横浜日記 2005

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「横浜日記」(号外) 05年12月28日 梅本浩志

 「横浜日記」のバックナンバー一覧を掲載します。2005年夏に書き始めてからのタイトルの一覧表です。05年中にはあと1本書く予定ですが、とりあえず29号までの見出しを目次風に並べてみました。どれか興味があるものを読む際に、その号だけを取り出して目を通すのに便利だと思います。
 この一覧表で、27号『言論弾圧・拷問虐殺「横浜事件」再審裁判傍聴の記』だけは、初掲載記事を部分的に修正して、完成稿として掲載いたしました。ニュース性の強い記事でしたので、とりあえず「速報」として傍聴メモだけから記事にし、その後、補強取材してごく一部に誤りを見出したりして、訂正いたしました。旧刑事訴訟法の裁判では証人宣誓を必要としないこともそうした補強取材で知りました。汗顔のいたりです。こうしてこの27号は、タイトルから「速報」の2文字を消して、確報といたしました。

「横浜日記」目次 『時代状況2005年=「横浜日記」』 梅本浩志

(1)05年7月31日 『69歳のメッセージ』
(2)    8月1日 『喜納昌吉の鎮魂歌』
(3)    8月2日 『日本よ、汝、いずこへ行かんとするや』
(4)    8月3日 『自民党の取材拒否問題』
(5)    8月6日 『永井誠一さんのこと、あるいは私の原爆記念日』
(6)    8月9日 『味覚の帝国主義』
(7)    8月10日『今日的な横浜事件』
(8)    8月20日『ナチズム考(1)』
(9)    8月21日『哀惜「信州の旅」』
(10)   8月23日『小泉流電撃作戦と「田舎の旦那衆」の慌てふためき』
(11)   8月25日『聖地・比叡山が特攻基地だったとは!』
(12)   8月26日『人生で最も大切なこと=明徳・苫小牧高校事件で思う』
(13)   9月12日『独裁権を与えた総選挙』
(14)   9月15日『山林無惨=木曽バカンス報告』
(15)   9月18日『ダメ政党のタカ派党首』
(16)   9月20日『ア・ラ・メモワール・ド・中内功』
(17)   9月24日『なにをなすべきでないか』
(18)   9月29日『日本人自身の血と涙で書いた日本国憲法』
(19)  10月18日『「横浜事件」裁判傍聴取材失敗の記』
(20)  10月20日『歌の出会い』 
(21)  10月27日『されど注記の凄さよ』
(22)  10月30日『フランス大革命の末裔』
(23)  11月1日 『2通の遺書』
(24)  11月2日 『大惨事小泉内閣への危惧』
(25)  11月15日『フジモリ問題』
(26)  12月8日 『真珠湾、広島・長崎、越後長岡』
(27)  12月13日『言論弾圧・拷問虐殺「横浜事件」再審裁判傍聴の記』
(28)  12月21日『伊勢佐木町昨今』
(29)  12月22日『中曽根の戦後史総括とその先にあるもの』

