横浜日記 2011

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「横浜日記」(192)下  2011年12月27日 梅本浩志

<「インターナショナル」の原詩>

 革命体験を持つ民がまだ多数生存していた20世紀前半のソ連に、この「インターナショナル」が国歌として歌われて、民衆がこの歌に共鳴すれば、この歌の刃が抑圧者たる自分自身に向けられてくることをスターリン自身がよく自覚していたことが容易に推察されるのである。
 その理由がこの歌詩自体にあることは読めば誰でも分かるだろう。拙い訳でまことに申し訳ないが、とにかく試訳してみたので、まずはポティエの原詩を以下に。

 「『インターナショナル』(梅本浩志訳)
       ユジェーヌ・ポティエ

     パリ・コミューンのメンバーである市民ルフランセに捧ぐ

    最後の闘いだ
    団結しよう、そして明日
    インターナショナルが
    人類となるだろう

  起て!地上の酷苦に苛まされている人々よ!
  起て!飢餓に苦しむ徒刑労働の民たちよ!
  理性が今、噴火口で大音響を轟かせているのだ、
  それは最後の大噴火だ。
  過ぎ去りし苦難の日々を一掃するのだ、
  鉄鎖に繋がれている民たちよ、起て!起つのだ!
  世界はいま根底から変わりつつあるのだ、
  われわれは否定された存在でしかないのだ、要するに!

  至高の救世主など存在しないのだ、
  神も、シーザーも、護民官も存在しないのだ、
  生産者たちよ、われわれがわれわれ自身を救うのだ!
  共に助け合うことを高らかに宣言しよう!
  暴利を貪る泥棒が不当に得たカネを吐き出させるために、
  精神を牢獄から救い出すために、
  工場を我々自身の手に取り戻すのだ、
  鉄は熱いうちに打とうじゃないか!

  国家は抑圧し、法律はまやかす、
  税金は人の血を吸い、不幸にさせる、
  だが金持ちにはいっさい義務を課さない、
  貧しき者の権利はただ一言の嘘っぱちとくる。
  監視の目を浴び飽き飽きするほどじらされて、
  平等には、こんな言葉に代わって他の法律が必要なのだ、
  「義務なき権利は存在しない」と今の法律では言うのだ、だが待て
  「平等ならば、権利なき義務など存在しない!」のだ。

  こんな奴らにおべっかが使われていることが忌まわしい、
  鉱山や鉄道を所有する暴君どもだ、
  奴らはいったい何をしてきたのであろうか、
  仕事を奪い去ること以外にだ。
  奴ら一味の金庫の中で
  生産された対価は消え失せてしまっている、
  対価は支払われるなどと宣言されているというのにだ、
  民衆は支払われるべき対価をしか望んでいないというのにだ。

  王侯どもはわれわれを怒りに満ちさせる、
  われわれの間では平和を、暴君どもには戦いを!
  武器を手にしてストライキに突入しよう、
  上官の命令を拒否し、敵の隊列を粉砕しよう!
  もし奴らが執拗に命じ続けるのなら、残忍な奴らどもよ、
  そんな奴らの命令がわれわれを英雄にするのだ、
  奴らはたちまちにして思い知ることだろう、われわれの銃弾は
  われわれにだけしかふさわしくない指揮官たちのためにあるのだと。

  労働者たちよ、農民たちよ、われわれは
  仕事人の大いなる党なのである、つまり
  大地は人間にだけしか所属していないのであり、
  有閑階級の人間はどこか他の地に行ってもらうしかないのだ。
  われわれの中で一体、何人が腹一杯に飯を食っているというのか!
  だがもしカラスどもが、禿鷹どもが、
  こんな朝のある時に、消え失せてしまうなら、その時、
  太陽はいつも光り輝いているだろう!

