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「横浜日記」(79)その5 06・12・19 梅本浩志
<虐殺された教育基本法>
教育を不当支配してきたもの
第10条(教育行政)では、「教育は、不当な支配に服することなく、国民全体に対し直接に責任を負って行われるべきものである」と明確、明白に書かれている。この重要な条文もまた空しくされた。
教育はまさに「国民全体に対し直接に責任を負って行われるべきものである」と明記されていたのであり、決して国家権力や「システム」に対して顔色をうかがいつつ行われるべきものではなく、まして責任を問われるべきものではなかった。
だが現実はどうか。どのようにされてしまったか。いまや教育に携わる人間たちは自民党権力や「システム」に顔を見るようにしむけられ、顔色をうかがうように強制され、強要されている。決して国民全体に対して行われてはおらず、責任を負うことは求められていない。
教育の現場は、自民党権力と官僚及びボスたちに支配され、統制され、彼らに対してだけ「直接に責任を負って行われるべきもの」となっている。地方にあっても知事たちボスによって任命された教育委員と称する官僚どもが教科書選択から教員管理に至るまでほぼ完全に支配し、教師たちは窒息状態になっている。抵抗するに抵抗する組織としての日教組は闘うだけの力量は奪いつくされ、無力であり、もはや存在していないに等しい。
孤立した教師たちは、自分の殻に閉じこもって、権力からの攻撃を防御するのに必死である。大多数は孤立して、孤独に。校長をはじめとする管理者たちのご機嫌を損じては大変な災厄を招くのだ。いま教師たちに精神神経障害患者たちが急増していることは、病院の精神神経科外来待合い室をのぞいてみればよく分かる。学校名を印刷した封筒を持っていたりするから、分かってしまうのだ。
日本の教育はいまや自民党権力と「システム」による「不当な支配に服」させられているのである。このことを象徴するのが日の丸掲揚と君が代斉唱の強制である。天皇もさすがに呆れ、正義とは縁遠くなってしまった東京地裁でさえ教師側を勝訴させたほどの酷い状況がいま、日本の教育界を支配しているのである。
特に酷いのは石原都政下の東京都の教育現場である。この第10条を守ろうとして処分攻撃と闘っている少数の良心的な遵法の教師たち。この法律規範を破壊し続けてきた自民党国家権力。
そして同条第2項の「教育行政は、この自覚のもとに、教育の目的を遂行するに必要な諸条件の整備確立を目標として行わなければならない」の文章は空しさをこえて皮肉である。「この自覚」が全くないばかりか、戦後教育を圧し潰すことに血眼だった国家権力が、そんな「目的を遂行する」など矛盾も甚だしいではないか。
彼らが「整備確立」に励んだのは、ただただ土建業界に利益をあげさせ、そのことによって選挙基盤を確立し、政治資金という名のカネをポッポに入れて、相互共存、相互共栄を図ろうとしただけの話である。こうして今日、教育の世界は荒廃し、人間は崩壊し、教師たちや子どもたちが地獄の日々に耐えさせられているというのに、学校の建物と運動場だけは、実に立派なものとなっているのである。
第11条(補則)「この法律に掲げる諸条項を実施するために必要がある場合には、適当な法令が制定されなければならない」については、ここに検証し、論及する必要はないであろう。改悪された教育基本法ではこの補則条文が「法令の制定」と独立させられて、非常に重要な役割と機能を持つのだが、改悪されるまでの教育基本法では、第10条までが内実の全てであり、補則はあくまで10条までの目的を達成するための補則でしかなかったからである。
その補則が、10条までの全てを自民党権力と「システム」によって虐殺されてしまった以上、いまや検証し、論及しても、無駄でしかないからである。
止めの匕首
教育基本法がまともに生きることができたのは、わずか10年だった。1947年に公布されてから日本の教育は、日本の民衆とりわけ日教組に結集した教職員の力によって、生命力を維持され続け、教育の現場は活況を呈した。
だが1957年2月25日に、安倍晋三の祖父・岸信介が政権をとってから、教育基本法殺しが始まった。
岸内閣が発足してから36日後の同年4月2日に佐賀県教祖に対する刑事弾圧が行われたのをきっかけとして、10月24日には愛媛県教委が教職員に対する勤務評定実施を通達、これに対して日教組が勤評反対闘争を全国的に展開するが、愛媛県警察は警官隊を出動させて弾圧、年末の12月20日に全国都道府県教育委員長会議が勤務評定試案を了承し、文部大臣は即座にこの教育委員長会議の決定を支持する談話を発表した。
これを契機として岸信介を頂点とする自民党権力は教育基本法の骨抜きと破壊を本格的に開始し、教育反動化が露骨に行われ出した。翌年に入るや、58年3月に文部省が小中学校における道徳教育の実施要綱を発表、7月には小中学校長に対する管理職手当法を成立させ、ほぼ同時に小中学校学習指導要領改訂案を発表、8月に入って文部省は道徳教育義務化のための施行規則を改定した。