 以上。

「横浜日記」(29)  05・12・22 梅本浩志

<中曽根の戦後史総括とその先にあるもの>

 およそ1カ月前の11月22日の東京放送(TBS)での筑紫哲也の番組で、自民党結党50周年を回顧して、筑紫の中曽根康弘元首相とのインタビュー番組を放送した。なかなか興味ある中曽根の戦後史総括だった。
 中曽根は古い型の全体主義的ナショナリストで、自らの老醜を省みずロマンチストであることを自認しており、そうした日本浪漫派的発想で憲法改悪を生きがいにしている男だと私は見ている。小泉や安倍が新しい型の全体主義的ナショナリストであるのと対照的である。とはいえ、憲法改悪実現という1点においては、同床異夢とはいえ、新旧全体主義的ナショナリストは一致しているといってよいだろう。だから中曽根の戦後史総括はそれなりに重みを持っているのである。
 つまり、「憲法改正」を結党の綱領に据えた自民党が、戦後50年かかってようやく憲法改悪実現の入口にたどり着いた重要な結節環として、とりわけ重要だと中曽根が高く、強く評価している大きな政策として次の3つを挙げているのである。
 (1)非核三原則の導入、(2)国鉄改革、(3)小選挙区制の導入。中曽根にとってのこれら「三大政策」によって戦後史は、中曽根が悲願としてきた「憲法改正」の入口にたどり着くことができたというのである。それら3点について中曽根流の解釈と意義づけを紹介しておこう。
 まず(1)非核三原則(注・「日本は核兵器を、持たず、作らず、持ち込ませず」という日本国家としての原則)の導入だが、これは一般に解釈されているような意味とは正反対の中曽根流解釈が行われている。いわゆる革新派あるいは反核派が金科玉条に掲げている、反核国家・日本の実現という解釈とはまるで逆の意味づけがなされていて、なるほどと感心させられる解釈である。中曽根が言うには、米ソ対立を軸として形成されていた戦後世界政治の中で、日本を守るためには核武装が必要であった。そのためには米国の核の傘に入って、米国の核抑止力によって防衛しなければならなかった。つまり非核三原則の導入は日本の実質的な核武装だったのである。そう中曽根は言った。この中曽根発言で明らかなように、戦後の自民党政権はこのような発想で積極的に「非核三原則」を活用し、日本を実質的に核武装化してきたのである。だからこの原則によって、核は日本国内に持ち込ませないはずなのだが、沖縄基地問題や原子力空母寄港問題などが議論となり、核の日本国内持ち込みが問題になるとき政府が、口先だけで否定したり、いつもむにゃむにゃとごまかしてきたわけである。ちなみに「非核三原則」は佐藤内閣が1968年に表明し、1972年に国会で決議されたものである。
 (2)の国鉄改革は、中曽根が常日頃から自慢してやまないものだが、要するに、憲法改悪の最大の障壁となっていた社会党を潰すために、同党の最大の支持母体である総評を解体する必要があり、その総評の御三家の1つであった国労(国鉄労組)をなにがなんでも潰す必要があった。最強の労組だった炭労も三池闘争を山として衰滅し、全逓も先進的な活動家部分を官僚主義的に排除して衰亡し、日教組も急速に力を失って失速してしまい、最後に国労だけがとにかく残った。その国労さえ潰せば総評は解体し、社会党は潰滅する。中曽根はそう考え、戦略を練り、実行した。国鉄民営化という戦略である。非人間的ななりふり構わない中曽根の国鉄解体戦略は遂に中曽根の思惑どおりにうまくいった。そして社会党も解党同然の状態となって、名前も社会民主党と変えては見たものの、いまや青息吐息である。
 そして(3)の小選挙区制の導入。中曽根が言うには、小選挙区制になったからこそ小泉流ポピュリズムが可能になり、選挙で大勝できたのである。確かに米国の大統領選挙の予備選のような自民党総裁選挙を巧みに利用した小泉は、田中真紀子を引き入れて彼女の大衆的人気を最大限に利用して、国会議員以外の一般の自民党員から多数の支持を獲得して見事に総裁選挙に勝利した。自民党総裁はイコール宰相だから、いったん最高の権力をこうして獲得した小泉は、ポピュリズム手法を使って政敵を孤立させ、撃ち破り、止めの一撃を加えて党内独裁を確立した。小選挙区制では党本部公認候補しか党公認候補として立候補できないため、党中央に迎合することを余儀なくされるシステムとなっているが、こうした党本部の強大な権力統制が可能である「利点」を活用して、小泉執行部は党内反対派を徹底的に排除、粛清し、自民党を共産党的な中央集権的官僚主義独裁体制下に置くことに成功した。

