北朝鮮分析

北朝鮮のブログ : huntbaki@yahoo.co.jp

北朝鮮の話し

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-自由北朝鮮放送(http://www.fnkradio.com/

北朝鮮で農村や山里で暮して、生まれて初めて平壌を訪問した人々は、平壌に行って来たこと自体を「最高の栄光」と考え、平壌に行って来た住民がいたら、村人たちは平壌のニュースを聞くために集まって来るという。

今年4月28日、北朝鮮内部の消息通は、山里で一生伐木ばかりした労働者が、約50年ぶりに平壌見学に行って来た話を伝えた。

平壌に行って来た労働者は、「わ〜我々が村で農業をして飢え死にしないのを幸せと思っていたのに、平壌は別世界だった」としながら、「まるで外国に行って来たようだ」と自慢をしたとのことである。

消息通は、「この労働者は、生まれて初めて汽車に乗って、自分が住んでいた山里の村を脱出して、平壌市見学に行って来た」としながら、彼は「文化と環境などは別世界のようだった」と語ったと言う。特にこの労働者は、平壌市内のある宿所に泊まったところ、座便器を見て驚いたとのことである。彼はどこにトイレがあるのか分からなくて、ずいぶん長い時間捜し回った挙句、この座便器を見付けたと言う。

消息通は、「初めて座便器を見たこの労働者は、一日中トイレに行き続けた。そして故郷に帰ってからも、子供たちの前で平壌で見たことを自慢した」としながら、「平壌に行って来たことを『家門の栄光』と思い、子供たちに『これからも党と首領のために熱心に働けば、平壌に行ける機会が与えられる』という可笑しな教育をしている」と話したという。

消息通はまた、「今、労働者の家には、平壌に行った事が無いお年寄りと村の住民たちが、平壌のニュースを聞くために集まっている。北朝鮮では死ぬまでに、自分が住む山里の村を出られない人々が多いので、平壌に行って来たこと自体を大きな栄光と思う」と付け加えた。

アメリカの観光客が去年9月、北朝鮮を訪問中に撮影した「天井から水が落ちる高麗航空の飛行機」という動画が、インターネットのウェッブ・サイトに掲載されました。

アメリカの金融会社に勤める30代のロバート・デ−ケムプ(Robert DeCamp)さんは、去年9月の初めに、初めて「隠遁の国」北朝鮮に行く途中、思いがけない経験をしたと、22日、自由アジア放送に明らかにしました。(Flickr動画)中国の北京、つまり北京から平壌に行くために高麗航空の飛行機に乗りましたが、激しく機体が搖れて、飛行機の天井から水が落ちて来たのです。

デ−ケムプさん:北朝鮮へ行こうとしたら、多くの人が私の安全を心配してくれました。しかし、私はそれほど恐ろしくはなかったです。ところで本当に虫唾が走るほど恐ろしい体験をしました。一緒に行った観光客の頭の上に、水が大量に落ちて来たのです。旅行の出発から緊張しました。それに荷物を入れる棚に、蓋がなかったのです。古いソ連製の飛行機でした。

デ−ケムプさんはモンゴルとバングラデシュを除く全てのアジア国家と、コスタリカなどの南アメリカなど全世界35カ国を旅行しましたが、このような経験は初めてだったと言いました。北朝鮮が今年に入って、アメリカ人の旅行規制を緩和したことを受けて、デ−ケムプさんは中国北京にある旅行社を通じて、去年9月7日から11日まで北朝鮮を訪問しました。

彼は自分が韓国人の血統ではないが、普段、韓国に対する関心が高かったので、北朝鮮を訪問したと語りました。宣教師だった曽祖父が韓国に定着して、それ以降宣教師になった祖父と在韓米軍だった父親、そして自分まで3代がソウルで生まれたからです。また、金融界で働くデ−ケムプさんは、自分が旅行した共産主義国家のミャンマー、ベトナム、中国などが資本主義経済体制を受け入れて、観光客たちが行きたい所に自由に行けるようになったのに比べて、北朝鮮旅行は組まれた日程通りに動く非常に珍しい旅行だったと言いました。

