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いじめ関連の報道において、「いじめっこ」にも「まるで集団ヒステリー状態のマスコミ」にも「いじめ問題を語るコメンテーター」にも、そして「いじめられっこ」にも呆れているので、普段、時事ネタを扱っているこのブログでは一切「いじめ問題」を扱っていなかった。 今後も「いじめ問題」は取り扱う気は無いのだけれども、いい加減に“いじめ・いじめられの人間社会を生き抜いている大人たち”が振り回されることがどうかと思うので一回だけ記事にするさ。 そもそも「いじめは無くならない」で結論は出ているのは一致した見解かと。無くならないものを無くそうとして議論しているテレビ番組やらwebサイトがやたらとあって、結局のところ、まるでブームのごとく、今、語っておけ!ってな軽薄な姿勢が尚更現在進行形でいじめられている子供たちを絶望に追いやっているような。 自分の心が読まれていないと信じ込んでいる大人ほど、子供には見透かされているものだと、自分が子供の頃を思い出せば容易に想像がつきそうなものなのだが遥か前の記憶なので、その大事な部分が飛んじゃっている大人の多いこと、多いこと。 よくもまぁ、全国ネットで軽々しく「死んではダメだ!」などと言えるものだと開いた口がふさがらない。 子供にも死ぬ権利はある。死という人生の究極の選択を考えている一人格に、「死んではダメ」とは子供を馬鹿にしているのだろうかとさえ感じる。 愛する家族や恋人の一言ではあるまいし、赤の他人の「死んではダメ」で思い止まる程度の悩みならば、短い人生で命を絶とうと思うはずも無い。子供だって死は怖い。それでも死のうとしている時に投げかける言葉の重さをマスコミもテレビ業界もネットの自称・識者も一秒でも考えているのだろうか? 大体、自分たちに当てはめて考えるという想像力を発揮する行為さえ放棄している大人が、どのツラ下げて、「死んではダメ」と言えるのだろうか。 自分たちが子供のときに、あからさまに上辺の言葉とそうでない言葉の判断は既についたのではないだろうか? むしろ子供のときの方がそういう言葉を敏感に受け取っていたとさえ思う。 さて、こんなニュースソースがある。 再びいじめ自殺予告文 「豊島」の送り主と同一? (ソース元:Sankei Web) (一部抜粋)
「前回指摘した教師は何もしてくれなかった」「この手紙が着くころには死んでいるかもしれない」などと自殺をほのめかす一方で、豊島から発信した理由を「通勤、通学の人が多く、人物の特定ができないようにした」などと説明し「いじめをなくせない文部科学省にたいする挑戦」「教育基本法の改正に活用してください」などといった記述もあった。 伊吹文明文科相が「身近な人に相談してほしい」と呼びかけていることにも触れ、「(相談して)何をしてくれるのですか。相談しても意味がない」などと記述。法務省や警察OB、弁護士会と司法書士会から派遣された人材で組織する24時間体制の「こども人権対策室」を自治体に設置する「子供の人権安全法」を制定するよう求め、「加害者の親に悪意がある場合は子供の親権の一時停止または家庭裁判所による権利の剥奪(はくだつ)をすること」などとも記されていた。 自分を人質にして文科省を振り回し始めたわけですな。 この件をマスコミが以前よりも大々的に扱わない気持ちも理解できる。 そもそも1回目の手紙の取り扱いを文科省が誤ったという気がしなくもなく、自業自得という気もするが・・・「いじめをなくせない文部科学省にたいする挑戦」という発想はいただけない。 なんで文科省に怒りのベクトルを向けるかなぁ。 「挑戦」なんぞせずに、文科省とだけでなく周囲の大人たちの協力を仰いで、一緒に自分の置かれている事態の改善をしようと、なぜにできないのだろう。 本当にいじめられている子供の行動なのかと疑いたくもなる。死を考えるほどのいじめに遭っているのに、文科省と戦っている場合じゃないだろうに。 さて、多分、一部の人には興味しんしん丸であろうミジンコが「いじめに遭ったことがあるか、いじめっこだったことがあるか?」ということなんだけれど・・・・・ 実際、いじめられたこともあるし、いじめたこともあるという漠然とした印象。 自分で言うのもなんだが、ミジンコをいじめられるような存在に学生時代に出会ったことがなくて、いじめられた記憶が無い・・・が・・・・・中学生当時ハブ(村八分の略語)というのが流行っていて、そのハブに自分の親友がなったときに参加しなかったら自分もハブられたのだが、長くは続かず(気がついたらハブを率先してやっていた連中が誰かにボコボコにされたらしい)、あれが深刻ないじめだったとも思えない。なにしろ今では笑い話。 日本なのに○○族とかいう部族に追われる日々があったが、最後にはこっちがその鉄の騎馬に乗る部族をいじめている扱いをされる始末で、世の中の見方は「強い方がいじめっこ」で「弱い方がいじめられっこ」という短絡的なものなのだなと実感した記憶がある。 当時、「じゃあ、弱い方がラクじゃねぇかよ!」って、バックで尾崎の曲が流れるようなことを思ったものだが、今は製材用の長い角材を使ったのは悪かったと思っている。 そういえば、ヤフーブログでもナントカ王子とかいう気持ち悪いのが(今でも非ログインで他の人(「あるそう」、『ぞ』ではなく「そ」)になりすまし粘着中)、「自分がいじめられた」とギャーギャーと主張していた。「いじめ」という言葉を都合良く使う卑怯者もいるってことだね。 いじめには参加したことが無いつもりなのだが、だからといって、学年中から嫌われているタイプに進んで歩み寄るほどの聖人でも無かった。 というか・・・ぶっちゃけ、そういうことに興味すら無かった。 学生時代といえば、女の子を追っかけるのが忙しくて、いじめがどうのとか言っている場合じゃなかった。 まぁ、いじめられっこを助けなかったのがいじめに加担していると言われればそれまでだが、しょ〜〜〜じき言うと、ほとんど誰が誰をいじめているとか興味すら無かった学生だった。 一度だけ中学生のときに担任の教師から学級委員とともに呼び出されて「不登校の生徒と仲良くしてくれ。」と頼まれたことがあるが、全く協力しなかった。 当時から不良と呼ばれる生徒とも、その不良たちにパシリをさせられていたヲタクっぽい生徒とも仲良しだったミジンコが不登校児とも上手くやれると担任が考えてくれたのは、自分が認められたみたいで嬉しかった反面、一度も会ったことが無い同級生にどう接すればいいのか解からないまま、サッカーしてたら頼まれたことを忘れちゃったような。子供なんかそんなもんです・・・と言い訳してみる。 ともかく、言いたいことはミジンコが担任だったら、そんなこたぁ生徒には頼まない。 さて、最後に「じゃあ、自殺を考えている子供に、おめぇならどんな言葉をかけるのよ?」という話ですが・・・・・ 人生はいじめ・いじめられの連続だと思う。 辛い人生が続くのは子供だってわかっちゃいる。そんな中で死のうか、引き続き生きようかの瀬戸際にいる子供に「生きろ」とか「死ね」とか、なんの効果があるのかサッパリなので、ミジンコならもっと具体的なことを言いたい。 自分ならこう言う。 「今、死ななければ今まで見たこともないような凄い“PS3のゲーム”ができるぞ。」“ ”←の中はその子供の好きなことに合わせて変更。 それでも「絶対に死んでやる!」って言い張る子を止める手立てなんて殴って気絶させるくらいしか思いつかない。 上辺だけの言葉で「いじめ問題」を語り、悦に入っている大人があんまりにも多いようなので記事にしてみたさ。
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