横浜日記 2017

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「横浜日記」(273)2018年8月27日 梅本浩志
<花火に見る歴史残照=明治維新の歴史舞台>(下)

 どうやらアメリカ占領軍は、暗夜に空一杯に美しい模様を描く花火を心荒んだ日本人たちに見せることによって、敗戦国民たちに当時としては考えられない娯楽を提供して人心を掌握し、同時に平和をもたらしたアメリカ占領軍の威光を知らせしめようとの狙いがあったようである。
 そんな花火大会の1つだった琵琶湖花火大会の会場は、淀川上流である瀬田川の、石山寺の近くの、草津側の対岸から打ち上げ、それを大津の石山寺側から見物するように会場が設定されていた。石山寺は、かの紫式部が「源氏物語」の須磨明石の巻を書いたところとして有名であっただけでなく、松生芭蕉や島崎藤村も一時、身を寄せていた風光明媚な地域にあったから、なに一つ娯楽がなかった敗戦当時の日本人には、初めて見る花火には、一種の威力を持っていたこともあって、ただただ圧倒されたものである。
 そんな敗戦からまだ間もないある瀬田川花火の夜、父がわが家一家を引き連れて、石山寺近くにまで出かけたことがある。寺近くの、琵琶湖有数の料亭「三日月楼」の2階に席を取って真っ正面に見た、空一杯に開く花火の美しさにはすっかり心奪われたものである。花火は実に、戦争で忘れ去っていた壮大な美を敗戦国民の眼と心に植え付けたのである。
 戦時中は連夜のB29爆撃機大編隊の銀翼が月光に映える美しさだけしか味わえなかったわれわれは、空一杯に赤く爆発して大輪を描く花火に心奪われたのであり、米占領軍はそうしたことをよく知って民心掌握に利用し、やがて日本人たちもその効用に気がついて、業務拡大など企業PRに大いに利用するようになっていったのである。

     花火で重要歴史文化財が炎上

 そんな一例であろうか、敗戦からまだ10年も経っていなかった読売新聞の京都・鴨川の打ち上げ花火大会開催と、その花火のために、明治維新の歴史的施設である京都御所内の小御所が全焼してしまった失態をここに書き留めておこうと思う。当時の騒ぎは後日の京都駅全焼とともに今もなお、私の記憶にしっかりと留められているのである。
 日本がサンフランシスコ対日講和会議を経て、共産圏諸国を除く連合国軍諸国を中心とする世界各国との間で対日平和条約を締結し、あわせて日米安保条約を締結して、新憲法形骸化と歴史反動と、さらに日本のアメリカ軍事・経済圏内への組み入れへの道を歩み始め、同時にその前年の朝鮮戦争での特需で経済の復興と再生さらに旧三大財閥を中心とする日本巨大資本グループの形成と海外進出への道を歩み始めた1951年から3年後の1954年に、それまでは関東エリア中心でまだ全国紙ではなかった読売新聞が、全国紙として朝日、毎日両全国紙と肩を並べて一挙的に三大紙たらんとして、同年8月16日に、京都で永年続けられてきた大文字の五山送り火の行事に乗っかる形で花火大会を催した。
 大文字五山の送り火は、京都市民にとっては、身近な人間や祖先の霊を慰める静かな鎮魂の行事だったが、まだ戦争の記憶も生々しい敗戦の記念日「8月15日」の翌日ということもあり、市民たちは鴨川の河原や三條や四条辺りから京都盆地を取り囲む5つの山々に、右と左の「大」、「妙」、「舟形絵文字」、「鳥居」の5つの文字と絵で描く赤く燃やされる鎮魂の火を、団扇(うちわ)を片手に、浴衣姿で遠望しつつ、亡き人たちの昔をしのび、霊を慰めることは、心鎮まるお盆の行事だった。
 遠望するだけでも美しい眺めだったが、近くから見ても迫力ある光景であり、私がまだ新婚の時代に住んでいた北白川のアパートから見る大文字山の真っ赤に燃える火は、窓一杯に燃えさかり、見事なものだった。
 そんな鎮魂の大文字の送り火点火の時刻に合わせて、読売新聞が時やよしと市内中心部の、丸太町から三條の間の鴨川の河原に大掛かりな打ち上げ花火を仕掛けて、大音響を発し、せっかくの静かな闇夜を真っ赤に染める花火大会を強行したのである。
 おかげで赤く燃え盛るきれいな5つの送り火も淡く薄められてしまい、静かな宵闇も大音響でかき消されてしまった。心鎮まるお盆の夜の彼方に赤く燃えさかり市民たちの亡き人や先祖をしのび、祈りの場となっていた大文字の山焼きは、大きく炸裂する打ち上げ花火の大音響と空狭しと広がる打ち上げ花火の火とで、台無しにされてしまったのである。
 被害はそれだけにとどまらなかった。歴史的にも重要な京都御所の重要文化財・小御所の屋根に、まだ燃えている花火の残り火がパラシュートに着いたまま風に運ばれてきて落下し、桧皮(ひのきかわ)の屋根に着火し、建物を全焼させてしまったのである。

     小御所燃ゆ

 1954年8月16日午後8時10分から開始されることになっていた五山送り火点火を前にした午後7時に、遅い夏の闇夜を待って、鴨川河原2カ所に設えられた打ち上げ地点から約350発の花火が連続して打ち上げられた。打ち上げは午後9時40分まで続いた。次々と轟音を響かせて打ち上げられる賑々しい花火は、轟音を天空に響かせ、夜空を赤く炸裂させた。打ち上げるだけ打ち上げた花火たちは、五山の山々の火が消える頃、おとなしくなった。
 それからおよそ1時間後の午後11時頃、京都御所界隈の市民たちは、「御所が燃えている、火事だ」という叫びで騒然となった。激しい火柱が立っていたと伝えられている。御所の中心に建っている紫宸殿に近い小御所の南側の屋根が真っ赤に燃え上がっていて、火柱さえ立っていたという。
 御所燃ゆの情景は、御所の北東2キロの左京消防署の望楼でも認められて消防車25台が直ちに出動したが、小御所に隣接する紫宸殿や御学問所への延焼を防ぐのが精一杯で、およそ30分後に鎮火されたというが、桧皮ぶきで檜造りの小御所はたちまちのうちに全焼してしまった。
 京都御所は度々火災に遭っては建て直されていたが、小御所だけは、明治維新から13年前の1855年(安政2年)に造りかえられただけで、戦時中の爆撃や建物疎開にも遭わずに昔のまま保存されてきた貴重な建造物だった。
 小御所は建築史的な価値が高かっただけでなく、明治維新の際に徳川将軍家の権力と財力を奪ってしまい、維新後の政治の形をどのようにするか、を決める非常に重要な会議が開かれた建物でもある、歴史上非常に重要な建造物だったのだが、そんな建物をマスコミの商業戦略のための花火で消失させてしまったのである。
 当日の風向は東南東から東であり、花火打ち上げ地点から被災小御所までわずか1・5キロの近距離にあり、打ち上げ花火とは一体的なパラシュートが風に乗って西北方向にある小御所にまで至り、燃えやすい桧皮の屋根に燃え降りて着火したことはまず間違いないと消防署においても結論づけられている。実際、火災現場付近からパラシュートの残骸が56個も見つかっているのである。
 犯罪的な花火大会のエゴイスチックな暴挙であったばかりでなく、太平洋戦争時の米軍爆撃の戦火をくぐってせっかく保存されてきた歴史的文化財を、こうして消滅させてしまったという次第だ。これに懲りた京都市は、以降、鴨川での花火を禁止してしまった。歴史的文化財が市内至る所にあり、また聖なるお盆の送り火の行事を大切に守り続けてきた京都の市民たちには不評判が当然の洛中花火大会の禁止であった。
 
