母と娘の電話の内容をキリンの首、いやロバの耳?になって娘の近況に一喜一憂する。原発事故以来、今では実際に何百キロも遠くなってしまった娘との距離。
私には二人の娘がいる。 私は今から十年前に、「悪性リンパ腫」という血液のガンを発症した。 上の娘が中学二年、下の娘が小学二年だった。上の娘はしっかり者。下の娘は活発で明るく、素直だった。
昔 休日には、次女と私でよく散歩に出かけた。学校のこと。友達の事。ママのこと。将来の事。私に話す彼女の笑顔は、はち切れんばかりだった。長女も明るかったので我が家はいつも笑いが絶えなかった。私が長期入院するまでは・・
次女が小学二年の学芸会、劇のナレーターだった彼女は、家で一生懸命練習し本番に臨んだ。そして本番も大成功。そんな夜は本当に楽しい夜だった。私はその後、宮城県の病院に長期の入院をした。彼女は、私が入院した病院に、今では通れなくなってしまった常磐線を双葉から二時間かけて母と長女とお見舞いに来てくれた。何年も、何年も。何年も
小学校三年生。学校でパソコンの操作を勉強した。彼女は覚え立ての技術で、私にメールをくれた。一日の学校での様子や、家での家族の様子を教えてくれた。
長期の入院の私にとってどれほど力になったか。彼女は学校から帰って来たら、二階の長女の部屋のパソコンから一生懸命メールを打ってくれた。
「私が、いい子にしていたら、きっとパパはよくなって帰ってくる。」
「私は、家族に迷惑はかけられない。」そんな彼女の言葉に、私は娘達に無理をさせていることをすまなく感じていた。
私はその後、ドナーバンクも含め移植を三回行った。十年の間に 余命宣告も二回受けた。そのたびに私たち家族は、何度もなんども厳しい嵐の中に漂う小舟のように運命を翻弄され、絶望と歓喜の繰り返しを味わってきた。でも家族の絆はより強くなっていった。
何度も何度も繰り返される家族の厳しい毎日に、本来ならもっともっと楽しく家族の中心であったろう小学校生活。彼女は「よい子でいれば」との思いでがんばり通した。でもその成長過程で次女から笑顔は少なくなった。私が外泊で家の近くを散歩するにも一緒に行くのをいやがるようになった。病気の父と一緒なのがいやのだろう。その気持ちはいたいほどわかる。妻は、成長過程だからと言ってくれていたが、その優しさも有り難かった。
彼女が中学生になった時、私は自宅療養のため、仕事の教師を辞職せざるを得ず、今まで生かされてきた病気の体験や自分が教職だった経験を生かして、命の大切さや命のつながりを小中学校で講演をすることが多くなった。私は、先生という職業が大好きで、多くの教え子にも励まされて来たこともあり,社会への恩返しのつもりであった。
思春期の次女は、私のやっていることをどこかでわかっていながらも、なかなか受け入れられなかった。私は私で、家族がいやがっているのもわかるが、現職の時にどうしてもうまくいかなかったいじめの指導や不登校の生徒の支援を、病気を経験した立場、移植を経験した立場から伝える事が生かされているものの務めだと思った。でも 思春期の彼女には本当にすまないとも思った。
でも 父として 生き様を 後ろ姿で見せたかった。(でもこんな事はエゴなのか。) 「やりたいこと、やればいいよ。」の声に励まされてきた。
大震災当日、次女の中学卒業式だった。私はそっと式場に行き、彼女の晴れ姿を見た。入場する彼女の背中は小さいけど その背中にはいろんな事を乗り越えてきたたくましさがあった。うれしかった。よくここまでがんばってくれた。ありがとう。
あの日から突然、原発事故でまた私たち家族はばらばらになった。次女は浜の高校で一人、下宿をして通い、長女は 関東に就職。
家族は妻の仕事の関係で会津若松経由、病院の関係で現在は郡山で生活している。だからこそメールのつながりが有り難いのだ。
先日 エッセイ懸賞に応募して 入選しないで落ち込んでる私に 「まだやりたらないんだよ。パパ。まだまだこれからだよ。」とアドバイスをくれた娘。なるほどと思った。
本当は、私のメールをうっとうしいと思いながら「はい。」の二文字に、次女の成長と親子の絆を感じ、長女も次女もたくましい、凛とした大人となって、どんなことも乗り越えてしなやかにたくましく成長していく姿を感じ、 これからも家族の歴史を紡いでいきたいと心から願うのだ。