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「横浜日記」(号外) 2018年12月31日 梅本浩志
<バックナンバー161〜260号>
読んでいただく皆様方に少しでも便宜を図るべく、10号おきに、それまでの100号分のバックナッバーを掲載することにしてきましたが、今回も第161号から261号までの100号分のタイトルを以下に掲載しておきますので、お目通しいただければ幸いです。
このブログは、2005年7月31日に、正式名称『時代状況 横浜日記』(略称『横浜日記』)と題して創刊してから、今日まで10年以上も、なんとか書き続けることができました。読者諸兄姉の温かい励ましをうけて、アクセス件数も当初目標の5万件を突破することもできました。
この間、取り返しのつかない福島第一原発事故や戦前回帰を目指し日本を戦争のできる国へと戻すことに成功して憲法改悪を目論む安倍自民党政権が成立するなど、時代状況は一変し、国際情勢もいまや1914年の第一次世界大戦前の時代さながらの激変に直面しております。
そうした時代状況を記録し、その折々の分析を加えて、批評し、同時に私自身が体験してきた過去を書き留めて、本来なら忘れ去られる小さな出来事や記憶も、書いておこうとしてまいりました。
とはいえこの略称『横浜日記』を書くに際して、わが発言が蟷螂の斧であることを重々承知しながらも、しかし人間世界の不条理性を十分認識して、せめて1人の抵抗的人間がこの地球上に存在していたことを証できるものであればよい、と割り切っての私なりのアンガジュマンの記録として残すことができれば、と思って書いてきました。
「時代状況 横浜日記」と名付けた所以です。以下はそんな『時代状況 横浜日記』の第161号以下のバックナンバーです。
(161) 11月25日『爆音記憶史の果ての、いま一度の琉球処分』
(162) 12月24日『民を虐げ、日本をダメにした最高裁判事・今井功』
(163)2010年1月16日『勤評、警職法闘争と一体的だった社会革命=60年安保闘争考 (1)』
(164) 2月4日『謀略としての小沢一郎「疑獄化」事件』
(165) 3月29日『心占領されざれば=映画『誰がため』を観る』
(166) 4月12日『モーパッサンとランボーからの再出発=大島渚「愛と希望の街」』
(167) 4月21日『虚しく栄えた時代=大島渚「愛と希望の街」補考』
(168) 4月26日『「多数必ずしも正しからず」=追想・上杉政男先生』
(169) 5月3日『やばいぞ、油断めさるな、憲法「改正」の動き』
(170) 5月12日『新鮮さを刃として=大島渚「青春残酷物語」』
(171) 5月18日『日米安保条約、そのルーツとしての「日韓議定書」』
(172) 5月24日『どっこい民は生きてるぜ=大島渚「太陽の墓場」』
(173) 6月3日『大島渚にとっての旧約聖書「日本の夜と霧」』
(174) 7月10日 『鳩山・小沢政権の崩壊と菅「日米同盟」政権の登場』
(175) 7月31日『74歳のメッセージ』
(176) 8月10日『文明史転換の時代=静かに進む世界恐慌の第2段階』
(177) 9月25『内田剛弘著「司法の独立と正義を求めて半世紀」を読む』
(178) 11月18日『「裁かれたのは最高裁だ!」=山口俊明君逝く』
(179) 12月31日『北小路敏と、日本に桜んぼの実った時代』
(180)2011年2月17日 『忍び寄る密告社会』
(181) 3月9日 『追捕・北小路敏と、日本に桜んぼが実った時代』
(182) 4月11日『日本が、時代が、潰れた=東日本巨大津波・大震災・原発崩壊事故考』
(183) 4月24日『今こそバカンスを=東日本巨大津波・大震災・原発事故考(続)』
(184) 5月16日『ヴォランティアたちの地下水脈』
(185) 5月27日『おお贋作よ!=「惜別の歌」と「北帰行」』
(186) 6月15日『樺美智子「死」の真相=丸屋博医師が決定的証言』
(187) 7月31日『75歳のメッセージ』
(188) 9月2日『ジキル原発とハイド原爆』
(189) 10月19日『たかがポルノ裁判判決、されど司法の独善専制』
(190) 12月1日『湖東三山に見た信長の地政学感覚の凄さ』
(191) 12月16日『現代のお吉は=伊豆の旅で思う』
(192) 12月27日『「インターナショナル」の原詩』
(193)2012年1月31日『今なお新鮮な映画「いちご白書」』
(194) 2月21日『琵琶湖が危ない、日本が危ない=大飯原発再開阻止を』
(195) 3月27日『京阪神も直撃される=続・琵琶湖が危ない』
(196) 4月22日『原発地獄、深刻な使用済み核燃料の半永久保管』
(197) 5月19日『だまされる奴が悪い!=原発再稼働の悪企みを前にして』
(198) 6月8日『今こそバカンスを!=原発再稼働阻止と社会的連帯のためにも』
(199) 6月18日『「6・15」断想=樺美智子さん死して52年』
(200) 6月26日『危機一髪だった東海第二、女川両原発』
(201) 7月22日『教育が殺された=上杉理念を忘れた大津の悲劇』
(202) 8月15日『76歳のメッセージ』
(203) 9月5日『就農に第三の道はないものか=信州に農を求めて』
(204) 9月22日『「嫌々でなしに」慰安婦になったのか=都知事・石原慎太郎批判(上)』
(205) 10月7日『?眷小平の曲り尾を踏んだ老小児=都知事・石原慎太郎批判(下)』
(206) 11月29日『安倍自民党の本当の狙いは憲法改悪にある』
(207) 12月20日『民主党最期の日=総選挙雑感』
(208) 12月29日『イヤーゴの悪だくみで民主党が壊滅=続・総選挙雑感』
(209)2013年1月10日『藤村、若き日の大津への旅=義仲寺と石山寺』
(210) 1月26日『地獄から甦ったジャーナリスト=虐殺された札幌』
(211) 2月15日『それは詩だった=感動!故・小松みどりのスピーチ』
(212) 4月1日『言論の自由が危ない=自民党改憲草案に潜む毒牙』
(213) 5月2日『追想・大島渚=闘い続けた心優しい革命家』
(214) 6月2日『樺美智子学友・福田瑞江の法廷証言=「6・15」国会デモ』
(215)6月10日『あわや樺さんと同じ目に=「6・15」榎本暢子の証言』
(216)6月28日『山本覚馬のこと=維新後京都と幕末会津藩』
(217)7月31日『77歳のメッセージ』
(218)8月17日『国労非道弾圧の結果だ!=北海道JR連続事故の真の原因』
(219)10月10日『若松孝二12作品メモ=「実録・連合赤軍」への道程』
(220)10月27日『忘れまじ日本大空襲の惨劇』