     歴史流動化の真っ直中で開催された小御所会議

 さてその小御所だが、明治維新において、維新の方向と性格を決めるに際して議論し決定する重要会議の場として使われた「小御所会議」が開催された建造物として歴史的価値がある史跡だった。この会議で徳川家は権力と資産を奪われてしまい、薩長両藩に武力革命の口実を与えることとなって、徳川家を政治権力の座から引きずり降ろしてしまう大義名分を倒幕派側に与えてしまう決定的な「了承決議」がなされた会場だった。
 この「決議」を大義名分として王政復古のクーデタが行われて、武力革命としての明治維新の性格と方向を決定づけるとともに、明治維新後の日本国家を天皇制国家として性格づけた歴史的建造物だったのである。当時の状況を振り返る。
 幕末も押し詰まっていた維新前年の1967年は、まことにめまぐるしく政治状況が流動化し、変転した年だった。4月14日に高杉晋作が病死し、坂本龍馬が海援隊長となり、5月に入ると薩摩の西郷吉之助と土佐の中岡慎太郎たち急進派の間で倒幕挙兵の密約を交わし、9月18日に薩長間で倒幕連盟が形成され、10月3日には土佐藩から徳川幕府に対して大政奉還を建白し、10日後の13日には薩摩藩に倒幕の密勅を下させることに成功する。
 これに対して幕府を率いていた徳川慶喜は巧みに対応して、翌14日に大政奉還を申し出るとともに10日後の24日に将軍職辞任を申し出て先手を打ち、両申し出とも勅許されることに成功した。
 天皇を取り巻く公家たちの間に分裂と混乱が深まる。まさにそのとき、新政府の綱領ともなるべき「船中八策」を書面化した坂本龍馬と中岡慎太郎とが11月15日に暗殺されてしまう。こうした状況に直面して、天皇を取り巻く公家たちの右往左往が激しくなり、その間隙を縫って岩倉具視のような策士公家が立ち回り、混乱を加速化させた。
 被支配階級の農民や市民たちの間でも一揆が多発し、ええじゃないかデモがあちらこちらで発生し、徳川幕府の治世によって保たれてきた社会の平和が保てなくなっていった。島崎藤村の『夜明け前』に、このあたりの社会状況がかなり詳しく描かれている。時代がどちらの方向に転じるのか分らない混沌としたものになっていたのである。
 維新派の思惑も必ずしも一致しておらず、まして公家どもの動揺が激しく、徳川慶喜の大政奉還の申し出も、具体的に実現するのかどうかも分らない混沌とした政治状況に陥っていた。まさにそのとき、西郷たちが中心となって開かせたのが世にいう「小御所会議」である。12月9日のことである。歴史の分岐点となる重要な会議だった。

     小御所会議から1か月も経たないうちに

 小御所会議は、まだ未成年の天皇をいただき、皇族、公家、藩主たちから構成されていたが、徳川慶喜は外されていた。それに比して倒幕派はまだ禁門の変や池田屋密議の主導者だった長州藩は参加が許されなかったが、薩摩藩は、身分的には下級武士の西郷吉之助(隆盛)と大久保一蔵(利通)が出席し、発言できた。
 そのような出席者たちだったから、公家中心の守旧派の発言力の方が強く、薩摩藩側の主張は必ずしも通らなかったが、野心家の公家・岩倉具視の恫喝と裏取引で、「徳川家の将軍職返上および領地の返納」という既定の方針を再確認するだけにとどまったのであるが、この再確認は西郷たちの武力革命派に武力革命実行の天皇公認を合理化させる口実となり、それから1カ月も経っていない年明け早々の1968年1月3日に重火器で武装した薩摩藩軍を主力とする武力革命派が幕府軍の失策に乗じて武装蜂起するのである。世にいう鳥羽伏見の戦いである。兵力的には幕府軍の3分の1しかなかった「官軍」は長州藩軍も加わって、江戸に向かって進軍を開始し、勝利していくのである。
 こうして「官軍」を詐称することに成功した薩長両軍は、大久保の発想で作らせておいた西陣織の「錦の御旗」を先頭に掲げて進軍し、幕府側の抵抗を排除し、井伊大老を送り出した譜代大名の井伊家の彦根藩まで「官軍」に取り込むことに成功して勝利していくのである。小御所会議での「決定」を大義名分として、待ってましたとばかり、今や官軍を名乗った薩長両軍は、当初、幕府軍側の思い上がりと判断ミスで突発させた戦闘ではあったが、こうして鳥羽伏見で戦端を開き、江戸へ江戸へと進軍を開始したのである。小御所会議からまだ1か月も経っていなかった早業である。
 そんな武装革命としての明治維新の戦略を公認させ、武力革命としての明治維新を成功させて近代日本を天皇制国家としてスタートさせたのが小御所会議だったのである。
 この小御所会議には付録がついていて、とりわけ大久保が幾つかの会議、会合、あるいは折衝で愛想を尽かしていた公家どもを、天皇親政の政治環境から外すために、明治時代に入るや、天皇巡幸を名目にしてまだ18歳だった天皇を江戸城に入城させて永住させ、政治の府とさせて、公家どもを政治の場から遠ざけることに成功したのも、小御所会議等での公家嫌悪感から導きだされた必然的結果であったことはまず間違いない。
 そして江戸を東京つまり東の京都(みやこ)と改称させてしまったのである。首都・東京の誕生である。それほど重要な歴史的会議を開催させた会場の小御所を、新聞社の営業戦略からわずか1時間少々の時間で全焼させてしまったわけだ。愚かなる花火打ち上げだった。
 たかが花火、されど花火である。外国では、革命記念日などで花火が打ち上げられることが多いというが、華やかに夜空を彩る裏に、歴史の闇に葬り去られた人々の怨念が潜んでいるのである。 (了)
「横浜日記」(273)2018年8月27日 梅本浩志
<花火に見る歴史残照=明治維新の歴史舞台>(中)

 つまり藩主自らの降伏と恭順の意を表していた会津藩の申し出を拒絶し、今日に至るまで福島の民たちが決して許すことがないほどに会津の街を破壊し、殺戮と破壊をほしいままにした長州(=山口)の藩軍の残虐な会津侵略作戦行動は、江戸城陥落を契機に官軍総司令官の任に就いて官軍内のイニシヤチブを握ることとなった長州藩がヘゲモニーを握ることによってあくどく遂行されることとなり維新戦争を変質させたと言えるのではなかろうか。それから10年後の西南戦争の遠因を、この会津攻略戦に見てもよいように思えるのだが。

     革命思想対立の結果としての西南戦争

 薩長維新軍は作戦行動中しばしば考えや意見を異にしたと伝えられているが、江戸城陥落と同時に総司令官が西郷から大村に替わったのには、そこに特に会津攻略に対する考えや意見の相違があったと見る方が自然だろう。
 西郷率いる薩摩藩は、幕末の1867年に開催されたパリ万博で、江戸幕府とは別に、「日本薩摩琉球国太守政府」の名で薩摩藩として出展し、共和政体のフランスへの接近を図り、西郷もジャン・ジャック・ルソーの社会契約論の翻訳書を読んでいたとも言われていて、一方の長州藩は伊藤博文たちをまずロンドンに密航させ、やがて維新成功後にはプロイセン(ドイツ)に派遣して、帝政のプロイセンに国家のモデルを求めたように、両藩の考え方や戦略にはかなり質的な違いが見られていて、江戸攻略を契機に西郷は大村に総司令官のポストを譲ったのではないか、と私には思える。
 こうした薩長両藩の思想の違いは、やがてプロイセンにモデルを求めて、天皇制中心の官僚主義的中央集権国家の宣言書たる明治憲法を制定していくのだが、フランスに接近し、大革命を成し遂げて共和制体制を実現したフランスから学んでいた西郷を尊敬する薩摩藩の戦士たちが維新後わずか10年にして西南戦争という形で、山県有朋のようなプロイセン型の帝政国家主義政治体制をモデルとし、天皇制軍閥体制を目指した長州藩奪権指導部に対して、決定的な対立へと発展していったと見るべきだろう。
 こうした過程で大村益次郎は徴兵制を中心とする近代帝政を主張し、実現していったのだが、その過程で大村が若くして暗殺された。
 江戸幕府はと言えば、対米不平等条約改定交渉の後でさらに足をのばして世界一周をして、世界至る所でユニオンジャックの旗を翻らせて支配しているイギリスの世界征服の実態をわが目で確認してきた幕閣の中心人物だった小栗忠順上野介が、イギリスの支援を受けている長州との妥協はあり得ないと徹底抗戦を主張して、幕府軍をフランス・ナポレオンの軍事システムをモデルにして改変しようとしたが、薩長軍との融和を主張する幕府内の恭順派に足をすくわれ、また最後の将軍・徳川慶喜とも意見が対立して、失脚させられて、幕府軍は自壊していった。会津の悲劇はその結果として生じたものと言えよう。
 なお江戸無血開城は、勝海舟と西郷吉之助(隆盛)との話し合いで実現したとの説が一般的だが、私には徳川家に嫁入りさせられ、最後まで江戸城にとどまって、西郷に江戸軍事攻略を避けてほしいと願って手紙を書いた、徳川家に嫁した篤姫との終生秘められていた恋心が、江戸城無血開城の最大の動機になったのではないかと見ている。
 西郷は武力革命遂行のためには、都市ゲリラ作戦も採用した人間であり、赤報隊の相楽総三たちを使って、上野で放火させたり、東山道の進撃にも先遣隊として利用したほどの徹底した武力革命派の人物であり、ロベスピエール独裁という形で徹底した共和制革命を断行したフランス革命を1つの革命のモデルとしていたほどの人物だったから、勝海舟の説得に簡単に応じるなどという浪花節的革命家ではないのである。