デ−ケムプさん:北朝鮮は中国、ベトナム、ラオスなどと違いました。北朝鮮では自由主義市場経済の姿は見られませんでした。分断の歴史を感じることができる非武装地帯が、一番印象深かったです。私が短期間訪問したソウルと地理的に近いのに、政治的に別の所だということに驚きました。

デ−ケムプさんは、西洋からの観光客で北朝鮮の政治、経済、社会を直接経験した人が多くないという点に魅力を感じて北朝鮮を訪問し、平壌外国語大学を卒業した観光ガイドと多くの会話を交わした伝えました。英語が非常に上手で、賢いこの20代のガイドは、直説的には言いませんでしたが、外部世界に対する好奇心を密かに現わしたと彼は明かしました。デ−ケムプさんはガイドが韓国-北朝鮮の間で所得格差が激しく、政治的に緊張状況にあるということと、中国が資本主義を受け入れて発展したという事実に言及して驚いたと明かしました。

デ−ケムプさん:日本の植民主義時代に、私の祖父が韓国で宣教師として活動しましたが、日本流の信仰を信じないという理由から10年の労働刑を受けたと語りました。ガイドはこの話を聞いて、北朝鮮が敵対的感情を持つ2つの国のアメリカと日本が、過去は友邦関係になかったという事実に対して驚いたようでした。

デ−ケムプさんは平壌から開城(ケソン)に移動するバスの中からは写真は撮らないで欲しいと要求されたと明かしました。平凡な田畑に見える地域でしたが、多分、軍の武器貯蔵庫や軍の施設を隠すためだったようだと彼は想像しました。

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アフリカのジンバブエを32年間統治しているロバート・ムガベ大統領は、1994年に金日成が死んだ時、「金日成追慕事業会」を作った。副大統領が委員長になって、毎年セミナーと追悼式を行なう。ジンバブエの役人たちは、ムガベの指示に従って、『主体!金日成の演説と著作』という本を読む。ムガベが金日成に真似るのは、80年代初めに北朝鮮を訪問した時からだった。彼は、北朝鮮が指導者の誕生日を節日に決めて、彼のために数万人がマスゲームをする姿が羨ましかった。

ムガベは自分の誕生日である2月21日になると、金日成の誕生日の祝宴を真似て、マスゲームと軍隊の行進をさせたり、祝宴の料理を配給した。2009年の85回目の誕生日の時は、年齢に合わせて85Kgの大型ケーキも作った。パーティーの費用は25万ドルで、ジンバブエ国民1人が830年間貯金しなければならない金額だった。疾病と貧乏のために国民の平均寿命は42歳だが、ムガベは87年間生きている。ムガベの側近は、「北朝鮮訪問以降、彼は金日成をモデルにしている」と言った。

北朝鮮は1974年から、金日成の誕生日である4月15日を「民族最大の節日」と定めて、祝って来た。82年に金日成の70回目の誕生日の時に作った平壌の主体塔は、金日成が70年間生きて来た日を象徴する2万5550個(70×365)の花崗岩で作られている。

金日成の誕生日が「太陽節」になったのは、金日成が死んでから3年目の97年からである。太陽節という名前は、金正日が「首領様は太陽のようにいつも我々の側にいらっしゃる」とした教示によるとのことである。

金正日は死んだ父親を太陽のような神の境地に引き上げた。そして自らに「神の息子」の権威を付与した。正に、偽宗教集団の個人崇拝方式である。北朝鮮は去年5月、水素爆弾の製造に必要な核融合に成功したと主張しながら、「太陽節を迎え、人工太陽を作った」とまで宣伝した。

北朝鮮は毎年、太陽節になると、外国から公演団を招いて祝賀行事を行い、金日成の花展示会を開いている。今年は太陽節の祝典に外国から約200人の招待客を招くためにチャーター機まで準備し、祝典の費用として500万〜600万ドルを使うとのことである。金正日は自分のペットを検診するフランス人獣医師を1回招待するために、1万ドルを使う。一方で、国際社会に向かって食料がないと訴える。「太陽」を祭る行事の陰で、「コメ飯と肉汁を食べるのが願い」という北朝鮮住民の夢は、ますます遠のいて行くように見られる。

多くの北朝鮮関連のNGO団体は、北朝鮮を援助しなければ多くの北朝鮮住民たちが餓死するとして、北朝鮮に対する人道的支援を主張している。果して、こういった団体の主張通りに、無条件に北朝鮮に食糧を与えるのは、正しいのだろうか?

