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■ククリックド・プラモード(タイ、元首相) 「日本のおかげでアジアの諸国はすべて独立した。 日本というお母さんは難産して母体をそこなったが、産まれた子供はすくすくと育っている。 今日、東南アジアの諸国民が米英と対等に話ができるのは、いったい誰のおかげであるのか。 それは身を殺して仁をなした日本というお母さんがあったためである。 十二月八日は、我々にこの重大な思想を示してくれたお母さんが一身を賭して重大決意をされた日である。 我々はこの日を忘れてはならない。」 ( 十二月八日、現地の新聞「サイアム・ラット紙」において ) ■ラグ・クリシュナン(インド、元大統領) インドは当時、イギリスの不沈戦艦を沈めるなどということは想像もできなかった。 それを我々と同じ東洋人である日本が見事に撃沈もした。 驚きもしたが、この快挙によって東洋人でもやれるという気持ちが起きた。 (昭和44年「日本経済新聞」) ■ブン・トモ(インドネシア、元情報・宣伝相) 我々アジア・アフリカの有色民族は、ヨーロッパ人に対して何度となく独立戦争を試みたが、全部失敗した。 インドネシアの場合は、三百五十年間も失敗が続いた。 それなのに、日本軍が米・英・蘭・仏を我々の面前で徹底的に打ちのめしてくれた。 我々は白人の弱体と醜態ぶりをみて、アジア人全部が自信をもち、独立は近いと知った。 一度持った自信は決して崩壊しない。 日本が敗北したとき、 「これからの独立は自力で遂行しなければならない。独力でやれば五十年はかかる」と思っていたが、独立は意外にも早く勝ち取ることができた。 ■ラダ・ビノード・パール(インド、極東国際軍事裁判判事・法学博士) 要するに彼ら(欧米諸国)は日本が侵略戦争を行ったということを歴史にとどめることによって、自分らのアジア侵略の正当性を誇示すると同時に、日本の一七年間(昭和3〜20年、東京裁判の審理期間)の一切を罪悪と烙印する事が目的であったにちがいない。 ・・・・・ 私は1928年から1945年までの一七年間の歴史を二年七ヶ月かかって調べた。 この中には、おそらく日本人の知らなかった問題もある。それを私は判決文の中に綴った。 その私の歴史を読めば、欧米こそ憎むべきアジア侵略の張本人であるということがわかるはずだ。 それなのに、あなた方は自分らの子弟に 「 日本は犯罪を犯したのだ 」 「 日本は侵略の暴挙を敢えてしたのだ 」を教えている。 満州事変から大東亜戦争にいたる真実の歴史を、どうか私の判決文を通して十分研究していただきたい。日本の子弟がゆがめられた罪悪感を背負って、卑屈、頽廃に流されていくのを私は平然として見過ごすわけにはゆかない。 あやまられた彼らの宣伝の欺瞞を払拭せよ。 あやまられた歴史は書き変えなければならない。 (昭和二十七年十一月五日、広島高等裁判所での講演) ■朴 鉄柱(韓国 平成二年一月逝去・六十八歳 、韓日文化研究所 昭和四十二年十月) 「ソウルから日本を眺めていると、日本が”心”という字に見える。北海道、本州、四国、九州と、心という字に並んでいるではないか。日本は万世一系の御皇室を頂き、歴史に断絶がない。それに対して韓国は、断絶につぐ断絶の歴史で涙なくしてみることはできない。」 「現在の日本の自信喪失は敗戦に起因しているが、そもそも大東亜戦争は決して日本から仕掛けたものではなかった。 平和的外交交渉によって事態を打開しようと最後まで取り組んだ。 それまで日本はアジアのホープであり、誇り高き民族であった。 最後はハル・ノートをつきつけられ、それを呑むことは屈辱を意味した。 『事態ここに至る。座して死を待つよりは、戦って死すべし』というのが、開戦時の心境であった。 それは日本の武士道の発露であった。 日本の武士道は、西欧の植民地勢力に捨て身の一撃を与えた。 それは大東亜戦争だけでなく、日露戦争もそうであった。 日露戦争と大東亜戦争ーこの二つの捨て身の戦争が歴史を転換し、アジア諸国民の独立をもたらした。この意義はいくら強調しても強調しすぎることはない。」 「大東亜戦争で日本は敗れたというが、敗けたのはむしろイギリスをはじめとする植民地を持った欧米諸国であった。 彼らはこの戦争によって植民地をすべて失ったではないか。 戦争に勝った敗けたかは、戦争目的を達成したかどうかによって決まる、というのはクラウゼヴィッツの戦争論である。 日本は戦闘に敗れて戦争目的を達成した。 日本こそ勝ったのであり、日本の戦争こそ、『聖なる戦争』であった。 ある人は敗戦によって日本の国土が破壊されたというが、こんなものはすぐに回復できたではないか。 二百数十万人の戦死者は確かに帰ってこないが、しかし彼らは英霊として靖国神社や護国神社に永遠に生きて、国民尊崇対象となるのである。」 ( 昭和42年10月 ) ■H・G・ウェルズ(イギリス、歴史学者) 「この大戦は植民地主義に終止符を打ち、白人と有色人種との平等をもたらし、世界連邦の礎石をおいた。」 ■ジョージ・S・カナヘレ(アメリカ、ハワイ日本経済協議会事務局長・政治学博士) 日本占領軍がインドネシア民族主義のために行った種々の仕事の中で、最も重要なものの一つは、正規軍及び准軍事組織を創設して、それに訓練を与えた事である。 (中略) インドネシア人が軍事訓練を受けたことの意義は極めて重要なものであった。 