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政治犯収容所は北朝鮮の公式名称ではない。北朝鮮の人々は「統制区域」、「特別独裁対象区域」、「移住区域」、「政治犯集団収容所」、「流刑所」、 「宗派窟(チョンパクル)」などと呼んでいる。北朝鮮政府は「OO管理所」と呼ぶ。例えば「耀徳(ヨドク)政治犯収容所」は「第15号管理所」と呼ばれているが、記録上は朝鮮人民警備隊隷下の部隊のように偽装されている。 |
北朝鮮の話し
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金正日好みの理想の女性像は? 今回の内容も前回(#5)に続き、韓国の雑誌「新東亜」に連載された金正日の「喜び組」(金正日の女性たち)の話を翻訳したものです。過去に北朝鮮を脱出して韓国に入国して韓国のマスコミで働く記者が、前職金正日の「喜び組」の女性を直接取材した内容を元に、記事を作成しました。 Q)すると、ミオク、ミヒャン、ミソ、ヨンミなど、全て「ミ(美)」の字が入った名前ですね。 A)はい、それは金正日の女という意味のようです。ミソお姉さんは笑うと、本当に美しかったです。多分、それでミソ(微笑み)という名前を付けたようです。ヨンミも後にミエと改名しました。金正日は酒に酔うと、同じことを何回も繰して喋る癖がありました。特に面白いことは、「ミ(美)」の字が入った名前を私たちに付けて置きながら、名前が解らなくなってしまうのです。お酒を少しでも飲むと指をあげながら、「お前がミオクか?ミヒャンか?」と何回も聞きました。そして、「ミヒャンだったな」と言ってから、また同じことを初めから繰り返しました。 Q)ミオクという女性のする仕事は、教育をすることだけですか? A)お姉さんは金正日と寝たりもする愛人でしたが、秘書の仕事もしました。金正日と親しかったですが、とても丁寧な言葉だけ使いました。お姉さんも平壌で育った人でしたが、中央党庁舍内に金正日が下賜したとても大きくて立派な自分の家を持っていました。しかし5科の建物に来て寝てくれたのは、多分、私が過渡期を楽に乗り越えて、金正日に対してもっと良く知ることが出来るようにと、側に付けてくれたのだと思います。もちろん、いつも私と一緒に行動しなければならなかったので、そうしたのかもしれません。それから、よく1人で外出していました。お酒を飲んで夜明けに帰って来る時もあったし、昼に帰って来る時もありました。金正日が下賜したベンツを直接運転して家へ帰って、寝てから来る時もありました。 Q)ミオクお姉さんに対する想い出も多いでしょう。 A)お姉さんが金正日の恋人だったので、マスコミが関心を持つような話題も多いです。私と2年近く1つの部屋、1つの布団で寝たので、お姉さんから聞いたことは本当に多いですが、これ以上話したくありません。お姉さんが心配だからです。お姉さんは私を自分の後継者と思っていました。ところで、嫉妬もしなかったし、本当の妹に対するように、良くしてくれました。その中で、私も寂しかったですが、お姉さんも同じように寂しかったようです。お姉さんはよく私を抱きしめながら、「お前は私の後継者ね。お前も私も寂しく生きていかなければならないのね」と言いました。そのようなことを言う度に、お姉さんはとても悲しそうでした。お姉さんは本当に良い人でした。 元々、学校では「同志」と呼ばなければなりませんでしたが、部屋に帰って2人きりになると、「お姉さん」と呼びなさいと言いました。お姉さんには弟が1人いたので、とても会いたがっていました。お姉さんには金正日がくれたプレゼントが沢山ありました。私がある時、「これ本当に綺麗ですね」と言うと、お姉さんは「お前にあげたいが、将軍様が下さったプレゼントなので、あげられないわ」と言いました。そして「これなんか何でもないわ。家にすごく沢山あるの。お前も将軍様に仕えるようになったら、私のように大きい家ももらえるし、あらゆるプレゼントももらえるわ」と言いました。 Q)お姉さんの運命はどうなるのですか? A)私たちは26〜27歳になると除隊をします。除隊する頃になると、少佐か大尉になります。しかし金正日とそのような関係だった女性は、それ以後も結婚ができなくて、1人で生きて行かなければなりません。もちろん、最高の待遇はしてくれます。除隊した後も金正日の愛を受けていたら、秘書としてずっと側で働くことができます。