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先日、テレビのニュースショーで報道していたアルゼンチンアリ、 |
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去る光復節の日, 小泉日本総理が靖国神社参拜を強行しながら韓国はもちろん中国でも非難が殺到しています。光復節に日本総理が靖国を公式参拜したことは1985年の中曽根前総理以後21年ぶりのことなのにです。
こんな中, 昨日もソウルの日本大使館の前では日本軍慰安婦被害者たちが日本政府に対して公式謝罪と賠償を要求する抗議デモが開かれました。もう13年も毎年デモが起ったが、その間 97歳のお婆さんが世を去りました。しかしまだ私たちは日本からすっきりする解答を聞いていないのです。今日バックインギュの集中インタビューでは日本軍慰安婦副題も被害者たちの話を扱ったマンガ<慰安婦レポート>を発行した作家のお嬢さんを招待しました。 彼女がマンガで慰安婦被害者を描く事にした背景は何か?慰安婦被害者問題を解くために私たちがすべきことは何か?。今日バックインギュが注目したこの人はマンガがゾングギョン・グアシブニだ。 情景を描いたお嬢さんは中央大学校史学科を卒業した以後アニメーション "魔術笛"のシナリオ作家で活動してマンガ活動を本格的に始めました。カートゥーンニスト(漫画家)としてのデビュー作はエディ−ト・ピアフの生涯を素材にしたマンガ<パダムパダム>であり 2001年には大韓民国出版マンガ大賞を受賞しました。2003年イラク戦争勃発をきっかけで、戦争と女性の関係に対して関心を持つようになったし,あの時から今まで韓国慰安婦被害者たちの問題をより広く, より深く知らせるために多くの努力を傾けています。 こんにちは MCバックインギュ: 慰安婦くちばしフォトを作るようになったのが 2003年イラク戦争以後だったと聞いたけど具体的に慰安婦問題をマンガで扱わなくちゃいけないと思うようになったきっかけみたいなのがありますか? 情景のお嬢さん: 私が日本軍隊慰安婦被害者お婆さんたちに対して分かるようになったことは、 90年代中盤ビョン・ヤングズ監督の(低い声)というドキュメンタリー映画を劇場で見て感動したからです。その映画は(訳有り衆)に集まって住むお婆さんたちの日常をじっくりと追い掛ける映画だったのです。それでもうちょっと分かりたいという考えを持っていたし, もうちょっと分かるようになって何か話す機会が出たらこれをマンガにしても良いだろう、そんな必要がある主題と思ったんです。その後に、2003年イラク戦争が起こって戦争と女性の関係に対して振り返るようになりました。 私が娘が二人なので娘を育てる立場で, そしてイラク戦争は民間人死傷者がとても多かったから戦争と女性の関係に対して振り返るようになりました。これを本当にもっと分かろうとしてマンガ化しようと思ったらすぐ今だと思ってあの時から本格的に準備するようになりました。 MCバックインギュ: お婆さんという表現を書いたけど、初めてこの問題が社会に知られてつけられた従軍慰安婦という言葉, いろいろ言葉を使いましたが今も用語が正確ではないようです。 韓国KBSテレビ記事からネットで自動翻訳 初めての試みでハングルを翻訳してみた。ほとんど校正は必要なく驚いた、さて記事の中身だが韓国の反日キャンペーンの一端をうかがわせるおもしろい内容だ。亡くなった97歳の元従軍慰安婦のおばあちゃんは終戦時には36歳でずいぶんトウのたった元慰安婦で私の母と同じ年である。朝鮮半島からは大量の「慰安婦志願者」が殺到し日本軍の戦地に送られている。 この”慰安婦”をマンガにしたお嬢様作者は、イラク戦争で女性と戦争を題材にするヒントを得たのはすばらしいが、それと慰安婦を結びつける発想が私を卒倒させる。もちろん、女性と戦争は時代を問わず永遠のテーマだとは理解できるが、60年以上前の戦争と現代の戦争を十分関連性があるという発想はやはり戦争の風化を意味していて日本とどこも違わない。当時の朝鮮半島は日本より貧しく日本の戦争は女性にはお金をしこたま稼げるチャンスだったのだ、多くの慰安婦が故郷に送金して家を建てている。 元慰安婦はすでに老齢だ。多くの女性がすでに亡くなっているが、生きている人を含めてけして人に話せない”過去”を引きずって死を迎える。韓国の「訳有り衆」は日本にも存在したことを忘れてはならない。春を売る行為はいつの時代でも人から後ろ指を指される、日本の戦争という国策に従って兵隊と戦地を歩いたにもかかわらずである。昭和33年に売春禁止法が施行されるまで日本全国堂々と女にお金を払って遊べた事実を人々は故意に忘れたフリをするか知らないだけである。