 こうしていまや小泉は磐石の体制を固め、小泉チルドレンの親衛隊化に一層力を入れて養成に懸命である。83名いた新人代議士たちは、議員バッジをつけた直後に小泉も講師となっての新人講習会への出席を強要されて派閥に入らないよう戒められた。そして来る総裁選挙に向けて激烈な権力闘争が展開されるから、各新人はよく見ておくようにと説教された。新人たちは国会の前面に占めた議席から野党議員の演説に野次を飛ばすことを身につけさせられたばかりか、自民党内においても、党員が執行部批判を口にすると、一斉に「抵抗派!」と野次り倒していると伝えられている。
 それでも巧みに派閥に勧誘されてしまう新人議員が出て、その数が33名もに達すると、小泉執行部はそんな新人議員に対しても軽いテロでお前たちも抵抗派と同じ運命を辿ることになるぞとシグナルを送る。派閥に入らないで小泉に忠節を尽くす無派閥新人50名に対しては、「餅代」と称するボーナスを400万円与え、派閥に加入した元チルドレンには300万円しか与えずに差別を見せつけ、また無派閥として留まっているチルドレン50名だけを首相公邸での「忘年会」に招待し、小泉の指導に従わなかった元チルドレンには招待の声をかけなかったりしてテロのジャブを放っているのである。こうして「無派閥新人グループ」という「小泉派」を作り上げ、純粋培養し、親衛隊化して、次に備えているのである。「次」とは、後継者・安倍の下で憲法改悪を一挙的にやってしまうことである。後継者として安倍宰相を実現し、自分が院政を敷く腹積もりであることを小泉は隠そうともしない。
 来年10月には自民党総裁選挙が行われる予定だが、小泉はその総裁選挙には出馬しないことを明言しているにもかかわらず、再来年(2007年)にも「消費税は引き上げない」と次期首相の基本政策までも決めていることを明言している。また最大野党の民主党との大連立までありうることを口にし、前原民主党党首が憲法改悪主義者で自民党と思想や政策で同じような体質の持ち主であることを鋭く見抜いて、自民党へ誘い、引き込む意図を鮮明にしている。そして憲法改悪の前提となる国民投票法案を国会へ共同提案することまで自民、公明、民主3党間で合意するまでに、事態を進行させている。
 消費税を引き上げないということは、同税引き上げによって人気を失ってしまい、その結果、「憲法改正」に絶対的に必要な次期参議院選挙の圧勝を逃すことを予測し、恐れ、そのため憲法改悪が実現するまでは消費税を引き上げることは絶対的に回避しなければならないという戦略構想を小泉が固めていて、憲法を改悪してしまった2008年以降に消費税引き上げを断行するとの意図が明白に読みとれる。国民を騙しおおせるとの読みが働いているのだ。
 中曽根自身が「2007年問題」と言うように、その前段階として来年から再来年にかけて日本は政治的激動期に入る。まず自民・公明・民主3党の共同作業としての国民投票法の成立。そして自民党総裁選挙、参議院選挙といった大きな政治的行事と並行しての増税や社会福祉関係予算の削減等に伴う社会的弱者への犠牲転嫁と切り捨て等々。もちろん憲法改悪までは、そうした社会的弱者へのしわ寄せ政策は最小限なものに抑えて、大衆的な反自民党運動が顕在化しないように気を使うことを忘れてはならないと小泉は考えているはずだ。
 その先に本来あるはずなのが消費税の大幅引き上げである。タバコ税の増税などはまだごまかしが利くが、一律でおそらく税率が10パーセントになると予想される消費税の大増税は、さすが騙され続けてきた一般国民もようやく気がついて、大平内閣が間接税問題を中心とする増税で選挙に失敗したように、選挙民からの反撥をかうことは必至。選挙で勝てる公算は非常に少ない。
 今度の参議院選挙で自民党が勝利するというのは、改憲勢力で参議院の全議席の3分の2を確保するということである。それも、同じ改憲勢力でも、民主党や公明党の主張をできるだけ抑えて、自民党独自の主張をたっぷりと盛り込んだ憲法に「改正」しなければならないから、この前の総選挙(衆議院選挙)の時と同様、自民党が圧勝し、できれば単独で3分の2の議席を取れるような勝利を確実にしなければならない。小泉が「2007年も消費税は上げない」というのも、そんな「憲法改正」を念頭に置いていることは見え見えである。来る参議院選挙に圧勝さえすれば、一挙的に憲法を改悪し、消費税を大幅アップし、軍備を増強し、海外派兵を当たり前のように行い、治安維持強化を大義名分に公安警察力の強化を行うことが可能となり、実現する。
 そうした政治状況が形成されたとき、もう多くの国民は異議を申し立てることもしなくなり、たとえ後継者の安倍晋三の人気が落ちようとも、体制は磐石となり、彼の親戚である佐藤栄作(注)政権がそうであったように、安倍内閣は長期政権となることが大いにありうるのである。

 (注)佐藤栄作は岸信介の実弟、つまり安倍晋三は佐藤栄作の甥の子供にあたる。佐藤は、「非核三原則」を宣言し、米国のベトナム戦争に加担し、さらに68年全共闘運動を徹底的に弾圧した最高権力者であり、70年安保条約改定を強行し、現在の日米運命共同体体制を確立した総理大臣である。

 こうして中曽根が総括した3つの里程を乗り越えた自民党は、いまや中曽根たちが描き続けた憲法改悪と日本ナショナリズムの定着を現実のものとしたと言えるだろう。だがそれは暗い時代の再来でもある。場合によっては日本が核武装することだってありうる。その結果、加藤周一が暗く予測したように日本は核攻撃を受けて廃墟となってしまうかもしれない。それに反対する少数の人間はかつての治安維持法下のように徹底的に弾圧され、抑圧されるだろう。それもそう遠い先の話ではない。近未来の、十分ありうる話である。

