のメドをつけることができた。こうしてようやく12月12日に校了に至った次第だ。これで年内刊行は可能となり、命日の1月2日までに執筆者や遺族の手許に届けられるメドがついた。

 追想集の題名は『生涯一記者、堂々たる哉 追想・中村克』とした。故人の人柄と足跡を多様多彩に描いて人物像と業績を浮彫りにするように心掛けた。3章構成とし、第1章は「略伝 中村克」で野球少年だった幼少年時代、闘争と仕事に明け暮れた時事通信記者時代、時事通信社の不当労働行為を告発しての人権擁護裁判闘争を闘い、遂にがんに倒れて65年の生涯を閉じた定年退職後の晩年の時代、を3部構成で略述した。伝記作家としての腕を生前の司馬遼太郎から激賞された長沼節夫と私の2人でなんとか書き上げた。
 第2章は、中村克と親交のあった人々の追想文集で構成していて、寄稿者は32人に上る。いずれも具体的なエピソードを織り込んで追想していて、それだけに故人を多面、多様に浮彫りにしていて、興味がつきない。特に取材する側とされる側との一種の攻防戦が描かれ、相手に論争を挑んで事実を確かめ、真実を見極めて行く故人の取材の仕方は大いに示唆的である。
 そして第3章だ。ここには中村克が残り少ない生命を賭けて闘った「長沼節夫不当賃金差別中労委再申立」に際して、再申立当事者でもある中村が書いた膨大な『陳述書』の全文をそのまま掲載している。故人が時事通信に入社した1966年から今日に至るおよそ40年間にわたる時事通信闘争の過去を総括的に叙述している叙事詩でもある。この遺言書とも言える『陳述書』は、本人が最高裁にまで争う決意を秘めた書証(証拠文書)であるだけに、事実に関して正確無比なもので、さながら戦後日本マスメディアの内側でどのような事態が生じ、どのような人権侵害行為が行われてきたか、また日本のマスメディア・ジャーナリズムがどのように全体主義的な党派や宗教団体に蚕食されようとしてきたのか、具体的に描き、鋭くその悪を告発している。
 そして戦前戦時中に言論統制の総元締機関だった同盟通信が復活されようとしている現状を告発し、いまや少数派となった時事通信労働者委員会が真っ向から立ち向かって闘っている姿を浮彫りにしている。結論部分の中村克の筆鋒は鋭く、迫力がある。現代ジャーナリズムについて関心のある人間には必読の文献である。

 私がこうした追想文集の編集・刊行のスタッフとなって尽力したのはこれで2冊目である。1冊目は委員長格だった岩山耕二君が50歳の若さで倒れたときに刊行した『やらいでか!』で、これはこれで味があった。そして今回の2冊目は、A5判の大判で400ページもの大冊である。
 なぜ私が連帯して闘ってきた友人たちの追想の書の刊行に熱心なのかと言えば、闘争というものは1つの作品、それも人生を賭けて制作した壮大な作品だという思想があるからである。作品であるからには、それを記録し、記述した物、あるいは映像や録音等が残されてしかるべきであり、古事記や日本書紀あるいは古代ギリシャの古典を例に出すまでもなく、文字や映像等で、形あるものとして残す必要がある。
 そうして残された記録で、やがて歴史が語られ、検証され、政治や経済等の人間社会の在り方が考究されて、文化や哲学あるいは芸術となって、人類の幸福をもたらす糧となるだろう。そう考えて、一見個人史でしかない追想文集を歴史的ドキュメント作品として残そうと考え、その結果として故人を歴史に刻み込むためだ。