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かつて見た映画ですが「戦争と人間」というのがありました。 [http://www.cinematopics.com/cinema/works/output2.php?oid=6288 ] 大陸での関東軍が描かれたもので、前者ではその暴走となしようもなく戦争に引き込まれていく日本が描かれています。3部作で、第1部1970/s45 第2部1971 第3部1973 「南京大虐殺」はウソだ! [http://www.history.gr.jp/~nanking/ ] の中に、昭和46(1971)年8月末から12月までの間に、「朝日新聞」紙上にて衝撃的なレポートである「中国への旅」という本多勝一記者による記事から「南京大虐殺」が広く知られるようになったとあるその傍証となるかとチェックしたのですが問題の南京侵攻のエピソードは第3部1973にありましたので、どちらとも言えない。 また、1999年12月10日−12日 東京「戦争犯罪と戦後補償を考える国際市民フォーラム」ワークショップ「南京大虐殺」分科会報告 南京大虐殺と軍事郵便 小池善之 [http://www1.vecceed.ne.jp/~swtamura/asaba.htm#houkoku ] の中で、 ・静岡県磐田郡浅羽町の町史編纂事業の中で収集された資料のなかに、日中戦争期の軍事郵便があった。私には、軍事郵便は軍の検閲を受けているから、問題となるようなことは書かれていないという思い込みがあった。しかし読んでみると、後述するように、南京事件に関わる記述があることを発見した。 ・私はそれを『浅羽町史近現代資料編』に掲載した。その刊行を報せる記事が新聞に掲載されたところ、様々な反応があった。ほとんどは「南京虐殺事件」などなかったのに何故掲載したのか、というようなものであった。私の認識は、学校の教科書にも記されているように、南京虐殺事件は何人も否定できない事実であり、残されている問題は虐殺された人数であるというものであった。このように「否定派」から電話、手紙、訪問などが多数寄せられたため、私はこの軍事郵便についてはきちんとした調査を行い、実証の点でミスのないものにしなければならないと考えた―― 以下の記事で、「あった」とする傍証があげられています。 それも生々しい実体験のようにおもわれる。ただし、その手紙の存在を実見したわけではない、まして鑑定したわけでもないので、これの真偽も不明です。 近年、考古学における捏造事件が巷間を騒がしたことを考えれば、いかなる証拠も、確かな鑑定の後に信じるべきで、それまでは伝聞に過ぎません。 ただ上記の手紙に<便衣隊が我々の手に捕われる>とあります。 便衣隊とはゲリラ兵、「ウソ!」にある、参考資料中のような状況であれば、正規兵とゲリラ兵、まるでベトナム戦争のような図式です。とすればベトナムで起こったようなことが、南京で起こらなかったとは言えない。 <上海戦があったから、南京事件があったわけではないと思うのです。>とありますが、これも、上海戦があったから後送された負傷兵によりあたかも虐殺がなされたような様相を呈したと、とれぬ事もない。 出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
抗日統一戦線 八路軍 [http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%85%AB%E8%B7%AF%E8%BB%8D ] 八路軍は、現在の中国人民解放軍の前身のひとつ。中国工農紅軍を改変した軍隊組織。 八路軍は主に日本陸軍占領地域の後方攪乱とゲリラ戦を担当した。また、1940年には華北において百団大戦という大規模な会戦を行い、延安と華北地域への回廊を確保した。 「南京大虐殺」はウソだ![http://www.history.gr.jp/~nanking/nanking.html#11 ]の中で他に、出典を確認したい、、と思った記事を上げる。 全市に医薬の香りがびまんしたという表現は、前述の「東京日々新聞(現毎日新聞)」がスクープした某外人の日記の中にも「25日(11月)戦死傷者の南京後送で、移転後の政府機関はもちろん、私人の邸宅まで強制的に病室にあてられ、全市医薬の香りがびまんし、軍人の町と一変した・・・・」、とおり、すでに11月25日ころから南京全市が兵站病院の観を呈した様子がうかがえるのである。 >>>某外人の日記の出典? 11月25日の中支那方面軍特務部長の中央に対する報告によると、、、、中沢参謀はさらにこう言っている>>>の出典は確認できるのか? 南京戦における中国軍の戦死者の数をダーディン記者は3万3000と推測している――― >>>の出典は確認できるのか? また、米ライフ紙には「日本軍は15万人の南京市民が避難した安全区をちょっぴり可愛がった」と書いている 。>>>出版されたものを実見できるのか? 以上、
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