「横浜日記」(28) 05・12・21 梅本浩志

<伊勢佐木町昨今>

 運動不足を痛感している私は、時々、横浜・伊勢佐木町を通って関内にまで歩くことがある。かかりつけの医者に行った帰りや、郵便局に用事があるときなど、足を延ばす。横浜に引っ越してからもう26年になるが、10年ほど前までは片道4キロほどの道も、往復歩いたものだが、今では帰りはバスにしている。
 たったの4分の1世紀の横浜居住だから、偉そうなことは言えないが、考えてみれば横浜が都市として発展し始めた歴史はわずか150年ほどだから、26年の居住歴もそうバカにしたものではないだろう。自然とそれなりの街の移り変わりを見てきたわけであり、感慨もある。特に伊勢佐木町は交錯する野毛や延長線上にある馬車道とともに、最も庶民的な街であり、その盛衰ぶりは日本の現代史を物語っていると言えよう。
 横浜と言えば、最近では元町だの「みなとみらい」地区だのが有名となり、若い人たちで賑わい、テレビのニュース番組のタイトルバックなどに使われることが多いが、やはり、パッとしなくなった伊勢佐木町ではあるが、この街こそが横浜の歴史を貫いているように私には思える。
 特に、文学にゆかりのある街として、私の郷愁をそそる。大佛次郎の生まれ育った赤門から伊勢佐木町までは歩いて10分ほどか。島崎藤村も一時、伊勢佐木町で実兄が営んでいた店「マカラズヤ」に住み込んで手伝っていたことがあり、山本周五郎も近くにいて、伊勢佐木町の古書店を散歩がてらに巡っていたと、行きつけの古本屋の親父は話していた。吉川英治も横浜で働いていた当時、この庶民的な街をしばしば歩いたはずである。
 実際、不思議なことに、今ではピンク(風俗店)とブラック(暴力団)の洪水の中に埋没しかかっているこの街に、古本屋が多いのである。どう見ても儲かっているとは思えない古本屋だが、業態を変えれば楽できると思えるのだが、親父たちが頑張っている。
 本来、伊勢佐木町は面であったはずなのだが、いまでは伊勢佐木町通り1本の線でしかない商店街となり果てている。
 唯一この街が面だと思わせる名残をとどめているのが古本屋である。ピンクの洪水の中で、古びた木造の建物で「古書買い受けます」などと紙切れに書いて頑張っていたり、2階はピンク店に貸してはいるが、1階に色あせた古本を並べて、親父が奥ででんと坐って動かない。もちろん集まる客層を考えてピンク本や成人用ビデオなどを中心商品にしている店もあるが、これはいたしかたない。
 そんな古本屋で、ドストイエフスキーやメルビルなどのおよそ売れるとは思えない作品を、店の最も目に付くところへでんと置いていたりすると、思わず「よう親父、頑張ってるな!」と声をかけたくなる。未明の吉野屋で牛丼を食う客たちの情景を歌った中島みゆきばりについ声をかけたくなるのだ。時流に抵抗して誇りを大切にする古本屋の親父たちよ。儲けようと思えば、ほかにいろいろ売るものがあるだろうに、頑なに意地を通す親父たちよ。
 私が労作『島崎こま子の「夜明け前」』を書くことができたのも、こんな伊勢佐木町の古本屋で、「島崎藤村全集」全19巻をなんと5000円で買うことができたからだし、河上肇の獄中書簡集『遠くでかすかに鐘が鳴る』上下2巻本を掘り出せたからである。わが伊勢佐木町に乾杯!

「横浜日記」(27)その2  05・12・13 梅本浩志

<言論弾圧・拷問虐殺「横浜事件」再審裁判傍聴の記>

 再三にわたる再審請求にもかかわらず60年間も放置され続けてきて、ようやく再審裁判が行われたときには、あれほど証言を切望していた「横浜事件」被害者たちも既に亡く、代わって証言台にたった遺族たちも許された証言の時間があまりにも少なかった。そんな中で遺族たちは故人の無念さを心に秘め、人権回復と社会正義が実現されることを切に願い、父たちを偲んで口を開いた。
 「改造」元編集部次長だった小林英三郎さんの長男・佳一郎さんが証言席に着く。息子だとはいえ65歳である。84歳まで働いた母(注・英三郎氏の妻)も今では91歳で、認知症となり、本来なら母が証言すべきところを自分がする。そんな自分の証言ではあるが、自分が直接体験したことに基づいて話したい。実は1996年に父が死ぬまで横浜事件に関して私は関心がなかった。事件当時、戦時中で、私は四国・高松に学童疎開していて、当時のことは断片的な記憶しかないこともあるし、不器用だが温厚で優しい父は、自分が受けた拷問について家族にほとんど語ることがなかったからだ。
 しかし、父の死後、遺品を整理していたとき、横浜事件に関する書類が沢山出てきた。その遺品を整理していくにつけ、父の無念の思いを知り、父の遺志を微力ながら受け継ぐ思いで、再審の運動に参加してきた。60年もの歳月が経った。そして遂に公開裁判が開かれることになった。ここに私は、弁護士の皆さんと司法当局に深く感謝する。この歴史的誤りを二度と繰り返してはならない。審理を尽くして、無罪判決を切望する。佳一郎さんはそう語り終えて静かに下がった。

 事件当時、「政治経済研究会」のメンバーで逮捕、拷問された高木健次郎さんの長男・晋さんが証言席に着く。父が逮捕されたとき、自分は2歳だったこと。人から佛のような人といわれ、柔らかい人柄で、優しく、面倒見がよく、しかし信念の強い父だった。そんな父は、拷問で口を割ったことを話そうとしなかった。しかし私は、父の身体に内出血の痕を見たことがある。父はなにやらぷすぷすと話していたが、それは拷問の際、木刀で殴られ、腫れ上がり、正座もできないほどに痛めつけられた痕だった。
 父は平成7年に死んだが、司法当局を許せない。客観的で証拠に基づいた事件の再検証を行ってもらいたい。父は共産主義者でもなく、扇動者でもなかった。倒閣運動に加わった事実もない。私は非常な怒りを感じる。必ずや、無罪を信じている。晋さんは淡々とそのように話した。

