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中国は果たして「責任ある国」なのか?北朝鮮の延坪島(ヨンピョンド)攻撃は、北朝鮮自らが認めた、明らかな軍事挑発である。無差別爆撃により、軍人は勿論の事、民間人まで死亡した。日本とアメリカは勿論、ロシアとベトナムなどの北朝鮮に友好的な国まで、異口同音に北朝鮮の蛮行を糾弾したのは、そのためである。しかし、特に中国だけは実体的真実を無視して、北朝鮮を庇護するような態度を取っている。中国が果して「責任ある国」なのかを、問わざるを得ない。 |
北朝鮮問題の分析
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北朝鮮軍が韓国の延坪島(ヨンピョンド)に海岸砲と曲射砲約100発を発射する攻撃を加え、韓国軍2人が戦死し、16人が重軽傷を負った。北朝鮮が発射した砲弾数10発が民間の村に落ちて、民間人2人も死亡するなど、韓国は大きい被害を被った。韓国もK-9自主砲80発を対応射撃して、追加攻撃を止めるように警告したが、北朝鮮軍は約1時間に2回の砲射撃を行った。民間人居住地域に無差別に砲弾を浴びせる行為は、停戦協定に対する違反のみならず、戦争犯罪に相当する。 |
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北朝鮮がアメリカの核専門家に、高濃縮ウラン核開発が可能な1千基以上の原心分離器を公開した。既存のプルトニウム方式ではない、新しい核兵器を作ることができることを露骨に誇示したのである。非常に深刻な状況である。北朝鮮の核脅威が、今までと全く違った次元で展開されることができるからである。北朝鮮の主張通り2千基の原心分離器があったら、1年だけ稼動しても原子爆弾1個を作ることができると言う。その気になったら、いつでも核兵器を作ることができるのである。ウラニュム弾は時間と費用が余り掛からないし、製造と保管が易しくて、移動や隠匿が可能だという点で、軍事的脅威の深刻度は加重されるしかない。これが、北朝鮮のウラン濃縮を絶対に容認することができない理由である。 |
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北朝鮮は先月28日の労働党代表会議で、30年ぶりに労働党規約を改正しながら、「(北朝鮮は)金日成朝鮮」と明記した。1980年に採択された労働党規約の序文は、「朝鮮労働党は偉大な首領金日成同志によって創建された主体型のマルクス・レーニン主義党である」となっている。しかし、今回改正された労働党規約は、序文の初めの文章から、「マルクス・レーニン主義」という単語を取り外して、「朝鮮労働党は偉大な首領金日成同志の党」と規定した。北朝鮮は去年4月に改正した憲法の序文の中で、「永生不滅の主体思想を創始した金日成が朝鮮の創建者で朝鮮の始祖」としながら、「首領金日成を共和国の永遠な主席として…」と明示した。 |
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古代ギリシア人たちは同時代を生きた他民族に比べて、非常に創意的な政治ビジョンを持って実践したので、2千年が過ぎた今日でも、尊敬の対象として残っている。自らの民主的政治様式に自負心を持っていたギリシア人たちは、民が統治者の前にひざまずく伏礼の慣行を軽蔑した。ギリシア人たちはエジプトやペルシアといった巨大なオリエント帝国の雄大壮厳な文化には感嘆したが、彼らの統治方式には断固とした態度を取り、軽蔑さえもしたのである。特に統治者の前にひざまずく伏礼の慣行は、市民と統治者の間に存在してはならない不平等な関係だと考えた。それで、このような国の人々を「野蛮人」を意味する「バルバロス(barbaros)」という名称で呼んだのである。また、ギリシア半島の同様な都市国家の中に、アレキサンダー大王の母国であるマケドニアがあったが、ここでは都市国家ながらも王にひざまずく慣行があった。しかし、このためにアテネ人たちは、躊躇なくマケドニア人たちを「野蛮人」と指称した。 私たちが21世紀の「血の統治」に対して、過去における伏礼の行為に感じたのと同様な拒否感を感じるのも、同様な理由による。宗教人たちの態度からも観察できるように、人間の「ひざまずく」という行為は神の前だけで可能なのであって、人間の前では不可能という揺ぎ無い認識がある。人間が人間の前にひざまずいた時、相手は神になるのであって、人間と人間の間の平等な関係を感ずることはできないからである。 