(221)11月18日『戦没学徒の碑を守ることの大切さ』
(222)11月30日『緊急アピール=憲法が実質的に改悪される』
(223)12月27日『安倍チルドレンの用意ドン』
(224)12月30日『奢れる人も久しからず=安倍自民党政権の大失策』
(225)2014年1月12日『樺美智子あるいは60年安保闘争の死と歌』
(226)1月24日『暗かった時代の抵抗者2人=「南信州」新聞寄稿文』
(227)1月27日『島崎こま子苦闘の地の写真』
(228)2月14日『民たちの抵抗を記憶しておくことの大切さ』
(229)4月8日『20年前から日本は貧富格差の先進国に』
(230)5月3日『解釈改憲の根拠「59年最高裁判決」は憲法違反である』
(231)5月18日『偽善的愛国政治家どもの卑怯な本性=若者よ、騙されるな!』
(232)6月30日『60年安保闘争を総括してみた=その世界史的意義』
(233)10月1日『木曽御嶽山噴火で鹿児島川内原発再稼働を憂う』
(234)11月4日『映画「NO」が突きつけた権力支配の虚構と現実世界』
(235)11月30日『日本テレビよ、大切なことを忘れていやしませんか』
(236)12月10日『言論危機の時代状況のまっ直中で=ビデ倫最高裁判決批判(1)』
(237)2014年12月15日『日本の近未来と日本人の運命が決まった=総選挙雑感』
(238)2015年1月8日『年末から年始にかけての歴史脈動劇』
(239)1月30日『じっくりとカミュ論を完成へ=「南信州」新聞寄稿文』
(240)2月14日『抵抗する沖縄と連帯を!』
(241)2月18日『安倍大失策で日本人が危険に=「イスラム国」問題中間総括』
(242)5月8日『「右」一色化の果てに=ナチ流改憲に成功した安倍政権』
(243)6月7日『「横浜事件と再審裁判」を読む』
(244)6月15日『樺美智子さん、虐殺されて55周年=わが体験的回想57〜60』
(245)7月17日『遥かギリシャを想う』
(246)8月10日『ナチ流オカルト集団と化した安倍自民党政権』
(247)9月12日『この際「アドルフ・アベ」と呼んで下さいね』
(248)9月19日『戦争法成立スケッチ=老人逮捕とデモの権利』
(249)9月20日『続・戦争法成立スケッチ=採決に際しては録画判定を導入すべし』
(250)9月22日『続2・戦争法成立スケッチ=虚空に消え去ることなき女性の叫び』
(251)10月31日『悪夢言葉「一億」甦らせの悪だくみ』
(252)16年6月29日『樺美智子さん死して56年=今年の「6・15」国会南門』
(253)7月17日『改憲の外堀は埋められた』
(254)7月25日『文春よ、ここまで落ちぶれたのか!=「週刊文春」鳥越誹謗記事批判』
(255)8月20日『森喜朗のナンセンス=スポーツあれこれ三部作・その1』
(256)8月26日『リオ・オリンピックで思ったこと=スポーツあれこれ三部作・その2』
(257)9月6日『野球離れの記=スポーツあれこれ三部作・その3』
(258)9月18日『わがバスケ、わが思想形成=スポーツあれこれ三部作・追捕」
(259)9月29日『ある物理学者の遺言『慚愧の思い』
(260)12月9日『「灰とダイヤモンド」の衝撃=57年ぶりの映画評』 (了)
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横浜日記 2016
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「横浜日記」(260) 2012年12月9日 梅本浩志
<『灰とダイヤモンド』の衝撃=57年ぶりの映画評>(その7)
『地下水道』が1957年にカンヌ国際映画祭で審査員特別賞を、『灰とダイヤモンド』が1959年にヴェネツィア国際映画祭で国際映画批評家連盟賞を、相次いで受賞して、ポーランドにワイダあり、と一気に名声を高め、押しも押されもせぬ大家となり、大御所の名をほしいままにしてからというものは、ワイダの作品は、私にとっては不満足どころかつまらぬ普通の映画となってしまい、気鋭の映画作家だったワイダは平凡な映画監督になってしまった、というのが率直な感想である。
『世代』、『大理石の男』、『鉄の男』、『ダントン』、『鷲の指輪』、『カティンの森』等々、日本で上映されたワイダ作品のほとんどを観ては来たが、いずれも私を満足させることはなかった。日本のマスコミは、ワイダをもてはやし、どの映画評も記事もワイダを讃えてばかりいて、「世界のワイダ」として大家扱いしたが、いずれも私を決して満足させなかった。
むしろワイダを神格化し、褒め上げるジャーナリズムや映画作家たちの権威主義的態度に大いなる不満を覚えた。ワイダは『灰とダイヤモンド』以降は、鋭さを失い、変に政治主義的となって、映像表現の能力と感覚は退化する一方だったと私には思える。
『地下水道』と『灰とダイヤモンド』の成功と海外での相次ぐ高い評価で、ワイダは30歳をわずかに越えたばかりで、一躍ポーランドを代表する映画作家になってしまった。ワイダはこの両作品でポーランド国内のみなわず国際的にもいまや時めく大御所的な存在になったのがかえってまずかったのだ。
当然、箔(はく)がつき、その権威に時の政治権力も容易に抑えつけることは不可能となった。まさに全世界で燦然と輝く映画作家になってしまって、既に世界中から評価を高くしていたポーランド映画を代表する映画作家としてちやほやされるようになり、大御所となったワイダに時の政治権力ももう露(あらわ)に弾圧し、抑圧しなくなってしまった。
うっかりワイダを公然と弾圧すれば、国際的に糾弾され、ポーランドの政治権力を痛めつけられるであろうことは、明らかだった。ポーランドの民衆もワイダを支持していた。
なによりもワイダ作品が輸出され、外貨を稼いだから、ワイダには手を出せなかった。一方のワイダも、父がソ連権力によってカティンの森で虐殺されたためもあって、映画化したくてうずうずしていた「カティンの森」事件についても、時未だ来たらずと我慢して、最後の一線を越えないなど、自制すべきは自制していたから、大御所としての存在を守ることができていた。
カティンの森虐殺事件は、ソ連共産党政権にとっては、人道に対する犯罪として国際的に糾弾されることを極度におそれていて、絶対に映画化を阻止したい思惑が見え見えであって、さらにナチス・ドイツとの間に締結した独ソ不可侵条約付属の秘密議定書の犯罪性を裏付ける証拠でもあって、歴史的スキャンダルとして国際的に糾弾されることは明らかだったから、ソ連政府にとっては一切触れられたくないアキレス腱の事件そのものであった。