北朝鮮で、毎年、コメ代が一番高騰する時期は、5、6月である。この2カ月間さえ耐えたら、トウモロコシの収獲が始まる7月になり、再び1年を何とか無事に過ごすことができるからである。それで、北朝鮮では5月と6月に大きな利益を上げるために、コメを貯蔵して、売らないで待つ商人たちが多い。このような理由から、秋が過ぎて翌年の1月くらいなると、既に市場ではコメ価格の上昇現象が起こる。しかし、市場には1年中、コメが溢れ返っている。その理由は、住民たちもこの時期に備えて、予め購買能力と準備をするからである。北朝鮮の市場は、このような生存の循環構造により、今まで拡大して来た。

このような市場構造により、5月と6月に一番苦しむ人々は、外でもない市場を利用することができず、党と軍からの限定された供給だけに頼る配給階層である。北朝鮮政権の配給能力が5月と6月に限界を達すると、配給量が減少したり配給出来なくなるので、配給秩序だけに頼って来た人たちは、直接的な被害を被る。

一方、彼らと違い、ほぼ2000万人に達する北朝鮮の市場勢力は、配給制を拒否する体制離脱勢力である。生存論理を完璧に悟った彼らは、絶対に餓死しないし、却って対北朝鮮支援に反対している。対北朝鮮支援が拡がるほど、政権は統制可能な配給階層として自分たちを吸収しようと、市場を抑制するからである。

このような意味から、5月と6月は北朝鮮の変化の季節になることがあり得る。この2カ月間がコメの値段が最も上がる時期であり、民心もそれに連れて悪化する。また配給制に頼って来た勢力たちの体制離脱心理も、正にこの時期に極限に達する。コメ代の統制と内部の取り締まりを強化する過程で、政権と住民たちの間の葛藤と摩擦も激化する。

従って、北朝鮮が国際社会に食糧援助を要請しても、これに対する観点が変わらなければならない。北朝鮮政府の立場からすると、コメというのは住民たちの食糧ではなくて、市場を弱化させて、統治を強化する手段に過ぎない。従って、国際社会が北朝鮮に食糧を与えるほど、北朝鮮の市場は縮小され、金正日の統治権だけが強化するのである。5、6月を前に、北朝鮮が国際社会に食糧援助を要請することが多くなったのは、正にこのためである。今、北朝鮮にコメが足りないのではない。北朝鮮政府の統制を逸脱した市場には、相変らずコメが溢れている。但し、北朝鮮政府が住民を統治するのに必要なコメだけが、不足しているのである。

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◎開発の背景及び特徴

北朝鮮のミサイル開発の歴史は、1965年に金日成の指示で設立された「国防大学」が、ミサイル開発の専門人材を養成し始めた頃に起源を発する。1969〜1970年、北朝鮮はソ連が1965年に開発した射程距離68kmの短距離戦術ミサイル(tactical missiles)の「フロッグ-7(Frog-7)」を導入して、本格的なミサイル研究開発を始めた。

当時、北朝鮮は「スカット(SCUD)ミサイル」が欲しかったが、旧ソ連が供給しなかったとされる。1970年代に北朝鮮は、旧ソ連から導入した「フロッグ-7(Frog-7)」を逆設計(Reverse enginering)して、初歩的なロケット製造技術を習得したと把握される.。

1976年頃には関連技術者を中国に送って、中国が1975年から液体燃料推進の核投発手段として開発した「ドンプン-61(東風DF-61)」弾道ミサイル(最大射距離600Km, 弾頭重量500Kg)の開発計画に共同参加した。「ドンプン-61」の開発計画は1980年に取り消しされるが、この事業を推進した責任者が文化革命の時の失脚させられて、中国政府が事業を取り消したのである。北朝鮮はこの事業を通じて、ミサイル製造の貴重な経験を積むことができた。