ミオクお姉さんも金正日の色々な雑用を代理にする仕事が多かったですが、除隊しなかったのは確かです。金正日の側にずっと残ったと確信しています。愛情も信頼も厚かったからです。あまり深い関係にならなかった女性たちは、護衛国軍官などと結婚させて、秘密が漏れないようにします。 Q)金正日の妻だという「キム・オク」という女性について聞いたことはありますか?もしかすると、ミオクというその女性ではないでしょうか? A)私はキム・オクという名前は知りません。韓国へ来てキム・オクという女性の写真は見ましたが、北では見た事がありません。写真を見たところ、可愛くて溌剌としたタイプですね。私たち学生10人の中に、その女性に似た子もいました。でも、美貌に関して言ったら、ミオクお姉さんがずっ美人でした。それから、キム・オクという女性は金正日と丁寧な言葉を使わなくても良い関係だと聞きましたが、私はその報道が信じられないです。金正日は従順な女性が好きです。 金正日の死後、キム・オクが莫大な権力を行使するだろうと予測する人もいますが、私は絶対にそうではないと思います。彼は女性と権力を分け合う人では絶対にないし、そのような状況を作るような人ではありません。ミソお姉さんはちょっと野心があって嫉妬もしましたが、金正日はそのような点をあまり好みませんでした。でも、美貌だけで判断することも出来ませんよね。ある時、ミオクお姉さんが30歳を過ぎたある女性を丁寧に接待していました。誰かと尋ねたところ、「将軍様の信任を受ける秘書で、重要な女性です」と言いました。ところが、その女性はそれほど美人ではないと思いました。 Q)金正日の女性に対する趣向はどうでしたか? A)そうですね。簡単に答えるのは難いです。私が感じたとおりに言いますね。まず、目を一番重要視します。そして目と髪の毛の調和を考えます。彼は私の髪の毛の量が多くて真っ黒で、瞳も真っ黒だから好きだったようです。瞳が茶色ならば髪の毛も茶色でなければならないし、瞳が真っ黒ならば髪の毛も真っ黒なのが良いというのが彼の美学でした。その次に口を見ます。特に美人でも唇が薄ければ、無条件に嫌がりました。鼻は高くなければならないです。とにかく彼の趣向は、とても纎細でした。私の指を取って詳しく見ながら、指が長いので感受性が豊かだろうと言いました。化粧を濃くしたら嫌やがりました。付けまつげを付けたことがありましたが、嫌がったので2度と付けませんでした。 香水を付ける方法を教えてくれるほど、私たちには優しくしてくれました。 ミソお姉さんがある時、香水を沢山振り撒いて行ったら、香水は空にまず撒いてから、そこに体を当てなければならないと教えてくれたこともありました。私たちが使った化粧品は、全部フランス製でした。シャネルもあったし、他のものもありました。私たちにはヒールの高さが5cm以上の履き物はくれませんでした。彼の背が低かったので、そうしたようでした。女性が自分より背が高いのは好みませんでした。彼が一番好きなスカートは、下部にだけフレアーが入ったスカートでした。それで私たちが着る服も、そのようのなものが多かったです。とにかく、こういうことも話したら長くなりますね。 (次回に続く)
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地下車道だけで40分、金正日の豪華地下別荘 今回の内容も前回(#4)に続き、韓国の雑誌「新東亜」に連載された金正日の「喜び組」(金正日の女性たち)の話を翻訳したものです。過去に北朝鮮を脱出して韓国に入国して韓国のマスコミで働く記者が、前職金正日の「喜び組」の女性を直接取材した内容を元に、記事を作成しました。 Q)日本に藤本健二さんといって、金正日の料理人をしていた人がいます。彼が書いた本を読んで見ると、金正日がシンチョン招待所で、ある時、5人の喜び組に近付いて服を脱がせた後、裸の彼女たちを他の幹部たちと踊らせたという部分があります。そのような可能性があるのですか。 A)私は、金正日は他の幹部たちの視線を非常に意識していたと、思います。そうだとしたら、かなり異例の出来事ですね。でも、嘘だとは言い切れないのは、金正日はお酒に酔うとちょっと、そうですね…変態的気質と言うか、そういうこともしたりしました。彼は飲み過ぎると、自分が何をしているのか、よく分からない時がありました。 