そのためいかにワイダとはいえ、カティンの森事件を主題とする映画作品の制作と発表は絶対に許せないものであったし、もし映画化が実現することになれば、モスクワからの強い圧力を受けて、ポーランド政府が窮地に立たされることがあまりにも明らかだったから、同政府も、いかにワイダとはいえ、決して許すことがないであろうことは目に見えていたのである。ワイダがそうした微妙なバランスを見つめ続けていたことは間違いない。
こうして政権とワイダとの間に不思議なバランスが保たれ、そのバランスの上に立ってワイダは、ほぼ自由に動き回ることができて、時の来るのを待ち、優秀なワイダ・プロの若いスタッフたちを動かして、非常に優れた記録映画を制作し続けていたのである。
ワイダが育てた若き映画作家たち
1970年のグダンスクやシチェチン等のバルト海沿岸労働者・市民たちの蜂起的ゼネストや1980年のポーランド全土を席巻した自主管理労組「連帯」のゼネスト闘争には、ワイダ・プロの若いスタッフたちが、撮影に飛び回った。
1970年のシチェチン・コミューン闘争とグダンスクのレーニン造船所労働者たちのいわゆるバルト海沿岸労働者たちの蜂起的ゼネスト闘争の際の、時の権力によって虐殺された労働者の遺骸を車の上に載せて、市中を練り歩く葬式デモの光景や、グダンスクの自由自治労組活動家たちに対する不当労働行為攻撃の際に見られたポーランド公安秘密警察ウベックの数々の嫌がらせ妨害行為や、バルト海沿岸自由自治独立労組の活動家たちに対する日常的嫌がらせ行為などの状況を克明に撮影記録するなど、その時に備えた。やがて葬儀デモのシーンなどはワイダ作品に織り込まれて生かされることになる。
1980年の「連帯」ゼネストの際にもワイダ・プロ「記録映画スタディオ」の若きスタッフたちは克明に記録映像を撮影し、「連帯」が勝利的に闘争を推し進めていた1980年のグダンスクの「ポーランド映画祭」においては、レーニン造船所の労働者たちを招いて、上映時間3時間半もの未公開のラッシュ・フィルム(未編集の裸フィルム)『ロボトニク’80』(ロボトニクとは「労働者」を意味するポーランド語)を特別試写し、外国人には見させてはならないと当局側に約束させられていたにもかかわらず、まるで案山子(かかし)のようにやせこけて粗末な服装をしていた活動家とおぼしき人物の特別な配慮によって、私は全く幸いにもそのフィルムを見ることができた。
この記録映画がいかに感動的なものだったか。上映が終わってワイダ・プロの若き映画スタッフ3人が、舞台挨拶をするために舞台に立って、挨拶し終わったとき、観客は総立ちになって、全員スクラムを組み、「連帯」の闘争歌である国歌「ポーランドいまだ滅びず」を合唱したものである。私も立ち上がり、レーニン造船所の青年労働者たちとスクラムを組んで、メロディだけではあったが、歌った。この時のいきさつや情景描写と写真は拙著『グダンスクの18日』に載せておいた。
わがガイド兼通訳兼運転手君は、上映が終わるや急いで車に戻り、ハンドルに顔を伏せて泣いていた。感動のあまりである。彼はワルシャワ大学の学部長を父に持ちながらも、学生運動で睨まれて、退学処分を受けたために、ベンツを購入して個人タクシーをして生計をたてているのだと、後日聞いた。
この特別記録映画は、スクリーンの前に取材用の録音機を置いて、音声をほぼすべて記録しておき、帰国してから亡命ポーランド青年に手伝ってもらって日本語に訳し、拙著『グダンスクの18日』(合同出版)や月刊誌「PLAYBOY」(集英社)に寄稿した『ソルダリノスチvsウベック』(「ソルダルノスチ」は「連帯」のポーランド語で、「ウベック」はポーランド公安秘密警察の名称)あるいは「エコノミスト」(毎日新聞)に特別寄稿を頼まれて書いた『ポーランドの「連帯」』に織り込んだのである。
ダイヤモンドもただの灰になってしまった
こうして世界的映画作家としての地歩を確立し、全世界的な権威を築くことに成功したワイダと彼のプロダクションは、こうして獲得し確立した有利な地位と環境を利用し、レアリズム作品を次々と制作していくことができたのである。ワイダたちの立ち、位置する側と歩む地歩は常に労働者、市民、抵抗者にあったことは間違いない。
しかし、それにしてもワイダはあまりにも大家になりすぎ、大物になってしまって、時間だけが過ぎ去っていって、彼の感覚と意識は徐々に鈍摩していかざるをえなかったのは、皮肉といえば皮肉である。彼は、『灰とダイヤモンド』以降、こうして、遂に抵抗三部作(『世代』、『地下水道』、『灰とダイヤモンド』)を越える、研ぎすまされた新しい高水準の作品を作り出すことはできなかった。
それも時代状況のなせる技だったかもしれないが、とにかくワイダがポーランド映画界のみならず世界映画界の大御所となったことだけは間違いない。だからワイダが、死んだときにマスコミが讃えあげたほどの存在ではなく、ただただ『地下水道』と『灰とダイヤモンド』の大変な功績によって、ポーランド・ネオリアリズムを確立し、全世界にワイダありと言わさせしめた大作家なのであり、今から57年前に私の職業人生と不条理な闘いの生き様を決定させるほどの影響を与えた芸術家だったと言えよう。
ワイダが最も光り輝いていたのは、いや今なお燦然たる光を輝かせているのは、まだ若い頃に、ワルシャワ蜂起の成果を簒奪したモスクワの傀儡独裁政権との熾烈な検閲闘争の際に、工夫し、培った、触れれば血が迸(ほとばし)り出る修羅場での知略に満ちた戦略と戦術を駆使しての映画制作の対権力闘争のテクニックであった、と断言できる。
映画の特殊性たる、シナリオとはまた異なる表現力を持つ演出とカメラワークを十二分に駆使して、検閲当局を出し抜き、裏をかいて、海外で高い評価を確立して、権威的な存在となり、そこを突破口として、武器として、数々の作品を生み出し、発言し、行動して、体制権力を出し抜き、打ち克っていった、そのやり方にある。
このワイダの作戦を取り入れた例として大島渚の『愛のコリーダ』を挙げることができると思うが、残念ながらまだ大島が生きているときに、このことを確認しなかったのは不覚だった。大島は『愛のコリーダ』をフランスで編集して完成させ、輸入商品として日本に逆輸入して、日本警察の性表現に対する弾圧から作品を防御したことはよく知られている。
映画の特性をよく知っていたからこそのワイダのやり方の勝利であり、弾圧し抑圧する官僚主義的な権力に対して、熾烈なしかしまことに巧みな戦いを挑み、勝利したのである。ワイダ作品の独特の創作過程全般における緊張関係を通して、成し遂げた全プロセスこそが、ワイダ作品の特色だったのであり、その特色は実に『灰とダイヤモンド』以降においては、色あせていき、ワイダはもはやワイダではなくなっていったのである。