     革命思想における薩長の決定的対立

 われわれは学校で西南戦争が維新で主導的な役割を演じながら、冷遇された薩摩藩下級武士たちの不満感情から爆発したように教えられてきたのだが、実は革命思想の根元における考え方の相違から、発生したのではないか、と思えるのである。
 最終的にはフランス革命で実現されていった四民平等で自由な兄弟愛に満ちた共和制国家を求めた西郷吉之助を中心とする薩摩藩の武士たちが、帝政プロシャに範を求めて天皇制官僚国家にしようとした木戸孝允(桂小五郎)や伊藤博文といった二流、三流の長州藩指導部たちとの間に横たわっていた、根源的な政治思想と国家体制形成戦略思想との理念の違いが、西南戦争という形でまず爆発し、なんとか補完的な革命としての西南戦争という形で爆発していったのではないか、と私には思えてならないのである。
 おそらく坂本龍馬の船中八策を土台にして、一時的には天皇の歴史的権威を利用する形をとることによって過渡的革命戦術をとりながらも、身分制を廃して、貴族や長州藩出身官僚たち側近政治体制も無力化して、市民革命を成し遂げる文字どおりのご一新を西郷吉之助は実現しようと考えていたのではなかろうか。
 西郷の親友・大久保一蔵(利通)が江戸城陥落のほぼ直後に、まず天皇の取巻きを排除するために、若い明治天皇を江戸へ巡幸という形で遷都させ、公家たち側近を天皇から遠ざけたのも、そんな薩摩藩の市民革命思想から出たものではなかったか。
 西南戦争敗北後の自由民権運動が、そんな革命思想対立がもたらした西南戦争の別な形での展開だったと思えるのである。
 だから戦いに敗れて賊軍の汚名を着せられた薩摩藩の捕虜たちが、そんな思想犯たる捕虜を徹底弾圧し政治的、社会的に抹殺するために寒くて遠い北海道に送られて、西南戦争捕虜たちを政治的に隔離するためにわざわざ新設された国内極北の網走刑務所に身柄送付させられ、環境劣悪な監獄に閉じ込められて奴隷労働に就かせられ、悲惨な最期を終えさせたと私は見る。スターリンによる、ロシア革命後の赤軍総司令官でレーニンの同志だったトロツキーの暗殺と同じ構図を見る思いがする。
 こうした結果、明治維新後、敗戦を経て今日まで、日本の政治は長州藩系政治勢力に主導権を握られ、太平洋戦争敗北後も岸信介、佐藤栄作、安倍晋三たち長州人反動政治家どもにバトンタッチされて、明治憲法体制にいま復古させられてきているのではないか、と思うに至った私である。
 
     見殺しにされた長岡河井抵抗軍

 さて長岡北越戦争における現実は、薩長海軍に比して圧倒的に優勢な榎本武揚率いる幕府海軍を、東海道沖の遠州灘や日本海の長岡沖に回して、善戦している河合継之助の抵抗軍を支援させるという作戦をどうしてか幕府軍中枢は取ろうとせずに、敗走軍を救出させて蝦夷地(北海道)に避難させることを目的として、奥州の宮古湾に回送させるなどという後手後手に回る作戦をとったのであろうか。
 優秀だった幕府海軍になにもさせずに蝦夷地に回して空転させてしまったのである。海戦においてはせっかく勝てる戦いを敗北させてしまったのである。せっかく長岡藩が善戦していたのに、東海道と東山道では、こうして薩長を主力とする官軍が圧倒的に勝利することができたのである。
 陸地における戦闘で幕府軍は、会津藩を中心として結成された奥州列藩同盟連合軍の武力抵抗の動きを見殺しにしてしまった。官軍の総司令官を薩摩藩の西郷から長州藩の大村に移して維新のヘゲモニーを握ることに成功した長州藩系軍は、池田屋騒動弾圧に対する遺恨戦を最大の動機にしていたことが今や明らかであったにもかかわらず、北越長岡の戦いに勝利した幕府軍はいまや官軍の総司令官のポストを薩摩藩の西郷から長州藩の大村に移してからというものは、誰からも邪魔されることなく、会津藩内に入り、残虐をほしいままにしたのである。明治維新最大の汚点だった。
 この長州藩の残虐の体質は、やがて長州藩出身の成り上がり軍人・山県有朋たちによって、戦前の日本陸軍に受け継がれていって、日本軍のアジア侵略戦争の際の敵兵や捕虜あるいは占領地域住民たちに対する残虐行為へと受け継がれていったのではないか。
 会津が落城し、落ち延びていった新撰組の土方歳三は、敗走の途中、同志の近藤勇が京都・鴨川の河原で斬首曝し首にされたとの報を聞いて、会津城から脱出して間もなく、宮古に向かう途中で墓を作ってやり、宮古湾から幕府海軍の艦艇に乗って北海道に落ち延びていったが、この時、倒幕派海軍艦艇に東郷平八郎が1兵士として乗船していたと言われる。
 後のロシア・バルチック艦隊との日本海海戦に勝利した東郷司令長官は、幕府内の反対意見を押し切って、というより無視して、フランス人技師の指導とフランスの援助を受けて幕末に横須賀に世界最新鋭の近代造船所を造り、その造船所を接収した明治新政府が海軍の艦艇を造ったり修理するのに多大の貢献をなし、そのおかげで世界の海戦史上でも奇跡的な勝利と言われたこの海戦に勝利できたというのに、維新戦争中に北関東の地で官軍に掴まって河原で斬首虐殺された幕閣小栗忠順上野介を祀ってある菩提寺を訪れて、深く頭を垂れ、感謝したと伝えられている。

     恥ずべき長州藩軍人たち

 長岡の花火はそんな幕末、明治維新の菩提を弔い、念じ、河合継之助たちを今に偲ぶ、長岡市民たちの追悼と喝采を表現するページェントであり、デモンストレーションであろう、とテレビを見ながら思う私だった。
 私は、国内外における取材や家族を連れての旅行で、奥只見の地に、鉄道で1回、車で2回、河井継之助の終焉の地のダムを通るなどの旅行をし、ダム湖の底に沈んだ家屋の河井継之助終焉の部屋を再現した記念館を訪れたことがあり、終焉の部屋を再現した部屋とガトリング砲の実物大のレプリカを飾ってある記念館を見学したことがある。
 また2度目のスペイン取材旅行の際に、独裁者フランコを埋葬してある巨大な墓を見に行ったことがあるが、途中マドリッドの近郊の静かなたたずまいのカトリック教会に差しかかったときに、案内してくれた男性から「この教会に支倉常長が滞在していました」と説明を受けたことがあった。戦国末期にメキシコからスペインを経由してローマに到達した常長が、こんな静かな教会に滞在していたかと思うと、感動に近い感慨を覚えたものである。
 そんな常長をローマに派遣したのが文明の地・奥州だったのであり、河井はそうした奥州を誇りに思っていたことは疑いない。
 江戸幕府開祖の徳川家康もそうしたことを知っていたことは確かで、フィリッピンからメキシコへの太平洋定期航路を既にスペインが拓いていたことを家康は熟知していたという(注・「横浜日記」151号『400年前の人間愛と恩返し=今こそ生きる「夕鶴」』参照)。河合継之助は私に誇りある抵抗の精神を教えてくれた歴史的な人物の1人だったと言えようか。