    最後の闘いだ、
    団結しよう、そして明日、
    インターナショナルが
    人類となるだろう。     パリ、1871年6月」
       
     現代に生きるポティエの原詩

 日本語「訳」詩とポティエ原詩との違いはあまりにも明らかである。日本語の歌詞が政治革命先行主義で凝り固まり、「飢えたる者」たちが目覚めて支配権力打倒に立ち向かい、圧制の鎖を断つ「暁が来た」のだと扇動して、とにかく権力を奪取すれば解放されるのだ、そのために血に燃え、屍を越えていくことだ、と情緒的にアジテートしている。
 だがこの政治権力奪取至上主義が、マルクスのプロレタリア独裁論を恣意的に解釈して、1党派の暴力的独裁論を導き出して硬質な官僚主義的抑圧社会と全体主義的国家体制を生み出したことは、ロシアから北朝鮮に至る、ジョージ・オーウェルの「1984年」的なつい最近の歴史を見つめ直すだけで明らかだし、現代日本においても、代々木共産党から新左翼諸党派に至るまで、プロレタリア独裁論に依拠する、様々な日常の組織活動の具体的局面で明白に見て取れるのである。民たちはそうした左翼諸党派のいかさま性を鋭く見抜いているのである。
 スターリンがなぜポティエ原詩の「インターナショナル」を嫌い、遂に革命ロシアの国歌としなくなったのか、よく分るのである。原詩の特徴を幾つか指摘してみる。
 ポティエの原詩はどうか。ここにはフランス革命の「自由、平等、兄弟愛」の精神が基調となっていて、その革命の精神が資本主義体制によって実現を阻まれていることを具体的に分析し、指摘して、生産主体が生産手段を持つことが阻まれているその矛盾の壁を、打ち破るために民たちが自ら起ち上がることの必要性を訴えていることが第一の特徴である。
 その上に、生産手段(工場、資本、土地等)を所有しているブルジョワジーが当時「帝政」だった国家権力の庇護を受けて、生産手段を所有していない仕事人たるプロレタリアを抑圧支配し、人権を蹂躙し、搾取して圧制を布いている資本主義体制の悪を指弾し、フランス革命の精神を実現し、生産者たるプロレタリアが主人公となるべきことの重要性を叫んでいるのが第二の特徴である。
 そしてそうした仕事人たるプロレタリアの人権を蹂躙し、本来仕事人が主人公であるべき社会の有り様(よう)を妨害し、その一方で元々はプロレタリア同様の仕事人だったにもかかわらず、いまや生産現場から離れて有閑階級と成り果てたブルジョワジーが、社会を私物化して禿鷹的な存在となって、国家権力と一体化して、時には祖国の民を裏切ってまでして、プロレタリアを弾圧、抑圧している現実を指弾しているのが第三の特徴である。
 要するに社会を変革することによって政治もその延長線上で根底から変革することが必要なのだ。こうした矛盾を自覚したプロレタリアが戦いに立ち上がったのが、19世紀の諸革命であり、その頂点に位置していたのがパリ・コミューンだった。
 ところがブルジョワたちが育て支えていたヴェルサイユ政権という国家権力が、なんと敵だった(注・1871年当時、フランスとプロシャ=ドイツとは戦争していた)プロシャと組んで、同胞たるフランス人市民を武力攻撃してきた。「武器を手にしてストライキに突入」したパリ市民を攻撃し、大量虐殺してきた。ではわれわれプロレタリアも国を越えて手を組み、インターナショナル(国際的)に連帯して、敵たるブルジョワジーとブルジョワ国家権力と戦い、真の解放を勝ち取り、革命の精神を護ろうではないか、プロテスト・ソングあるいはレジスタンス・ソングとしてのシャンソン「インターナショナル」はそう訴えているのである。
 この現実が21世紀の今、甦っているのだ。1871年当時の「第二帝政」を現在の「国際巨大資本国家体制」にメーキャップし直し、「ブルジョワジー」を「法人企業資本」に置き換え、「支配人」を「経営官僚と御用労組官僚」へと名称を変更してみれば、ポティエの原詩はそのまま現代に当てはまるのである。だから「インターナショナル」は今なお新鮮であり、魅力的なのだ。今日、貧富の格差はますます拡大し、プロレタリアたる若者たちには職がなく、闘うものは資本と国家権力によって弾圧され、民は忍従を強いられているこの現実。(了)

「横浜日記」(192)上  2011年12月27日 梅本浩志

<「インターナショナル」の原詩>

 年の瀬が押し詰まり、あと数日で正月になると思うと、気になるのは越年できない失業者や低賃金労働者たちのことだ。生活苦に喘ぐ人々だ。私自身も年収300万円に満たない年金生活者である上に、子どもが就職の能力も意欲もありながら、就くべき職がなく、扶養しなければならないから、職なき人間たちの苦しさを痛切に感じる今日この頃である。
 そんな思いの日々を過ごしているとき、ふと思い出すのは過ぎ去った昔のこと。かつて日本では、なにかおかしいと思ったとき、人々は声を出し、行動に訴えた。60年安保、68年全共闘、ベトナム反戦運動、企業内の少数派労働運動、あるいは公害被害阻止や消費者たちの運動で。だがいま、これほど民たちが苦しんでいるというのに、不思議なことに日本人だけは実におとなしく、これといった抵抗の姿勢を見せることがまずない。
 世界では、北アフリカのチュニジア、リビア、エジプトで、中近東のパレスチナ、イラク、イエーメン、シリア、アフガニスタンで、ヨーロッパのギリシャ、スペイン、イタリア、フランス、ドイツ、イギリスで、北米大陸のアメリカで、アジアの中国やミャンマーで、自由と平等を求め、人権擁護を叫び、富の偏在に異議を唱え、あるいは原発反対を唱えて、国家権力や独占的金融機関や特権的な富裕階級や官僚階級に対して激しく抗議する、直接行動の自然発生的な民衆の運動が活発に展開されている。
 しかし今の日本はそうでない。だがかつてはそうでなかった。日本人もはなはだ活発に異議を申し立て、運動した。民にエネルギーと異議申立ての意識が存在した。私自身も60年安保闘争を頂点に、様々な運動に関わってきた。もちろん街頭デモンストレーションやストライキ闘争に加わるどころか、生産点で闘争を組織しさえした。なにも特異なことではなくて、多くの人間が程度の差こそあれ、自らの抵抗の意思を表現した。それが普通のことだった。

     日本語版「インターナショナル」

 さてそんな抵抗闘争の際に皆が歌ったのが「インターナショナル」である。60年安保闘争の直前の時季である警職法改悪阻止闘争あたりから、この歌が盛んに歌われだし、60年安保闘争に入ってからは、特に若者が最も好んで歌ったのが、この歌である。この歌を合唱しながらデモ行進し、警察機動隊の壁に突っ込んでいったのである。それほどこの「インターナショナル」という歌は人を奮い立たせる力があるのである。
 極右に近いといってよい国粋主義者の音学家・黛敏郎が、生前、テレビで「題名のない音楽会」という番組で、「このインターナショナルという曲は実に音楽的にも優れていて、魅力的だ」といった趣旨のことを口にし、絶賛していたが、それほど人の心を掴み、動かす力を持っている歌である。
 ところが私は、そんな「インターナショナル」を歌いながら、必ずしも満足していなかった。歌詞が実に安易で、情緒的に扇動する、政治意図的なものにすり替えられているのではないか、と常に感じ続け、いつか本物の原詩を知りたいと思い続けていたのである。
 これまで、そして今なお日本国内で一般に歌われている歌詞をまず、紹介しておこう。当時まだ日本の学生運動が代々木共産党の支配下にあった、1958年の「515全日本学生行動日」のために編集され、「歌集」に掲載された、また1989年発行のともしび社「うたの世界」に収録されている「インターナショナル」の歌詞は、次のとおりである。