私も直接見ませんでしたし聞いた話ですが、こんな事があったそうです。ある時、あまりにもお酒を沢山飲んだので側に副官が近付いて、「もうお止めください」と引き止めた事があったそうである。すると、「こいつを今すぐ監獄に放り込め」と大声で叫んだとのことです。そして朝、目が覚めた時、その副官が居なかったので探したところ監獄に入れたと聞いて、「私が昨日そうしたのか」と言いながら、すぐまた呼び戻すように指示をしたとのことです。 お酒飲むと、彼も普通の酔っ払いと同じ様になってしまいます。しかし、私たちの前で醜態を演じた事はありませんでした。お酒を飲んで私たちの前で泣いた事はありました。でも、声を出してワンワンと泣くのは見たことがありません。ただ、私たちに悲しい歌を歌わせて、その歌を聞きながら目に涙が浮かんで、我慢ができなくて涙を流したりしました。 Q)藤本健二さんが6年前に書いた『金正日の料理人』という本を読んで見ましたか? A)そういう人がいるのは知っていましたが、その本を読んだことはありません。それから、私たちが金正日と会う時は、他の人は居ませんでした。もちろん私たちを案内してくれた副官と思われる男は2人位いましたが、料理人は見た事がありません。料理は他の人たちが運んで来ました。エレベーターから出て来た時もありました。 ところが、金正日が寿司が本当に好きなのは事実です。それで私たちも沢山食べましたが、もしかしたら彼が作ったのかも知れませんね。他の料理もとても美味しかったですが、特に寿司は美味しかったです。その味を忘れることが出来なくて、韓国へ来てから、有名な寿司屋に何回も行って見ましたが、まだあのように美味しい寿司を食べた事はありません。 (※彼女が『金正日の料理人』を読んだ事がないと言うので、その本を贈呈した。彼女は記者の前で最初の数ページを読んで見た。そこには金正日の1週間のメニューが記録されていた。それを見ながら、彼女はこのように言った。) ここでも鮫の料理が沢山出ますね。鮫を何回も食べました。初めて会った時、イタリア料理が出ましたが、あの時も鮫料理が出ましたよ。刺身がとても独特な器に盛られて出たりしました。金魚2、3匹が泳ぐ鉢が下にあって、その上に刺身皿が置かれていました。生きて泳ぐ魚を見ながら刺身を食べるのは、一味違う雰囲気でした。 ところでこの本には、ご飯が白米だと書かれていますね。でも、私は金正日に会って白米は食べた記憶はないです。いつも5〜6種類の雑穀が混じったご飯を食べたようです。私はあの時初めて、松の実と胡桃が入ったご飯があることを知りました。ああ、ステーキに添えられて出るご飯は、白米でしたね。 初めて会った時だったでしょうか、どんな食べ物が一番好きかと質問されたことがありました。私が「冷麺が好きです。1日に3回食べても飽きないです」と答えたら、金正日は思い出すような口調で、「私の父がお前のように冷麺が大好きだった。ところで私はあまり好きではない」と答えました。 Q)金正日とは平壌だけで会ったのですか? A)いいえ。あちこち回りました。地方の別荘も行ったし、狩り場も行きました。どこだか分からない別荘も多いです。学生だった時は名前を教えてくれませんでしたが、ミオクお姉さんが、「あなたが卒業して中央党で働くようになったら、ここが何処だか全て分かる」と言いました。 もし、私があの時、数年後に韓国へ来る運命なのを知っていたら、1カ所ずつ全て頭の中に詳しく覚えさせたはずです。しかし、その時は知りたくても質問しなかったし、わざと憶えようともしませんでした。私は余りにも幼なかったし、何も知りませんでした。私たちが教育を受けた時、無駄な関心は持たないようにと学びました。 他の所へ行く時は、大抵、金正日が行く1日前、いくら遅くても数時間前に、予め行って待っていました。別荘の話までしていたら、話があまりにも長くなってしまうので、今は話をしたくないです。多分、金正日は自分の別荘とアジトの話をすることを、1番嫌がるでしょう。 Q)それでは、1番記憶が残っている別荘を1カ所だけ紹介してください。 A)車に乗って、地下だけ40分間も走る別荘もありました。そこは全てのものが地下にありました。それで記憶に残っています。それは別荘とはちょっと違うようでした。地下車道は1車線で、あまり狭くもないし、広くもなくて、適当でした。 ミオクお姉さん曰く、「ここは将軍様が特別に大切にされている所で、将軍様と私たち以外には、他の人々が来ることが出来ない」と言いました。