 この追想文集の目玉である中村克本人の遺言の書でもある『陳述書』がなんといっても白眉だが、中村は時事通信社がなぜかくも非道な会社に陥り、そのため同社の経営状況までも悪化して、遂に時事通信と共同通信を再合併して国策通信社「同盟通信」の復活までを時事通信経営トップが叫び出すに至ったのか、過去を総括的に追跡し、その原因を究明し、激しく批判して、この事実上の絶筆の筆を置いている。
 中村はそこにまで至った最大の犯罪的原因を、創価学会系で公明党国会議員だった、元時事通信労組の実質的顧問弁護士が、時事通信社内の混乱に乗じて組合側から経営側に寝返った中村巌弁護士(故人)の労組壊滅を指南した職制に対する講演と、同講演を間もなく社長になる大畑忠義取締役が忠実にノートし、社内職制に対する秘密通達としてまとめ徹底させた「大畑親展全同文」にあると指摘して弾劾している。
 その文書では、労働者というものは本来怠け者であるから、徹底的に業務命令を出し続けて会社の思うとおりに労働を強制し、特に組合活動家に対しては細かく業務命令を出して、厳しく懲戒処分攻撃を行うとともに、実質団交を拒否して、ゼロ回答で対応して、「労組管理」をしっかりとして、組合を完全に御用化して、それに応じない組合や組合活動家を徹底的に抑圧、弾圧すべきであり、それが非人間的であっても、職制たるものは会社の経営権力の意思に忠実に従うべきで、それができない職制は辞めろと書いているのであり、その文書は現在に至るまで同社は撤回していない。
 この中村巌指南講演と大畑秘密通達が、記者たちの主体性、内発性、能動性、強固なる意志を必要とするジャーナリズムと正反対の極にあることは、誰が考えても瞭然としている。にもかかわらず時事通信社は未だにこの非道にして反ジャーナリズムの経営方針を守り続け、中村克が先頭に立って闘い続けてきた時事通信労働者委員会を敵視し続け、壊滅を図り続けてきたのである。実に30年以上にわたって。
 こうした経営方針、労組敵視政策を取り続けている以上、時事地獄状況が再来し、同社の経営が悪化することは当然で、既に8期連続で営業赤字を続けているのだという。そして2003年に至って当時の前田耕一社長が時事通信・共同通信両社合併を唱えるにいたり、日本を太平洋戦争に導くに際して最大の犯罪的役割りを演じ、果たした国策通信社「同盟通信社」の復活を公然と提唱したことを、中村克は激しく厳しく、次のように書き、弾劾し、筆を置いているのである、
 「その前田耕一が共同・時事合併で目指すのは国策通信社・同盟通信社への『先祖返り』である。共同・時事合併論の実現性はともかくとして、私・中村克が問題にするのは前田耕一の『強い国策通信社』論である。前田耕一の国策通信社論からは、『強い国家』(強い国策通信社)→『強い政府』(強い国策通信社役員会)→『国家秩序の維持』(国策通信社内の秩序維持)→『国民の規律確保』(国策通信社員の規律確保)→『政府方針への国民の服従』(国策通信社への社員の服従)という図式が浮かんでくるからだ。矢印は上から下への一方通行、つまり『国家・国益』至上の『上意下達』の国家観と『国家・国益にかなう』国策通信社論である。戦前、国家権力とともに歩んだ同盟通信社は国民を戦争に駆り立て、その責任も明確にしないまま敗戦直後、素早く共同、時事に変身した。元代表取締役社長・前田耕一は共同・時事合併で国策通信社に回帰しようというのである」
 
 私は中村克と40年間、付き合い、共に闘い、仕事し、苦楽を共にしてきたが、不思議なことにイデオロギーや思想的なことについて、議論どころか、特にこれといった話を交わしたことがない。ただ一方通行的に、拙著は必ず彼に贈っていたし、彼が丹念に読んでいてくれたことは確かである。そんな仲だったから、お互い多忙な身でことさらにイデオロギーについて語り合う必要などなかったとも言える。とはいえ、彼が実際にどのような思想を持っていたのか、知るべきではあった。
 そんな時、追想集を出すにあたって、彼の『陳述書』に丹念に目を通して、私と同じ思想的地平にいたのだなあ、と感慨を深くしたのが、ここに引用した一文である。
 中村克は、福岡ホークスの王貞治監督が春の甲子園大会で優勝した当時に活躍した野球少年で、豪速球投手としてシード校のエース・ピッチャーだった。野球一筋に青春時代を送った人間だった。その彼が、時事通信に入社して、ジャーナリストとなって、たどり着いたのが、この『陳述書』の思想的地平だった。彼は時事通信社の前身たる同盟通信の全体主義的ナショナリズムの戦争犯罪にまで遡り、ジャーナリズムの責任を追及し、過去の過ちの繰り返しを防ぐために、いまどうするべきかを語った。その時、日本国家の硬質な反動化および全体主義化と、時事通信社内における地獄化とは同質、同根のものであり、時事通信における人権闘争が優れて全日本的、全世界的なレジスタンス運動であることを明らかにした。
 今回の追想集を執筆、編集する過程で、偶然だが、そんな中村克の人間形成についても書きおく必要性を感じて、幼児における記憶の残像を肉親たちから取材したところ、実は小学校入学前の幼少の時季に体験した、東京大空襲や戦後の飢餓との闘いなどが脳裡に原風景として留まっていたことが分かった。それが国策通信社復活反対の中村論文に接続、凝結していたのである。そんな中村の原風景を略伝の冒頭に織り込めて実によかったと思う。中村克の命日は1月2日、年明けてすぐである。

「横浜日記」(106) 07・10・23 梅本浩志

<ヌヴェル・ヴァーグと68年革命=『サルバドールの朝』補考>

 スペイン映画『サルバドールの朝』について、少し書き足しておきたい。ウェルガ監督が訴えたかった、この作品の歴史性について考えをめぐらすうちに、書き留めておくほうがよいだろうと思うことが幾つかあるからである。中でも「ラ・ヌヴェル・ヴァーグ」と呼ばれる1950年代に登場し、映画芸術の世界のみならず、思想の領域にまで深く、広く影響を及ぼしたフランス・ヌヴェル・ヴァーグと1968年のフランス五月革命を中心とするヨーロッパ革命との通底性について、書いておきたい。
 というのも、この映画『サルバドールの朝』の中で、たしかサルバドールの姉にだったと思うが、フランソワ・トリュフォの『大人は判ってくれない』についてかなり詳しく語らせ、サルバドールがトリュフォのその作品の主人公の昔の姿と同じだったと回想させることによって、ウェルガ監督のこの作品が、フランス・ヌヴェル・ヴァーグの強い影響を受け、その継承者であることを宣明しているからである。そしてウェルガはその作品において、かくも鮮烈な対フランコ抵抗闘争がフランス五月革命の影響を強く受けて展開されていたことを、全世界に告げたからである。

