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このような粛清の雰囲気に代表チームも巻き込まれた。代表チームがカプサンパのリーダーであると同時に北朝鮮の第2人者だったパク・クムチョル党中央委員会組職担当副委員長とキム・ドマン宣伝担当副委員長の全面的な支持を受けたという理由からだった。実際、パク・クムチョルとキム・ドマンは自分たちの業績を強調するためにサッカーを大きく活用した。
雰囲気が変わり、選手たちは果てしない思想闘争会議をして、自己反省をしなければならなかった。この過程で、シン・ヨンギュは地主息子という点が問題になった。代表チームは結局粛清されて、地方に散らばった。この時の粛清の嵐は余りにも冷徹だったので、1968年半ばには、地方中堅幹部職の3分の2が空席だったと言う。
粛清された選手たちの多くは咸鏡北道鏡城(キョンソン)郡の「生気嶺(センギリョウ)」窯業工場に配置されて労働者になった。しかし、サッカーに対する熱情は衰えなかった。当時、窯業工場に出勤しながらボールを足でポンポンと蹴りながら歩く元代表チームの選手たちを良く見かけたと言う。
数年後、窯業工場の子供たちが通う学校のサッカーチームが、全国大会でいつも1位を占め始めた。8強出場当時の大部分の主要選手たちが咸鏡道に追放されていたからか、今も咸鏡道のサッカーチームは各道のサッカーチームの中で最強である。
10年間の「革命化期間」が過ぎた後、北朝鮮政府は一部の選手たちを復帰させた。既に現役の年齢を大幅に過ぎていたので、大部分は監督になった。しかし一部は永遠に許されなかった。FIFA会長が賞賛したシン・ヨンギュが代表的な例である。北朝鮮政府は彼が1996年に死亡したと明らかにしたが、ロンドンワールドカップ以後の彼の行績は知られていない。
ワールドカップ本選に出場したアジア選手の中で最初のゴールを決めたパク・スンジンは、1980年代半ば「燿徳(ヨドク)」政治犯収容所にいたと言う。彼が「食べて見た虫の中で、ごきぶりが一番おいしかった」と言ったとして、収容所での彼のニックネームは「ごきぶり」だったとのことである。
8強代表チームが粛清された後、北朝鮮では「このように世代を切断してしまったので、私たちのサッカーは今後30年は立ち直ることができないだろう」という噂が広まった。実際、北朝鮮のサッカーは、以降、数十年間に渡って、スポーツを政治の犠牲にした代価をたっぷり支払った。
1980年代の北朝鮮サッカー界で注目に値する点は、女子サッカーチームの創設である。女子サッカーが1986年アジア大会の正式種目に採択されたことを受けて、北朝鮮は1986年5月に女子サッカーチームを創設し、これを戦略種目として育成した。わずか3〜4年前は公式出版物に「腐って病んだ資本主義世界では、女までが球を蹴る」とあざ笑っていたが、こういった態度は完全に変わった。女子サッカーだけではなく女子柔道も、女子の力技だと非難の対象だったが、今は北朝鮮スポーツの孝行種目になった。初めは女子サッカー選手を陸上選手の中で選抜した。
1990年北京アジア大会では、北朝鮮の女子サッカーが韓国を7-0で破った。当時、初ゴールを入れたイ・ホンシル選手は現場で労働党員になる「栄誉」を受けた。北朝鮮で現場での労働党入党は、特別な功績を立てた場合だけに許容される。イ・ホンシル選手は、これ以降、国際女性サッカー審判員になった。
勝ち進む女子サッカーと違い、男子サッカーは世界との格差が広がり続けて行った。衝撃を受けた北朝鮮は、結局、1990年代初めに破格的な措置を施行した。まず、1990年に北朝鮮が主催する初の国際サッカー大会である「平壌カップ国際サッカー大会」が始まった。優勝チームに2万ドル、準優勝チームには1万ドル、3位のチームには5,000ドルというあまりにも少ない賞金のためか、この大会は1992年の第3回大会まで開かれたが、中断された。参加希望国がなかっただけではなく、北朝鮮の成績もはかばかしくなかったからである。
また、他の対策は外国人監督の受け入れである。ハンガリー出身でドイツリーグで活躍していたパル・チェルナイ監督が雇用された。ブンデスリーガが全盛期だった1978〜83年の5年間、バイエルン・ミュンヘンのFC監督を勤めて2度のリーグ優勝を果たしたこの名将は、1990年代にはハンガリーのあるプロチームの監督に降格していた。チェルナイ監督は1991年6月から1993年10月まで北朝鮮の代表チームの顧問を引き受けた。代表チーム監督は北朝鮮人だった。初期の成果はまあまあだった。