地下に各種ゲームセンター、プール、寝室、食堂などが本当に豪華に整えられていました。金正日の別荘は本当に豪華です。 その地下アジトも、そうでした。金正日が来る前日に地下プールで水泳をしましたが、幅は狭くて、長さは約50mくらいでした。珍しい点としては、プールの底にタイルで大きな金正日の絵が飾られていたことです。そして、その金正日の絵の中央部分はキラキラと黄金色に輝くタイルで作られていました。お金がすごく掛かったと思います。寝室も本当に豪華でした。 Q)地下にある別荘が多いのですか? A)そうです。別荘というより、地下アジトという表現が適切です。特に平壌市内には多いです。実例としては、人民大学習堂や光復百貨店のような民間ビルの地下にも、金正日の密室があります。防音装置が徹底的にされているので、民間人は下にそのような場所があるとは、絶対に想像すら出来ないでしょう。 ところで、密室にはそのビルと連結された脱出口がありました。イラク戦争の時、フセイン宮を無差別攻撃しましたが、北朝鮮ではそのような方法は通じないでしょう。民間ビルの地下に隠れてしまったら、爆撃するのも難しいでしょう。随所にこのような秘密の隠れ場があって、地下で繋がれているので、どこに居るのか探すのは難いです。 Q)そんな場所を連結する地下道は護衛局で管轄するのですか? A)はい、地下車道を専担して守る部隊がありました。そこの軍人たちは、本当に特恵を多く受けていました。実例ですが、こんなこともあると聞きました。元々、北朝鮮軍は30歳になると結婚ができます。ところが、そこの軍人たちは30歳になる前でも、一定の年齢になったら、1晩ずつ女性と過ごせると聞きました。 もちろん、そのような女性たちも私たちのように5科に選ばれたのに、最終的に選ばれなかった女性たちでしょう。ですから、抜群の美人たちだと思います。彼女たちを別に教育して、ホテルにも常駐させているそうです。多分、外国から必要な人物が来たら、接待する女性だと思います。お客さんたちが来なくて待機している女性たちと軍人たちを引き合わせるのです。 Q)狩り場へ行くと他の人も鉄砲を携帯するのか、教えてください。 A)私たちと行く時は、いつも他の人がいませんでした。金正日が1人だけ鉄砲を携帯していました。ミオクお姉さんも鉄砲を持っていませんでした。私たちも射撃訓練はしましたが、実際に金正日の前で鉄砲を打った事はありません。護衛兵たちは遠くに離れていて、約50〜100m離れた所から遠距離警護をしていました。 金正日は射撃が上手でした。狩りが終わった夕方は、大抵、その日捕った雉肉で料理を作って食べましたが、その料理も開いた口が塞がらない位美味しかったです。雉肉と茸のしゃぶしゃぶ、雉の肉団子、雉饅頭といったものを主に作ってくれました。 初めて狩り場へ行った時、金正日は私に名前を付けてくれました。私の元の名前が田舍臭いからと、私に「ミヒャン」という名前を付けてくれたのです。美しい「ミ(美)」と魅惑的な「ヒャン(香)」を兼ね備えたとしながら、付けてくれた名前です。その時から北朝鮮を出る日まで、私の名前は「ミヒャン」でした。私たちには中央党が発給する特殊証明書がありましたが、そこの名前も全てミヒャンになっていました。 (次回に続く)
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今回の内容も前回(#3)に続き、韓国の雑誌「新東亜」に連載された金正日の「喜び組」(金正日の女性たち)の話を翻訳したものです。過去に北朝鮮を脱出して韓国に入国して韓国のマスコミで働く記者が、前職金正日の「喜び組」の女性を直接取材した内容を元に、記事を作成しました。 金正日と一緒にブルースを踊る Q)初めて会った時、あまり緊張しませんでしたか? A)ご存知のように、北朝鮮では生まれた時から偶像化教育を受けていたので、金正日は正に神さまのように思われていました。彼を見ただけで涙をこぼせる位にです。 テレビで見たら、彼に会った人は皆「マンセ(万歳)」と叫ぶじゃないですか。それで私も部屋に入って金正日を見るや否や、事前に注意を受けていたにも関わらず、「マンセ(万歳)」と呼ばなければならないのではないかと思って、不安にかられてしまいました。 ところが、ミオクお姉さんとミソお姉さんが金正日と微笑み合って、握手をするではありませんか。