     花火、それは敗戦直後最大の娯楽だった

 花火にまつわる明治維新のエピソードとしていま一つ、書き留めておくべきは、敗戦からまだそう時日が過ぎ去っていなかった頃に発生した史跡「小御所」全焼事件であろう。戦争でも空襲を免れた京都だったが、あろうことか鴨川で打ち上げられた花火の燃えかすが京都小御所の屋根に落ちてきて、全焼させてしまったのである。
 敗戦からちょうど9年目の1954年8月16日にその火災事件は起きた。敗戦からまだそれほど時日が経ていなかった当時だったから、せっかく戦災を免れて残っていた貴重な文化財を焼失させてしまうとはと、高校生の私でさえ不思議に思えたものだった。
 敗戦からまだそう時間が経っていなかった頃から米占領軍は、どうしてか爆薬としてでも使える火薬を使った花火の打ち上げは比較的早くから許していて、その延長線上で小御所花火焼失事件が発生したのである。
 太平洋戦争敗戦で、平和な時代にはなったものの、1950年の朝鮮戦争の頃までは、食糧難で物資不足に悩まされていて、娯楽といえばポンコツ化したラジオの番組と、すし詰め超満員の映画館で見る映画ぐらいなものだった。だからとにかく娯楽に人々は飢えていた。
 そんな敗戦の時代がまだ続いていた時季に、アメリカ占領軍は打ち上げ花火のページェントを被占領の日本人が実行することを許可したのだから、日々食べることだけに必死だった当時の人間には大変な驚きだった。花火は火薬であり、弾薬原料として貴重なものでそれまで私は見たことがなかった。それだけにそんな娯楽貧困の時代に見ることができた花火は、チョコレートとともに、敗戦国民を大いに喜ばせ、楽しませてくれたものであった。(つづく)
「横浜日記」(273)2018年8月27日 梅本浩志
<花火に見る歴史残照=明治維新の歴史舞台>(上)

 去る8月2日、NHK午後7時のニュースを見終わってなお見続けていると、新潟・長岡の花火が画面一杯に映し出されて、まさかこの花火大会を1時間15分もの長時間全国放送するとも思わず、つい最後まで見てしまった。
 夏の風物詩として日本では、全国至る所で花火大会が催されるのが年中行事となっていて、長岡の花火大会といっても驚くことはないのだが、NHKが地方の花火大会を長時間にわたって全国中継するという異例さに驚かされてそのまま見入ってしまった。長岡の花火は日本の花火大会で最大にして最高だと以前から聞かされていたこともあり、遂に8時45分の最終打ち上げまで見てしまったという次第である。
 私にとって、花火大会は敗戦から間もない時季に楽しめた最大の美のページェントであるとともに、歴史の激動、とりわけ明治維新と関係する思い出が結構あるからで、長岡の花火もそんな一つであるとともに、一度は見てみたいと思っていての、せめてものテレビでの観覧だったのである。
 そんな思い出の中で、量的にも質的にも日本最大と聞いていた長岡の花火大会は私にとって、明治維新初期から中期にかけて激烈に戦われた北越戦争にあって、切ない最期を遂げた河合継之助のイメージと重なり合っていて、感慨深く、かねてから1度は見てみたいと思ってきた私である。
 明治維新真っ直中にあって非業の最期を遂げた河合継之助の霊を弔う長岡市民たちの思いを心密かに表現するデモンストレーションではないか、とかねてから思っていて、そんな思いを、テレビの映像ではあるが、改めて確認できたように思えた。

     傲慢な「官軍」に毅然と抵抗した長岡藩軍

 幕末も押し詰まった1868年、大久保一蔵(利通)の思いつきで制作した錦の御旗を先頭に立てて、小御所会議での徳川家からの権力剥奪と経済力奪取の決定を楯にして、鳥羽伏見の戦いを手始めに進軍を開始したところから武力革命としての明治維新が始まる。その名も「官軍」を名乗った薩長同盟軍は、東山道、東海道、北陸道の3方面から江戸を目指して進軍した。
 江戸無血開城までは薩摩藩の西郷吉之助(隆盛)を総司令官にしての革命軍ではあったが、フランス革命の思想に影響を受けていた西郷の軍と、イギリスとプロシャの支援と影響を受けていた長州の軍とは、自ずと考え方や戦略に違いがあったとしても自然なことだった。
 そんな北陸路を進んだ主力は、山県小助(有朋)たち長州藩と岩村精一郎たち土佐藩を主力として進軍し、薩摩藩も西郷の実弟・吉二郎(隆広)を参加させていたが、この長岡での戦いで戦死している。その官軍だが、長岡まではまずは順調に進軍できたのだが、それ以上に軍を進めることができなくなってしまった。河合継之助が総指揮をとる長岡藩の抵抗に遭遇したからである。1968年5月2日のことである。
 なにがなんでも薩長軍に長岡藩を取り込み会津攻略の一翼を担えと迫る官軍に対して、河合継之助は隣の友藩である会津藩への進撃に加担するようなことはできないと参加猶予を願い出た。
 河井は、徳川方につく奥州同盟の中心と目されているものの、しかし歴史と文化の高さを誇る奥州の中心であリ、かねてから親しくしていた隣国の会津藩と、奥州藤原三代で光り輝いた平泉の文化を生み出し、あるいは戦国時代末期にメキシコを経由してスペインやローマに支倉常長を派遣させた仙台藩の卓見などを知っていたし、長岡藩にはなんの恨みもないその会津藩に武力攻撃などできないと拒否した。会津藩は既に薩長軍側に恭順の意を伝えていて、戦う意志のないことを通告していたのだから、会津攻略に参加することなどできないと拒否し、奢り高ぶっていた長州藩主導の要求を突っぱねた。
 突っぱねたといっても礼を尽くして、会談の場まで設けて、説得を試みたのだが、奢る長州藩側は聴く耳を持たず、物別れとなった。そのため河井たち長岡藩は中立を宣言して、官軍とも会津軍とも戦わず、いずれの側にも加担しない旨を通告した。
 仙台伊達藩とともに奥州の中心をなす会津の藩は、かの藤原家によって、先住民族アイヌとも平和共存することに成功し、豊かな金産出に支えられて経済力も豊かだった。北方貿易も盛んで、京都政治文化圏とは違う独自の政治文化圏を作り上げていて、往時には、とりわけ平泉の中尊寺金色堂の黄金で光り輝いた様は遠くヨーロッパにまで伝わり、マルコポーロをして東方・中国にまで足を運ばせ、その旅行記「東方見聞録」で黄金の国として紹介され、それがやがてヨーロッパ各国をアジアへ、アメリカへと向かわせる原動力となったほどだから、天皇支配の京都政治文化圏とは別の奥州は独立的な政治文化圏として存在していて、誇りが高かった。
 そこへ官軍の総指揮官が薩摩の西郷吉之助から長州の大村益次郎に代わってから、官軍の質と戦略が変わってしまい、奢り高ぶっていた官軍は居丈高に長岡藩に対しても会津攻略の官軍に加入せよと迫ったのである。それを河合継之助率いる長岡藩が拒否して、局外中立を宣言した。