 最後の証人として、「中央公論」編集部員だった木村亨氏の「2番目の妻」のまきさんが証言台に立った。裁判長が坐って話していただいて結構ですよ、と心遣いを見せたが、まきさんは「いや、私は立ったまま話させていただきます」と姿勢を正した。再審運動の中心となり、無念のうちに死んだ夫のことを思っての自然なパフォーマンスだったことは間違いない。尋問するのは内田剛弘弁護士。前回に引き続き、この日も深紅のネクタイを締めての登場である。拷問により虐殺され、心身に一生消え去ることのない酷い傷を受けた犠牲者たちの血や無念を象徴する赤いネクタイである。
 尋問の冒頭は、いまや故人となった木村氏の人柄についての陳述から始まる。かつての大逆事件の真相を求めた過去について、中学時代学校長の公金横領不正事件を学校新聞で告発しようとして見つかり、あわや退学処分にされそうになったことについてなど。木村亨氏はまさに天性のジャーナリストだったのである。戦後、「世界画報」編集長時代に、あの「731部隊」について、日本で最初に報道した大スクープをものしたジャーナリストだったこともこの「横浜事件」裁判再審法廷の席で明らかにされた。
 故人の言葉の陳述から証言が始まった。でっち上げは許せない、この国には貸しがあり、それを取り立てなければならない、昭和天皇が人間宣言をしたとき、すかさずわれわれのほうが人権宣言を出すべきだった、横浜事件に勝つことが即ち人権宣言なのである、といったことなどを。
 次いで、拷問がいかに行われたのか、具体的に「夫の言葉」を淡々と述べる。横浜山手署に留置されての取り調べは、イコール拷問であった。土間に坐らされ、裸にされて丸太の上に坐らされ、「天皇の命令でお前なんか殺してもよい、小林多喜二(注・治安維持法容疑で虐殺された作家)のことは知っているだろう」と言って、(14人もの)特高刑事が一斉に殴りかかり、竹刀で殴り続けたこと。しかしそれでも何度も否定すると、さらに激しい拷問が行われ、気を失うと水をぶっかけられ、意識が朦朧としたところを、押さえつけられ、腕をつかまれ、自白調書なるものに母音を押させられたこと。その「自白」を夫は大変悔しがり、生涯苦しめ続けられて、拷問の夢を見ては目を覚まし、そのことを日記に書き留めたこと。
 戦後「笹下会(ささげかい)」を結成して、拷問した特高刑事たちを告発し、有罪に追い込んだのだが、彼らは誰1人としてサンフランシスコ講和条約の恩赦を理由に獄に入ることがなく、夫たちを無念がらせたこと。国連に訴えたとき、拷問場面を再現してみせたこと。そしてまきさんは、昭和51年(1976年)に笹下会が主催して、山田無文禅師を導師として横浜事件犠牲者の追悼法要を執り行ったこと、そうした行動の中で横浜事件が反戦つまり戦争反対の考えを持ったものに対する弾圧であったことなどの木村亨氏の感想を伝えた。
 さらに木村まき証人は、夫から聞いていた他の拷問犠牲者たちの悲惨な模様を淡々と陳述する。森さんの夫人が弁当を差入れのため持っていったとき、夫は両手を後ろ手に縛られて、夫人の目の前で動物のように弁当を食べることを強いられたこと、和田さんの夫人が警察から「死す」との電報を受け取り、警察に行ったところ、夫は裸にされ、丸太のように転がされていたこと、浅石さんは独身のまま獄中で虐殺され、両親も亡くなり、浅石さんのお墓がどこにあるのか、戦後50年余不明であったこと、彼の婚約者はある日突然、彼から婚約破棄を通告されたが、その意味が分からなかったが、戦後、横浜事件が明らかにされてきた中で、彼が婚約者を巻き添えにして迷惑をかけてはならないとそうした婚約破棄を通告し、彼の真意が初めて分かったこと、婚約者への深い愛情を再確認したこと、そしてその彼は拷問によって虐殺されたことを戦後になって知ったこと。
 淡々と証言する木村まきさんとそれをメモしつつ聞く私。だが彼女の証言が川田定子さんの拷問場面に達すると、私の目は思わず涙がこぼれる。川田さんが生前、和歌山県の老人ホームにいたとき、まきさんは2度、会いに行って、話を聞いたことがある。「優しさの塊のような天真爛漫な素敵な女性」だった川田さんは、ここでは書けないほどの屈辱的で非道な拷問を受けた。
 全身裸にされ、正座させられた足の間には角材が挟まれ、折れた竹刀で一斉にぶっ叩かれ、陰部を露出させられて、そこへ棒を突っ込まれた。特高刑事たちは「天皇の命令でお前なんか殺せといわれている」と怒鳴りつけた。彼女は「生きてここを出ることができたなら、乞食してでも、全国各地をまわり、一軒一軒、表札を見て、ここにいる特高刑事の家を見つけ出して、家に火をつけてやる」と念じて、拷問に耐えたという。
 木村まきさんの証言は、この後、代用監獄がいまなお置かれていて、拷問の温床になっていて、国際的な問題になっていること、川崎喘息に苦しみながらも、夫がジャーナリストとして活躍し、「731部隊」のスクープをものしたことや、ジャーナリストだから、個人を超えて横浜事件について書き留めておかなければならないと、病気の身体に鞭打ったこと、晩年には「裁判を見届けなければ死ねない」、「生きているうちに再審裁判の勝利は間に合うのかな」、「もう何十年間も訴え続けているのに、裁判所は棄却を繰り返している。俺が死ぬのを待っているのかな」などと口にし、日記にも書いたこと、などを語った。
 そして最後に、まきさんは、「もう少し再審決定が早ければ、何人か生きていたのに。私たち(注・「横浜事件」被告たち)が犯人ではありません。国家犯罪だと思います。司法がその犯罪に加担したのです。裁判所ははっきりとそのことを認めて、司法の、裁判所の戦争責任をはっきり認めて、謝罪してほしい」と結んで証言を終えた。一般傍聴席からその時、期せずして拍手が起こった。動員された人々ではなく、幸運にも抽選にあたって、静かに傍聴していた市民たちの遠慮しがちな拍手だった。