私もお姉さんたちがしたように、とても緊張した状態でしたが握手をしました。そして私たちは6人用テーブルに座りました。金正日が真ん中に座って、その両側にミオクお姉さんとミソお姉さんが座って、私たち3人はその正面に座わりました。 食事をしながらミオクお姉さんが私について説明して、ミソお姉さんがヨンミについて説明をしました。ところで金正日はそれに満足しないで、私たちに順に立ち上がって自己紹介をするように言いました。それで、震える声で自己紹介をしました。 Q)その日、何を食べましたか? A)イタリア料理が出ました。ステーキとスパゲッティのようなものでした。ワインも飲みました。本当に珍しいことに、イタリア料理なのに鮫の料理も出ました。料理は本当に美味しかったです。生まれて始めて、こんなに美味しい料理を食べました。でも、私はあまりに緊張してしまい、顔も真っ直ぐに上げられないままで食事をしました。他の子たちも同じようでした。 ただ、ミオクお姉さんとミソお姉さんはとても気楽に話をしていました。すると金正日はしきりに私たちに優しい声で、「もっと気楽に、ゆっくり食べなさい」と言いました。私たちの表情が硬かったので、自分も不便なようでした。 Q)金正日を直接に目の前で見た感じはどうでしたか? A)以前、金日成、金正日の前で公演をした事がありましたが、その時は数10m離れていました。直接、目の前で見たら、隣の家のおじさんのように、とても平凡な印象でした。そして顔に黒いシミが沢山あって、歯は黄色で、とにかくその時まで持っていた神秘的なイメージが、大きく崩れてしまいました。 ところで、本当に優しくしてくれました。それから、金正日が何か訓示のようなことを言うと、ミオクお姉さんが先に拍手をして、私たちもそれに従って拍手をしました。帰る時はプレゼントもくれました。チョコレートと中国の月餠に似たお菓子が入ったセットと一緒に、金正日の名前が刻まれた時計もくれました。金正日特有の崩し字で書かれた、自筆の筆記体が刻まれていました。実はこれは北朝鮮では、名刺時計と呼ばれていました。しかし金日成の名前が刻まれた時計は存在しても、民間には殆ど知られていませんでした。 そして2番目に会った時は、真珠のネックレスと化粧品をプレゼントにもらいました。私とヨンミだけもらって、お姉さんたちはもらいませんでした。ミオクお姉さんは金正日がプレゼントをくれそうになると、予め見当をつけて、外に出てプレゼントを持って来ました。そして金正日が私たちにそのプレゼントを渡してくれたのです。 Q)2番目に会った時はどうでしたか? A)2番目会った時は食事をして、カラオケ部屋で歌も歌いました。会う回数が増えるほど、彼も次第に、自然に私たちに接するようになりました。 Q)自然と言ったら、どの程度ですか? A)うーん、このような話までしなければならないのですか…おならもためらいなく出来るくらいです。初めて会ったときは、そうではありませんでした。彼のおならは「革命的」にすると表現したら、多分、適切ではないか思います。とにかくためらいがありませんでした。臭いがしても、私たちは表情を変えることも出来ないし、息はしなければならないし。それで、そのまま笑いながら…そんな感じでした。 ところで金正日の性格上、他の人々の前で、このようにためらいなくおならはしないようでした。いくら地位が高い人でも、体面というものはありますからね。私たちの前でも、初めはかなり気を付けていたようです。金正日のように無所不為(出来ないことがない)の権力を持っていても、目下の人たちの前では体面を重視するものです。 Q)さっき歌を歌ったと言いましたが、カラオケの雰囲気はどうでしたか? A)私とヨンミに歌を歌わせる場のようなものでした。私とヨンミに歌を歌わせましたが、ヨンミは声楽科出身で歌が本当に上手でした。「将軍様、冷たい雪道を歩かないでください」という歌を歌いました。 ヨンミは声楽を専攻した人らしく、リフレイン部分で「将軍様、将軍様」と歌う時は、涙を流しながら切実な声を出しながら歌を歌いました。それを見ながら私は、「本当に上手だから、きっと誉められるわ。私もあのように歌わなければならないのに」と心配してしまいました。 ところが、意外にも金正日は特に喜ばないで無愛想に、「上手だった。声が本当に綺麗だ」と言いました。 私の順番になったのですが、私は歌はヨンミより下手なので、日本の歌の「道ずれ」を歌いました。