     誇り高き武装中立の抵抗へ

 しかし奢り高ぶっていた長州藩を主体とする官軍は長岡藩の申し入れと局外中立宣言を無視して、傲慢に長岡攻めを強行した。主力の長州藩は砲4門を装備した最精鋭の奇兵隊6小隊を中心として、これに767名をつけた軍で構成して長岡藩領に進入し、他に薩摩藩兵740名も加わり、両藩合わせての主力軍に加えての合計3万名もの大軍だったが、官軍内で主導権を握っていたのが長州藩軍だった。そんな官軍は徳川家の中心をなしていたはずの井伊家彦根藩までも屈服させて官軍に組み入れることに成功するなどして思い上がっていた。だから長岡藩も容易に屈服させられるだろうとタカをくくっていた。
 そうした政治情勢の中で幕府を支える上で会津藩は中心的役割を果たしていた。幕末には首都・京都の治安維持を担っていて、かの新撰組を配下に置いていた。ところが徳川幕府の大政奉還の声明と小御所会議での決定で政治状況一転に直面した会津藩は、官軍に対する抵抗を断念して、進軍を開始した薩長軍に抵抗することはしないとの意思を鮮明にする藩主の書状を送って、恭順の意を表していた。
 しかし会津藩の配下にあった新撰組によって軍事弾圧され多数の犠牲を出した池田屋騒動の復讐への執念と禁門の変での敗北の悔しさに凝り固まっていた長州藩軍は、長岡藩の官軍への組み入れ拒絶と中立の意志表明を許さなかった。その長岡藩だが、薩長軍の前線攪乱作戦の影響を受けたこともあってか、藩内は百姓一揆や世直し一揆が多発していて、大混乱しており、とても会津藩攻撃に参加できるどころではないという事情もあった。
 ところが思い高ぶった長州藩はこれを許さず、「厳正中立」を宣言した長岡藩を攻撃し、維新戦争最大の闘いの1つと言える、長岡戦争が始まった。
 長岡藩軍の総指揮を取ったのが河合継之助だった。河合は確かに中立を表明、宣言したのだが、だからといって相手の言いなりになる人物ではなかった。最新鋭兵器をも装備した4大隊2000名の訓練された兵員で、攻め込む官軍に対して武装抵抗を展開した。
 こういう事態もあり得るとかねてから考え、準備していた長岡藩軍は、兵員こそ攻め入る官軍3万余に対して2000と圧倒的に少なかったが、その装備はすぐれて近代化していて、強力だった。
 そう指揮官・河合継之助は、あるいはこうした事態もあり得ることを考えて、かねてから不測の事態に対応対処する準備に怠りがなかったのである。若くして幕末の横浜に出向くなどして欧米諸国の最新事情も見聞すると同時に、ヨーロッパの商人たちとも知り合って、最新兵器を購入して、いざというときのために武装抵抗の準備をしてきたのである。

     壮絶だった河合継之助の戦死

 中でもプロイセンの武器商人エドワルド・スネルから購入したガトリング機関砲が凄かった。6つの砲身を備え、360発の連射ができる機関砲で、アメリカの南北戦争で北軍に勝利をもたらした最新鋭兵器だった。アジアではまだ3砲しかないと言われていたうちの1砲(安藤英男によると2砲)を購入して、河井自身が射撃したという。
 当時日本国内には長岡藩しかガトリング砲を持っていなかった。このガトリング機関砲の原理は現代のジェット戦闘機の機関砲の原理にもなっているというから、とにかく幕末の戦闘では、これに勝る最新鋭の武器はなかったのである。
 だが3万名余ものその大軍に加えて、東山道を攻め上ってきた1500の軍勢と北陸道を進軍してきた海道軍2500も長岡攻撃に加わって、わずか2000の長岡藩軍を包囲攻撃したのだから軍事の常識から言って、いくら最新鋭の兵器を持っていたとはいえ、攻撃軍は大砲なども持っていたのだから、長岡藩の抵抗には限界があったことはもちろんのことである。
 だが河合継之助率いる長岡藩の戦闘力と士気は衰えず、一度は長岡城を落とされたが、河井自らがガトリング砲を撃ちまくっての反撃で城を奪い返すなど、強力に抵抗した。
 このため、薩長両軍間で長岡攻略方針に分裂の気配さえ出てきて、長州軍の指揮を取っていた山県有朋(注・「日本陸軍の父」とも呼ばれていた軍人で、陸軍と官僚体制を作り上げ、退任後も政治的軍事的影響力を持ち続けた「元老中の元老」と呼ばれていた人間で、日本を破滅に至らせた国家体制を作り上げた政治家だった)たち奢り高ぶっていた長岡藩侵略長州軍指導部は官軍全軍総司令官・西郷吉之助(隆盛)の前線指揮を要請するしかないなどと思い詰めるほどに追いつめられたのだが、最前線で自らガトリング機関砲を撃ちまくって戦っていた河合継之助が足に敵弾を受けて重傷となり、会津を目指して撤退を余儀なくされるに至る。
 長岡藩軍はここに撤退を開始し、重傷の河合継之助を守って会津へと撤退していった。会津との藩境の奥山を通る八十里峠を超えて落ちのびていったのだが、現在の奥只見のダム(注・黒四ダムができるまでは日本最大の水力発電ダムだった)所在地の南会津郡伊北村塩沢にたどり着いたときには、もう河合継之助は絶命寸前となり、村医・矢沢宗益の家で身を横たえるのが精一杯の状態となり、8月16日午後8時頃に絶命した。鮮烈な戦いであり、壮絶な死だった。明治維新の戦闘でもっとも激烈な戦いだったと言われている。

     江戸幕府に見殺しにされた河井の抵抗軍

 もし幕府指導部内で江戸幕府打倒の軍事方針と戦略が統一され、確固としたものであれば、この長岡藩軍の激烈な抵抗によって、薩長軍の江戸攻略戦が成功したか疑わしいとさえ総括されているほどなのだ。
 幕府指導部が、徹底抗戦を主張する小栗忠順上野介の意見を退けたばかりか、罷免して、薩長軍の小栗虐殺を許しさえしなければ、あるいは口先だけは達者な勝海舟のような人間の意見を取り入れて、戦略さえ混乱させずに、戦っていたなら、武力革命としての明治維新が成功していたのか、疑問な状況にさえあったのである。
 つまり維新成功後に軍事学に長けていた、長州藩の大村益次郎が指摘していたように、圧倒的に海軍力が優勢だった幕府海軍を、海岸に近くて狭隘な、しかも徳川家の本領たる遠州(静岡)の海岸近くの狭隘な進撃路に配備して迎撃に備えていたなら、地理や土地事情を知りつくしていた徳川家地元の幕府が待ち伏せの反撃に出た上に、圧倒的に優勢な海軍力を駆使して、海軍艦船を東海道沖に配置して海から攻撃していたなら、東海道筋からの江戸攻め上りは不可能だったと言われており、一方の東山道を進軍してきた官軍主力軍に、新撰組など実戦経験が豊富な幕府軍が配備されていたこともあって、小栗忠順たち徹底抗戦派の指導が十分であれば、信州など山間地で山岳ゲリラ戦を展開し、そこへ北陸路での長岡藩軍の激烈な武装抵抗に出た長岡藩軍に対して幕府軍が少しでも連携し、軍事支援していれば、薩長軍がそう簡単に江戸にまで攻め上ることはできなかったはずなのである。官軍の戦費はつきかけていた事情にもあった。
 ここでいささか脱線する。大村益次郎についてである。彼は長州藩の軍事総司令官の地位にあると同時に、幕末から明治初期における軍事理論家でもあった。
 維新に際して江戸城陥落=徳川幕府崩壊までは、いわゆる「官軍」つまり征討軍の総司令官は西郷吉之助(隆盛)だったが、江戸城無血開城を境に征討軍の総司令官は、薩摩藩の西郷から長州藩の大村に変わっている。このことが官軍の維新戦争の後半、つまり会津侵略戦争の質を決定的に変えたのではなかろうか。 (つづく)