 この後、検察側が横浜事件が問題になった時点ではもはや治安維持法が失効していたのだから、免訴にすべきだとの、まことにナンセンスな反論を行った。聞いていて、哀れを感じ、愚劣を思った。司法とはなによりも「ジャスティス」(社会正義)を実現するものではないか。だから米国の司法機関の建物には大きく「ジャスティス」と書いてあるのではないか。正義の根本は人権擁護である。
 それが事件当時の証拠書類を隠滅しようとして、占領軍などからの責任追及を恐れた裁判所が一切の関係書類を焼却したが故に、証拠調べが行えず、裁判は継続不能になったと言い張り、またもはや治安維持法が失効していたのだから、事件はなかったことにしよう、などというまやかしの司法手続き論で裁判をうやむやのうちに終わらせ、被害者の人権や名誉を回復させないまま、この非道な事件を闇の中に葬ろうなどという検察側の態度は、正義を司るもののすることではない。検察も裁判所も、被害者たちに心から詫びて、土下座して謝るべきである。
 それにしてもどうして、法律専門家を自認する人間は、こうした本末転倒した、木を見て森を見ない、まやかしの手続き論で、重大な人権侵害を有耶無耶の闇に葬ろうとするのか。そうすることによって許してはならない、あってはならない国家権力犯罪の土壌と環境を保存し続けようとするのか。

 この日で横浜事件の裁判は結審となったが、終わるにあたっての弁護側最終弁論で明らかにされた故・海野晋吉弁護士(元「横浜事件」弁護人)のメモの一節が印象的であった。こう回想しているのである、「敗戦となって、横浜事件の審理にあたっていた横浜地裁は非常に慌てていた。一刻も早く裁判を終結させようとしていた。何度目か裁判所に足を運んでいたある日のこと、中庭で書類を高く積み上げて燃やしていた。その中にはきっと横浜事件の関係書類があったはずである」。確かに横浜事件の裁判関係書類はほとんど燃やされてしまい、そのことを理由にこの60年間、日本の裁判所は、横浜事件拷問被害者に対する無罪判決を行わないばかりか、被害者たちの人権救済や謝罪を行っていないのである。判決日は来年2月9日に言い渡される。