日本語で歌ってから、北朝鮮で翻訳された歌詞でも歌いました。歌ってから金正日が、歌と私の体の動きがとても自然でよく似合っていると言いながら、もう1曲歌って見なさいと言いました。それで北朝鮮の歌を歌いました。 Q)日本の歌をためらいなく歌うとは、それでも大丈夫なのですか?日本の歌はどこで学びましたか。 A)日本の歌は学校で全て学びました。日本の歌だけではなく、韓国の歌、中国の歌、ロシアの歌など、各国の歌がすべてありました。テープでこのような歌を全部聞かせてくれて、自分が気に入った曲を歌わせてくれました。学校にカラオケの施設がありました。 「道ずれ」は実はミオクお姉さんが将軍様が一番好きな歌だと教えてくれたので、学んだものです。お姉さんに歌の本がありましたが、日本語が分からなかったので、日本語を韓国語で書いて覚えたのです。そこに一旦入ったら、どんな歌を歌おうと、全然構わないのです。 その日は金正日も歌を歌いました。ミオクお姉さんが「将軍様も1曲お願いします」と拍手をしながら、拍子に合わせて「将軍様、将軍様」と呼んだので、私たちも皆一緒に「将軍様、将軍様」と言いながら拍手をしました。 金正日が気持ち良さそうな顔で立ち上がって、歌を歌いました。ロシアの歌をロシア語で歌いましたが、ミオクお姉さん曰く、ロシアではとても有名な歌だとのことでした。金正日は音痴ではありませんでしたが、声が変だったので、上手だとは思えませんでした。彼が一番聞くのが好きな歌は日本の歌です。 私に日本の歌の「昴」を歌って見なさいと言われて、歌ったことがありましたが、「お前は『道ずれ』がもっと良く似合う」と言われました。 Q)喜び組は元々、外国の歌を沢山歌うと聞いたことがあります。それで外国の歌を一生懸命に学ばせたのでしょうか? A)私たちはその後、金正日に会う時、他の人々がいる前で公演したことはありません。多分、踊ったり歌ったりする子たちは、別にいたようです。実は北朝鮮には喜び組という名前がないのです。私たちも自分たちが何と呼ばれているか、知りませんでした。 マッサージをする女性も別にいました。これは聞いた話ですが、マッサージも頭を担当する子と、足を担当する子、体を担当する子が違うとのことでした。小さな失敗もあってはならないので、そのようにするとのことでした。 金正日は私たち4人を、他の人々の前に公開しませんでした。必ず自分が1人でいる時に呼びました。たまに他の人がいた時もありましたが、私たちは彼が誰だか分かりませんでした。 また、違う点は私たちには舞踊を集中的に教えなかったことです。もちろん私たちは芸術学校出身だったので、基本技は学んでいましたが、専門訓練は受けませんでした。その代わりに、金正日はブルースを踊るのが大好きだったので、その練習はしました。それから、ミオクお姉さんは外国語も特別に学んでいるようでした。 (次回に続く)
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今回の内容も前回(#1)に続き、韓国の雑誌「新東亜」に連載された金正日の「喜び組」(金正日の女性たち)の話を翻訳したものです。過去に北朝鮮を脱出して韓国に入国して韓国のマスコミで働く記者が、前職金正日の「喜び組」の女性を直接取材した内容を元に、記事を作成しました。 Q)身分が変わったので良い部屋が待っていましたか。 A)いいえ。部屋には何もありませんでした。トイレと布団だけあって、本当に何もありませんでした。とても小さな窓が1つだけありましたが、私の身長では外を見ることができませんでした。何階かも分かりませんでした。 夜には外から変な鳥の鳴き声と虫の音が聞こえてきて、恐ろしかったです。人に会う時は、特定の男性が食事を運んで来る時だけでした。それさえも、何も言わないのです。そして、読むようにと、本を何冊も持って来ました。 金日成、金正日労作、革命歴史など外でも読んだことがある本もあったし、小説もありました。本を読むと、必ず感想文を書かなければなりませんでした。本1冊で感想文を何種類も書きなさいと言うので、大変だったのを覚えています。本を積み上げたら、窓の外を眺めることができそうでしたが、その部屋の天井に監視カメラが付いていたので、そのようなことをしようとも思いませんでした。監獄と全く同じだったのです。 本当に息苦しかったです。