「横浜日記」(272) 2018年6月27日 梅本浩志
<全共闘運動弾圧の結果としての日大アメフット暴力反則事件>(その6)

 その事業内容が私の目から見れば、いかがわしく、およそ大学の事業としてふさわしいものかどうか、はなはだ疑問に感じざるをえないと言わざるをえない点をまず指摘しておきたい。インターネット情報によれば、同株式会社の事業内容として、不動産関連事業や保険業務があるという。大学が不動産関係事業を営んだり、保険代理店業務を行うというのは、どうしても学校法人である大学にそぐわないというか、異常である。
 最近では、国立大学でも学内に株式会社を設立することもあるらしいが、それら学内設立の株式会社は、理工農医薬学部など理工系の研究者たちが発見、発明、開発した学術的な成果を普及したり守り育てて資本主義社会の荒波から護り、経済社会に根付かせる過渡的な手法だと私は理解している。ところが日本大学のように、不動産関連事業や保険代理店業務を展開するなどといった、利益追求を目的とする営利事業を大学の名で行うとはいかがなものであろうか。  
 しかもその学内株式会社が、大学を全体主義的に支配する機関として存在し、特定の人間の私的利益を助長して私服を肥やさせるかと思うと、その存在力と機能によって甘い餌や忖度機能で教授や職員を縛りつけ、あるいは人事権をちらつかせてのもの言えぬ学内精神状況を作り上げ、およそ自由を生命とする大学の教授会や研究者、そして研究者でもある学生の自由を抑圧するどころか身分や地位の保全を脅かす気候・風土を醸成してしまっていることが十分考えられるだけに、このような一種の親衛機関を設置すること、設置しておくことはおかしいのではなかろうか。

     恩恵と特権に浴してのやりたい放題

 大学は学校法人として数々の特権や特典を保障されている。例えば、税務上の義務に関しても、一般の株式会社などと違い、宗教法人とならんで数々の減免優遇の扱いを受けているはずである。街中の株式会社であれば、所有している建造物や土地に対して、結構高額な固定資産税や都市計画税を課されているが、日本全土に広大な土地をもち、学舎、校舎、グランド、研究施設などを保有する日本大学グループは全体的にどのくらいの税務負担ですんでいるのであろうか。わが住居など、おんぼろとなり、地震に襲われれば家屋倒壊確率100パーセントのお墨付きを横浜市当局から通告されているが、そんな家屋と土地に対して、年10数万円もの固定資産税と都市計画税を取られている。
 大きな私立大学では、春1回の入試の際の受験料収入で学舎1棟が建つと聞いたことがあるが、そうした巨額の受験料収入に消費税とか所得税など課税されているのであろうか。
 もし同様の様々な税を課されているのであれば、日本大学は一体、毎年幾らの固定資産税・都市計画税を、あるいは受験料、入学金、諸学費等々に加えて、株式会社日本大学事業部の税負担額としていったいどのくらい支払ってきたのか、支払わなければならないのか、と考えてみたくもなるというものだ。
 附属高校などを含めた日大コンツェルン全体として、一体、毎年幾ら、本来なら納税しなければならないのだろうか。税務上の特典がなければ、納税額だけでコンツェルン日本大学の経営破綻・破産は必至であろう。
 その上に、日本大学は国や地方公共団体から巨額の交付金を支給されている。インターネット情報によれば、決算ベースで2016年度の日本大学に対する国庫補助金は88億6521万5708円で、地方公共団体からの補助金が56億2726万8109円となっており、合わせて144億9248万3817円と巨額な金額に達している。およそ145億円を国や地方公共団体から受け取っているわけだ。
 国民1人あたりおよそ120円も日本大学コンツェルンに支払っている訳である。この補助金に税務等の負担減免の特典を加えれば、巨大グループ日本大学はいったい幾ら甘い汁を吸い、国民が負担させられているのか。
 このような手厚い税財政上の特権的恩恵に浴している環境の中で日本大学は、利益追求を目的とする株式会社を、学内で、大学が100パーセント出資しての株式会社を設立して、不動産関連事業や保険代理店業務を行い、理事会を中心とする一部支配的人間が、甘い汁を吸っているという現実。
 一般の不動産会社や保険代理店なら、店舗を所有しているだけで、あるいは店舗やビルの一角を借りるだけで支払う金額は相当な額に達するはずだが、学校法人たる特権を有する学内であれば、そうした「必要経費」は免れ、税務的にも最小限の負担ですむのではなかろうか。株式会社日本大学事業部の収益が急増大してもさして不思議ではないのである。
 今日の日本大学問題の救いのなさの根元は実にこうした特権的なシステム、体制、土壌に根ざしているといっても、決して間違いないと私には思えるのだ。アメフット対外試合における暴力反則事件は、こうしたいわば「悪」の体制、体質、土壌、環境に深く根ざしているのではなかろうか。単なるスポーツ活動の反則騒動ではないのである。
 せっかく1968年に学生たちが、全共闘を組織して、体育会、応援団、暴力団、警察機動隊、佐藤政権総掛かりの「暴圧」体制に抗して、連日100数十名もの検挙・逮捕者を出し、重傷を受けながらも、学内の「悪」の体制を打破し、本来の大学の姿である自由自治を確立しようとしたのだが、これを野蛮な暴力で打ち崩し、阻止したところにこそ、今日の日本大学が陥っている無様の本源的な原因が存在するということができるのである。単なるスポーツ倫理からの逸脱ではなく、それは単なる1現象でしかないのだ。

     日本最大のマンモス大学

 日本大学が自民党実質永久政権の下で、全共闘運動弾圧による、より一層の抑圧的な体制、体質のままに日本最大の学生数を誇る、独占禁止政策の用語を借りれば「巨人」、つまり巨大企業体になってしまっているところに、今日われわれが見させられている救いなき醜態の無様の原因があるようである。
 とにかく日大コンツェルンの規模はどでかすぎるのだ。日大の学生数だけでも2015年5月1日時点で73、266人であり、早稲田大学の52、078人、明治大学の32,890人、慶応大学の33、625人を大きく引き離している。近畿地方の私立大学の学生数を調べてみても、近畿大学33、614人(2018年5月)、立命館大学32、600人(同)、同志社大学27、130人(2017年5月1日)といった具合で、日本大学の学生数は突出しているのである。
 そんな日本大学には、附属の幼稚園から小、中、高校に至るまで、北は北海道から南は九州に至るまで、様々な附属学校を有していて、直系の附属高校生徒数が29,075人、中学校生徒数が6、800名、小学校生徒数が620名が在籍しているという。これら学生、生徒数を合計してみるだけで109、761人が正規の日大コンツェルンに在籍している勘定になる。総数11万名にも達するマンモスである。
 インターネットで調べてみた数字なのだが、日大には、これら「正規」の大学、附属高校・中学校・小学校のほかにも日大とつながりが強かったり深い関係にある高校や中学校の学生、生徒もかなり存在するようだから、実態はどのような規模になるのであろうか。