 フランス・ヌヴェル・ヴァーグは、「カイエ・デュ・シネマ」派とアラン・レネのグループの二つの流れから形成されていると言われているが、その「カイエ・デュ・シネマ」派の中にトリュフォがいた。1950年に創刊されたこの映画研究誌にはトリュフォのほかにジャン=リュク・ゴダールたち若き映画批評家たちが結集していて、論争し、刺激しあっていたのだが、間もなく彼らは映画監督になっていった。
 トリュフォやゴダール、またレネたちに共通していたのは、カメラを自分という主体と一体化させて、カメラ・アイを自分の目として制作し、作品において他者とのコミュニュケーションが成り立つ条件はなにか、を徹底的に追求したことである。彼らは映画であれ文学であれ、作家が神であることを否定し、拒絶した。作家が複数の登場人物の心の内部を、したがって人や事象を見る角度を同じにして、同時に描けるというのは神でなければ不可能な話であり、それを平然と描けることはありえない話であり、傲慢というものだとの考えをヌヴェル・ヴァーグ派は抱いて制作していた。
 このことは登場人物たちが置かれた状況についても言い得ることだった。状況はあくまで主体(作中登場人物)との関わり、関係、距離、位相との相対的なものでなければおかしな話であった。ウェルガ作品を例にとってみると、サルバドールにとっての抑圧的社会状況とフランコにとっての権力支配意志貫徹を目的とする社会状況とは同じものではないことを考えてみるだけで、このことは明らかであろう。
 そうしたフランス・ヌヴェル・ヴァーグ作家たちの考えだったから、当然、表現の手法そのものから問い直すことから、彼らの映画制作が始まった。文学におけるアンチロマンなどの革命的な思想や表現手法と共通する制作手法だった。こうしたヌヴェル・ヴァーグの作品だったから、カメラ・アングルや構図さらにはワン・カット・シーンの時間の長さなどの制作手法自体にそうした意味が秘められていた。
 例えば、カメラ・アングルは主人公の視点であり、時には相手の目線なのである。構図は登場人物の心象風景でもあり、アナログ的な意思伝達の装置でもある。カットとカットとの間の時間の長さは、登場人物の呼吸や心音の長さであり、心理的な波長の長さでもある。状況の重さでもある。だから当然のことながら、映像そのものが哲学的であり、思想性を内包していて、サンボリスム(象徴主義)的なのだ。多くのヌヴェル・ヴァーグ作品の映像が詩的だったことはこうした特質によるものだった。

 こうした考え方と制作手法だったから、その哲学的特性から、各映像シーンは、芸術的であるとともに、社会学的であり、文学的であり、政治的だった。フランス・ヌヴェル・ヴァーグの監督たちが現実政治にも積極的にアンガジェ(参画)するのは自然なことだった。やがてトリュフォやゴダールたちは、五月革命に際して、バリケード闘争の渦中に身を投じることになっていく。私は、「大人は判ってくれない」の試写会の席でたまたまトリュフォの挨拶を聴く機会があったが、およそあの慎ましやかな監督が、と思う人柄からは政治性をうかがいしれず、彼がジャン・ルイ・バローやゴダールたちと共にバリケード戦を戦うなど想像もできなかったのだが、つまりそれがフランス・ヌヴェル・ヴァーヴなのだった。
 だからヌヴェル・ヴァーグと1968年の五月革命が深くて広い影響を相互に与えあい、映画作家たち自身も革命に積極的に関わったとしても、それはごく自然なことだったのである。その及ぼしていた範囲は、フランスのみならず、ヨーロッパはもとより、アメリカ、中南米、日本などと広かったのである。それは全体主義独裁国家スペインにまで及んでいたことが、今回のウェルガ作品で鮮烈に裏付けられた。

