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北朝鮮はこれまで、金日成の「普天堡(ポチョンボ)の戦闘」を歴史的事変と捉えて、金日成の抗日武装闘争の中の、最も大きな業績と主張してきた。一例を挙げると、北朝鮮の中学校の教科書には「金日成が1937年3月、西崗(ソガン)で朝鮮人民革命軍軍政幹部会議を開いて、朝鮮人民革命軍の韓国進入作戦計画を提示して、行動に移した」と記録している。
具体的に同教科書は、「警察駐在所、村役場を含めた、日本帝国主義の統治機関を襲撃掃討して、普天堡一帯を解放した。道端に溢れ返った人民たちは、『金日成将軍万歳!』『朝鮮独立万歳!』と大声で叫びながら歓迎した」と説明している。
しかし同教科書を注意深く読んで見ると、おかしな部分が発見される。理由は、何人の戦闘員が参加して、何人を射殺したというような具体的な戦果に対しては、一切説明がないのである。
ただ、普天堡の戦闘を通じて、「朝鮮人は死なないで、生きて、日本帝国主義に対抗することを訴え、日帝の植民地統治に致命的打撃を与えた」とだけ主張している。
金日成及び北朝鮮の研究者たちによれば、当時、普天堡には日本人26号に50人、朝鮮人が280号に1、323人、中国人が2号に10人など、総勢308号に1、383人が居住していた。武装人員としては5人の警官が駐在所にいただけである。
1937年6月4日、金日成は約90人を率いて普天堡を攻撃した。まず電話線を切断した後、駐在所から攻撃した。遠くから機関銃で射撃をしながら侵入して行ったので、銃声に驚いた警察官たちは、皆、身を隠した。その過程で、母親の背中に隠れていたある警察官の娘が、銃弾に当たって死亡した。
金日成は銃器庫から軽機関銃1丁、小銃6丁、拳銃2丁、弾薬数百発を奪取した。続けて、農業試験場、森林保護区、村役場と郵便所を襲撃して、火をつけた。
普天堡の戦闘は、戦果から見たら些細な戦闘だった。敵の武器を奪取したことが戦果といえば戦果だが、2人の民間人も犠牲になった。北朝鮮の教科書が普天堡の戦闘の具体的な戦果を説明することができない理由もここにある。
また普天堡の戦闘は東北抗日連合軍の第1軍2師、4師と第2軍6師(金日成部隊)の連合部隊の作戦だったが、金日成部隊の単独作戦であるかのように仮装されてきた。一方、普天堡の戦闘で抗日闘争をした金日成将軍を研究して、数年前に他界した李命英(イ・ミョンヨン)元成均館(ソンギュンガン)大政治学科教授は、『金日成の熱戦』を通じて、北朝鮮のこのような歴史の捏造を明らかにした事がある。
李教授は自分の著書の中で、「普天堡の戦闘の金日成将軍は、1887年に生まれた、
日本の陸軍士官学校出身の本名がキム・グァンソという人」であり、「北朝鮮の金日成が普天堡の抗日闘争の金日成将軍に化けたことは、ソ連政権が解放後、北朝鮮の共産政権樹立に簡単に利用することができる、知名度の高い名前が必要だったから」と明らかにした。
実際に、当時、ソ連の指揮下で訓練を受けた満洲の共産遊撃隊出身の金日成の本名は金聖柱(キム・ソンジュ)であり、北朝鮮に入国した当初は、金英煥(キム・ヨンファン)という別名を使って行動していた。
以後、1945年10月11日から12日に、ソ連軍政治司令部のロマネンコ所長の脚本で、平壌市内「タミヤ」という日本料理店で、人民政治委員会(委員長、チョ・マンシク)のメンバーたちに、偽の金日成は初めて「金日成将軍」として紹介された。
このような過程を経て、同年10月14日、平壌公設運動場で、所謂、「金日成将軍、
歓迎平壌市群衆大会」が開催され、金聖柱(キム・ソンジュ)は金日成として行動することになった。金聖柱が金日成将軍に化けたのである。
当時、現場にいた平安(ピョンアン)南道陽徳(ヤンドク)が故郷の元平安南道知事の
パク・インガク氏は、「演説に先立って、スティコプ占領軍司令官(大将)が彼を金日成将軍だと紹介したが、参加した人々は、33歳の若い金聖柱が金日成将軍だという事実を信じなかった」と明らかにした。
また新義州(シンウィジュ)が故郷の元校長のイ・ヨンフン氏は、「群衆のざわめきに雰囲気を把握したスティコプは、ここにいる金日成が抗日闘争の金日成将軍であるとかないとかが重要なのではなく、これからよくなればいいのだと言って、ソ連も金聖柱本人も、普天堡戦闘の金日成将軍ではないという事実を認めた」と証言したことがあった。
金聖柱が抗日闘争の金日成将軍ではないという点を裏付ける他の証言がある。証言の主人公は、『金日成評伝続』を出版して、金日成を研究しているホ・ドンチァン高麗大教授である。
在日韓国人で朝総連の専門家であるホ教授は、「普天堡の戦闘後、金日成将軍を
追跡した日本軍が、同年11月、ムソンヒョンで彼が死亡したと公式発表した」として、「それから4ケ月後に、金日成という名前で行動する人が再び出現したが、
この人が普段から目立つのが大好きな金聖柱だった」と語った。
(2002年8月27日付けの未来韓国新聞)また、1945年に解放新聞の記者として活躍して、韓国動乱後、北朝鮮に渡り、北朝鮮外務省の局長まで勤めたパク・カプドン(82)氏もいる。
彼は「平壌で行われた金日成将軍の歓迎式の写真を、普天堡の戦闘に参加して日本軍に捕まり、西大門刑務所に服役中だったパク・ダルとパク・クムチョルに確認させたところ、写真の中の人物が金日成将軍ではないという事実を証言した」として、
「バク・ダルとパク・クムチョルに関しては、普天堡の戦闘の日本側の判決文である『恵山(ヘサン)事件の判決』に記録されている」と明らかにした。結局、
以上のような証言と記録は、皆、北朝鮮で主張している金日成の抗日闘争が捏造であることを証明している。
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