他の人たちは、皆良い所に行ったと言ってくれたのに、私がどうしてこのような所に来たのか、何時までこのように暮らさなければならないのか、本当に心細くて苛立たしかったです。 私は私がスパイに育てられるのではないかとも考えました。なぜなら、私が入った学校の名前が**軍事学校だったからです。学校の名前は書かないでください。この学校の存在は、まだ外部には全く知られていないからです。私が名前を言ったら、後日、この学校出身だと嘘を言う人が出現するでしょう。 Q)監禁生活は何時まで続きましたか。 A)1カ月です。1カ月位が過ぎた頃、呼び出されて、ある部屋に連れて行かれました。そこには私のように選ばれて来た女の子が、10人いました。 顔を初めて見る子もいたし、3次試験で会った子もいました。皆、全国から選ばれて来た美人たちでした。外国の女性のような顔付きの子もいました。年は私が一番幼いようでしたが、お互いに正確な年齢は分かりませんでした。お喋りをしませんから。 2年間、殆どお互い口を利かないで暮しました。それから、先輩や後輩もいないのです。学生たちが皆卒業したら、また新たに新入生を受け入れるようでした。ある幹部がこれから入学式を始めると言いながら、軍服をくれました。ネクタイもあって、人民軍協奏団の軍服に似ていました。入学式が終わってから、また、私がいた部屋に戻りました。そして生活にも変化が起こりました。 Q)どんな変化がありましたか。 A)まず外出が許可されました。1週間に1、2回ずつ、平壌に外出しました。外出する時は、とても素敵な服を着て出かけました。外出すると、楽しい事を見物させてくれたり、素敵な食堂へも連れて行ってくれました。私のお気に入りだった玉瑠館(オクリュウグァン)には、貴賓用の部屋が別途にあるということを、その時知りました。ヒャンマンルのような高級食堂へも行きましたが、行く前に予め部屋を全て予約してから行ったので、他の人々と会うことはありませんでした。 外出する時、2〜3人ずつ組分けしてから外出をしましたが、組の構成は外出する度に変わりました。先ほどお話しましたが、外出してもお互いに殆ど口を利きませんでした。特に注意を受けていたし、学校の雰囲気もそうだったので。 そして1カ月くらい経ってから、写真を沢山撮影されました。中央党の写真師が撮影してくれましたが、金正日に差し出すもののようでした。その時、写真師がこれを保管しなさいと言いながら、気前よく写真を何枚かくれました。その時もらった写真を、韓国に何枚か持って来ました。 Q)学校生活はどうでしたか。例えば教育課程とか。 A)何をどのように学んだのか詳しく話したら、終わりがないです。勉強もしたし、射撃や水泳もしました。ビデオも見たし、芸能訓練もしたし、食事のマナーも学びました。 私がいた建物は、構造がとても複雑でした。勉強をしに行く時は、同じ階へ行く時も、エレベーターに乗って下がったり上がったりしながら行きました。一言で言って、構造が分からない迷路のようでした。実際、住んだことがない人には、絶対に想像ができなくて、その構造を描くことが出来ないでしょう。そして、防音が非常によくされていました。本当に静かでした。 Q)以前ミオクお姉さんという名前を言いましたが、その人は教官ですか。 A)はい。教官と言ったら教官で、先生と言ったら先生のようなお姉さんです。私たちを教えるお姉さんたちは全部で3人いました。ミオクお姉さんは、その責任者格でした。 学校生活を始めて3カ月くらい経った頃、私は他の部屋に連れて行かれました。その部屋は2階にありました。以前の部屋は建物の羽部分にありましたが、今度の部屋は建物の中心部分にありました。私が1人で使っていた部屋よりずっと大きな部屋で、家具も格段良かったです。たんすもあったし、コンピューターもありましたが、ベッドはありませんでした。 退屈な時はコンピューターでゲームもしましたが、このようなゲームもありました。ゲームの名前は「将軍様を守りなさい」だったようです。敵を殺しながら、使命を遂行して、最後まで行ったら、髪の毛がチリチリでジャンパーを着てお腹の出た小さな人が出て来て、「パチ、パチ、パチ」と拍手をしながら手を振りました。誰が見てもそのキャラクターが金正日であることが分かりますね。 拍手の後に、バックミュージックに「マンセ(万歳)」という声が聞こえした。とにかくゲームまで忠誠心を呼び起こすものなのです。