 1968年とはどういう年だったのか。それは世界の若者たちが総叛乱を起こした時代だったと言ってよい。フランス五月革命、チェコ「プラハの春」、ユーゴ自主管理第二革命、ポーランド学生叛乱、西ドイツでの学生デモの激化、日本の全共闘運動、中国の文化大革命、アメリカ・キング牧師暗殺と公民権運動の急展開等々である。そして今回、スペイン映画『サルバドールの朝』で、圧政下のスペインにおいてさえかくも激しい運動が組織され、展開されていったことを私は知った。
 いずれの運動もベトナム戦争反対が基軸になっていたことは明らかだが、同時に抑圧的な社会から、自己自身を解放して自由な自治的社会を構築するのだと欲求する社会革命の運動として、発達していった。だから全世界的な総叛乱となり、アメリカの「いちご白書」運動やカリフォルニア性革命、チリのアジェンデ政権による自主管理社会主義革命、韓国の学生運動の激化等々の運動が世界の至る所で勃発し、進行し、展開したのである。私は1968年を21世紀の元年と位置づけ、呼んでいる。
 これらの運動は、例えば、ベトナム戦争を終結に導き、ベルリンの壁崩壊へたどり着き、アメリカの黒人解放運動を前進させたり、フランスにおいてはド・ゴール政権を崩壊させてミッテラン自主管理社会主義政権を誕生させるなど政治史的にも多大の成果をあげた。結果的に、世界同時の政治革命ともなったのである。
 これらの運動は挫折するもの、目的を達成することができなかったものもあったが、例えばチリのアジェンデ自主管理社会主義革命やゲバラの反逆的ゲリラ戦思想は時間を経て、今日、中南米諸国が帝国主義的なアメリカに対して公然と反旗を翻すようになったように、現実の政治史を変えるに至っていることもまた事実である。
 なによりも68年革命が社会革命であり、若者たちを中心として人々の感覚、意識、思想、生きざまを変えたことは特記しておく必要がある。そしてこうした68年革命の社会革命性がが政治思想の世界に変革をもたらせ、レーニン・スターリン主義的な共産党思想を致命的なまでに衰滅させたことも。
 若者たちが『サルバドールの朝』で描かれたようなアナーキズムに強くひかれ、運動していたことは、フランス五月革命とその後の運動においても言え、江口幹が『パリ68年5月』や『黒いパリ』で描いていることでも分かる。こうした若者たちの68年革命にフランス・ヌヴェル・ヴァーグの作品や思想が、多大の影響を与えていたことを、改めて知らされた『サルバドールの朝』だった。

 サルバドールが処刑された74年の秋9月に私は悲劇の地バルセロナに旅したが、当時私は取材を終えてホテルに宿泊したとき、旅日記を書くように努めていた。バルセロナからマドリッドに移動したその日の夜の日記には以下の文章があり、それを私は85年刊行の拙著『ヨーロッパの希望と野蛮』の第6章「スペイン燃ゆ」の冒頭部分に収録しておいたので、ここに改めて掲示しておく。
 「9月20日。(午後2時をほんの少し過ぎたとき、イベリア航空本社へ予約しておいた切符をとりにいったところ、午後4時までシエスタと呼ばれる昼休みで万事休す)。やむをえない。近くの公園で時間をつぶした。緑や花がきれいである。手入れがよく行き届いている。ごみも落ちていないし、人影もまばらだ。陽のあたる場所はさすがに南国の日射しだが、影に入ると涼しい。爽やかだ!だが、と思う。このような美しさ、整頓された美しさ、これは一体、何だ。
 ベンチに寝そべっているものはいない。紙くずひとつ落ちていない。人々は静かだ。静かに坐っている。池でボートを漕いでいるものもいる。だが誰も、はしゃいでいるものはいない。緑と青空と、赤や橙の花々。さんさんと輝く太陽。それに対する静かな人々。これは一体、何だ。ここには実に整った秩序がある。
 しかし、ふと思う。ペール・ラシェーズの個々の無数の墓。モンサンミッシェルの巨大な墓。そしてここには、状況総体の墓。最高の秩序は死だ」(注・「ペール・ラシェーズ」とはパリ市内の墓地。1871年のパリ・コミューン最後の激戦地で、多数のコミューン兵が銃殺された。「モンサンミッシェル」とはフランスのブルターニュ地方にある大西洋に突き出た半島に存在する修道院。19世紀当時、革命家ブランキーたち重罪政治犯の監獄でもあった)
 この文章の直前に私は「ごみ一つ落ちていない清潔さ、警官の多さとどこかで光る冷い公安警察の視線、安い物価、ボーイ長のもとに厳格に統制されたレストラン・ボーイたちの従順さ・・・」と書いている。映画『サルバドールの朝』で描かれていたような激しい都市ゲリラ戦や非合法なデモや集会が行われていたことも知らず、分からなかったものの、私はジャーナリストの直感で、フランコ・スペイン社会の異常さを感じていたのである。

 『サルバドールの朝』の音楽について、一言感想を述べておきたい。映画作品における音楽の果たす役割と重要さは改めて指摘するまでもなかろう。その意味で、このウェルガ作品における音楽はそれなりに意味を持ち、効果をあげていたとは思う。
 即ち、アメリカのボブ・ディランの「天国への扉」と、そのディランと親しかったというカナダのレナード・コーエンの「スザンヌ」のフォークのメロディが作品全体を包み込むように流れ、その抒情のメロディの合間に強烈なロックが脈動して、主人公サルバドールたちの心裡を描いている。時代的にもディランの曲が1973年に、コーエンの曲が1965年に作られているというから、「68年」という時代を描こうとしたこの作品にふさわしいし、ウェルガ監督の意思に沿っていると言えよう。
 だがしかし、もしたとえばモーツアルトの『バイオリンとビオラのための協奏交響曲』の第2楽章の旋律をそのまま使えば、この作品は恐るべき破壊力を持ったに違いないと思われる。ちょうどルイ・マルの『恋人たち』がブラームスの弦楽六重奏曲第1番第2楽章を用いて見事にエロチシズムを描いたように。私は破壊力を欲する。