  「起て飢えたる者よ今ぞ日は近し
   覚めよ我が兄弟(はらから)暁は来ぬ
   暴虐の鎖断つ日旗は血に燃えて
   海を隔てつ我ら腕(かいな)結び行く
    いざ戦わんいざ奮(ふる)い起ていざ
    ああインターナショナル我らがもの
    いざ戦わんいざ奮い起ていざ
    ああインターナショナル我らがもの

   聞け我らが雄叫(おたけ)び天地轟きて
   屍(しかばね)越ゆる我が旗行く手を守る
   圧制の壁破りて固き我が腕(かいな)
   今ぞ高く掲げん我が勝利の旗
    (リフレイン)」

     情緒的な政治扇動歌に

 はなはだ革命的ロマンチシズムに塗り込められ、政治革命至上主義的なこの日本語歌詞は、少し考えればはなはだ無責任で、人を特定の政治組織の権力奪取のために駆り立てて、その革命的ロマンチシズムに酔わせて、歌う民を自らの生命を投げ出させるほどの力を持つように作詞されている。メロディの調子がよいだけになおのことそうなのである。
 政治革命の暁が来ているのだから、奮い立ってスクラムを組み、旗を守り、倒れ行く仲間の屍を踏み越えて、圧制の壁を破り、勝利の旗を打ちたてようじゃやいか、飢えに苦しみ、暴虐の鎖に縛られている仲間たちよ、戦おう、奮い起とう、権力さえ奪えば、解放され、自由となり、豊かになるのだ、その日は近いのだ、と扇動しているのである。
 だが革命とはそんなものではないことは、ロシア革命の失敗で、われわれがよく知っているところだ。政治権力の移行があっても、その後に来るのは官僚主義的で抑圧的な一党派独裁であり、人権の蹂躙であり、全体主義であり、格差社会であることを、20世紀を生きてきた人類はよく知っていて、そんなデマゴギーをもう誰も信じなくなってしまっているのだ。
 では本来の「インターナショナル」はどんな内容だったのか。私は半世紀来、知りたいと思っていたその歌詞を、たまたまインターネットで捜し物をしていたときに、フランスのインターネットに接続して、知ることができた。つい最近のことである。
 加齢のせいと不勉強のせいで語学力が非常に落ちている私ではあるが、原詩を読んでみて、日本語の歌詞とのあまりにもの違いにすっかり驚いた。原詩は実に具体的で理性的なのである。

     作詩者ポティエの人物像

 そこで原詩を紹介しようと思い立ったのだが、その前に、作詩者のユジェーヌ・ポティエの人物像をスケッチしておきたい。「プチ・ロベール 世界固有名詞事典」やジャン・ドフラーヌ『フランスの左翼』などを参考にしつつ。
 ポティエは、1816年に生まれ、1887年に没している。政治活動家であるとともに詩人でもあるパリっ子である。1848年の二月革命の蜂起に加わり、ナポレオン三世の第二帝政に反対する立場を鮮明にした。第一インターナショナルにも加わって、活動していた。パリの20の区から成る中央共和制委員会のメンバーにもなって、パリ・コミューンの積極的な活動家だった。
 プロシャ軍と一体化していたヴェルサイユ軍によってペール・ラシェーズ墓地で数千人が虐殺された1871年5月22日から28日にかけての「血の週間」の後、イギリスに亡命。次いで米国に亡命して、1880年のパリ・コミューン政治犯に対する大赦でフランスへ帰国できた。
 帰国後、ジュール・ゲードやポール・ラファルグの社会主義運動に協力し、フランス労働党結成に際して支援した。ゲードやラファルグ(注・マルクスの女婿)たちはマルクス主義
的な色彩が強かったが、だからといってポティエがマルクス主義派であったと言えないことは、彼の数々の詩作品からでも明らかである。
 ポティエは、ブランキー、ジュール・ヴァレスたち非マルクス主義派の活動家たちを詠い、アナーキズム系だと言われているルイーズ・ミシェルたちパリ・コミューンの多数の活動家たちに詩を献じていることでもこのことは明らかであろう。どのセクトにも加わらず、しかしパリ・コミューンの精神を受け継いで活動を続けた革命的サンジカリストだと見てよいのではなかろうか。
 詩人としても有名で、「革命詩人であり、パリ・コミューンやプロレタリアの闘いを詠った」とプチ・ロベールの事典に。代表作に1871年の『白色テロ』、同じ年の『インターナショナル』、1876年の『パリ・コミューン』、1881年の『ブランキー』、1883年の『連盟兵(パリ・コミューン軍兵士)たちの記念碑』、1884年の『反逆者』などがある。  
 このようなミリタン(活動家)にして詩人たるポティエがパリ・コミューン敗北直後に書いた詩にフランス社会党の注文でピエール・ドジェテールに作曲を依頼して出来上がったシャンソンが、現在世界中で歌われている「インターナショナル」である。
 1981年5月10日のフランス大統領選挙でフランソワ・ミッテラン社会党候補が勝利したとき、バスチーユ広場に大群衆が集まり勝利集会となったとき、大合唱となったのが「インターナショナル」だった。その集会でポーランド出身のシャンソン歌手アンナ・プリュクナルがポーランド語で歌い出したところ、フランス語の大合唱となったことがある。嫌いなソ連の国歌だったから、歌いだすのに抵抗があったもののつい歌い出したところフランス人たちは「まるで狂ったように歌い、人々が喜び、生き生きとしているのを見ました」と1984年12月のインタビューの際に私に語ってくれたことをいま思い出す。そんなシャンソンなのだ。
 このシャンソンは誕生してたちまちにして自由を求める民衆に愛唱されるところとなり、1917年のロシア革命成功直後に革命ロシアの国歌となったが、スターリンに嫌われて、第二次大戦最中の1943年にソヴィエト国歌から追放されてしまった名曲でもある。(つづく)

