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「横浜日記」(192)下 2011年12月27日 梅本浩志
<「インターナショナル」の原詩>
革命体験を持つ民がまだ多数生存していた20世紀前半のソ連に、この「インターナショナル」が国歌として歌われて、民衆がこの歌に共鳴すれば、この歌の刃が抑圧者たる自分自身に向けられてくることをスターリン自身がよく自覚していたことが容易に推察されるのである。
その理由がこの歌詩自体にあることは読めば誰でも分かるだろう。拙い訳でまことに申し訳ないが、とにかく試訳してみたので、まずはポティエの原詩を以下に。
「『インターナショナル』(梅本浩志訳)
ユジェーヌ・ポティエ
パリ・コミューンのメンバーである市民ルフランセに捧ぐ
最後の闘いだ
団結しよう、そして明日
インターナショナルが
人類となるだろう
起て!地上の酷苦に苛まされている人々よ!
起て!飢餓に苦しむ徒刑労働の民たちよ!
理性が今、噴火口で大音響を轟かせているのだ、
それは最後の大噴火だ。
過ぎ去りし苦難の日々を一掃するのだ、
鉄鎖に繋がれている民たちよ、起て!起つのだ!
世界はいま根底から変わりつつあるのだ、
われわれは否定された存在でしかないのだ、要するに!
至高の救世主など存在しないのだ、
神も、シーザーも、護民官も存在しないのだ、
生産者たちよ、われわれがわれわれ自身を救うのだ!
共に助け合うことを高らかに宣言しよう!
暴利を貪る泥棒が不当に得たカネを吐き出させるために、
精神を牢獄から救い出すために、
工場を我々自身の手に取り戻すのだ、
鉄は熱いうちに打とうじゃないか!
国家は抑圧し、法律はまやかす、
税金は人の血を吸い、不幸にさせる、
だが金持ちにはいっさい義務を課さない、
貧しき者の権利はただ一言の嘘っぱちとくる。
監視の目を浴び飽き飽きするほどじらされて、
平等には、こんな言葉に代わって他の法律が必要なのだ、
「義務なき権利は存在しない」と今の法律では言うのだ、だが待て
「平等ならば、権利なき義務など存在しない!」のだ。
こんな奴らにおべっかが使われていることが忌まわしい、
鉱山や鉄道を所有する暴君どもだ、
奴らはいったい何をしてきたのであろうか、
仕事を奪い去ること以外にだ。
奴ら一味の金庫の中で
生産された対価は消え失せてしまっている、
対価は支払われるなどと宣言されているというのにだ、
民衆は支払われるべき対価をしか望んでいないというのにだ。
王侯どもはわれわれを怒りに満ちさせる、
われわれの間では平和を、暴君どもには戦いを!
武器を手にしてストライキに突入しよう、
上官の命令を拒否し、敵の隊列を粉砕しよう!
もし奴らが執拗に命じ続けるのなら、残忍な奴らどもよ、
そんな奴らの命令がわれわれを英雄にするのだ、
奴らはたちまちにして思い知ることだろう、われわれの銃弾は
われわれにだけしかふさわしくない指揮官たちのためにあるのだと。
労働者たちよ、農民たちよ、われわれは
仕事人の大いなる党なのである、つまり
大地は人間にだけしか所属していないのであり、
有閑階級の人間はどこか他の地に行ってもらうしかないのだ。
われわれの中で一体、何人が腹一杯に飯を食っているというのか!
だがもしカラスどもが、禿鷹どもが、
こんな朝のある時に、消え失せてしまうなら、その時、
太陽はいつも光り輝いているだろう!