「横浜日記」(27)その1  05・12・13 梅本浩志

<言論弾圧・拷問虐殺「横浜事件」再審裁判傍聴の記>

 昨日、横浜地裁で治安維持法によって非道な弾圧で冤罪をでっち上げられたばかりか多数が虐殺された挙げ句、有罪判決を受けて言語に絶する苦痛を受けつつ全員死んでしまい、遺族たちが被害者の無念の遺志を引き継いで、60年前の冤罪に対して無実を叫んできた「横浜事件」の再審裁判があった。
 前回10月17日の第1回裁判の折にも傍聴に出かけたものの、抽選に外れて不可能だったが、それに懲りずに再び朝から傍聴に出かけた。関内の横浜市役所(横浜ではどうしてか市役所のことをもったいぶって「市庁」という)前でバスを降り、横浜球場公園を突っ切って、地裁が面する大通りに到達した。空は、見事なまでの青空である。
 今日で結審になると言う。証拠調べとして、拷問被害者たちが生前に残しておいたフィルムが上映されるとも言う。どうしても今度だけは傍聴の幸運にありつきたいものだ、と願いつつ、地裁ホールに入った。渡された整理券番号は「37」番。前回は「15番」と割り切れた番号だったから、見事に抽選に外れたが、今度は割り切れない素数だから、必ずや当たる、とファイトを燃やす。
 掲示された抽選結果もがつがつと見ないようにし、ゆっくりと発表番号を見る。見事に「当選」。36番は外れていたから、あわや外れるところだった。裁判公開の原則も、くじ運頼みでしかない、日本のデモクラシーではある。これでバカンス裁判、「愛のコリーダ」裁判、そして横浜事件再審裁判と歴史的人権裁判を遂に傍聴することができた。
 バカンス裁判の最高裁敗訴判決の後の記者会見で原告の山口俊明記者が「裁かれたのは最高裁だ」と叫んだ毅然とした口調をつい思い出す。「愛のコリーダ」裁判での被告・大島渚監督の弾劾官ぶりの姿も思い出された。両裁判ともこの「横浜事件」の弁護人の内田剛弘弁護士が主任弁護人だった。人権擁護一筋に活動されてきた内田弁護士のなんとも爽やかな晴れ姿である。
 法廷の傍聴席総数の半分近い26席は記者たちに割り当てられ、私は最後列で記者席の末席の隣に坐る。新聞記者諸君の表情や反応がすぐ近くで見られるという効能ある席でもある。隣の60歳ぐらいの傍聴者にどこから来たのか、と聞いてみる。東京からだという。往復1000円以上もの交通費を使って、わざわざ傍聴に来たのである。もしくじに外れていたら、このおそらく定年退職して安い年金で生活している人物は、交通費と時間とを無駄にしたところである。この日もまたそんな人々が多数いたことを忘れてはならない。
 それに比して記者諸君への特権ぶり、優遇ぶり。しっかりと取材し、いい記事を書けよ。そう思って坐っていたら、「これから撮影に入ります」と裁判長が宣言。だがテレビカメラは日本テレビ(4チャンネル)ただ1台。スチール写真カメラマンもたったの1人。その頃、記者席にはたったの3人。冗談じゃないゾ、記者諸君、そして報道ジャーナリズム機関。報道各社の支局は横浜地裁の周囲に集中しているのだ。地裁の目の前には朝日新聞と時事通信の支局、歩いて5分以内に日経、NHKの立派な支局などが。公共放送を自認して、偉そうなことを言っているNHKは、なぜテレビ・カメラを持ってこないのだ。
 撮影が終わり、裁判が始まってから、各社記者様たちが、ダラダラとではあるが、さすが廷内に入ってきた。こうしてようやく記者席は埋まっていったが、それでも2、3席は最後まで空席だった。取材しないのなら、そのように裁判所側に事前に届けておきたまえ、記者諸君。その分、抽選に外れた一般傍聴者が傍聴できるのだから。

 開廷宣言直後、裁判長が証拠として採用した映画フィルム・ビデオ版の上映を命じる。今では故人となってしまった再審請求「被告」の元中央公論編集者・木村亨氏が、公害病の喘息に苦しみながら、おそらく自らの死を予期してか、生前74歳の時、1989年に制作しておいた貴重な証言映像である。『横浜事件を生きて』という題が付いてある。上映時間1時間ほどのフィルムだ。
 私の知識としてある事実、そしてまだ知らない数々のおぞましい、戦慄すべき拷問、弾圧の証言。初めて知ったことの幾つか。確かな根拠は不明だが、治安維持法で検挙されたもの20万人、そのうち特高警察により拷問を受けて殺されたもの2000人という説もあるとか。そして「横浜事件」では63名が検挙され、いずれも非道などという言葉では表現できない残虐な拷問を受け、獄中で4名が死亡。敗戦前の保釈で釈放されたものの直後に死亡したもの1名、釈放後3年以内に死んだもの1名。午後の遺族の証言では、さらにこの「横浜事件」で夫が検挙され、拷問されてショックを受けたり、検挙・拷問に伴う被害者家族の経済的困窮から赤ん坊を死に至らしめられた事例なども明らかにされ、これはアウシュビッツ以上だと思った。私はポーランドのアウシュビッツ強制絶滅収容所を2度、見学したが、アウシュビッツの囚人たちでさえ、これほど酷い拷問は受けていない。
 映像はさらに恐るべき事実を明らかにする。この横浜事件を指揮した人間(「人間」と呼んでいいものかどうか)は、当時の内務省刑保局長・唐沢俊樹であり、その唐沢は60年安保当時の岸内閣の法務大臣になった男だと言うのだ。私が学生時代の60年安保闘争の直前に、岸内閣が成立させようとした警職法改正法案の中心となった男がなんと横浜事件でっち上げの総指揮官だったのである。言論知識人を拷問し、殺害した権力犯罪人だったのだ。この警職法改正法案が戦前の治安維持法を再来させるものだと、当時学生だったわれわれが強く叫び、廃案に向かって全力挙げて運動し、遂に国会での成立を阻止したことは実に正当であったことが、この「横浜事件」再審裁判で明らかにされたのである。
 そして本日(13日)知った新事実によると、この唐沢の背後にA級戦犯として巣鴨プリズンに収用された平沼騏一郎がいて、その平沼がこの冤罪事件を画策した黒幕だったということを最初の「横浜事件」弁護人の海野晋吉弁護士が確信していたということだが、その平沼は戦後、A級戦犯でスガモプリズンに入った。その平沼の孫世代の親戚に平沼お赳夫がいるが、彼は第1次小泉内閣の経済産業大臣となった。そして岸信介自身がA級戦犯中のA級戦犯であることは衆知の事実である。その孫がいまや小泉の後継者と目されてちやほやされている安倍晋三・現官房長官だ。「横浜事件」は戦後60年間、切れ目なく綿々と今に続いているのである。
 このフィルムはさらに重要な事実を告発してゆく。国連でも再現されたという14人の特高刑事たちの拷問の修羅場場面などだが、ここではとても書ききれない。そうした中で木村「被告」は叫ぶ、「横浜事件裁判に勝利するときこそが、私どもの人権宣言の日です」。フィルムはこのほか、戦後もなお警察での取り調べの際に拷問がよく行われていて、それが今なお数々の冤罪事件を産んでいるのだと、新憲法下で拷問や自白強要が禁止されているはずの戦後においてなお拷問されて自白を強要された体験を持つという女性証人の口をとおして訴える。最後は木村「被告」が「これは私の遺言です」と語る講演会場でのシーンで終わる。

