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(前回から続く)
この記事は韓国の雑誌「新東亜(シンドンア)」に連載された脱北者の話を翻訳したものです。
80年代の北朝鮮の漁村の様子が良く分かります。
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基地に所属する潜水船は、岩場周辺でウニとナマコを引き上げ始めた。普通の潜水船は長さが10m度の鉄製で、酸素供給装置を搭載しながら潜水作業をした。それまでのナマコやウニ、アワビ漁は、小さな船に乗って海の上から鉤で引き上げる程度だった。磯近くの海中を掻き回すダイバーは、毎日、大量の海産物を引き上げて行った。
ある日、イスズや日産といった日本ブランドのマークを付けた軽自動車が、リーさんの村に現われた。 北朝鮮では珍しい高級車だった。この車は潜水船が引き上げた水産物を積んで帰って行った。各地で捕獲された海産物は1カ所に集められて、箱に包装されてから、また船に積まれて、素敵な商船に移された。後日、人々はひそひそと話し合った。「あの商船は、日本の貿易商船だそうだ。」
日本の商船の登場は、漁夫たちの生活も変えた。漁夫たちが海でウニやナマコを捕って来たら、水産組合に捧げるのではなく、8軍団基地に売った。こちらの方が、ずっと高い価格で買ってくれた。今や漁夫たちは、運が良ければ、1日に1カ月分の給料を儲けることができた。リーさんの村の漁夫たちも、次第にお金に目覚めて行った。
1、2年過ぎると、リーさんの村には8軍団外貨稼ぎ基地だけではなく、5軍団、護衛司令部など軍所属の外貨稼ぎ基地ができて、その後、石炭工業省のような国家機関所属の外貨稼ぎ基地まで進出した。このような基地毎に潜水船を数隻ずつ保有して、村の前の海で次から次へと水産物を捕獲して行った。
漁夫たちも、次第に何を捕ったらお金になるか分かるようになった。一番高いのはアワビ、その次がナマコだった。しかし、これらは沢山は捕れなかった。代わりに、たくさん捕って売ることができるものが、ウニとイカだった。
当時、村の人々は、どうして急にこのような基地が次々に進出して来るのか、よく分からなかった。数年して、その内幕が分かった。金儲けに目覚めた何人かの人々が、北朝鮮では安い海産物が海外では高く売れるという状況を利用したのである。
日本でカニ1匹が北朝鮮労働者の10年分の月給に相当する価格で売れるということを知った漁村の人々は、ただ舌打ちをしながら頭を振っただけだったが、高い地位にいた何人かの人々は、「それでは私たちが捕まえて売ったら良いのではないか」と考えたのである。彼らは先覚者だった。
先覚者たちは海外に派遣された北朝鮮の官僚を通じて日本のバイヤーを見つけ出し、面倒を見てくれる後ろ盾を探した。最高の後ろ盾は、軍部だった。民間は労働党の指導を仰がなければならないし、行政機関の干渉を受けなければならないし、保衛部、検察、保安省などあらゆる所からの干渉にも苦しまなければならなかった。一方、軍部は上部に賄賂をあげるだけで、干渉する人がいなかった。バイヤーを確保した先覚者たちは、該当地域の軍司令官を訪問した。
「私どもに人員を少し割り当てて、名称さえ承諾して下さったら、毎月、数十万ウォンずつ差し上げます。」
軍部にとって、これは想像すらしていなかった資金が転がり込んで来る出来事だった。名称を貸すことは、それほど難しいことではないし、動員する軍人たちは無限にいた。これを承諾したら、部隊の副業をするという名目で、莫大な賄賂を受け取ることができた。8軍団外貨稼ぎ基地は、このようにして誕生した。外貨稼ぎは莫大な利潤を生んだ。先覚者たちは急に金持ちになった。
表向きは外貨稼ぎ基地だったが、事実上は自家用車に運転手を雇い、豪華な生活をした。あふれ返る財産を管理できなくて、美しい女性を従えて放埓な生活をした。
しかし、こういった貿易の流れは読むことができたが、時代の流れは予測することができなくて、致命的な判断ミスを犯してしまった。当時(80年代)の北朝鮮は、金持ちが自由に暮らせるような社会ではなかった。全ての高位幹部を買収することはできなかった。住民たちは動揺し、嫉妬の視線が彼らを見張った。水産物を売って急に増えた金持たちは、この点を見逃していた。