今や世界的な映画作家としての地位を確立したその権威によって大家となったワイダに対して、権威に対しては卑屈になるという官僚特有の性格から、もう手出しすることがなくなり、ワイダもまたそれに応じるようにして安穏としてしまい、かっては研ぎすまされ、敵権力の裏をかいて出し抜き、映画作品を無事に、そして見事に仕上げて成功させていったワイダも感覚も鈍化し、反権力の姿勢も薄らいでいき、思想も突出することがなくなってしまった。
大御所となってしまったそんなワイダには、こうして遂に代表作の2作品つまり『灰とダイヤモンド』と『地下水道』を越える傑作は生れ出なかったといえよう。ワイダは確かに『灰とダイヤモンド』までは全世界に輝きわたる映画作家のナンバー・ワンだったことは間違いないと言えるのだが、それ以降においては、ただの映画監督として存在していただけだと敢えて言いたいのである。
権力や権威との狭間に立たされて熾烈な闘いを遂行する中ではじめてワイダはワイダだったのである。特に「連帯」の勝利とベルリンの壁崩壊以降においては、ワイダはただのワイダになってしまったのである。マスコミや有名評論家たちが今さらながらワイダを大変な存在のように、書き立てるのはお門違いと言わなければならない。(了)
<参考・既掲載記事「映画ノート」>
(38)2006年2月24日『状況格差ということ=映画「白バラの祈り」を見て』
(82)2007年1月25日『1936年の子=「麦の穂をゆらす風」のケン・ローチ』
(93)2007年6月8日 『ドキュメンタリー作品の生命線=映画「日本の青空」で思う』
(105)2007年10月20日『映画「サルバドールの朝」に感動』
(106)2007年10月23日『ヌヴェル・ヴァーグと68年革命=「サルバドールの朝」補考』
(124)2008年6月25日『若松孝二「実録・連合赤軍」に見た鎮魂の墓銘碑』
(125)2008年7月16日『欧米における「実録・連合赤軍」の反応』
(135)2008年9月24日『米国のナチス化を暴いた映画「敵こそ、我が友」』
(165)2010年3月29日『心占領されざれば=映画『誰がため』を観る』
(166)2010年4月12日『モーパッサンとランボーからの再出発=大島渚「愛と希望の街」』
(167)2010年4月21日『虚しく栄えた時代=大島渚「愛と希望の街」補考』
(170)2010年5月12日『新鮮さを刃として=大島渚「青春残酷物語」』
(172)2010年5月24日『どっこい民は生きてるぜ=大島渚「太陽の墓場」』
(173)2010年6月3日『大島渚にとっての旧約聖書「日本の夜と霧」』
(193)2012年1月31日『今なお新鮮な映画「いちご白書」』
(219)2013年10月10日『若松孝二12作品メモ=「実録・連合赤軍」への道程』
(234)2014年11月4日『映画「NO」が突きつけた権力支配の虚構と現実世界』
<参考・ポーランド問題拙著&拙訳文献>
▽『グダンスクの18日』(合同出版)
▽『ワルシャワ蜂起1944』(筑摩書房)
▽『ヨーロッパの希望と野蛮』(社会評論社)
▽『ワルシャワ蜂起』(社会評論社)
▽『「連帯」か党か』(新地書房)
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「横浜日記」(260) 2012年12月9日 梅本浩志
<『灰とダイヤモンド』の衝撃=57年ぶりの映画評>(その6)
青白い炎をあげながらカウンターテーブルの上を次々と滑りいく1つ1つのグラスが、まるで死者の霊魂のように見えて、観るものをして不思議な感動の極致に追いやる。そしてその1つ1つの青い炎のグラスにワイダたちの言いたいこと、訴えたいことを知り、生涯忘れられない印象を与える。なにせポーランド・ウオッカはアルコール度が95〜98パーセントとべらぼうに高く、世界最高のの純度を持っているから、アルコール・ランプさながらで、暗い場所では青白い炎の1つ1つが死者たちの鬼火のように見えるのだ。
そして『灰とダイヤモンド』でのこのシーンでは、ワルシャワ蜂起を戦い、命を失い、その成果をモスクワとその傀儡政権に簒奪されて、押し殺した呻き声で泣く死者たちの鬼火として描かれているのである。それは同時に、戦うべきときに戦わず、成果だけを簒奪し、己たちの利益だけを追い求める卑怯な日和見主義者や政権簒奪者どもの祝う夜空の大輪の花火と、実に対照的なのである。
その象徴的でクライマックスのシーンが、マチェックのシュチューカ暗殺のシーンなのである。共に裏切られた2人。方やスペイン内戦で、方やワルシャワ蜂起で。この映画『灰とダイヤモンド』における幾つかの山場のシーンの1つである。
2人は抱き合い、夜空には戦わなかったものどもが戦勝を祝う花火が賑々しく打ち上げられている。恨むべきは裏切ったモスクワなのだが、殺し殺された2人はそんなモスクワの被害者であることについて、ワイダの「公式検閲用シナリオ・テキスト」には、そのようなことは全く触れることはない。
ただこのシーンの直前にシュチューカもまたスペイン内戦の国際義勇軍として参加したことをワン・カットをさいて描き出し、スペインの思い出話と音楽レコードを懐かしむ場面を挿入することによって、暗殺者と被暗殺者とが抱き合うシーンのもつ重層悲劇的な意味を観るものに悟らせ、感動を与えるのである。
映画の手法と作品が与える感動を見事に計算し、駆使した演出だった。秘められた意味を観るものに分からせる巧みなフィルム編集だった。この意味とワイダの密かな意図が分からなかった検閲官僚は、あまりにも映画の特性が分かっておらず、また官僚の性(さが)に腐り切っていて、提出された検閲用の公式シナリオだけしか見ておらず、作品そのものを観てはいなかったことは確実で、そもそも映画の何たることを知らなかった、愚かなる官僚だったに違いない。ワイダたちの見事な策略と勝利だった。
このワイダたちの知略に満ちた検閲突破作戦は、なにも遠い国の遠い昔の苦労譚ではなく、国家主義、全体主義的な時代状況に包まれつつある21世紀の現代日本でも、状況的に似ていることを十分認識して、参考にし、闘う武器とすべきことは言うまでもないことである。とりわけジャーナリズムに関わる者たちが十分参考にし、活用すべきことを知っておくべきである。
テレビや新聞の世界では、いまや戦前回帰の安倍政権を中心とする国家権力に介入され、様々な圧力を受けたり、報じる内容や報じ方について圧力をかけられて歪められ、記者やスタッフ人事まで内閣官房や自民党から、あるいはマスコミ企業の経営上層部から強く圧力をかけられて、左右されているのが現実である。そこまでいかなくても現代日本の大多数の現役記者や編集スタッフたちは強く自主規制したり、妥協する日々をおくっているはずである。