     日大再出発に必要なこと

 こうした日本大学を統治し、君臨支配するのが日大理事会だという。その日大理事会は、今回のアメフット暴力タックル事件が起こされるまでは、体育会系そのものである相撲部出身の田中英寿理事長の下に、常務理事5人がいてその筆頭がアメフット部(前)監督の内田正人副理事長であり、その下にさらに28名の理事が存在していて、そうした理事会の絶対支配の下に大学本部があり、そのトップが歯学部出身の大塚吉兵衛学長が存在しているのだが、インターネットの絵図によると、その学長の下に「保健体育審議会」なるものがあって、どうやら大塚学長が同審議会の会長の任にあって、兼務しているようであり、アメフット部の監督をしていたかの内田正人(前)監督は同審議会の事務局長のポストを占めていて、田中理事長に継ぐナッバー2の実力者として、思うがまま、好きなように振る舞っていたようである。そんな機構の直属下に34の運動部つまり体育会系の組織が存在しているようなのである。
 大学そのものよりも高い位置にあって支配統治する権力、権威は絶大というより絶対的なものであり、統治の存在である理事会とその直下に存在する保健体育審議会、その保健体育審議会を牛耳ってきた事務局長たる内田正人の直下に位置して盲従する体育会系28運動部の構図、これら各部には専属コーチが配属されて一種の親衛隊となっていて、その親衛隊の下に突撃隊が配置されて突撃隊員たる体育会系学生たちは絶対服従を強制され、洗脳させられてしまっている。こうした絶対服従・絶対支配こそが、まさにあの日大全共闘を暴力的に攻撃した学内右翼を継承して今日に至っているのではないか。
 まさに今日の日大アメフット暴力タックル事件は、こうした日本大学が内蔵化し、体質化し、日大闘争弾圧・抑圧の歴史そのものから生れ出たものではないか。そうした歴史的本質から今回の内田正人を下手人とする対関学戦暴力タックル事件が起きるべくして起きたのではないか。こうした根深い一種の日大病を根治しないかぎり、いま問題となっている暴力タックル事件の本質的な解決はあり得ないことは明らかである。
 それを単なるスポーツの事件として、解決させようとしているのが、マスコミをはじめとする関係者全員の姿勢ではないか。ことが日大全共闘弾圧の結果として生じた問題であるだけに、姑息な事件収拾のやり方では、決して本質的な解決に至らないことは、どう考えても明らかではないか。
 アメリカンフットボールが、まだそのルールの分らなさから境界・部際スポーツに留まっており、そこに目を付けて日本大学の広告塔にしようとして、それをなにがなんでも推し進め、機能している以上、学内ファシズム支配体制そのものを取り潰し、学生自身の手で、真のスポーツを愛し、楽しめるものに変革しないかぎり、やがて出されるであろう「第三者委員会」なるでっち上げ機構の答申が出されても、なんの本質的解決にも至らず、何年か経つと新たなる日本大学事件が発生するだろう。
 もし日大内部に巣食っている一部の特権的存在が、まず自分たちが全員身を引いて、誰か新しい人たちの手で、主人公たる学生の意見を取り入れて、そのためには学生自治を完全に復活させて、抜本的な大学改革を断行しないかぎり「日大問題」の本質的な改革はあり得ず、しばらくの沈静化を待って、再びも三たびも、今回の暴力反則事件と同じような事件が起きるであろうことは、容易に考えられるのである。

     インターネットへの投稿文から

 この一文の冒頭部分に引用しておいた一文を再び掲示しておきたい。その原文のほぼ前半部分を一切私がコメントすることなく、以下に転載しておく。たまたまインターネットを検索していて発見した「2004年日本大学の現在」と題する一文の前半をそのまま書き写した一文で、「現役学生の証言」と題していた。執筆者の氏名も文章責任者あるいは編集者の氏名も書かれておらず、完全に信用していいかどうか分らないが、だからといって全く無視していいものかどうか、とも考えるからだ。日大内部の人間が、報復を恐れてゲリラ的に書いた可能性が十分あり、現在の日大について考えるとき、敢えて否定できない一文であり、参考になるかとも思えたからである。
 <現役学生の証言 どの学部にも学生会・学生自治会は存在していない。(学生自治って、何?=質問してもわからない学生がほとんど) 各学部とも、体連、学文連が並立する。それらを統括する学生団体は? ?学生自治会はないの? 自治会?ですか・・・」聞かれた学生は首を傾げるばかり。学内には学生自治権なる概念は存在しないらしい。 校舎管理はきつい、教室・施設使用許可は学校側の都合でキャンセルされることが多い。 オール日大文壇連が再建されたが、学生連合会などは存在しない。 各学部とも、検問や関東軍などの暴力組織の駐留は表面的に見受けられないが、交友会組織網が全学部に張り巡らされている。一朝、事あらば・・・交友会の体連OB(=関東軍OB)の猛者駆けつける。 最近、本部交友会組織が強化され、各学部交友会の上に乗った活動を開始している。 (施設使用の優先使用許可による特典で、交友会々員)を本部が、学部交友会から奪う局面も多い=高額な会費徴収による特典) 交友会組織はますます強化されている。 社研などの学術部門の学生主体の研究会、同好会などは全学部を通じて、存在しない。 理論問題は、全て大学研究室に集約されている。 徹底した当局直接管理支配が貫徹されている。2003年日大アウシュビッツ体制の完成は、鉄板の暴力団=関東軍の見えない先進的大学管理の現状となっている。 各学部の新校舎がそれを象徴している。>
 以上の文章は、誤字などを含めてそのまま書き写した。またそうした文章のあとに、新築建物、新築施設、経済学部の学生組織などが写真付きで紹介されているが、その分は紙面と都合からカットするので、インターネットから検索して、目を通していただきたい。 (了)

「横浜日記」(272) 2018年6月27日 梅本浩志
<全共闘運動弾圧の結果としての日大アメフット暴力反則事件>(その5)

 それを裏付けたものこそ、今回のアメリカン・フットボールの対関西学院大学との試合であり、選手に強要・強制した暴力反則プレイだったと私には思える。
 本来なら指示命令を受けた選手は、非条理な指示や命令が出されたときには当該の選手や、キャプテンあるいはコーチが疑問を抱いて、監督に対して異義を申し立てるべきところを、当時の日大アメフット部の場合には酷い指示・命令が出されても疑問さえ抱けない精神風土的あるいは心理的な状況が形成されていて、命じられた当該の選手はまるで催眠術にかけられたかのように、プレイから離れてゆっくりと歩いていた相手選手の足と腰に猛烈なタックルをかけて、かなりの重傷を負わせたのである。
 ところがさすがにそんな卑怯なプレイを行った自分に気づき、そんな自分を許せなくなったのであろう、その加害選手は試合終了後に控え室で涙を流していたのだが、その情景をテレビカメラがしっかりととらえていたことは記憶に新しい。
 大学の附属高校から上がってきた選手や、目を付けてスカウトしてきた選手を異常な学内状況の中に入れて選手たちの心裡を絶対的に支配し、直接、間接の指示・命令を出して絶対服従させ、従わない選手がいれば、肉体的、精神的な暴力をふるい、対外試合には出場させず、部内での地位を低下させ、選手生命を奪っていくという卑劣な行為を日常的に行い続けてきた日大アメフット部の現状が今回の事件で明らかになることは時間の問題だったといえる。 
 入試を受けて学力で正々堂々と入学してきているなら、監督やコーチに反抗してたとえ退部に追い込まれても、勉学と学術研究で新しい道を進めるが、あるいは他部へ移って好きなスポーツをすることができるが、そうではなくて入試とは別の回路を通って入学してきた、どこか後ろめたい影を宿していることを自覚している選手は、新しい道を選ぶことはできず、退学していかざるをえない。昔の黒人奴隷や江戸時代吉原の遊女の現代版といって間違いではなかろう。
 そんな絶対支配の世界で、大学の看板広告塔になってしまっている運動部の監督という総元締が、しかもほかならぬ大学ナンバー2の人物で、理事会を牛耳り、学内人事権をほしいままにし、株式会社日大事業部の役員でもある男であれば、そしてその監督のカーポ(注・アウシュビッツ収容所等のナチス・ドイツ強制絶滅収容所の囚人支配スタッフとして囚人の中から選ばれた、残虐支配を専らとする被収容囚人監視・管理スタッフ)と化した多数のコーチによって、学生選手たちは肉体的、心理的に追いつめられ、非道で卑怯な直接的間接的で多岐にわたる命令・指示に絶対的に従わなければならないところへ追い込まれ、追いつめられてしまっていたのである。運動部員とりわけアメフット部員たちは、一種のマインド・コントロールにかけられていたと言ってよいだろう。
 心理的に囚われの身になってしまっている人間には、反抗することなど思いもつかないことは、戦前の日本人や現代の新興宗教信者などでよくみられるではないか。事件を起こした当時の日大アメフット部の選手たちには、そうした催眠術的な状況に囚われていたのではないか。