「横浜日記」(105) 07・10・20 梅本浩志

<映画『サルバドールの朝』に感動>

 いささかの心忙しさと疲れの中を、無理をしてスペイン映画『サルバドールの朝』を見てきた。無理をしただけの価値のある、実に素晴らしい作品だった。おそらく60年安保闘争直後の半世紀前に見て感動したアンジェイ・ワイダ監督作品ポーランド映画『灰とダイヤモンド』以来の名画ではないか。
 このスペイン映画について私の予備知識は皆無だったと言ってよい。ただフランコ独裁時代に抵抗運動に身を投じた若者の悲劇を描いた作品だという、宣伝文句だけの知識で、きっとなにかある作品だ、と直感して、無理を押して見に行ったのである。その思いの裏には、私自身の2度に及ぶスペイン・ルポ取材の体験があった。

 作品の原題は「サルバドール」である。フランコ圧制体制下で起きた冤罪事件としてとりわけヨーロッパでは有名なサルバドール事件だから、主人公サルバドールの名前だけでヨーロッパの人々は作品の主題と歴史的背景がなにであるのかよく理解していて、原題だけでよかったようだ。しかし残念ながら日本ではほとんど知られていないこの事件だけに、「サルバドールの朝」としたようだが、適切な改題だった。というのも、「朝」が、主人公サルバドールが残虐な鉄環絞首刑装置ガローテで処刑された1974年3月2日午前9時40分を指す意味のある言葉だからである。
 劇映画制作の監督としてはほとんど無名に近かったマヌエル・ウェルガ監督のこの作品は、それまでのドキュメンタリー映像作家としてのキャリアを十分に活かして、当時の事件について史実に非常に忠実に取り組み、丹念に当時の時代状況を再現する、ドキュメンタリーな手法でこの作品を制作している。
 こうして現実に存在した事件と事実に非常に忠実に制作された作品なのだが、そうでありながら、その時代的な意味と意義をしっかりと捉えて1960年代から70年代にかけての歴史の流れを作品に見事に織り込み、しかも「体制に反抗し、疑問をぶつけることは若者の権利であり、義務なのです」、「(社会や政治の)矛盾や疑問を抱え、失敗や成功を経験して生きた彼(サルバドール)が、容認できない状況には断固として反発した、あくまでも普通の若者であったということなのです」と語るウェルガ監督の、反逆する若者たちへの温かい眼差しと理解する心と限り無い人間への愛と希望が作品を観るものに伝わってきて、感動を与えるのである。この映画制作の思想と手法に、日本の現代作家たちが忘れてしまったなにかを見ることができるのだ。