そうであるかぎり、マスメディアに関わる人間たちは、ワイダの知略に満ちた検閲突破作戦の知恵を大いに参考とすべきこと、その心は全体主義的な権力や権威に対する抵抗の精神と、勇気であることを肝に銘じるべきであろう。
ワイダ作品の中でも最高傑作
私はこの映画『灰とダイヤモンド』を見て、強く心を動かされ、見終わって間もなく京宝劇場のすぐ近くの丸善に行って、ポーランド語入門の英語テキストを購入したものだ。やがてそれから20年後の1979年に、たしか東京・紀尾井町にあった国際交流基金のホールで開かれたワイダ監督の記者会見に出席し、その翌1980年にはポーランド自主管理労組「連帯」のストライキの際には、ヴァウェンサ(日本マスコミの誤った読み方ではワレサ)に会って、翌早朝にはグダンスクの彼の自宅にも訪れて、彼から秘密書簡を預かって、「連帯」一行の訪日を実現させ、ゼネスト闘争の突破口を開くのに大いなる一役を買ったこともこの際、書き留めておこう。
そんなポーランド・ゼネストと同時に開催されていたのがグダンスクでのポーランド映画祭だった。映画祭の事務局にワイダにインタビューしたいと申し入れたが、「ワイダ監督は次の作品の構想を練るために海外に旅行することになっていて、既にグダンスクを離れました」と言われて会えなかった。
そこで既にマチェックを演じた名優チブルスキーはその13年前に若くして亡くなっていたこともあって、『灰とダイヤモンド』の女主人公クリスチーナを演じたエヴァ・クルジゼウスカにぜひ会いたいと思って映画祭事務局に頼んでみたのだが、果たせなかったのが悔やまれた。ところが帰りのワルシャワ発アテネ行きの飛行機でワイダ監督と乗り合わせ、アテネ空港でその姿を見ることができた。
ワイダ監督は、これから「連帯」闘争の映画を作るために、その構想を練りに1ヶ月かけてエーゲ海にクルージングに行くところだが、君たちも一緒に来ないかね、と言ってくれたのだが、既に会社(時事通信社)と厳しい対立関係にあったこともあって、バカンス休暇をそれ以上延ばすことはできず、せっかくのチャンスを逃してしまったのは、残念だった。
もし同行できておれば、これから彼が作ろうと思っている「連帯」闘争を主題とする新作の構想についてよりも、『灰とダイヤモンド』に関係する様々なことをインタビューして、ここに書いているようなことを中心に、ワイダの本心や本音を尋ねてみて、名作の秘密とワイダの全体像を捉えてみたいと思っていたのだが。
こうして『灰とダイヤモンド』で強く印象づけられた私には、この作品が、その後半世紀以上経った今なお、私がこれまで観た映画作品の中で最高の作品だと評価してるばかりか、私のジャーナリスト人生の方向まで決めた映画だったが、それ以降数多く観たワイダ作品は『地下水道』を除いて、決して私を満足させることはなかった。
現存するワルシャワ蜂起の戦跡
確かに『地下水道』は素晴らしい作品ではあった。ポーランド人たちにも強烈な印象を与え、高い評価を得ていることは、1980年にポーランドのほぼ全土を取材旅行し、とりわけ最初にワルシャワ蜂起について取材したとき、ワルシャワの地下水道(下水道)に閉じ込められて戦った女性パルチザン兵士クリスチーナ・シェルピンスカさんから取材した光景と実に重なりあう作品だった。
蜂起軍に参加し、女性パルチザン兵士として戦い、下水道(地下水道)に閉じ込められて苦闘したときに彼女が体験し、見た光景を、「まるでダンテの『神曲・地獄篇』のようでしたわ』と口にするや、諳(そら)んじていたダンテの長詩を浪々と詠唱しつつ、蜂起の当時を思い出してであろう涙を流しながら、いつ果てることもなく、ヨーロッパの知性と教養のある人間ならよく知っているといわれるこの長詩を朗誦したときに、ワイダのこの作品は、イタリア・ネオリアリズムと並ぶ偉大な作品であること、そしてポーランド人たちから愛し続けられていることを十分知らされたものだ。
さらに1987年に4度目のポーランド取材の際に、それもワルシャワ蜂起取材としては3回目で、この取材をもってワルシャワ蜂起取材を完結させることを目的としていたこともあっての集中取材だったから、数多くのワルシャワ蜂起軍兵士たちと会い、貴重な体験談を聴かせてもらったことがある。また蜂起軍兵士たち30名以上ものベテラン戦闘者たちから招かれて一席の宴を催してもらったこともあった。
その最後のワルシャワ蜂起取材の際に、イエジキ部隊の副官だったリバウコ氏に案内されて、スタレミヤスト(旧市街)を案内されたことがある。最もポーランド的だといわれて、それまでも2度ばかり行ってみた観光名所だったが、ここにワルシャワ蜂起最大の激戦跡が残されていることを、知らなかった。まさかこのような場所に激戦地があり、ワイダ作品『地下水道』で再現された実物がそのまま残されていて、まるで映画のセットのような感じさえ覚える場所があった。スタレミヤストでもいま一筋東に入ったヴィスワ川寄りの地域に、あの『地下水道』がそのまま残されていたのである。
ドイツ軍の重機関銃座が設置されていて、下水道のマンホールに飛び込もうとする蜂起軍兵士たちを狙い撃ちする重機関銃の銃座跡地と僅か80メートルほどしか離れていないマンホール。文字どおり蜂の巣になってしまっている、隙間ない銃弾痕の防御外壁に囲まれている蜂起軍裁判所のビル。爆弾を満載したドイツ軍の有線遠隔誘導無人小型戦車「ゴリアート」のキャタピラを埋め込んだ記念碑。そんな生々しい激戦モニュメントの数々が歩いて行くにつれて次々と目の前に現われてくるのであった。まさにワイダが描いた『地下水道』がそのままそこにあった。私は戦慄さえ覚え、感動した。
そんな『地下水道』で倒れた仲間たちこそ、『灰とダイヤモンド』でマチェックがウオッカのグラスに火をつけ、アンジェイが「アンナ、ウィルガ、コゾブスキー、赤毛、カイテック・・・」と、今はなき戦友の名を次々と挙げて、マチェックが火をつけたそんな暗いカウンター・テーブルの上を次々と走って行く鬼火の数々だった。リバウコ氏に案内されて見た数々のモニュメントが、そんな『灰とダイヤモンド』での鬼気迫るシーンと重なりあうのだった。
リバウコさんが案内してくれたからこそ、知った歴史そのものの、つまりワイダの『地下水道』と『灰とダイヤモンド』の世界が、こうしていまなおポーランドでは大切に保存されているのである。日本の広島原爆ドームのように。
大御所になってしまったのが裏目に
『灰とダイヤモンド』は実に、私にとっては、最高にして最大の映画作品だったし、いまなおそうである。だがこのように『灰とダイヤモンド』が実に優れた作品であり、海外で高い評価を受け、ワイダは若くして一気に巨匠の座に登り詰めてからは、その後のワイダ作品はことごとく私の期待を裏切るものだった、と言わざるを得ないのである。 (つづく)
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「横浜日記」(260) 2012年12月9日 梅本浩志