こうした教育基本法殺しの自民党権力と文部官僚および地方教育委員会の統一した戦略的攻勢は、当初は警職法改悪、後半には60年安保闘争および三池闘争といった華々しい運動や闘争の陰に隠れて目立つことはほとんどなかったが、国家権力の教育反動化を目指し、目論む攻勢は執拗に、着々と押し進められたのである。やがてそれはボクシングにおけるボディ・ブローのように、民衆の抵抗運動の力を弱める効き目をあげてくるのである。
そして教頭や副校長制度の導入といった管理体制の強化が押し進められ、教育現場への締め付けと抑圧は、苛烈なものへと強化されていき、日教組は確実に闘争力を削がれ、弱体化し、教育基本法を守る力は存在しなくなっていったのである。
こうして教育基本法は確かに1957年までの10年間は新鮮で力強い鼓動を響かせて、生き生きとし、子どもたちは自由な空気を胸一杯吸い込み、育っていった。
しかし、それから以降の50年間というものは、教育基本法は国家権力と「システム」によって虐待され、虐め抜かれ、足蹴にされ、強打され、手やロープで首を絞められてきた。肉体だけではなく、精神にも危害が加えられ続け、神経はずたずたにされ、心的外傷症候群に日夜苦しめられる日々が続き、死に体の状態にあった。
だが教育基本法の生命力は予想以上に強く、頑健で、光り輝いていたから、これまで生き続けてこられたのである。しかしもう息も絶え絶えで、ぐったりと大地に横たわっているのが精一杯だった。
そこへ岸信介の孫が、祖父が果たそうとした夢をいまこそ完全に実現するのだと、横たわった教育基本法に匕首を突き刺し、完全に殺害してしまったのである。「教育基本法改正」とはこうした半世紀かかった殺害劇の結果だったのである。その逆ではない。
自分史との重なりあい
私はいま、自分の過去と教育基本法の殺されていった歴史とを重ね合わせてみている。この法律が殺され始めた1957年は大学に入学したばかりだったから、それ以降の半世紀にわたる私の人生は、教育基本法殺害の歴史と重なりあっている。
2回生の時に勤評反対闘争にわずかに関わり、その年だったか翌年だったか、3週間ばかり京都市立山科中学校で教職実習に参加したが、教師にはならなかった。人を教えるなどという大変な仕事はできないという思いからだった。当時、「でもしか先生」という言葉が流行していて、これといった能力や適性がない就職不能者は「先生に『でも』なるか、先生に『しか』なれない」という意味だったが、教職とはそんな生易しいいい加減なものではないことを痛切に感じたものだ。
ただちょうど勤評制度が導入されつつあるときで、教育現場を経験したことは貴重な体験だった。若手の教師たちと仲良く意見交換する機会を持たせてもらったが、1年後の安保闘争の街頭デモで、ジグザグデモをしていたとき、ふと目をやると彼らが見守って盛んに拍手してくれ、声をかけてくれたことが今でも思い出される。
就職してからは、文部省記者クラブに配属されたものの、わずか3ヵ月間で配転されて、まともな取材はできなかった。しかし、このとき日教組の槙枝書記長と知り合い、後にポーランド「連帯」と日本総評とを提携させる絆となった。「連帯」運動が高揚していた1980年には槙枝は総評議長になっていたからである。
東京都庁と京都府庁の記者クラブに在籍したことがあったが、教育現場の取材をしなかったことは深く反省するところである。ただ66年だったか67年だったと思うが、日教組大会が滋賀県大津市の滋賀会館で開催されたとき、右翼が街頭宣伝車を数十台列ねて押し掛け、暴力的に挑発したのを取材したことがあり、一種の社会的危機を感じたものである。高校時代のおとなしかった同級生が教師になっていて、右翼に対する防衛隊となってピケの最前列で闘っていたのが印象的だった。
やがて日教組が大会や教研集会を開催しようとすると、右翼が会場所有者の地方公共団体に「貸すな」「押し掛けるぞ」と脅迫して、おそれをなした会場所有者が、会場を貸さなかったり、いったん貸しながら取り消すなどして、問題となり、国際的に笑い者となる時代が到来した。まさに憲法違反であり、教育基本法違反だった。
1982年、私はパリで朝日新聞ヨーロッパ総局長だった根本長兵衛氏一家に招かれて食事をしながら会話しあったが、そのとき根本氏は、日教組のような公然たる大組合が大会や集会の会場を貸してもらえなかったり、取り消されたりすることは、ヨーロッパでは考えられないことで、フランスなどで話題になっている、と話してくれたことが印象的である。
教育基本法の忠実な守護者であり、使徒だった日教組は、既にこの頃、国家権力と「システム」から市民権をはく奪されてしまっていたのである。そして遂に教育基本法は虐殺され、安倍政権によって止めを刺されたのである。
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