「横浜日記」(191) 2011年12月16日 梅本浩志

<現代の唐人お吉は=伊豆の旅で思う>

 師走の12日から伊豆半島への1泊家族旅行に行ってきた。両日とも快晴で、箱根の山道を走ると、山は紅葉とまではいかなくても、茶色っぽく、中には赤くあるいは黄色くなっているものがあって晩秋を深く感じさせてくれた。西伊豆にさしかかると水面が穏やかで、西日に照り映えるように水面がキラキラと輝き、眼に安らぎを与え、心を和ませてくれた。
 翌日、ほとんど雲がない青空と穏やかに鎮まる海を見つつ、伊豆半島の西岸に張り付くように走る道路を一路南下する。目的地は下田。車もほとんど走っておらず、快適なドライブである。やや走ると、全山真っ白に化粧した富士山が大きく見える。青空、海原、太陽、晩秋の山林、リアス式海岸状の地形、小さな漁村、そして彼方の富士山。
 伊豆半島最南端の石廊崎灯台に到着する。風力発電が13基、青空の中で風を切って回っている。白さが目に染みる。狭い道には、初めて目にする花が何種類か。その中に赤く咲く花があり、ハイビスカスのように思えるのだが、私の植物の知識は浅く、間違いかも。
 灯台そのものは鍵がかかっていて、入れなかった。おそらく無人灯台化していて、常勤の管理人がいないのかも。それにしても入れない灯台を看板に、駐車料金を500円もとるがめつさに腹がたつ。駐車場の前に灯台は中に入れないと書いた看板を出しておくべきだと思う。
 そんな灯台からさらに先に進むと、下り坂になり、小さな岩礁があって、そこに渡れるようになってはいるのだが、風が強く、足許がふらついて海に転落する可能性があるので、思いとどまる。若い息子たちだけで探検家よろしく渡る。彼方はまさに大海原、太平洋が一直線に青空を切り裂き、水平線がわずかに丸く、そんな太平洋を走る船が幾艘か。黒く小さく。

 そして下田だ。幕末から明治維新にかけて、日本を大転換させた時代の舞台となった下田。日本が鎖国を解く舞台となったのはまさに下田だ。1852年、ロシア艦が漂民を護送して下田港へ。翌53年に米国のペリーが黒船4隻を率いて浦賀と久里浜に来航して開国を迫り、交渉を強く要求、幕府は驚き、慌てふためき、できるだけ江戸から遠ざけたいとして、日米交渉の地を下田にする。54年に入ると正月早々にペリー艦隊が神奈川沖に現れ、3月に日米和親条約を結んで函館とともに下田を開港。
 8月から9月にかけて英国とオランダに対して同様に下田を開港し、10月にはロシアにも。この間、ペリーは琉球とも修好条約を締結している。米国が以降の世界戦略を明確に表明した「事件」だったといえ、その戦略は今日においても沖縄の民たちを苦しめている。
 ペリー率いる黒船の軍事圧力を背景に米国は、次々と鎖国日本の扉をこじ開け、1856年にはタウンゼント・ハリスが下田に来航し、同年7月、下田の玉泉寺に米国領事館を開設し、ハリスが初代の領事として活動を開始する。
 下田はいまや日本の玄関となったのであり、この間、吉田松陰が下田に身をひそめて米国への密航の機会を待ち、失敗に終わって1854年に逮捕・投獄された末に、1859年に処刑されたり、あるいは坂本龍馬が、勝海舟のとりなしで土佐藩主・山内容堂と会見して、脱藩の罪を許してもらったりしている。その場所が、下田の中心地にある宝福寺で、ここには後年、奇しくも唐人お吉が葬られることとなるのである。
 ということでまずは宝福寺を目指した。所在地が分からず、いささか迷ってようやく到着したものの、宝福寺の境内にはお吉の墓がなく、さてお墓はどこにあるのかとお寺さんに尋ねてみると、隣接している場所だという。

 「唐人お吉」と今日もなお呼ばれ続ける本名・斎藤きちの悲劇はまさにこの時代に、ほかならぬこの下田の中心地で、それも日米交渉最前線の場所で起きた。
 お吉の話はかねてから知ってはいたが、実際にお墓に詣でて、激しい衝撃を受けた。その痛ましさ、国家権力の残酷さ、幕府官僚の自己保身、権力や有力者から意図的に流布された情報を簡単に信じてしまい、惑わされるままとなり、事実と真実から耳目を遠ざけて薄情な態度へと一変して加害者へ変身する日本人特有の没主体的などうしようもない大衆の性(さが)。お吉は実にそうした人間世界の残酷な仕打ちを一身に受けて、自ら命を絶っていった女性だった。
 斎藤きちつまり「お吉」は、幕末から維新にかけての時代転換の大舞台である下田で、悲劇、悲運と言うにはあまりにも残酷な人生を体験した女性である。モーパッサンの『脂肪の塊』を幾十倍、幾百倍する、残酷で過酷な現実を肉体と精神に刻み込まされた人だった。
 1841年に現在の愛知県南知多町に生まれたが、4歳のときに下田に移り、14歳のときに芸者となり、「お吉」と名乗った。たちまちにして下田一の芸者となった。何しろ美しい女性だ。美貌である。今日残されている19歳当時の写真は現代的感覚からしても美しく、知的な顔だ。身長が171センチだったというから、現代で言う八頭身美人だったことは間違いなかろう。
 芸者として座敷に出たのが14歳の頃。1855年である。折しも米国をはじめとする欧米列強が日本に開国を迫って下田に押し寄せてきた、激動の真っ只中の時代状況の渦中にあった。まさにそんな激動の真っ只中の1856年に問題のタウンゼント・ハリスが初代アメリカ領事として下田に赴任してきた。
 当時お吉には既に幼馴染の大工の婚約者・鶴松(本名・川井又五郎)がいたが、卑怯卑劣な幕府権力たる下田奉行は、そんなお吉をハリスに人身御供として提供した。ハリスの妾とならせて日米交渉をできるだけ日本側に有利に運ぼうとする、なんともさもしい魂胆からである。
 幕府官僚のお吉に対する迫り方は有無を言わさぬ、そして悪知恵を最大限に発揮したあくどいものだった。お吉は当初、断固として拒否した。3日間、拒絶し続けた。だが幕府官僚は、婚約者を攻めて周囲からお吉の心を変えさせようとした。婚約者・鶴松に対して強く威迫する一方で、町人から武士にとりたてて高禄を与えてやると条件を出し、遂に3日間かけてお吉との婚約を破棄させた。その一方で幕府官僚は、婚約者が裏切ったとお吉に伝え、裏切られたと思ったお吉は、観念し、人身御供となることを受け入れたのである。1857年のことだ。