<『灰とダイヤモンド』の衝撃=57年ぶりの映画評>(その5)
だが実際は、ワイダが中心であって、映画制作の実際の面において、演出やカメラワークを巧みに駆使することによって、原作の小説とは似て非なる作品を創ることを考えたことは確かだといえ、まず極めて巧みに、検閲当局提出用のスタッフ名とシナリオを書き上げて、巧みに目くらましの術を使ったといってよいだろう。
つまり当局に提出するシナリオ・テキストは、共産党独裁権力に歯向かうものどもの悲劇的末路を描いて、スターリン主義の芸術理論だった社会主義リアリズムに沿う形をとり、検閲官僚の目をくらまし、いざというときにも担当した検閲官に言い訳ができるようにして、検閲突破作戦を編み出しているのである。
あたかも共産党独裁体制に歯向かうことの無駄をプロパガンダする形をとって、実際はシナリオとは逆方向の演出とカメラ・ワークを駆使して、さらにショパンのポロネーズと対独レジスタンス・ソングの「モンテカシノの赤い芥子(けし)」を作品の前後に貼付けることによって、権力体制を欺く作品に仕立て上げることを、密かに狙って、映画制作を進めたことは確実である、と私は考える。
だから検閲官たちは、シナリオ・テキストとアンジェイエフスキーの名前だけを見て、実際の作品を見ずに、たとえ見てもいい加減にしか見ずに、あるいは既にシナリオなどで思い込みができ上がっていたために、ポーランド版「映倫」のスタンプを押してしまったことは、間違いない。そのことは私が57年前に京宝劇場で買い求めたシナリオ『灰とダイヤモンド』を読めば、直ちに分かる。
青い火の呪いにこそ
その典型的なシーンとして私が挙げたいのは、バーのカウンター・テーブルの上を、ポーランド・ウオッカに火をつけて、次々と滑らせていく印象的な場面だ。まずその場面のシナリオを書き出しておこう。以下のとおりである、
<バーの中。
客たちは歌をききにホールへ集まって、ガランとしたバーにはマチェックとアンジェイ(注・日本語訳のシナリオでは「アンドルゼイ」となっている)が腰を下ろしている。グラスを載せた盆を給仕がカウンターに置いて行く。
アンジェイとマチェック立ち上がる。
マチェック、盆の上のグラスをとり、匂いをかいでみる。
マチェック「覚えているかい?」
アンジェイ、柱によりかかっている。
アンジェイ「何を?」
マチェック、グラスを持ってアンジェイに近づく。
アンジェイ、グラスの匂いをかぐ。
マチェック「赤毛の所で飲んだ酒だよ」
アンジェイ「いいや」
マチェック、グラスを次々とカウンターの上をアンジェイの方へ滑らせながら
マチェック(しつこく)「覚えていないのか?覚えているはずだぜ」
アンジェイ「馬鹿なことはよせよ」
マチェック「覚えていないって?」
アンジェイ「いや、思い出さないな」
マチェック、グラスの酒に火をつける。
最後の2つに火をつけようとしたとたんに、アンジェイは吹き消す。
マチェック「憶えてない?」
アンジェイ「アンナ、ウィルガ、コソプズキー、赤毛、カイテック・・・そして我々が生き残りだ」
グラスの酒が青い炎をあげて燃えている。マチェック、大声で笑い出す。
マチェック「アンジェイ、ああいう時代があったんだなあ」
アンジェイ「そう思うか?」
マチェック「そうだ。あんなに大勢友だちがいたことがあるかい?女だの男だの・・・」
アンジェイ「それがどうだというんだ。皆死んでしまった」>
この2人のやり取りのあとで、「それに人々が我々に何を求めているのかも我々は知っていた」とアンジェイが口にしたのを引き取るようにマチェックは「それは疑問の余地がないよ。・・・だがその他に彼らは何を望むことができたんだ?我々が生命を捧げること以外には。・・・今だって同じことなんだ」と薄暗い空間で叫んでいる。傀儡権力に対する武装抵抗者の本音あるいは思いを語らせているのだが、検閲した党官僚たちは、酔っぱらいの戯言か追いつめられたテロリストの淡い感傷の思い出話のようにぐらいしかこの場面を見ていなかったことはまず確かであり、この暗い心の奥底をさらけ出す台詞を見逃してしまったにちがいない。
薄暗い空間の中で青白く燃える死者の霊魂の鬼火と、鬼火となった仲間たちの名前を1つ1つ読み上げて魂を鎮める、まるで儀式のような仕草をするアンジェイとマチェック。その2人の命も間もなく消えることを予感している2人は、青白い火をともして自分たちの死を予め弔(とむら)おうとするのだが、まさにその直前、せっかくマチェックが火をつけた2つのグラスの火は、アンジェイによって吹き消されてしまう。その緊迫したシーン。
でき上がった映画作品をしっかりと見ておきさえすれば、ここの薄暗いバーカウンターでの、アルコール濃度95〜98パーセントと世界第一のアルコール濃度を誇るポーランド・ウオッカの、青白い炎(それは死者が発する鬼火そのものである)をあげてカウンターの上を滑る鬼気迫るシーンに、見る人は息をのんでしまうのだ。
この鬼火グラスの滑りゆくシーンは、戦い続けるマチェックたちの本音本心なのであり、この作品そのものを試写の段階でしっかりと検閲官が観ておきさえすれば、ワイダの真の狙いを読み取り、ワイダたちの意図を解読できたはずである。
ところが検閲官僚という存在はまさにビューロークラシーという名のとおり、ビューロー(局)内だけで、机の上だけで、すべてを決してしまうから、ワイダの真の意図や狙いを見抜くことができなかったのである。ワイダたちの見事な官僚主義の理解であり、官僚主義を逆手にとっての作戦だったのである。
検閲用シナリオと本物のシナリオ
いま引用したシナリオは、おそらくワイダたちが検閲当局に提出した「公式」のものを、英語など外国語に訳したものを、日本の輸入業者が再翻訳した重訳であることはまず間違いないといってよいだろう。というのも例えばポーランド語で発音する「アンジェイ」という人物名がことごとく「アンドルゼイ」となっていることで明らかだからだ。
ちょうどポーランド「連帯」の委員長だった「ヴァウェンサ」は英語では「WALESA」と表記しているのだが、ポーランド語では「W」は通常「ヴァ」と発音し、また「L」も字の真ん中に棒線が引かれている場合には「ウ」と発音し、「E」も字の下にアポストロフ(カギ印状の点)が付けられていると「エン」と発音するのだが、ポーランド語から英語に訳されたテキストなどでは、そうしたポーランド語独特の表記や発音を表記することなく、26文字の英語だけのアルファベットで表記するものだから、こうした読み方のミスをやってしまうのである。もっともロンドン在住の人にただしてみたところ、英国では確かにそのように表記はしているものの、英国人は発音に際しては「ワレンサ」と読んでいると聞いたことがある。