北朝鮮が熱望した「スカット(SCUD)ミサイル」の技術の確保には、エジプトが決定的な役割を果たした。1963年にエジプトと国交を結んだ北朝鮮は、1973年10月に第4次中東戦争(「Yom Kippur戦争」)が勃発したのを受けて、「ミグ-21」操縦士1個中隊を派遣してエジプトを援助した。第4次中東戦争(「Yom Kippur戦争」)でイスラエル空軍に苦戦を強いられたエジプトは、旧ソ連から「第3国に提供しない」という条件で、「スカット-B」(射距離280〜300km、弾頭重量985kg)ミサイルを導入したが、その後、旧ソ連と関係が悪化して、導入した「スカット-B」の修理及び維持用部品の供給を受けることができない状況になる。難関に陥ったエジプトは、独自にミサイルを開発した北朝鮮に支援を要請した。北朝鮮とエジプトは1979〜1980年に戦術弾道ミサイルに関する情報と技術陣を交換する関係にまで発展する。1980年1月、エジプトのホスニー・ムバラク副統領が平壌を訪問して、金日成と面談した。1984年にエジプトはソ連と交わした約束を破って、「スカット-B」ミサイル2基を北朝鮮に提供する。この時、エジプトから引き渡された2基のミサイルが、北朝鮮の弾道ミサイル開発に決定的な技術を提供する契機になった。

1981年、「イラン・イラク」戦争が勃発すると、全アラブ国家はイラクを支援した。同じアラブ圏から孤立したイランは、「弾道ミサイル」の必要性を切実に感じて北朝鮮に接近する。1983年、イランは北朝鮮と弾道ミサイル開発相互支援に関する協定を締結して、北朝鮮に弾道ミサイル開発に必要な資金と装備を供給し始める。

金正日は1981年1月、当時、中央党機械事業部(現軍需工業部)の秘書だったヨン・ヒョンムクに旧ソ連製「Scud-B」ミサイルの「Copy設計」をして量産するようにという指示を下した。この指示は、「党中央軍事委員会」の命令となり、北朝鮮の「第2自然科学院(国防科学院)」に下達される。「第2自然科学院」は傘下の「工学研究所」を中心に「Scud-BミサイルCopy設計のための科学者突撃隊」を組織して、金正日に1981年4月15日までに試験発射を保障するという「忠誠の宣誓文」を捧げてから、突撃戦を始めた。

党軍需工業部が全て動員されて、設計と試作品の製作に必要な資金と設備、技術が最優先に支援された。このようにして開発された「スカット-B」ミサイルの試験発射は、総計3回に渡って行われた。第1回目の試験発射は1981年4月末頃、第2回目の試験発射は1981年7月初め頃、第3回目の試験発射は1982年4月に行われた。第1回目の試験発射の時には、製作したミサイルが震動さえしなくて失敗した。第2回目の試験発射の時には、ミサイルが30m程度動いたがそれ以上動かなかったとのことである。ミサイルは第3回目の試験発射で成功して、「第2自然科学院」は金日成と金正日から前例のない表彰と贈り物をもらった。この時に開発された「スカット-B」ミサイルを北朝鮮は『ファソン』と名付けて、その試験発射に沿って、「ファソン-1」、「ファソン-2」、「ファソン-3」と名付けられ、「ファソン・シリーズ」と呼ばれている。しかし、この時成功したミサイルは試作品の試験発射だったので、量産のためには性能を補強しなければならなかったし、試作品の性能の修正作業のために、北朝鮮は西欧世界の部品確保が必要になる。

1984年10月、アメリカ・ニューヨークでイランのある事業家が、ミサイルの誘導装置と夜視装備に使われる電子部品を北朝鮮に送ろうとして発覚した。1987年12月、日本の大阪では朝鮮総連関係の企業人である「東明商社」所属の北朝鮮工作員と日本人たちが、COCOM(対共産圏戦略物資・技術統制委員会)の規制品目である集積回路(IC)とマイクロ波周波数カウンタなど263点を北朝鮮に不法輸出しようとして摘発された。当時、アメリカと日本の情報政府は、このような輸出が全て北朝鮮の弾道ミサイル開発と関連があると推定した。