 午後も別のフィルムが上映されたのだが、ここではとても紹介できない。その後で4人の「被告」遺族が、証言に立つ。
 この再審裁判には際立つ特徴があった。普通の裁判と全く異なる手続きとして、証人に対する宣誓がなかったことである。「横浜事件」が戦時中から敗戦直後にかけて引き起こされ、旧刑事訴訟法によって裁判が行われ、今回の再審も旧刑事訴訟法によって審理が推し進められるので、なんと宣誓がないのだ。そしていま一つの顕著な特徴は、拷問、冤罪の直接的当事者であり、戦後幾度も再審請求をしてきた、被害者たる「被告」が60年間という長期にわたった裁判のために全員、死去していることだ。配偶者さえ、死去したり、高齢に伴う認知症となってもはや証言できず、この日証人になった人たちも、木村亨夫人のまきさんさえ「2番目の妻」で、他の証人は息子や娘たちである。だからこの日の証言は全て、再審請求者たちが言い残し、文章にしておいた言葉や姿を語り伝えるだけ、とならざるをえなかった。 
 最初に証言に立ったのは平舘道子さん。再審請求者の拷問被害者の1人である元満鉄東京支社調査室主任・平舘俊雄氏の娘である。娘とは言え、既に71歳。この年齢そのものに、横浜事件の非人間性、残酷さが現れている。
 道子さんが9歳の時に父が治安維持法違反だとして、神奈川県警特高に逮捕されたときの体験を語るところから証言が始まった。母親は酷いショックを受け、母乳が出ずに生まれたての妹が餓死しかけたこと、自分の妹は全く幸いにも生き延びられたが、父と同様に逮捕され拷問を受けた平澤さんの娘さんは亡くなったこと、母に代わって父が留置されていた横浜寿署に何回か差入れに行った時の「恐ろしい男たち」。目の前に腰縄を縛られて歩かされていく黙って通り過ぎた父の姿を見て、身動きができなかったこと。そうして持っていったせっかくの差入れ弁当も「1割か2割しか本人に渡されなかった」という母の話。
 淡々と事実を語りながら、東京大学大学院を卒えて、国立金沢大学経済学部教授を最後に定年退官したという道子さんは学者らしく治安維持法とその体制について総括した。「治安維持法は人の心の中まで規制する強力な仕掛けです」、「当時の軍国主義教育ではなんでも全体の責任とされ、私自身もなんの責任もないのに平手打ちされたことがあります」、「非常に屈辱感を感じましたが、異議申立すれば非国民とされ、ものも言えない状態で、社会を窒息させました。横浜事件はそういう大きな仕掛けです」、「そういう仕掛けの中で、家族の中で最も弱いものが犠牲になりました。幼い子供が犠牲になったのです」。
 証言を終えるにあたって道子さんは次のように、国家に対して責任を問い、要求を突きつけた。「第一に、昭和20年(注・1945年)9月から10月にかけての横浜地裁の横浜事件に対する裁判が誤りだったことを認めて欲しい。第二に、治安維持法に関して、法そのものと法が引き起こした結果について、当法廷がどう考えるのか、司法人としてどう決着をつけるのか。第三に、このような人権侵害行為は、早急に救済すべきことは当然であるべきなのに、再審請求を行った拷問被害者が全員死亡するまで放っておいたことなどについて、司法人はどう考えるのか」。
 この重い求めと問いかけは、司法人とともに日本のジャーナリスト全員に対するものであることを、われわれは肝に銘じなければならない。特に若い記者諸君!

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