     全共闘運動弾圧の結果としての反動締め付け体質

 諸悪の根元は、1968年日大全共闘運動に対して学内外の一種の反動アマルガム的な日大統治支配体制権力が押しつぶした結果なのである。その体制権力を支えてきたのは、学内ファシズム体制なのであり、それをさらに補強して一部の人間が安住し甘い汁さえ吸い続けられる権力体制となって、利己的支配欲を満たす異常異様な体質に大学全体がなってしまっていた状況にこそあるのだ。
 1968年の紛争以前にもまして学内全体主義体制が復旧し、モラルハザードが常態化したところに今回の日大アメフット部の「事件」が発生した、と私には思えてならないのである。
 そんな状況を物質的・体制的に支えるものとして考えだされた機関こそ、「株式会社日大事業部」の設立ではなかったか。この営利組織を創設することによって日本大学の体質が質的変化をきたしたのではないかと私は見るのである。
 私欲を満たすごく一部の特権階級的人間が存在し、そんな支配的人間を取り巻く一部の親衛隊的人間たちが、自分たちもささやかながら甘いおこぼれを頂戴したいとすり寄り、支配権力ヒエラルキーを形成していることが、容易に推量できるのである。
 体育会系学生と応援団学生たちを突撃隊として完全支配を貫徹し、その突撃隊を操る親衛隊としての日大理事会取巻きの特権官僚的な一部人間ども(例えば運動部の専属コーチたち)によって日本大学は浸潤されていたのではないか。1968年全共闘反乱以前よりもさらに悪質な体制、体質に変わってしまっていたのではないか。
 そんな異常な状況に対して学内では、誰もがそんな状態、状況が当たり前なのだというおかしな常識いや錯覚が状況的に形成されてしまっていたのではないか、そう私には思えてならないのである。
 このような異常さは私のような60年安保世代の人間にはとうてい信じられないことなのだが、どうやら大なり小なり現在の大学は、私立大はもとより国立大においても私の学生時代とは様変わりした管理運営体制が形成されているようであリ、そうした現実を見れば日本大学の今回の「事件」はなにも日本大学固有の特殊な問題としてとらえることは間違っているのかもしれないが。
 私がかって学んだ京都大学も管理体制が非常に強化されてしまっているようで、かつては自由に掲げることができ、それによって学生たちや市民たちに訴えることができていたいわゆるタテカン(立て看板)を掲げることも禁止されるようになったことがマスメディアで報じられたりして、大学の生命線とも言える人権としての自由が束縛されていることなどでもそうしたことが言えよう。

     京大での管理締め付けを体験して思ったこと

 最近私はこうした現実に直面して、得難い体験を味あわせてもらうこととなった一つの事例を書き留めておこう。
 もう齢(よわい)80歳を超えつつある、私と同年代のいわゆる60年安保世代の老人どもが、半世紀前に吉田分校(全学部の学生たち全員が通過することになっていた教養部の学舎、旧第三高等学校)の、当時の学生自治会の常任委員と常任委員会周辺のなんとか生き残っている人間どもが幾人か集まって、歩み進んだ人生の過去を顧(かえりみ)て、思う所を忌憚なく話し合ってみようと企画したことがあったときのことである。
 大学卒業以来57年、自分たちの来し方を振り返って、60年安保闘争をピークとした様々な闘争や運動を現時点から見てどのようにとらえ直し、その後の時代の変わりようを経た現在の諸状況についてどう見ているのか、おそらくまとまりがない話になってしまうだろうが、とりあえず語り合ってみるのも、全く無駄なことではなかろう、と思っての企画だった。
 学術研究、実業界、医学の世界、ジャーナリズムなどそれぞれに散らばっていったそれぞれの人間が、青春時代に思い描いていた将来世界と、それから半世紀余経って、みんなが経験し、思い、いま考えていること、感じていることを、率直に話し合うことにも、なにかの意味と意義があるかもしれない、との思いがあった。
 そんな語り合いの会場として京都大学の社交施設の「楽友会館」を使わせてもらおうと思い立った。もう私など京都を離れて半世紀余にもなる人間には楽友会館ぐらいしか、適当な会場は思いつかなかったし、知らなかった。
 早速私は同会館に横浜から電話をかけて「半世紀前に京都大学を卒業した人間ですが久しぶりに学生時代の友人たちで会おうということとなって、その会場として楽友会館をお願いしたいと思うのですが」と話すと、「まず使用申請書を提出していただかなければなりません。その申請書には現役の京都大学の教授の署名捺印が必要で、当会館が受け取ったあとそれを京都大学に回して、大学当局の許可を受けて、初めて使用することができますので、そのような手続きをとってください」と相手はいうのである。
 私の学生時代にはこのような煩雑な手続き作業など必要なかった、比較的自由に使うことができて、喫茶や食事を共にしながら学術のこと、研究のこと、親睦の集いなどに利用できたのだが、どうやらそうではないということが分った。たとえ郵送で使用申請書の用紙を取り寄せるにしても、1週間はかかるし、返送にも、急いでも同じぐらいの時間がかかるだろう。それだけならまだしも現役の京大教授に署名捺印を頼むなど不可能同然で、その労力や要する時間は大変なものである。なによりも現役の京大教授など誰1人知らないから、頼みようがない。
 名誉教授なら周辺に沢山いるから頼めるがダメなようである。たとえかっての専攻教科で現役の地位にいる教授に頼み込むことに成功しても、紹介してもらってやっとどなたか現役教授に頼み込んで、ようやく使用許可なるものを得られたとしてもかれこれ1か月はかかるだろう。横浜に住み80歳を超えた私のような卒業生にはこのような煩雑な作業はとうてい無理である。ということで半世紀ぶりのせっかくの会合を断念せざるをえなかった。
 反戦自由を伝統としてきた京都大学においてさえ、このような締め付けを行う大学管理体制強化の現実を思い知らされた体験をごく最近に味あわされた私である。比較的リベラルだった京都大学でさえこのような様(ざま)なのであるから、日本大学の抑圧的な管理締め付けはおそらく想像もつかないものになってしまっているに違いない、と私には思えるのである。

     不動産や保険にも手を出す大学とは

 つまり今日の日大アメフット暴力反則事件は、日大が歴史的に抱えてきた構造的体質的な問題から出ているというか切り離せないことを見逃してはならないと私は考えるのだ。
 それまでの圧政に抗して、革命とまで行かないまでも民衆が激しく抵抗したり、社会が大きな騒乱状態に陥ったりしたとき、まるで地震の揺れ返しのような反動的で全体主義的な圧政が布かれて民衆が政治社会的に窒息常態に置かれることは、ドイツ革命後のナチス支配、スペイン内乱直後のフランコ独裁、ロシア革命変質後のスターリン圧政等々で明らかであるが、1968年全共闘運動で暴力によって圧殺させられた日本大学でもおそらく同様な学内状況が形成されていったのではないか、と私は見るのである。
 そんな反動圧政の日本大学を全状況的に支配し、支えるようになった物質的構造物が、2010年1月7日に設立された株式会社日本大学事業部にある、と私には思えてならないのである。
 現在日本大学の最高権力者つまりナンバー1とマスコミで言われている、日大相撲部出身の田中英寿が2008年に理事長に就任し、その翌年の2009年7月に事業会社開設準備室を設置し、4か月後の11月には社名を決定し、年明け早々の2010年1月に日大100パーセント出資の「株式会社日本大学事業部」を発足させていったという手際のよさである。
 今回、暴力反則事件を起こさせた内田正人アメフット部(前)監督は、そんな田中英寿理事長に次ぐ学内ナンバー2の存在だったとマスメディアは報じている。田中、内田両実力者が学内右翼の体育会系の大黒柱であったことに注目しておく必要があるだろう。
 学校法人のはずの日本大学が資本金5000万円全額を出資して開設されたこの営利追求会社は、2017年12月決算でも69億6000万円もの売上げを誇るぼろ儲け急成長企業なのである。売上げに対する営業利益は5300万円だが、テレビでは営業利益が少ないのは、会社役員たちへの報酬が多額であることを示していると放送していた。(つづく)

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