だから映画館で購入したシナリオでは、「アンジェイ」と表記すべきところを、すべて「アンドルゼイ」と表記してしまって、ワイダも映画の登場人物も「アンドルゼイ」となっていて、原作小説の作者イエジイ・アンジェイエフスキーも「イエルズイ・アンドルゼイエウスキー」と英語をローマ字読みしているのであり、ワイダたちが検閲当局に提出した「公式シナリオ」を英訳したものをそのまま日本語に翻訳したものであろうことが見て取れるのである。
だから「公式シナリオ」と、制作者たちの密かな「本物のシナリオ」とは違っていたことが十分考えられ、さらに演出やカメラワークさらに場面の構図などで、「公式シナリオ」とは似て非なる作品に仕立て上げることが十分できたのである。
こと映画や演劇においては、こうしたことは常識であるといってよいだろう。まして言論弾圧の酷い国家においては。それどころか、映画や演劇の特性はこうしたシナリオの外の要素によってこそ真の作品となって観客を感動させるものである。
かのイタリア・ネオリアリズムの巨匠ロッセリーニも撮影現場でのひらめきや思いで即興的に撮影に臨むことがよくあると語っており(拙訳のマリオ・ヴェルドーネ著『ロッセリーニ』を参照)、ワイダも周辺スタッフの意見に耳を貸して、即興的に作品に取り入れることがしばしばあると伝えられているから、こと『灰とダイヤモンド』においては、そうした映画ならではの特性を意識的意図的に取り入れて、検閲当局の官僚たちの耳目をくらますという、囲碁で言うはめ手を使ったに違いない。
秘めた狙い
だからシナリオでは、<アンドルゼイ「アンナ、ウィルガ、コゾブスキー、赤毛、カイテック・・・そして我々が生き残りだ」。グラスの酒が青い炎を上げて燃えている。マチェック大声で笑い出す。マチェック「アンドルゼイ、ああいう時代があったんだな」>といったなんでもないシーンも、実際はポーランド・ウオッカの1つ1つに火がつけられて、鬼火となってバー・カウンターの上を次々と滑りいくグラスは、まことに鬼気迫る場面となっているのである。1945年8月6日に原爆が広島に投下されたその夜、市内至る所で、青い鬼火が燃えていたと言われていたのをつい思い出す私である。 (つづく)
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「横浜日記」(260) 2012年12月9日 梅本浩志
<『灰とダイヤモンド』の衝撃=57年ぶりの映画評>(その4)
シュチューカが「ポーランド全体として認識できまい」と口にするのは、今やポーランドはソ連に軍事占領されて支配下に置かれているのであり、否応なくソ連ブロックに吸収されているのであって、モスクワに従わざるをえないのが現実であり、大勢に順応せざるをえないのだが、「下にいる連中」つまりマチェックやほかならぬ17歳の自分の息子マレックたち若い国内軍派の連中にはそのことが分かっていないのだ、ここは現実的に対応、対処せざるをえないことがどうして彼らには分からないのか、という嘆き節の言い換え言葉なのである。
彼ら若者たちは、なぜ冷静に現実を見つめて、大人の対応、行動をとれないのか、という現実主義者の言葉でもあるのだが、それは同時に、堕落し保守化してしまった大人どものよく口にする裏返しの自己合理化の理屈なのであり、若者たちからすれば詭弁にすぎず、そうした「大人の現実主義」がマチェックたち若き戦士たちに通じるはずがなかった。
シュチューカはスペイン内戦時と同じような時代状況に陥っていることを知らざるをえなかったのである。スターリン主義による裏切りという悪夢が、スペイン内戦からほぼ10年経っていままた繰り返されていることを痛切に感じてはいたのである。
だから本来なら共産党と訣別して、簒奪政権に対して武装抵抗している息子たちと同じ戦列に加わって、ロンドン亡命ポーランド政権軍AKの若いパルチザンたちと共に戦うべきところを、共産党員たるものは一枚岩たることの鉄則を守らなければならないとの既成観念にとらわれて、モスクワからの指令に従うことが共産主義者たるものの義務であり、責務だとの考えから決して解放されないシュチューカたちなのであった。
とはいえ10年前と同様、再びワルシャワ蜂起を戦った味方であるはずの国内軍派の戦士たちを、敵として殺しあわなければならない苦悩を、こうした会話の中で思わず口に出してしまわざるをえなかったのである。
そしてしばしの間を置いてシュチューカは外出する。折しも戦勝記念を祝して、花火が打ち上げられ始めているのだが、シュチューカが歩く道自体は決して明るくはない。そんなシュチューカの後を暗殺者マチェックが、尾行する。シナリオは続く、
<シュチューカが不自由な脚を杖にもたせて歩いていく。ついていくマチェック。間もなくシュチューカを追い抜き、シャツの中から拳銃をとり出すと、振り向いて5、6歩の距離でつづけさまに撃つ。シュチューカはよろめきながら、マチェックにすがりつく。シュチューカのレインコートの背中に弾丸の抜けた痕が幾つか開き、そこから血が滲み出てくる。
突然、背後の空に数発の花火が夜空を彩り、二人の姿をくっきりと照らし出す。シュチューカは崩れるようにマチェックの手からすべり落ち、路上に倒れてしまう。マチェックは拳銃を投げ捨て歩き出す。>
死の淵で抱き合った暗殺者と被暗殺者
57年前にこの作品を見たときの記憶によると、シュチューカが崩れ去るとき、マチェックはしっかりとシュチューカを抱き支えてやったはずだ。10年前のスペイン内戦時においては、同じ戦列に立っていたはずの共和派内の味方であるはずのアナーキスト軍とトロツキー派軍を敵として、背後から襲わさせられた時と同じように、今度はモスクワに忠実な共産党員としてワルシャワ蜂起を戦った国内軍戦士たちを抹殺しなければならなくなったシュチューカ。今またモスクワの指令を忠実に守ってわが子ウィルクやマチェックたちを、「反革命」、「祖国ポーランドの敵」の烙印を押して抹殺すべき使命を帯びた弾圧側の責任者として、抵抗する国内軍(AK)残党ゲリラたちを一掃する作戦を指揮命令してきたシュチューカ。
スペイン内戦時と同じことを自分たち共産党員はやっているのだと自覚せざるをえない立場にあるシュチューカ。凶弾を撃ち込んだものも撃ち込まれたものも、モスクワの掌の上で、つまり「ポーランド全体として」判断し、それに応じた役割を果たしたがために、そうした悲劇の犠牲になったシュチューカとマチェック。
片やワルシャワ蜂起戦を熾烈に戦いながら、モスクワに裏切られ見殺ししにされるどころか、権力を簒奪されて、そんなモスクワの指示どおりに動き、甘い汁を吸っている共産党幹部を暗殺しなければならなかったマチェック。
似たような運命に翻弄された2人。2人とも一国社会主義革命に固執するスターリン主義者たちによる歴史の犠牲者であり、真に戦ったもの同士の宿命と言える。