 とにかくカネで処理しようとするのは権力者、金持ち、官僚の常で、お吉に対して支度金25両、給金月額10両(注・1両を10万円とすると、支度金250万円、月給100万円となる)を支給したという。絶望的になってしまったお吉がそんな大金を浪費するのは自然な振る舞いといえ、当初、お吉に同情的だったと言われる下田の民衆は反感を抱き、そうでなくても「毛唐」などと呼んで排他的感情を強くしていた当時の下田の大衆は、お吉に対して激しいアレルギー反応を示して、お吉は完全に孤立した。
 こうしたお吉だが、わずか3ヶ月間でハリスから解雇されてしまう。幕府からの給金は打ち切られ、1862年に芸者に戻ったものの世間は冷たく、孤立したお吉は酒浸りになってしまった。国家権力や支配階級は、権力とカネと情報操作で社会を支配するのが常であるが、そうした際には弱い人間を利用するだけ利用し、利用価値がなくなった瞬間、無残に切り捨て、捨て去ってしまうものだ。お吉はまさにその典型だった。
 冷たい視線に下田におられなくなったお吉はやがて横浜に出る。現在の関内を中心に、馬車道通りから元町辺りを舞台に選んで芸者稼業で稼いでいたようである。この地域は、開国した日本の玄関とも呼べるところで、外国人が多数居留したり、中華街のように発展していったところで、「唐人」などと呼ばれて異国人と親しくなった人間でも冷たく見られる土地ではなく、お吉には比較的活動しやすかったのではなかろうか。
 そして明治になって元年の1868年、お吉はその横浜でかつての婚約者・鶴松と同棲生活をはじめ、髪結い業を始めるが、お吉の心の傷は深く、アルコール浸りになってしまったお吉と鶴松の仲は悪くなる一方で、1876年に二人は別れるところとなり、お吉は静岡県三島つまり伊豆半島の付け根にあたる東海道筋の街に移り、3度目の芸者となる。
 お吉はあれほど酷い仕打ちにあった下田を忘れることができなかったのであろう、1878年に下田に帰り、髪結い業の傍ら宴席に出たりしている。お吉に対する世間の目は依然として冷たく、髪結いだけでは十分な収入を得ることができなくて、収入不足を補うためにアルバイトとして宴席に出ていたであろうことは想像に難くない。
 そして1884年に小料理屋「安直楼」を始めたものの、客の入りが少ない上に、お吉のアルコール依存症がますますひどくなっていき、1884年に廃業に追い込まれ、お吉は乞食と成り果てる。物乞いを続けておよそ6年、お吉は下田の稲生沢川門栗ヶ淵に身を投げて、自殺した。入水の地はいま「お吉ヶ淵」と呼ばれている。50歳に満たない短い生涯だった。
 死んでからもお吉が差別されていたことは確かで、今度の旅行で訪れた宝福寺の住職は、「引き上げられた遺体が(外国人の妾となった嫌悪すべき)お吉だと分かって、触ることはおろか目にするだけでも目が腐るなどと皆が言い合って、3日間、放置されるままになっていて、埋葬するなどということは論外だったのですが、そこを通りかかった宝福寺の住職、つまり私の祖父があまりにも気の毒と思って、寺に引き取り、戒名をつけてあげて寺の一角に埋葬したのです」といった趣旨のことを話してくれた。1人の初老の観光客が般若心経の冒頭の経文を短く、しかし2回唱えた。

 人を利用するだけ利用し、甘言とカネで騙し、人生を台無しにし、心の奥底まで傷つけ狂わせる国家権力、官僚、経済社会の支配者ども、つまり「体制」の非情、非道、残忍、卑怯、卑劣を私はお吉に見た。そしてそんなお吉の悲劇が、現代日本の社会で拡大されて繰り返され、続いているのではないか、と思った。
 まず沖縄だ。かつての誇り高く文化水準が高かった琉球王国の今の虐げられ方は、お吉の生涯そのものではないか。次に東京電力福島第一原発炉心溶融事故による、多数の孤立化させられた被災者と、広範囲に及ぶ深刻な被害。ウソをつかれ続け、カネで心まで買われてしまい、権力の暴力と情報操作で原発を作られた挙句、故郷を奪われてしまった民たち。
 そして職に就こうにも職はなく、住まいは追い出され、年収300万円にもならない低賃金でこき使われた挙句にクビを切られ、生きる歓びも希望も奪われ、職を失ってしまった若者たち。官僚や大企業で威張りかえる人間だけが富を増大させる現代日本。お吉たちの群れだ。