最後の闘いだ、
団結しよう、そして明日、
インターナショナルが
人類となるだろう。 パリ、1871年6月」
現代に生きるポティエの原詩
日本語「訳」詩とポティエ原詩との違いはあまりにも明らかである。日本語の歌詞が政治革命先行主義で凝り固まり、「飢えたる者」たちが目覚めて支配権力打倒に立ち向かい、圧制の鎖を断つ「暁が来た」のだと扇動して、とにかく権力を奪取すれば解放されるのだ、そのために血に燃え、屍を越えていくことだ、と情緒的にアジテートしている。
だがこの政治権力奪取至上主義が、マルクスのプロレタリア独裁論を恣意的に解釈して、1党派の暴力的独裁論を導き出して硬質な官僚主義的抑圧社会と全体主義的国家体制を生み出したことは、ロシアから北朝鮮に至る、ジョージ・オーウェルの「1984年」的なつい最近の歴史を見つめ直すだけで明らかだし、現代日本においても、代々木共産党から新左翼諸党派に至るまで、プロレタリア独裁論に依拠する、様々な日常の組織活動の具体的局面で明白に見て取れるのである。民たちはそうした左翼諸党派のいかさま性を鋭く見抜いているのである。
スターリンがなぜポティエ原詩の「インターナショナル」を嫌い、遂に革命ロシアの国歌としなくなったのか、よく分るのである。原詩の特徴を幾つか指摘してみる。
ポティエの原詩はどうか。ここにはフランス革命の「自由、平等、兄弟愛」の精神が基調となっていて、その革命の精神が資本主義体制によって実現を阻まれていることを具体的に分析し、指摘して、生産主体が生産手段を持つことが阻まれているその矛盾の壁を、打ち破るために民たちが自ら起ち上がることの必要性を訴えていることが第一の特徴である。
その上に、生産手段(工場、資本、土地等)を所有しているブルジョワジーが当時「帝政」だった国家権力の庇護を受けて、生産手段を所有していない仕事人たるプロレタリアを抑圧支配し、人権を蹂躙し、搾取して圧制を布いている資本主義体制の悪を指弾し、フランス革命の精神を実現し、生産者たるプロレタリアが主人公となるべきことの重要性を叫んでいるのが第二の特徴である。
そしてそうした仕事人たるプロレタリアの人権を蹂躙し、本来仕事人が主人公であるべき社会の有り様(よう)を妨害し、その一方で元々はプロレタリア同様の仕事人だったにもかかわらず、いまや生産現場から離れて有閑階級と成り果てたブルジョワジーが、社会を私物化して禿鷹的な存在となって、国家権力と一体化して、時には祖国の民を裏切ってまでして、プロレタリアを弾圧、抑圧している現実を指弾しているのが第三の特徴である。
要するに社会を変革することによって政治もその延長線上で根底から変革することが必要なのだ。こうした矛盾を自覚したプロレタリアが戦いに立ち上がったのが、19世紀の諸革命であり、その頂点に位置していたのがパリ・コミューンだった。
ところがブルジョワたちが育て支えていたヴェルサイユ政権という国家権力が、なんと敵だった(注・1871年当時、フランスとプロシャ=ドイツとは戦争していた)プロシャと組んで、同胞たるフランス人市民を武力攻撃してきた。「武器を手にしてストライキに突入」したパリ市民を攻撃し、大量虐殺してきた。ではわれわれプロレタリアも国を越えて手を組み、インターナショナル(国際的)に連帯して、敵たるブルジョワジーとブルジョワ国家権力と戦い、真の解放を勝ち取り、革命の精神を護ろうではないか、プロテスト・ソングあるいはレジスタンス・ソングとしてのシャンソン「インターナショナル」はそう訴えているのである。
この現実が21世紀の今、甦っているのだ。1871年当時の「第二帝政」を現在の「国際巨大資本国家体制」にメーキャップし直し、「ブルジョワジー」を「法人企業資本」に置き換え、「支配人」を「経営官僚と御用労組官僚」へと名称を変更してみれば、ポティエの原詩はそのまま現代に当てはまるのである。だから「インターナショナル」は今なお新鮮であり、魅力的なのだ。今日、貧富の格差はますます拡大し、プロレタリアたる若者たちには職がなく、闘うものは資本と国家権力によって弾圧され、民は忍従を強いられているこの現実。(了)
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