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原子力の安全性に対する疑問を原子核工学科の教授たちにぶつけても、納得のいく答えは返ってこないのです。米国の原子炉メーカーが「安全だ」と言えば、そのまま進めてしまう、そういう姿勢が横行していました。そして最後には、「自分たちには養うべき妻子もある」と言い訳をするのです。そんなふうに自分の生活を言い訳にして生きるなんてつまらない人生は送りたくないと心底思いました。原子力の夢に燃えていた私は180度転換し、原子力はとにかくやめさせないといけないと確信したのです。........小出... 裕章
私の「転向」 / 科学は役に立たなくてもいい
1970年10月23日は、原子力発電を未来のエネルギーだと信じて夢見てきた私が、決定的に原子力発電に決別した日です。
原子力への夢に燃えた私は1968年4月に東北大学工学部に進み、原子核工学を専攻しました。 最初は、授業を1時間も欠席したことのないまじめな学生だったのですが、1969年の東大・安田講堂をめぐる攻防をテレビで観て、学問と社会とのかかわりについて考えるようになりました。自分がやりたいと思っている原子力は社会のなかでどういう意味をもつのか、という根本的な問いを抱えることになったのです。 そして、そのころ、宮城県女川町に原子力発電所を建てる計画が持ち上がり、それに対する地元住民の反対運動が起こっていました。 もともと、私は「原子力をやりたい、原子力発電所を建てたい」ということで原子核工学科に進んだわけですが、女川原子力発電所の反対運動があったことで、彼らがなぜ反対するのか、実際に電気を使う仙台ではなく遠隔地である女川に建てられる理由は何なのか、と考えざるを得なくなったのです。そして、原子力について専門的に勉強すればするほど、その安全性に対する疑問は深まっていきました。 けれども、その疑問を原子核工学科の教授たちにぶつけても、納得のいく答えは返ってこないのです。米国の原子炉メーカーが「安全だ」と言えば、そのまま進めてしまう、そういう姿勢が横行していました。そして最後には、 「自分たちには養うべき妻子もある」 と言い訳をするのです。 そんなふうに自分の生活を言い訳にして生きるなんてつまらない人生は送りたくないと心底思いました。 原子力の夢に燃えていた私は180度転換し、原子力をとにかくやめさせないといけないと確信したのです。 続く 「100年後の人々へ」 より
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この頃、学生運動の影響を受けた人物に群馬県高崎市出身の高木仁三郎がいます。彼もまた三里塚農民の成田空港反対闘争と、全共闘学生運動に強く影響を受けた「民衆の科学者」のひとりです。
『三里塚と、全共闘運動が産んだ民衆の科学者、・・・・『高木仁三郎』 』
http://blogs.yahoo.co.jp/huwawatanpopo2010/28825514.html
2014/3/30(日) 午前 6:40
んんん




転載元さんは短足と・・・な関係じゃないんですか
おじさんの記事をしょっちゅう転載してますよ
[ ラディッシュ ]
2014/3/30(日) 午後 9:56
ラディッシュさん、コメントありがとうございます。
いいんです、それはそれで。
純粋に短足氏を信じているからだと思います。
純粋な人はやがて短足氏のウソと二枚舌には耐えられなくなります。他の人もみんなそうでした。
いつ気が付くか・・・という、時間だけの問題ですから。本質的な問題ではありません。
2014/4/1(火) 午前 7:37