「スカット-B」の試験発射の成功後、数回の修正作業を繰り返した北朝鮮は、1987年4月、平壌に半導体工場を建設して、北朝鮮産の「スカット-B」 『ファソン』の量産を開始する。北朝鮮は量産されたミサイルの輸出を試み、まず最初に顧客開発費用を支援したイランに、1988年に90〜100基(5億ドル相当)の「ファソン」を輸出した。「イラン・イラク」戦争期間である1988年2月29日から52日間、イランとイラクは人口が密集した相対国の都市にミサイルを発射する「ミサイル戦争」を行ったが、双方は総計878発という膨大な数のミサイルを消耗する。この時イランは、北朝鮮から導入した「ファソン」ミサイル77基を使ったと言う。

当時、イラクも旧ソ連の「スカット-B」ミサイルをCopyした「アル・フセイン」(最大射距離600km)と、「アル・アブバス」(900km)を独自に開発して、生産していた。イラクの「アル・フセイン」がイランの領土に落ちると、イランはその残骸を拾って北朝鮮に送ったと言う。イラクの「アル・フセイン」ミサイルは84発が使われたとのことである。イランのこのような積極的な協力により、北朝鮮は1990年6月に「スカット-B」(射距離280〜300Km、弾頭重量985Kg)の弾頭重量を減らして、推進機関を確張して(推進燃料の量を25%増加)、最大射程距離を確張した「スカット-PIP」(Product Improvement Program)を開発するのに成功する。「スカット-PIP」は「スカット-C」(最大射距離500Km、弾頭重量770Kg)とも呼ばれる。

北朝鮮が「スカット-C」の量産を開始すると、イランはこのミサイルを導入して、1991年5月にイラン北部の試験場で試験発射した。シリアも1994年に北朝鮮の「スカット-C」を輸入して試験発射したが、この事実が西側の情報機関に捕捉された。これを受けて、イスラエル情報機関である「モサド」が中東国家に対する北朝鮮のミサイル輸出を阻止し始めた。

◎化学戦

北朝鮮は「フロッグ-5」と「フロッグ-7A」に使える化学弾頭を開発し、「スカット-B」に化学及び細菌弾頭を開発して、ミサイルに装着する計画を推進しているが、正確度が大きく落ち、軍事施設を正確に攻撃するには限界がある。北朝鮮の「ファソン」シリーズのミサイルが危険視されているのは、化学武器のためである。アメリカの情報機関の分析によれば、「ファソン」ミサイルの場合、50〜60%が化学弾とのことである。

◎配置

北朝鮮は黄海北道シンゲ郡に移動式「スカット-B」の発射台を隠しているとのことである。北朝鮮がシンゲ郡から「スカット-B」を発射した場合、500Km程度の距離は6分55秒で到達することができると分析される。現在、北朝鮮はシンゲ郡以外に、北朝鮮全域に「スカット-B/C」 約500基を作戦配置したとされている。北朝鮮は現在、「スカット-B/C」を運用する「ミサイル旅団」を人民武力省の直属に運営して、総計27個のスカット発射台を配置している。北朝鮮の「フォソン・シリーズ」はCEPが大きく精密度は非常に落ちるが、移動式車体による発射機によって運用されるので、簡単には探知されないという面がある。北朝鮮のミサイル基地の位置は、資料によって全て違う。限定された情報から把握しなければならないという、現実の難しさがあるからである。

◎生産施設

北朝鮮には最低で4カ所以上のミサイル製造工場があると確認されている。

▲関連部品を作る26号工場(慈江道カンゲ市)

▲発射体のエンジンを生産する118号工場(平南道ケチョン郡カガム里)

▲ミサイルを組立てる125号工場(平壌市ヒョンジェ山区域チュンゲ洞)

▲爆薬を作る弱電機械工場(平壌市マンギョンデ里)などにある。

これ以外にも、南浦市カンソ区域にもミサイル工場があるという脱北者の証言がある。北朝鮮の特急、1級企業所が殆ど同様な規模の軍需施設を運営しているが、ミサイル工場はこれよりずっと多い可能性が高い。実際、ミサイル工場が8カ所以上あるという推測も提起されている。北朝鮮の「スカット-B」生産能力は、1カ月に8〜12基(年間100基)で、保有量は約500基と推定される。「スカット-C」の月間生産能力は4〜8基程度で、60基をイランとシリアに販売した。北朝鮮がこれまで中東地域に販売したミサイルは、イラン202基、シリア150基、イラク100基など、総計490基とされている。

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