「横浜日記」号外 11・12・11 梅本浩志
<バックナンバー>

 10号ごとにバックナンバーを掲載し読者の便宜に役立てられればとの思いから、恒例として掲載していますバックナンバー一覧のうち、今回は第101号以下の目録を以下に掲載しますので、お役立てください。

(101)  8月23日『原爆死2007年夏=山下明生「カモメの家」から』
(102)  9月8日 『緑が台風禍から老朽家屋を護ってくれた』
(103)  9月12日『たかが相撲の話だけれど=朝青龍騒動で思う』
(104)  9月16日『小泉・安倍「改革」時代を総括してみる』
(105) 10月20日『映画「サルバドールの朝」に感動』
(106) 10月23日『ヌヴェル・ヴァーグと68年革命=「サルバドールの朝」補考』
(107) 12月12日『中村克追想集「生涯一記者、堂々たる哉」刊行へ』
(108) 12月20日『裏切ることができるかどうか=ジャーナリストたることとは』
(109)2008年1月10日『赤鬚先生弾圧事件の真相=特高警察化した大阪府警』
(110)  1月20日『わが認識と判断の甘さを恥じる=前号記事の誤りと訂正』
(111)  1月28日『マスコミは共犯者である=冤罪化犯罪の別回路』
(112)  2月9日 『バレンボイムに拍手』
(113)    2月20日『国境、この愚かなる人間の産物よ=バレンボイム補考(1)』
(114)  2月27日『わが心のウィーン=バレンボイム補考(2)』
(115)  3月5日『鯨は食べなくてもよい、しかし』
(116)  3月20日『日教組に会場貸さぬ非文明』
(117)  4月5日『沖縄集団自決の重み=大江裁判勝訴の輝きと文部官僚の醜い傲慢』
(118)  4月15日『ゲバラと中島みゆき=抑圧された者の闘いへの鮮烈な意志』
(119)  5月3日『「横浜事件」最高裁判決批判=正義感覚なき金太郎飴の裁判官たち』
(120)  5月19日『「横浜事件」虐殺・浅石晴世の場合』
(121)  5月30日『天職を生きてきた弁護士=「浅石晴世虐殺事件」追補』
(122)  6月1日『幻の「全学連通信」[6・15闘争緊急特別号]を復刊する』
(123)    6月14日『樺美智子さん追想の2人の言葉=「6・15」48回忌』
(124)  6月25日『若松孝二「実録・連合赤軍」に見た鎮魂の墓銘碑』
(125)  7月16日『欧米における「実録・連合赤軍」の反応』
(126)  7月27日『強きを助け、弱きを挫いた最高裁=長銀勝訴vs古紙業者敗訴』
(127)  7月31日『72歳のメッセージ』
(128)  8月3日『この暑い夏の、しかし心寒い物価急騰の日々』
(129)  8月6日『民たちが体験した戦争の真実』
(130)  8月15日『日本軍兵士たちが好んだ行軍歌「波蘭懐古」』
(131)  9月1日『破綻が証明された内弁慶の日本スポーツ界』
(132)  9月3日『雄力の衰退=北京オリンピック補考』
(133)  9月11日『党官僚福田辞任で見られた魔界の裂け目』
(134)  9月15日『感傷の醍醐寺』
(135)  9月24日『米国のナチス化を暴いた映画「敵こそ、我が友」』
(136)  9月29日『軽視しては危険な麻生新政権』
(137) 10月6日『中山暴言は自民党の極右カルト化病理の総和現象』
(138) 10月24日『コンドラチェフの大波がやってきた=当世の大不況』
(139) 11月3日『なぜゲバラは、ボリビアを主戦場に選んだのか』
(140) 11月27日『異議申立も抵抗もなく=30年代より深刻な、今日の社会的危機』
(141) 12月9日『言語感覚の鈍磨化現象=魔女狩り言葉「社会の敵」』
(142) 12月31日『暗愚の帝王ブッシュ』
(143)2009年1月19日『ガザ・ゲットーの大虐殺=私のパレスチナ白書』
(144)  2月13日『君は優しすぎるんだ=「派遣労働者」の悲劇(1)』
(145)  2月18日『腐った既成大労組と新鮮なヴォランティアたち=「派遣労働者」の悲劇(2)』
(146)  2月20日『廃品化された若者たちに贈る詩=「派遣労働者」の悲劇(3)』
(147)  3月10日『ローザ絶筆、世界恐慌の予見』
(148)  4月13日『桜散る日に改めて考えてみる比叡山桜花特攻基地』
(149)  4月19日『たかが空の旅ではあったけれど』
(150)  5月2日『豚インフルエンザの病原菌は現代資本主義である』
(151)  5月4日『400年前の人間愛と恩返し=今こそ生きる「夕鶴」』
(152)  6月23日『ブランキ・ノート』
(153)  7月5日『地獄島モン・サン・ミッシェル=ブランキ・ノート追補』
(154)  7月31日『73歳のメッセージ』
(155)  8月15日『戦中派ジャーナリストの鮮烈な「土足」』
(156)  9月13日『総選挙「民主党」圧勝の先を展望してみる』
(157)  9月27日『八ツ場ダム騒動で思う東海林太郎の直立不動』
(158)  10月6日『2本のボールペン=ヴァウェンサと金大中』
(159)  10月31日『枯れすすき考=「昭和枯れすすき」と「暗い日曜日」』
(160)  11月7日『続・枯れすすき考=「船頭小唄」の不思議』
(161)  11月25日『爆音記憶史の果ての、いま一度の琉球処分』
(162)  12月24日『民を虐げ、日本をダメにした最高裁判事・今井功』
(163)2010年1月16日『勤評、警職法闘争と一体的だった社会革命=60年安保闘争考(1)』
(164)  2月4日『謀略としての小沢一郎「疑獄化」事件』
(165)  3月29日『心占領されざれば=映画『誰がため』を観る』 
(166)  4月12日『モーパッサンとランボーからの再出発=大島渚「愛と希望の街」』
(167)  4月21日『虚しく栄えた時代=大島渚「愛と希望の街」補考』
(168)  4月26日『「多数必ずしも正しからず」=追想・上杉政男先生』
(169)  5月3日『やばいぞ、油断めさるな、憲法「改正」の動き』
(170)  5月12日『新鮮さを刃として=大島渚「青春残酷物語」』
(171)  5月18日『日米安保条約、そのルーツとしての「日韓議定書」』
(172)  5月24日『どっこい民は生きてるぜ=大島渚「太陽の墓場」』
(173)  6月3日『大島渚にとっての旧約聖書「日本の夜と霧」』
(174)  7月10日 『鳩山・小沢政権の崩壊と菅「日米同盟」政権の登場』
(175)  7月31日『74歳のメッセージ』
(176)  8月10日『文明史転換の時代=静かに進む世界恐慌の第2段階』
(177)  9月25『内田剛弘著「司法の独立と正義を求めて半世紀」を読む』
(178) 11月18日『「裁かれたのは最高裁だ!」=山口俊明君逝く』
(179) 12月31日『北小路敏と、日本に桜んぼの実った時代』
(180)2011年2月17日 『忍び寄る密告社会』
(181)  3月9日 『追捕・北小路敏と、日本に桜んぼが実った時代』
(182)  4月11日 『日本が、時代が、潰れた=東日本巨大津波・大震災・原発崩壊事故
       考』
(183)  4月24日 『今こそバカンスを=東日本巨大津波・大震災・原発事故考(続)』
(184)  5月16日 『ヴォランティアたちの地下水脈』
(185)  5月27日 『おお贋作よ!=「惜別の歌」と「北帰行」』
(186)  6月15日 『樺美智子「死」の真相=丸屋博医師が決定的証言』
(187)  7月31日『75歳のメッセージ』
(188)  9月2日『ジキル原発とハイド原爆』
(189) 10月19日『たかがポルノ裁判判決、されど司法の独善専制』
(190) 12月1日『湖東三山に見た信長の地政学感覚の凄さ』