 それはまず上映開始直後に映し出されるタイトルバックから明確である。ベトナム戦争、フランス五月革命、アメリカ公民権運動、チリ・ピノチェット将軍によるアジェンデ大統領殺害のクーデタ、若者たちの反逆のシンボル・イメージとしてのゲバラがいきなり次々と映し出されてくる。その映像だけで、サルバドール事件の世界史的な位置付けと意味が明確に示される。実際、主人公サルバドールや彼の仲間たちは、フランス五月革命から激しい衝撃と影響を受けて、フランコ独裁体制に対する都市ゲリラ抵抗闘争に立ち上がったのである。
 ストーリーは史実に忠実に展開していく。1948年にバルセロナに生まれたカタルーニャ人青年の主人公サルバドール・プッチ・アンティックは、1968年のフランス五月革命の影響を強く受けて、独裁政権フランコ体制に抵抗するとともに、資本主義体制の矛盾から解放された自由な社会を創ることを決意して、アナーキスト・グループMIL(イベリア解放運動)に身を投じる。このグループは、1930年代のスペイン内乱で大変な影響力を持ったアナルコ・サンジカリスト組織CNTと関係が深い組織で、既成の左翼とは決別した若者たちの抵抗運動組織だとみてよいだろう。
 フランコ独裁時代の労働者たちは、大政翼賛会的な御用組合の「労働組合」とは別の労働者運動組織の「労働者委員会」を組織していた。労働者委員会はフランス南部のツールーズに本部を置いて、スペイン国内で地下抵抗運動を行っていた。サルバドールの属していたMILはそんな労働者委員会を全面支援し、活動していた。彼は労働者委員会の中に「マラガイ学生委員会」を組織することから活動を開始している。
 そうした地下運動のためと組織の宣伝活動のために必要なのが資金。サルバドールたちは都市ゲリラ化して銀行襲撃によって資金を調達していった。フランコ政権は当然のことながら、そうした都市ゲリラを徹底弾圧してくる。逮捕して裁判にかけて地下抵抗組織を壊滅させるというやり方ではなくて、ゲリラたちには秘密警察の手で容疑者を見つけ次第、その場で殺してしまうやり方で弾圧をほしいままにしていた。
 当初は都市ゲリラ作戦も成功していたが、やがて公安警察側は態勢を整えて徹底弾圧を仕掛けてきた。サルバドールたちの組織MILはこうして警察の罠にかかる。
 1973年9月25日、バルセロナのカフェで囮(おとり)作戦を公安秘密警察が仕掛け、サルバドールが罠にかかった。その逮捕の際に逃げようとするサルバドールと秘密警察員との間に銃撃戦が展開され、ピストルを撃ちつつ逃げようとしたサルバドールは狙いを定める余裕もないままに「1発か2発」(サルバドールの裁判での証言)撃ったのだが、たちまちにして警察側によって撃ち倒されて重傷を負い、逮捕されてしまう。その撃ち合いの際に警察官1人が死亡した。
 サルバドールは、警察官殺害と銀行襲撃実行の容疑で軍法会議にかけられる。起訴状によれば警察官には3発の銃弾が命中して死んだことになっていたが、弁護士が執刀医のマジョール医師から聞いた話では5発か6発命中していたという。また起訴状でも、銃弾の発射角度が違ったものであることが明らかになっていた。
 だが最初に結論ありきの軍事裁判だったから、裁判が行われたのは1974年1月8日のたった1日だけで、同時に2事件を扱い、3被告も裁きながら、その日のうちに、つまり即座に死刑判決が言い渡された。「弁護側の証人は全員不採用、弾道検証もなく、検死は杜撰(ずさん)で立会人はなし」といった考えられない「不当な裁判」(アラウ弁護士)だった。サルバドール被告は控訴するが同年2月11日にマドリッドで控訴審が開かれるものの、わずか1週間後の2月19日に死刑が確定し、3月1日に閣議で死刑執行が承認される。その翌日の3月2日に死刑が執行される。
 その死刑はガローテと呼ばれる残忍極まりない装置によるものだった。死刑囚は木製の柱に縛り付けられる。その柱には穴が開けられていて、その穴には死刑囚の首に巻き付ける鋼鉄の環に接続したネジが通されていて、執行吏が「鉄の環をネジでゆっくりと締め上げて窒息させていき、首の骨を粉砕して殺す」という残虐この上ない代物で、サルバドールも絶命するまでかなりの時間がかかっている。フランコ独裁体制の残虐性を象徴する死刑執行の方法である。

 この作品にはサルバドールの抵抗闘争と冤罪による残虐処刑という主題のほかに、感動的なエピソードが幾つか織り込まれている。例えば、弁護士の献身的な弁護と救援活動、家族との深い愛、恋人のタカを愛するが故に寝室にまで行きながら手を出すことなくプラトニックな愛を貫いて革命に生きたサルバドール、なによりも獄吏ヘススとの友情の深まりなどである。
 特に獄吏ヘススとの心の通いあいは感動的で、対ナチ抵抗闘争を描いたドイツ映画『白バラの祈り』における主人公ゾフィーを取り調べる過程でゾフィーを死刑からなんとか救いたいと思うようになったゲシュタポ尋問官のロベルト・モーアと同じ心理状況に陥ったのと相似していて感動的である。サルバドールの処刑に立ち合ったヘススは、サルバドールが絶命した瞬間、「これは人殺しだ」と叫び、「フランコが殺したのだ」と叫んで連れ出されるシーンは、それから8年後にスペインがフランコ独裁体制から解放され、民主化される時代を予言していて、黙示的である。
 そしてなによりも、エンディング・バックに、パレスチナ・ゲリラやオサマ・ビン・ラディンの写真を堂々と出して、実に刺激的で、予言的である。米国のブッシュをはじめとする各国政治権力者たちが揃いも揃って抑圧的国家権力に挑んで抵抗するゲリラたちをテロリストと呼び、卑しめ、殺戮することが当然だと言い張る現代政治社会に対して、果たしてそうなのか、と真っ向から批判しているのだ。
 米国をはじめとする欧米諸国がかつて共和制スペインを見殺しにし、全体主義フランコ・スペインを容認したたことをも、鋭く告発しているのである。サルバドール虐殺の共犯者だと暗に指弾しているのだ。そして抑圧された民衆の抵抗は決して終わることがないことを指摘しているのである。祖国の大地を取り戻し、解放を目指して戦い続けているパレスチナ・ゲリラを弾圧し、抑圧している帝国主義的国家権力者たちの今日の姿は、まさにサルバドールたちを抑圧し、虐殺したものたちの姿と重なりあっていることを、ウェルガ監督は明示しているのである。