だがそんな喜劇的悲劇が演じられていた夜空には、真に戦ったことのない、甘い汁を吸うことにはどん欲な日和見主義者たちの権力簒奪者たちが、われらが時代が来たとばかり、花火を打ち上げ、祝宴を開いて、無邪気に人生を享楽し、わが世の春が来たとばかり、どんちゃん騒ぎのザマである。スペイン内戦とワルシャワ蜂起という裏切られの現代史がこうして再演されたのである。
真に戦ったものは抹殺され、他方で戦わず、戦ったように見せかけながらも実際は陰に隠れて戦うことなく、わが世の春が来たと見えた瞬間、彼らは見事に変身して、以前の権力的支配者と同じ位置に着いてエゴイスティックな甘い汁を呑む連中。
そんな日和見主義者たちとは対照的に、命を賭けて戦いながらも、誤ったモスクワの指令で敵対的に位置しなければならなくなり、その結果として同じ悲劇的運命を辿(たど)った2人は、こうしてにわか権力簒奪者どもの祝勝の花火の下で抱き合い、年老いた老活動家がまず息絶えるのであった。
それから数時間経った朝、テロリスト・マチェックは、追われる身となり、ホテルのゴミ捨て場に追いつめられて、洗濯物干場のシーツに身を隠すのだったが、シュチューカの配下にあった公安兵士たちから激しい銃撃を受けて、吹き出す血を、干してある真っ白なシーツに塗り付けながら芥の中に倒れ、息絶えていくのであった。こうして2人の戦士は、相次いで抹殺されていったのである。
真に戦ったものは抹殺され、戦うことなく卑怯にも戦いから逃げたものが、戦勝者然として大きな顔をし、甘い汁を吸う。それが人生と生命のすべてを投じて戦うものたちのたどる宿命であり、抵抗と革命の実際である。そうワイダの作品は描いてみせたのである。見事なポーランド・ネオリアリスムである。
考えてみれば、このワイダが描いた悲劇は、私がこの作品を観た1年後の1960年の60年安保闘争から、ワイダ作品が盛んに上映され続けた60年代の全共闘運動、さらにささやかながらも私が戦い、今に至る時事通信労働者委員会の闘争においても言えるのではないか。
60年安保闘争の際には、共産党系の活動家たちは、国会前で警察機動隊と戦い、あるいは坐り込む、共産党中央を批判していた全学連主流派の学生デモ隊員に対して、「ゴロツキ」という言葉を連想させる「トロツキスト」という言葉を投げつけるなどして悪罵を浴びせたり、背後から背中や腰を蹴りあげたりした。大学建造物の2階を占拠して「大学解体」や「ベトナム反戦」を訴えて抵抗する全共闘派の学生たちには、大学当局とタイアップして、除虫剤など有毒な薬剤を燃やしてを階下から階上に吹き上げて追い出そうとしたりした。あるいは経営権を握った創価学会グループと闇カルテルを結んで、会社経営は創価学会グループ、労務管理と労組は共産党が主導権を握って、それまで闘争の最前線で闘った若者たちの、新しく独立して闘わざるをえなくなった少数派組合「時事通信労働者委員会」を非人間的に弾圧した。会社の経営、労組双方から、少数派として踏みとどまって戦い続けてきた私の属する労組を徹底弾圧してきたのは、一体どこの政党だったか。
党官僚との戦いがあってこそ
この作品『灰とダイヤモンド』が、時の体制を批判的に描いていることは明らかである。いわばソ連の後押しを受けて政権を簒奪したと言われてもおかしくはないポーランド共産党政権と、その背後で睨みを利かしているスターリン主義ソ連独裁専制権力の厳しい検閲の目をよくぞかいくぐって、この作品『灰とダイヤモンド』を制作・発表したと感心せざるをえないのである。
そればかりか、制作するや間髪を入れずに国際映画祭に出品して、1959年のヴェネツィア国際映画祭で、見事に国際映画批評家連盟賞を受賞して、それを錦の御旗としてワイダはポーランド映画界の顔となり、押しも押されもしない大御所への道を歩んでいく。
折しもポーランド経済は不振を極めていて、慢性的な外貨不足に悩んでいたのだが、そんな無能政権の足許を見透かしたワイダは、ドルを稼ぐのだと海外に大手を振って輸出して、ますます名声を高めていった。ポーランドにワイダあり、と全世界を唸らせたのである。
なぜかくも見事に『灰とダイヤモンド』は、検閲の目をかいくぐって、堂々と制作し、発表し、全世界にポーランドに見事なネオリアリスムあり、と唸らせたのであろうか。
その秘密はワイダたちの見事な官僚主義分析と対策にあった、と私は見る。つまり映画が言葉や台本どおりの筋書きだけのストーリー作品ではなく、演出とカメラワークと映像構成そして音楽によって、シナリオとは全く別の作品に仕上げることができる芸術であることを、十分知りつくしていたワイダたちは、そうした映画の特性を120パーセント生かして、原作小説やシナリオとは全く別の作品に仕立て上げるという離れ業をやってのけたのである。
即ち、検閲当局の官僚どもが、イェジイ・アンジェイェフスキーの原作小説『灰とダイヤモンド』と、ワイダたちが検閲当局に提出しておいたシナリオ『灰とダイヤモンド』だけにしか目を通しておかず、肝心の完成した映画作品『灰とダイヤモンド』を見ることなく、たとえ見ても原作やシナリオどおりの作品であると思い込んで、「合格」のスタンプを押してしまった、と考えると、検閲通過の秘密がよく理解できるのである。ワイダは検閲権力に対する闘争として見事な作戦を編み出したのであり、その戦いの武器は知略と映画そのものの特性であったのである。
映画の特性そのものを武器としたワイダたち
実際、原作の小説作品では、それほど権力体制そのものを批判的に描いておらず、ワルシャワ蜂起を戦いながら、裏切られ、簒奪政権に歯向かって、無惨に殺されていった若者たちの悲劇と、真に戦うことがなく、戦勝の甘い利益だけを享受し、あるいは無邪気に「戦勝」を喜び、祝う一般市民の姿を描いているだけで、党官僚たちの神経を逆撫でするような作品にはなってはいないのである。読みようによっては、モスクワ傀儡新政権に反抗するものどもはいかに弾圧され、悲惨な目に遭うのか、広く知らしめる勧善懲悪の、政府ご推奨の小説作品だったとも言える。
そのような作品であることに目を付けたことは間違いないワイダ監督は、当局に提出したシナリオ『灰とダイヤモンド』の冒頭に、「原作イエジイ・アンジェイエフスキー」と書き、次いで「脚本イエジイ・アンジェイエフスキー、アンジェイ・ワイダ」と2名連記で書いている。
書いている順序もアンジェイエフスキーを先に出して、ワイダは後ろに書いている。実に巧みなカムフラージュで、これではアンジェイエフスキーが映画作品の制作者であって、ワイダは後塵を拝しているように見える。 (つづく)
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