「横浜日記」(190)下 2011・12・1 梅本浩志

<湖東三山に見た信長の地政学感覚の凄さ>

 そんな大屋根の反り返りの向こうに、真っ赤に燃えた一枝のもみじが目に映った。すでに夕方も暮れ馴染んでいて、夕闇が迫っているのだが、そんな夕景に浮かび上がるかのようなもみじの真っ赤な様は、燃え上がる絵の一瞬一刻だった。
 湖東三山の紅葉は関西で随一だと言われていることを知り、なるほどと思う風景だった。それまで紅葉といえば、関西ではなんといっても京都だと思っていた私には、意外でもあり、衝撃でもあった。

     旧体制の支配者・天台宗

 お寺のご好意で、とにかく広い寺領を車で登って、日没間際にやっと本堂にたどり着くことができた。百済寺といい金剛輪寺といい、とにかく寺領がべらぼうに広いのである。私のような年寄りには、歩いて山上の本堂にたどり着くのは並大抵のことではない。そしてこの壮大な寺の建造物と寺領に、僧兵たちが陣構えを敷いた。その僧兵軍団を信長の軍は徹底的に攻撃し、殲滅した。
 三山目の西明寺にはもう行けなかった。闇夜がどっぷりと寺と寺領を包み込んでいたからである。そんな西明寺もまた百済寺と金剛輪寺と同じように広大な寺領を持ち、武装していた、と案内書には書いてある。こうして湖東平野は、天台宗ががっちりと支配していたのである。
 一方の天台宗総本山たる湖西の比叡山延暦寺は、湖東三山とは比較にならない経済力と軍事力を持ち、大津から京都まで完全に支配していた。
 朝廷や平家をも襲うその強さは、時の白河法皇をして、賀茂川の水と双六の賽の目とともに天下の天皇権力をしてもどうしようもないほどの存在だと嘆かしめるほどの力量を持っていたと言われ、こうして天台宗は琵琶湖全域から京都にかけて絶対的に支配していたのである。
 この天台宗から鎌倉仏教が生まれ、親鸞の教えに忠実な一向宗(浄土真宗)が大阪や北陸一体を支配していたため、天台宗をたたきつぶさないかぎり、天下を制することも新しい時代へと革命を成就することも全く不可能だったのである。
 信長がなぜ比叡山延暦寺をはじめ湖東三山を軍事力で徹底的に破壊しつくしたのか、そしてなぜ辺鄙だったはずの、琵琶湖湖東沿岸の安土に城を築き、ゆるぎなき根拠地にしたのか、比叡山と湖東三山の山上から見下ろせば、よく理解できるのである。比叡山の頂上つまり延暦寺の本堂近くから、琵琶湖を遠望して遙かに湖東三山を目にし、肥沃な湖東平野を眼下にし、あるいは場所を変えて京洛の町を眺めれば、天下を俯瞰することができたのである。逆に湖東三山の方から見れば、遥か彼方の比叡、比良の連山を目にしつつ、天下を俯瞰できたのである。