 サルバドールが処刑された1974年3月2日からおよそ半年後、私はバルセロナに旅した。その年の9月の夜、パリから空路、バルセロナに入った。しかし当時においてはまさかそのバルセロナで、この映画で見られたようなフランコ独裁打倒闘争が果敢に展開されているとは全く知らず、分からず、まして集会、デモはいうに及ばず武装都市ゲリラ闘争が白昼堂々と行われていようとは知る由もなかった。ただただ奇妙な平和と静けさが全てを包み込み、物憂いほどであり、人々は決して大声で話したり笑ったりすることがなく、街にはゴミ1つ落ちていない清潔ぶりだった。
 その8年後の1982年、私はフランコ死去後最初の総選挙を取材すべくマドリッドの空港に降り立った。スペイン内乱後初めての民主化のための総選挙だった。民衆はあいかわらずカメラに神経質で、撮影しようとすると抗議を受けたが、概してフランコ時代には考えられないほど、民衆の表情は明るかった。街はゴミが散らばり、乱雑だった。フランコ時代に地下抵抗闘争を展開して非合法化されていた社会主義労働者党の集会にも行ってみたが、その数は何万人なのか、推量もできないほどの大群衆が広いグランドを埋め尽くして、賑やかだった。人々の声は実に明るかった。
 総選挙は社会主義労働者党の勝利に帰した。フランコ時代には、フランスに本部を置いて亡命活動を行い、地下抵抗運動を続けていた政党だった。あの労働者委員会を基盤とするフランコ体制打倒を掲げて抵抗運動を続けた政党だった。選挙で同党の勝利が明らかになった深夜、若者たちは中心街に自動車を列ねて、車窓に腰掛けた若者たちは旗を振り、クラクションを鳴らし続けていた。明け方まで賑やかだった。
 そんな社会主義労働者党の表面に踊り出ていたのは、党首のゴンサレス(選挙後に首相に就任)ではなく、フランコ時代に地下抵抗闘争を亡命地フランスで指導し続けていた、その名もゲッラ(注・ゲッラとはスペイン語で戦争を意味する)だった。サルバドールもその一翼として戦った地下抵抗運動の、いまや覆面を脱いだ指導者ゲッラだった。テレビはゲッラだけを追い回していた。人気は抜群だった。

「横浜日記」(104)その8 07・9・16 梅本浩志

<小泉・安倍「改革」時代を総括してみる>


    外堀は埋められている

 そんな安倍晋三だったが、この際、言っておかなければならないことがある。安倍は確かに無様な姿で墜落したとはいえ、彼がこの1年間でとにかくやった安倍流改革の「実績」を決して見落としてはいけない、軽視してはならないということである。
 教育基本法は改悪され、国民投票法は成立していて、改憲の土壌が既にできていること、そして格差社会が出現して、「負け組」にとっては「改革」を実行する強大な権力者を待望する精神的土壌が日本社会に広く深く形成されていて、小泉改革でちらりと見せたナチス的な近代ファシズムがこの日本社会に勃興する可能性が皆無でないということ等々である。安倍晋三によって、改憲と反動と強権主義と全体主義への外堀は埋められているのである。 

   黄昏の先には闇しかない

 さてこうして21世紀初頭の日本政治をリードし、支配した小泉・安倍の時代は去り、常識的に考えれば、自民党独裁の時代は終わったはずである。先の参議院選挙における安倍自民党の大敗は、有権者が民主党の主張に賛成し、同党に政権を取らせようとして投票したのではなく、とにかく国民が自分たちを取り巻くあらゆる政治経済社会状況につくづく嫌気がさして、このままでは自分たちは殺されてしまう、とにかく自民党政治には「ノン!」(否)を突き付けるほかない、と思い込んで、自民党には票を投じなかっただけの結果なのである。
 その結果、自民党は参議院で多数派ではなくなり、主導権を野党側に奪われてしまった。参議院は衆議院とは違い、解散・総選挙がないから、次の参議院選挙を待たなければ、政権を握っているとはいえ、自民党政府がせっかく衆議院で可決した重要法案であっても、その多くが参議院で否決されてしまい、日本の政治は極めて不安定なものになるはずである。国会はドタバタ喜劇を連日演じるだけとなる。
 議会制民主主義なる政治の世界は権力掌握が至上命題であることを骨の髄まで知っている小沢一郎党首の率いる民主党は、冷徹で非情な攻めを仕掛けていくはずである。こうして政治の世界は混迷を深くし続けていくしかなく、これといった人材のいない現在の自民党は衰亡していくしかないはずである。黄昏(たそがれ)の自民党の先にあるのは闇のはずである。
 政策的にもテロ対策特別措置法の期限延長あるいはそれに代わる新法の制定、年金問題の抜本的解決、格差社会の解消、消費税増税強行、農村の疲弊と都市のスプロール化問題の解決、社会保障制度の改革等々どれ1つとっても難問、難題の山積である。特に目にあまる官僚たちの腐敗堕落や傲慢な官僚主義と、国民が年金問題で思い知らされた社会における公権力への信義の失墜をどう解決していくのか、全く見通せないのが現状である。