これが後のインドネシア革命軍の大部分の将校と何千の兵士となり、復帰してきたオランダ勢力と独立戦争を戦う際の基盤となった。 日本によって与えられたこのような機会がなかったならば、戦後のインドネシア民族革命の経過は違ったものになっていたであろう。 ■バ・モウ(ビルマ元首相 独立宣言より)・・ビルマは現在のミャンマー 約五十年前ビルマは三回にわたる対英戦争の結果その独立を失えり、英国側はアジアに対する掠奪的野望を以て此等の戦争を遂行せり。 英国はさらにその伝統的陰謀賄賂及び想像し得るあらゆる詐欺及び術策の武器を使用せり。 ・・・・・ ビルマ人は徐々に搾取され時の進むに従い総ての国民的実質、莫大なる物資的資源、機会、文化、言語、さらに遂にはその生活様式までも失い・・・愛国者は挺身的精神をもって鎮圧、入獄、流謫、拷問及びしばしば死そのものを甘受して突進して来れり、これらの英雄はビルマの生存のため苦難を受け遂には斃れたり。 ビルマ人はアジアを結合せしめアジアを救う指導者を待望しつつありしが遂にこれを大日本帝国に発見せり。 ビルマ人はこのビルマに対する最大の貢献に対する日本への感謝を永久に記録せんことを希望するものなり。 (一問に百答 日下公人 PHP研究所) ■モハマッド・ナチール (インドネシア元首相) 大東亜戦争というものは、本来ならば私たちインドネシア人が独立のために戦うべき戦争だったと思います。 もしあの時、私たちに軍事力があったなら、私たちが植民地主義者と戦ったでしょう。 大東亜戦争とはそういう戦いだったんです。 ■アーノルド・J・トインビー(イギリス、歴史学者) 第二次大戦において、日本人は日本のためというよりも、むしろ戦争によって利益を得た国々のために、偉大なる歴史を残したと言わねばならない。 その国々とは、日本の掲げた短命な理想であった大東亜共栄圏に含まれていた国々である。 日本人が歴史上に残した業績の意義は、西洋人以外の人類の面前において、アジアとアフリカを支配してきた西洋人が、過去二百年の間に考えられていたような、不敗の半神でないことを明らかに示した点にある。 (1965年十月二十八日、英紙「オブザーバー」) 英国最新最良の戦艦2隻が日本空軍によって撃沈されたことは、特別にセンセーションを巻き起こす出来事であった。 それはまた永続的な重要性を持つ出来事でもあった。 なぜなら1840年のアヘン戦争以来、東アジアにおける英国の力は、この地域における西洋全体の支配を象徴していたからである。 1941年、日本はすべての非西洋国民に対し、西洋は無敵でないことを決定的に示した。 この啓示がアジア人の志気に及ぼした恒久的な影響は、1967年のベトナムに明らかである。 (昭和43年三月二十二日「毎日新聞」) |
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トインビーの論評が、日本の「世界史」、「日本史」の教科書に堂々と載る日が待ち遠しいものです。
2006/12/23(土) 午前 3:56
アメリカは、1941年7月18日、アメリカ陸軍長官・海軍長官からルーズベルト大統領に中国からアメリカ人が操縦する150機の爆撃機で9月から10月にかけて東京・大阪・京都・横浜・神戸を奇襲爆撃で焼き払う作戦計画が提出され、大統領による承認がなされる。
7月21日には、中国戦線に派兵していたフライングタイガース隊を核とした日本本土への先制攻撃作成が大統領、海軍長官、陸軍長官らの署名のもと認可された。
7月25日には在米日本資産を凍結。
8月1日に、日本に対しても石油輸出の全面禁止という厳しい経済制裁を発令した。
40年から41年にかけて民間会社を通じ、必要物資の開拓を進めたがアメリカ政府の干渉によって契約までたどり着かない上、仏印への和平進駐及び満州増派に伴う制裁が実施され、物資の供給が完全に絶たれることとなった。
対日制裁を決めた会議の席上、ルーズベルトも「これで日本は蘭印に向かうだろう。それは太平洋での戦争を意味する」と発言している。
2014/9/28(日) 午後 2:23 [ 高砂のPCB汚泥の盛立地浄化 ]
掠奪と搾取
350 年にわたりインドネシアの香辛料など独占的に収奪したオランダは、19世紀に入ると、強制的栽培制度を導入し耕地の5分の1(実際は半分)にわたって、コーヒー・砂糖・藍などのヨーロッパ市場向け作物を強制栽培させた。
これによる巨額な収益は国家予算の3分の1を占めた。
インドシナ半島東部を支配したフランスは、無主の土地に没収令を出して、申告のない土地を収奪しフランス人らに無償で与えたため、農地を奪われた農民は小作人からさらに債務奴隷へと没落した。
イギリスは、インドの綿織物輸入で利益を上げていたが、産業革命で自国の綿製品が盛んになると、インドの綿製品には課税しイギリスの綿製品には免税して逆輸入させてしまった。
これによりインドの紡績業は大打撃を受け、織物都市のダッカの人口は激減した。また、茶の輸入により入超になったイギリスは、中国へ流出した多額の銀を取り戻すためにインドにけし栽培を強制し、大量のアヘンを中国に密輸して暴利を得た。
財政悪化を招いた清はアヘンの密輸を取り締まったため、イギリスはこれを口実に戦争を仕掛け、香港を租借した。これが悪名高いアヘン
2017/5/5(金) 午前 8:35 [ 壮年老い易く学成り難き ]