1990年代半ばにそのようなゲームがあったとは、多分、想像もできないと思います。 Q)その部屋にも1人でいましたか。 A)いいえ。私はその部屋でミオクお姉さんと一緒に生活しました。ミオクお姉さんは私と本当に似ていました。皆が姉妹のようだと言いました。背も私と殆ど同じでした。そのお姉さんは少佐でした。ところが軍服を着た姿は、見たことがありませんでした。その時から、何処かへ行く時は、何時もそのお姉さんと一緒に行きました。 教育を受けに行く時も、ミオクお姉さんが送ってくれて、連れて来てくれる時が多かったです。私の同期10人の中でお姉さんと一緒に生活していたのは、咸興(ハムン)芸術学校で声楽を専攻して選ばれたヨンミという子だけでした。 Q)2人だけだったというのを、どうして知りましたか。 A)教育を受ける時、講義室には大抵私たち2人が先に行っていました。そして1〜2分後に残りの8人がぞろぞろと入って来ました。教育が終わって帰る時も、私たち2人が先に帰りました。私たちは2階に住んでいましたが、他の8人は1階に住んでいました。それで嫉妬混じりの視線で良く見られました。 それ以後、金正日に会う時も、いつもミオクお姉さんが同行しました。そして、ヨンミとヨンミと一緒に生活する教官のミソお姉さん、このように私たち4人で普通、金正日に会いました。もちろん、私とミオクお姉さんだけで会う時もありました。ミソお姉さんよりミオクお姉さんの格が高かったです。最終指示を下す立場にいたからです。 私たち2人だけが、特別にお姉さんたちと生活したのは、多分10人の写真を大量に撮って差し出したところ、金正日が私たち2人を最終的に選んだので、私たちだけがお姉さんたちと特別に生活したようです。 Q)金正日に初めて会ったのは何時のことですか。 A)1995年の夏の暮れ頃でした。学校生活を始めて、半年位経った時でした。その中で暮らしていると、時間の概念がなくなります。それで、私も正確な日付はよく覚えていないのです。2日前にミオクお姉さんが私とヨンミを呼び出して、とても厳肅に話しました。 「あなたたちは将軍様を側で補助する仕事をします」 それから、沢山の注意事項を詳しく教えてくれました。まず、以前将軍様にお目に掛かった事はあるかと聞かれました。私は小さい頃公演に出て、金日成と金正日の前で公演を何回かしました。それで公演場で会った事があると答えました。しかし、ヨンミは初めてだと答えると、ヨンミに細心の注意を払うようにと言いました。 注意事項としては、あまり過剰反応しないで、落ち着いて行動するようにということと、将軍様のお話が終わったら自分がするように拍手をすようにと言われたのを覚えています。その日の夜は一睡も出来ませんでした。その日から、顔のマッサージを受けたり髪の手入れをされました。 当日は化粧もしました。私は10代だったので、その年に合った、さっぱりした化粧をしました。そこでは、毎朝、着る服の指示をされました。軍服を着るように言われたらその日は軍服を着て、他の服を着なさいと言われたらそれを着ます。 ところで、その日は新しい服を持って来てくれました。私のサイズは既に完璧に把握されていたので、指示さえしたら、どこからか私の体にぴったりの服を作って来てくれました。 Q)どこで会いましたか? カーテンを掛けた車に乗って行ったので、正確にはどこに行ったか分かりません。地下ではありませんでした。到着して見たら、私まで合わせて5人いました。ミオクお姉さんと私、ミソお姉さんとヨンミ、そしてもう1人いました。でも、その子には一緒に来たお姉さんはいませんでした。そしてそれ以後、私たちが金正日に会う時、2度と現われませんでした。 多分、金正日が写真を見て、私たち2人以外にその子も1度会って見たいと思ったようですが、最終的に合格しなかったようです。もちろんその子の美貌も抜群だったし、どこかしら、北朝鮮の映画俳優のオ・ミランに似ている感じがする人でした。それから、その5人は服が全員違いました。多分、各々の個性に合わせて着せたようでした。 ある部屋の前に着いたら、ミオクお姉さんが先に入ってから、出て来ました、そして、私たちも一緒に入りました。その場に金正日が座っていました。ある人とお茶を飲みながら話をしていましたが、私たちが入って行くと、その人は出て行きました。 (次回に続く)
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