    難局打開に見通しなし

 そうした状況をなんとか打破するためには、昔なら軍部がクーデタを起こしたところだが、そうはいかず、では民衆の間から運動が盛り上がって民衆自身の手で解決するために新しい社会を作り上げ、新たなる時代を築き上げていくのかといえば、そうした思想も運動も圧殺されて久しく、期待できない。
 しかし山積する難問難題を解決するために時の政治権力はとにかくなにかをしなければならない。こうした事態を打開するための(しかし結局は打開できないだろう)道は2つしかない。
 1つは自民党が衆議院で3分の2を占めている数の利を活かして参議院で否決された法案を衆議院で再可決して独裁的にことに当たるという独裁政治の道である(05年9月12日付「横浜日記」13号『独裁権を与えた総選挙』参照)。しかし参議院で野党が多数派を占めている現状では、こうした独裁的政治手法はかえって事態を悪化させることとなろう。破廉恥な独裁政治家だと非難されることを甘受できる政治家はいまの日本にはいないだろうし、そうした破廉恥な政治家でないかぎり、とても強権手法によって衆議院再可決の独裁的手法を連続して強行できないだろう。
 そこで2つ目の道が形成されることとなろう。民主党が政権獲得を目の前にして、与党気取りになり、「大人の政党」、「政権を担える責任政党」といったマスコミの煽てにのって、民主党が実質的に自民党化して、日本政治を大政翼賛会化してしまう道で、このほうが大いにあり得るように思える。海外におけるドイツでのキリスト教民主党と社民党との大連立にその例を見ることができるし、日本においてもかつての自民党と社会党との連立政権・村山内閣の出現がそうだった。
 現在の民主党においても大臣病に取り付かれた日和見派は結構多数いるし、前原誠司・前民主党党首(現在も指導部の重要ポストを占めている)を中心とする「おかしなまじめ派」も結構おり、政権の座に坐れそうだと感じはじめれば、民主党を自民党化することによって権力亡者ならではの夢を実現しようとしたり、場合によっては自民党と野合して政権にありつくことも大いにありうるだろう。
 日米安保条約を容認し、自衛隊の違憲性を否定したり、国鉄民営化を容認して国労潰しに加担するなどした村山政権と同じ道を歩むことに積極的に賛成するわけだ。ただ村山たちのように自分たちをあまり安売りすることはないだろうが。場合によっては自民・民主両党大連立に動き回るメンバーも結構存在すると私は睨んでいる(05年9月18日付「横浜日記」15号『ダメ政党のタカ派党首』および06年3月5日付同39号『「お受験」育ちの政治家たち』を参照)。
 こうして今後、ドタバタ喜劇的に政治は動いていく可能性が大きいが、しかし難局に直面している政治の世界は本質的な問題や課題をなんら解決できないで、どうしようもない事態に日本は突き進み、こうして日本の民衆はますます苦しい生活を余儀なくされていく公算が大きいように思えてならない。

 (追記)9月23日に、日本の借金地獄国家化に道を拓いた福田赳夫元首相(福田赳夫は高度経済成長政策を持続するために公債発行政策を採用し、それを「財政新時代」と呼ばせた。その結果が国や地方自治体を累積債務の借金地獄に追い込み、今日の破局的な財政・経済情勢を招来する1因となった)の息子である福田康夫が自民党の新総裁に選ばれた。そして25日に福田は国会で新首相に選ばれた。
 彼もまた二世議員で、小泉内閣にあって官房長官を務めた男である。小泉改革政策の中枢的責任者なのだ。今度の総裁選挙運動の際にも福田は改革の必要性を口にしていたが、なにをどう改革するのか、小泉や安倍の「改革」とどこまで同じであり、どこが違うのか、全く語り得なかった。せいぜい格差問題の是正を抽象的に口にするだけだった。
 福田ジュニアの発想は、総理大臣就任直後の記者会見での発言に明確に現われていた。彼は今度の内閣を「背水の陣内閣」だと名付けたが、その理由は自民党が危急存亡の岐路に立っており、今度失敗すれば自民党は政権を失うだろうからだと口にした。福田にとっての危機感は、実に自民党に関するものだった。
 日本人の大多数が苦しい状況に追い込まれ、日本社会がどうしようもない解体、崩落の危機に直面しているという認識と危機感はうかがわれなかった。国の危機、国民の苦しみを認識し、意識して、そのために身を賭してそうした危機に対応し、救うのだ、という言葉は遂に聞くことができなかった。福田にあっては自民党のことしか視界になく、念頭になく、日本や世界のこと、民衆の苦しみについては、さらさら頭にないとの印象を受けた。そんな福田の自民党政権が、難局を打開できるのか、大いなる疑問である。
 とにかく民主党にも北朝鮮政府にもよく話し合って、理解を求めつつ、政策展開を図りたいとの姿勢だが、現実の厳しさがそうした姿勢を許すのか、はなはだ疑問と言わざるをえない。一見、おとなしそうに見える福田だが、爪を隠す鷹であるかもしれないし、状況が福田を第2の小泉にするかもしれない。総裁選挙を見ていて、総理就任の際の言動を見ていて、そんな気がしてならなかった。 (9月25日追記)

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