     資本主義揺籃の地

 古代から琵琶湖は首都の奈良、京都に繋がる交通の最良のルートであり、軍事戦略の要衝の地だった。瀬田川は京都の桂川と大阪の淀川に繋がっていて、交通運輸に便利だったに違いない。湖東平野を南下すれば、わずかに京都最南端を下ってすぐに奈良に至り、8世紀の聖武天皇の時代には、この奈良との境とも言える地に首都・紫香楽宮(しがらきのみや)を造営しようとさえしたほどの土地である。今日、東大寺に祀られている奈良の大仏も当初はそんな紫香楽宮に建造しようとしたと伝えられている。
 地上で豪族や武装農民たちが通行、運輸を妨害しようとも、湖上での船の行き来は比較的安全だったから琵琶湖は安全で安心な交通運輸ルートだったのである。琵琶湖周辺のとりわけ湖東に広がる平野は農耕に適していて、今日でも江州米として品質に優れ、天皇家御用達しになった時代もある。
 しかも湖東地方は近江商人を輩出したことでも分かるように、商業が先進的に発達した地域であり、伊藤忠、丸紅、日本生命、西武等々、近代日本の経済を発達させる原動力だった資本形成の地域でもあった。近江商人たちはカネを資本に変える知恵を持ち、工夫、努力して資本蓄積に努め、京都に近い地の利を活かして、京呉服を江戸で売りさばくなどして利益をあげ、上げた利益をさらに資本に転化して、商圏を拡大していったのである。
 越後屋つまり現在の三越を母体とする三井財閥も近江と深い関係がある。三井創業の祖・三井高利は佐々木源氏(近江源氏)の流れをくんでいると伝えられている。高利はまた名門京極家との関係も深いという。小谷城で生まれ、浅井長政の次女・初と結婚し、関ヶ原の戦いでは徳川に味方して大津城で西軍に抵抗して1万の軍を食い止める戦功をあげた京極高次とも高利は血縁関係にあったとも言われている。
 そんな安土城下はまた、楽市楽座発祥の地でもある。つまり日本資本主義揺籃の地なのである。信長はそんな湖東地域で楽市楽座の発展を助け、資本主義の萌芽を育てた。そんな新しい経済体制の形成に立ちはだかったのが、旧来の中世特権経済システムであり、天台宗はその頂点に位置していたと言ってよいだろう。
 そんな湖東地方を睥睨(へいげい)するかのように建立された湖東三山。いずれも天台宗に所属し、訪れてみると実感するように、とにかくべらぼうに広い寺領を持ち、かつては広大な荘園を持ち、農民を支配し、経済的利益を我がものとしていたであろうことは容易に想像できる。
 三山はいずれも武装して、強大な武力としての僧兵軍団を持っていて、信長軍に攻められたときにも激しく抵抗し、戦い、手こずらせた。宗教による権威と政治・軍事力で圧倒する権力が、ここ湖東三山において一体化していたのである。
 その天台宗の総本山が湖西つまり琵琶湖西部に位置する大津・坂本の延暦寺である。延暦寺もまた比叡山そのものを所有し、支配地を確保し、弁慶たち強力な僧兵軍団を擁していた。僧兵たちは、今日は園城寺(三井寺)の僧兵と戦い、明日は京都の御所にデモをかけた。鴨川の五条大橋で僧兵の弁慶が牛若丸(後の源義經)と出会ったという伝説も、そうした歴史の1こまをエピソード風に仕立て上げた作り話として生まれ出たにちがいあるまい。

     歴史を現場に見ることの大切さ

 比叡山からは湖西地域、琵琶湖、大津も一望できる。湖西地域の肥沃な平野を一望できる。眼下に見下ろせる。対極の湖東三山からはそんな比叡山と比良の連峰とが見える。湖東の沃野が手に取るように俯瞰できる。ちょうどアドリア海が古代ローマ帝国の内海であったように、天台宗にとって琵琶湖は寺域境内の池だったのである。
 聖徳太子の時代から、平安時代や室町時代を経て、信長の時代に至るまで、こうして天台宗が琵琶湖を制圧し、支配し、利益を上げていたのである。天台宗から派生した一向宗(浄土真宗)が湖北から北陸路そして関東は茨城にまで親鸞自らの手で布教して民たちの心をつかみ、こうして天台宗を祖とする浄土真宗が広がり根付いて、強い影響力を保持した。大阪の本願寺はそうした一向宗の総本山であり、本営であり、信長にとっての最大の強敵だった。
 そんな湖東三山と比叡山延暦寺を直線で結んでみると、ちょうどそのほぼ中点、つまり真ん中に安土城が位置するのである。古代・中世体制を突き崩すには、なにがなんでも天台宗の権力・権威支配体制を突き崩し、抹殺しなければならなかったのだ。
 信長はそのことを天才の直感で知って実践した。鬼となって戦った。延暦寺を攻めるとき、比叡山から逃げ出そうとするものは、女、子供に至るまで、全員虐殺したともいう。信長が命じて虐殺させたことは確実である。
 同様に、湖東三山も信長は徹底的に攻め滅ぼした。金剛輪寺本堂の裏に見た、暮れなずむ早紅葉のもみじの真っ赤に燃える情景に、その昔信長軍に攻められて炎上し、殺戮されて血を流す僧兵たちの骸の群れや、阿鼻叫喚の悲鳴をあげて逃げ惑う寺の僧侶や信徒の村の民たちの姿を見た。
 こうしたことがよく分かったのは、やはり湖東三山に行ってみたからこそである。現実に展開中の事件や動きもさることながら、歴史もまた、現場に足を運び、自分の耳目で確かめなければ、真に理解できないものなのである。
 湖東三山のうち西明寺に行くことは諦めざるをえなかったが、それはまた次の墓参りの機会にでも実現しようと思った。あるいは残された人生の時間も少なくなっている私にとっては、もう実現することは不可能かもしれないが、できるだけ歴史を現場において見るようにしよう。あまりパッとしない今年の横浜の紅葉だが、茶色っぽいながらも赤く黄色くなりゆく樹々の葉を窓の外に見ながら、そう思った。  (了)

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