私たちは「受け入れられない不平等な関係」について説明する時、「支配」を指称するラテン語の「dominatio」からは派生した英語の「domination」という概念を使用したりする。ギリシャ語の「despotes」やラテン語の「dominus」といった2単語は、奴隷に対して恣意に権力を振り回す奴隷主を指称した。しかし当時から長い年月が経過して奴隷制が廃止された現在でも、専制を意味する「despotism」や「domination」という単語が相変らず使われているという事実は、何を意味するのだろうか?それだけでなく、今日でもローマ時代の限定された期間の非常大権を意味した「ディックタトル(dictator)」とは違う「日常的政治」を説明する時、「独裁(dictatorship)」という単語や「全体主義(totalitarianism)」という新造語が使われているという事実も、権力現象に対する私たちの実存意識の中に、抑圧的支配に対する恐怖感が変らず潜んでいるということを現わす一つの現れと言えるだろう。 「君主の時代」が終熄した今、専制政治は消えたのだろうか? 残念にも、そうとは言えない。独裁政治に対する反感と平等意識、人権に対する熱望が大きいことは事実である。人は啓蒙主義の時代を経験して、性と人権、及び人間の尊厳に目覚めたので、残忍なエジプトのファラオやローマのカリギュラ、ネロなどから連想される狂気に満ちた皇帝といった専制君主に対して、嫌悪感を内的に感じる。しかし、それにもかかわらず20世紀にファラオやカリギュラ、ネロが新しい服を着て登場したとしたら、笑止千万ではあるが、否認することができない事実でもある。 朝鮮民主主義人民共和国の偽民主主義 北朝鮮を見ろ。北朝鮮は自らを「朝鮮民主主義人民共和国」と自認して来た。しかし今回の金正恩3代世襲を通じて、再度、その異常さを具現した北朝鮮の体制は、専制の可能性が時・空間上、決して遠い過去や他の地域だけの話しではないことを実証している。 金正雲は王朝国家のように金正日の後継者に決定されたのである。過去の王朝国家と違いがあるとしたら、「隠遁の王国」らしくなく、西欧の記者たちを大挙招待して、派手なパレードを開いて後継者になったという点だけである。これこそが北朝鮮は専制制度で統治されているという証拠ではないだろうか。しかし、どうすることも出来ない。北朝鮮の統治方式は、住民にいつ何処でも苦痛と死を強要する体制であることを証明している。 北朝鮮を説明する時、「不良国家(rogue state)」や「失敗した国家(failed state)」という新概念や用語が登場する。しかし、北朝鮮の実体と本質を把握するには力不足である。また、この名称は、北朝鮮を道徳的、或いは体制のレベルから理解するには有用ではないし、役にも立たない。北朝鮮を専制国家と規定するのが、最も妥当な理由は何なのかだろうか? 専制主義的政治体制の秩序の窮極的原理は、専制君主個人の性向に由来する。もちろん専制制度と言って、正義や法が何の意味も持たない、無規範の秩序体制ではない。正義を規定する手続きだけではなく、専制を運営するのに必要な自分なりの法と規則も存在する。しかし「恣意性」と「爆圧性」が統治の有機的特徴という事実に変わりはない。 専制制度の本質は、住民たちを相手に振り回す統治者の無制限な権力に対して、法的にも制度的、慣行的にも、批判や反論を正当な方法で提起できるメカニズムが存在しないという点にある。立法権を持った議会もないし、反対派もいない。自由な言論や独立した司法機構も存在しないし、権力に対する欲望により法から保障される私産もない。たとえ議会やマスコミ、司法機構があったとしても、実体はない名前だけの「有名論」によって圧倒されるだけである。専制君主の命令と指示以外に、討論と説得、合意の空間も存在しないし、専制君主の意思とは異なる公共の声も聞こえない。 それにも関わらず、北朝鮮には自由民主主義国家を真似た「偽商品」が多い。宗教を見ろ。奨忠(チャンチュン)教会もあるし、ボンス教会もあって、時たま来る外国からの観光客が立ち寄る名所になりつつある。かといって、宗教の自由が存在するわけでもない。選挙はあるが公開選挙だけあるし、裁判もあるが司法的正義はない。軍隊もあるが住民を抑圧する機能が優先される。聞こえは良いが、「先軍政治」や鉄砲刀を前に立たせた「武断政治」に過ぎない。人民はいなくて奴隷だけあふれた、たった一人の奴隷主だけが代を引き続いで君臨する国家が北朝鮮である。
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