赴任4カ月でアメリカでアメリカ代表チームを2-1で下した。しかし、全体的にチェルナイ監督の北朝鮮行は、あまり成功とは言えなかった。いくら名将だと言っても、全権の委任を受けない限り、北朝鮮システムで能力を発揮する空間は大きくなかったからである。
1993年10月、北朝鮮代表チームはアメリカ・ワールドカップ組別予選競技を行うためにカタールに発った。この時、北朝鮮はたった1競技だけに勝って、あとは全て敗れた。当時、チェルナイはカタールから直ちにハンガリーに帰国した。北朝鮮代表チームの団長だった体育委員会副委員長は、一般労働者に降格された。当時、北朝鮮の代表チーム監督だったユン・ミョンチァンもやはり、責任論から自由ではなかった。ユン監督は1999年に韓国に脱出した。
1995年から経済難が本格化し、北朝鮮体育界も困難になった。ボールやサッカーシューズが不足するほどだった。しかし、他の種目に比べたら、サッカーはそれでも恵まれていた。2004年にムン・ギナムの元北朝鮮サッカー代表チーム監督の家族が韓国に亡命したが、ムン監督の息子のムン・ギョンミンさんは当時、北朝鮮のサッカー選手たちはそれでも肉類を食べていたと証言した。
ムン・ギョンミンさんは1990年代に機関車体育団のサッカー選手だった時、国家代表に選ばれた。彼はドイツで狂牛病が発生して、数十万頭の牛を屠殺した時、北朝鮮にこの牛肉を持ち込んだ。この肉がサッカー選手たちに優先的に供給されたと証言した。
経済難の中でも、サッカーリーグは命脈を維持した。北朝鮮にもリーグ制度がある。交通事情が悪いため、ホームゲームと遠征競技の形式ではないが、1年を3段階で分けて、1地域で集中的に競技を行う。
2月に始まる万景台大会は、4月に優勝者を排出する。続けて7月にトーナメントとして行われる技術革新大会が開かれ、9月にリーグ戦を行う共和国選手権大会がある。3つの大会の優勝チームが再競技をして、11月まで勝者を選ぶが、優勝チームが重なったら、準優勝チームが出場する。最終優勝チームにはサッカー協会長カップと共に、タイで開催されるギングスカップ大会の出場権が与えられる。最下位チームの中の1チームは2部リーグに降格される。1部リーグは「最強チームの競技」と言う。時期毎に多少違うが、1部リーグには普通12チームが所属している。
4・25、平壌市、機関車、鴨緑江(アムロックガン)、月尾島(ウォルミド)、リミョンス、ヨンナムサン、軽工業省、大同江、小白水(ソベクス)などの体育団体が1部リーグの固定メンバーである。この中の前の4つの体育団体は全てのスポーツ種目を保有している特級体育団である。また、各道のサッカーチーム間の競技で1位になったチームが、毎年1部リーグに昇格する。国家代表チームと青少年代表チームが1部リーグに参加して競技をしたりする。競技感覚を養うためである。2部リーグは各体育団体の2陣と同レベルの体育団体が所属している。このような形で北朝鮮には5部リーグまで総計130の専門サッカーチームが存在すると知られている。
このように多数のサッカーチームを保有していながらも、最近まで北朝鮮のFIFAランキングは100位圏外にいた。最も大きい問題は、選手資源の不足である。北朝鮮全域を熱心に探し回っても、身体的条件を備えた有望な人材を発掘するのは難しい。
20歳前後の身体的条件は、5歳未満の幼児期の栄養供給に大きく左右される。しかしサッカー選手の素質を見抜いて、乳児の時から十分に食べさせる方法はない。経済難の上に、基礎体力が不足しているので、ある程度年をとってから選手を選んで、その時からいくら十分に食べさせても、限界があるというのが北朝鮮サッカー関係者たちの悩みである。才能がある選手を選んでも、身長と体格が劣っているので、外国チームに苦戦するしかない。
このような限界を意識してか、最近の選手発掘年齢層は一層幼くなっている。 20歳以下、17歳以下、15歳以下のチームに続き、最近は12歳以下のチームもできた。ここには8〜9歳の子供もいるが、このようなチームは4・25体育団にも幾つかある。これはサッカー有望人材を最大限に幼い時期から十分に食べさせて、平均身長を育てる効果を出すためである。
しかしいくら沢山食べさせると言っても、北朝鮮の中では限界がある。最近は韓国が中国昆明(クンミン)で訓練をする北朝鮮サッカーチームを支援している。全てのチームが参加することはできないから、全ての年齢のチームから1組ずつ参加する形式である。成長期なので、半年間だけ中国で沢山食べてから北朝鮮に帰ると、北朝鮮に残っていた同年齢のメンバーとは身長に格段の差出ると言う。
(次回に続く)
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