1993〜1994年頃に彼らに対する取り締まりが始まった。罪状は北朝鮮政権が勝手に決めた。賄賂を受け取った高位幹部たちが、金正日の怒りまで阻止することは出来なかった。時代の流れに乗って北朝鮮で水産業に進出した金持ち1世代が誕生したが、急に迫害を受けた。多くの者たちが銃殺され、生き残った者たちも10年以上の刑を受けた。
しかし、このようにして生まれた資本主義の火種は、完全に消えてしまったわけではなかった。むしろこの火種は1990年代半ば、北朝鮮で数百万人が飢え死にした「苦難の行軍」という最悪の経済難を契機に、あっという間に巨大な炎として燃え上がった。
北朝鮮で飢え死にする人々が本格的に登場したのは、1994年7月に金日成が死亡してから3カ月程度経過した10月頃からだった。わずか数カ月の間に、飢え死にする人々が全国各地に続出した。国家の配給が次第に減ってはいたが、この時期から完全に中断してしまった。
一方、海辺は多少状況が良かった。海外に海産物を売る方法を既に知っていたからである。せめて、ワカメでも拾って食べることができた。一方、リーさんも工場からの配給が中断された。リーさんは速やかに状況を把握した。工場でこれ以上働いたところで、希望がないということを悟った。彼は支配人の元を訪れた。
「工場には仕事がなくて、人々は配給を貰う事が出来ないでいます。このような状況で私に自由を下さったら、毎月1,000ウォンずつ差し上げます。」
北朝鮮で当時1,000ウォンは、労働者10カ月分の月給だった。これだけあったら、市場では個人が作った酒が約40本、中国産のフィルター煙草が約20箱買うことができた。リーさんは結局、許可を貰った。
リーさんは新式の海産物採取方法である「ポクチャン(服装)」を始めた。ポクチャンは海女たちが着るゴム製の服を意味する。ただし、ポクチャンは潜水はしないで、水の上に浮かぶ。ポクチャンを着た人は鉤と網が端に付着された長さ5mの木竿を持って、海の上に漂いながら、水中にいるウニやナマコを発見したら、木竿で引き上げる。3月頃にはタコが沢山捕れるので、この時期にはタコも捕った。
外貨稼ぎの先覚者たちは全て除去されたが、彼らが道を切り開いた日本との水産物交易通路は一層広がり、活発に活動した。1990年代初めには特定の人が独占して貿易をしていたが、苦難の行軍が始まってからは、外貨稼ぎ会社が大幅に増加したからである。外貨稼ぎ基地を作らない工場、機関がほとんどないほどだった。統制しなければならない保衛部、検察、保安署は勿論の事、労働党の地方機関も海辺に外貨稼ぎ基地を競争して作った。
外貨稼ぎ基地がお互いに競争したおかげで、リーさんは採取した海産物を高い価格で売ることができた。彼は4人家族を飢えさせないで扶養し、4年後には大きな家を新たに購入することができた。他人が全て飢えていた時期にこの程度なら、大変なものだった。
今、北朝鮮で国際価格に最も近接した生産物は、正に海産物である。海産物は生産者が海外市場で流通する価格の20〜30%は受け取ることができる。一方、キノコやワラビのように山で採取されるものは、海外市場の価格の10%以下の安い価格で売られる。北朝鮮ではマツタケ1Kgをコメ10Kg、または油50ml10本と交換する。
リーさんの「ポクチャン」事業はその後数年しか続かなかった。競争者たちが沢山出現したからである。リーさんはウニの最盛期には移動作業を行った。人がいない浜辺を探して、天幕を張って宿泊しながらウニを捕った。すると、そのような遠く離れた所まで自転車に乗って来て、ウニを受けて取る人も出現した。これは主に女性の仕事だった。遠くに行くほどウニの価格は下がったが、その代わり沢山捕れるので、全体的な収入は良かった。しかし、間もなくここにも潜水船で武装した企業型外貨稼ぎが付いて来て、ウニを枯渇させた。
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