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宝の山(別館)
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ああベラルーシ、ああウクライナ(上)
 
旅の報告の続編を書きたいと思います。
先にも述べましたが、今回の旅は大きく二つの企画に呼ばれてのものでした。前半はドイツを中心とする国際医師協議会。後半はやはりドイツを中心とするヨーロッパ・アクション・ウィークで、僕がおもむいたのはトルコでした。
前半の企画は、ドイツ・日本・ベラルーシの医師たちを中心としたもので、まずはドイツに集合したのちに、ベラルーシへと向かいました。今日はこの点をクローズアップしたいと思います。
ご存知のようにベラルーシは、チェルノブイリの北側に位置する国です。首都はミンスク。そこから南に下っていくとゴメリと言う町がありますが、チェルノブイリ原発事故で激しく汚染されたところです。
チェルノブイリ自身はベラルーシの南側に位置するウクライナの北の端に位置しています。国境まではわずか12キロですが、事故で飛び出した放射能はより多くベラルーシを汚染しました。ウクライナとの比は7対3ぐらいでしょうか。ベラルーシは最も激しい汚染を受けた国であるわけです。
もちろん他の国々と比べるならば、ウクライナも非常に大きな汚染を被りました。首都のキエフまでは130キロ。事故当初、ソ連政府は日本政府と同じように情報を隠蔽しました。そのため事故5日後の5月1日には、放射能の降る中、メーデーの行進が行われてしまった。そうしたことも含めてウクライナの人々も大きな被曝を被ったのでした。
さらに今、ウクライナはご存知のように南部のクリミア半島をロシアに制圧され、編入を宣言されてしまっています。僕がベラルーシを訪問したのは、ロシア軍によるクリミアへの進撃が始まるまさにその時でした。
2月26日、フランクフルト空港にベラルーシを訪問する一行が集まりました。日本からは関西医療研究会の高松医師、入江医師、山本医師、山本医師のお連れ合いの由子さん、東京から来られたおしどりマコさんケンさん。週刊MSD記者の豊田さん、そして僕が参加しました。
ドイツからの参加は、IPPNW(核戦争防止国際医師会議)ドイツ支部からデルテ・シーデントップさん、アンゲリカ・クラウセンさん、バーバラ・ホエベンナーさん他数名。ほとんどが女性の医師たちです。その他、物理学者のアルフレッド・ケルブレインさん。ドイツプロテスタント教会の方などでした。
まずはミンスクのIBBという組織のホテルに宿泊。IBBとはドイツ語の頭文字をとった名ですが、英語で表現するとAssociation for International Education and Exchangeとなります。国際的な教育と交流の場とでもなるでしょうか。
IBBはヨーロッパ・アクション・ウィークの企画母体の団体でもあります。核のない世の中、平和な世の中を求めて、1970年代に学生たち6人が集まって立ち上げ、大きくなってきた社会的組織です。
初めて訪れたミンスクの町はとても美しく思えました。夕方について夜の街並みをバスに揺られて移動しましたが、メインストリートはどこもきれいにライトアップされています。
まるで統一した企画のもとに作ったように、きれいに照らされた町並みがどこまでも続いていくのです。暫く見とれていましたが、しかしここまで美観が統一されているのが何か奇妙な感じもしてきました。世界のどの町にいっても見受けられる都市特有の雑然とした感じがない。人々の生活感があまり伝わってこない。
いったん宿舎についてから夜の町を食事に出かけました。地下鉄に乗りましたが、ここで驚いたのはものすごく美しい若い男女が歩いていること。まるでファッション雑誌の中からそのまま飛び出てきたような感じのハイセンスな若者が多いのです。これまで訪れたどの国でも感じることのなかったことです。
一方で地下鉄は古びていて、鉄の焼けるような強い匂いがする。列車の揺れも激しい。町のあまりにも統一された美しさ。町を歩く若者の一群があまの美しさ。そしていかにも古びた地下鉄。これらを統一して捉えることができず、なんとも混沌とした印象が僕の中に残りました。
翌日、IBBのホテルにある会議室で、ベラルーシの医師たち、医学生たちを交えて会議が始まりました。それぞれの医師たちが、放射線障害に関する報告を持ち寄り、次々とプレゼンしていきます。
日本から参加した医師たちは、福島原発事故後に福島の子どもたちに広がりつつある甲状腺がんについて発表し、大きな注目を集めました。とくにドイツの物理学者のケルブレインさんが興味を示してくれて、以降、日本の医師たちとケルブレインさんは何度も意見交換をしていくことになります。
僕もミンスクでの会議の一番最後に発言の機会を与えてもらいました。僕は福島の暮らしの現状の一端と、福島後に日本各地で起こっているデモについての紹介を行いましたが、大きな共感を得ることができました。みなさん、日本の民衆の今を知りたがっているのです。
ここでの発表は、そののちのゴメリ市に移っての会議、そしてドイツに戻りフランクフルト郊外で行われた会議へと連なっていくのですが、発表数が多く内容も多岐にわたっていて、まだ消化ができていません。今後、時間をかけてご紹介させていただきたいと思います。
3日目にミンスクの放射線防護の研究機関と、小児白血病を扱っている病院を訪問しました。非常に深い印象を受けたのは、病院への訪問でした。端的に言って、素晴らしい治療体制が作られていた。
まずは病院の作り自身が子どもへの配慮に満ちていました。同行した関西の医師たちに小児科の医師が多く、病院の作り方を羨んでいました。また病院だけでなく、その周りに各地から診察を受けにきた親子が、そのまま寝泊りできる瀟洒な家が建っている。
場合によってはそこで一月ぐらい暮らしながら、ゆっくりと診察を受け、判断を聞き、治療方針を相談することなどができるのです。子どもが入院した後も、親が来た時に寝泊りができます。これらが無料で補償されています。
どうして財政的にこのようなことが可能なのか。国が手厚い補償を行っているうえに、ヨーロッパ各国からの大きな支援があるからだそうです。
帰国後になりますが、この点を『チェルノブイリ事故・ベラルーシ政府報告書』(産学社)で調べてみると次のような記述がありました。

「(汚染地域に暮らす子どもの)健康増進の観点から重要な役割を担っているのは、サナトリウム・保養施設における被災者の療養である。17万人以上が治療や療養を無料で受ける権利を持ち、そのうち16万5000人が子どもや未成年者となっている」(同書p40)

実際、ここで供与されている権利は素晴らしい。子どもが白血病にかかってしまうこと自身は大きな悲劇ですが、しかしここには悲劇に遭遇した子どもたち、親たちを助けようとする仕組みがしっかりと存在している。凄いものだと思いました。
さらに驚いたのは、親子が診察を受けるために宿泊できる家の周りに、孤児たちを集め、仮のお母さんをおいて育てている家もあることでした。
この家に近づくと、子どもたちが飛んできました。かわいい子たちですが、「オー、フレンズ、カモーン」と英語で話しかけてくる。そして私たちを自分たちの家にひっぱっていくのです。
家に入ると、仮のお母さんが出迎えてくれました。家の中に入ると温かさと優しさが沸き立っているように感じました。子どもたちがここで手厚く保護されながら育っているのが分かります。
ところが同行した通訳(ベラルーシ語―英語)の若い女性の顔が、家の中で説明を受けている間、だんだんに曇っていきました。「これは何かある」と感じて、家を出てから質問すると彼女はこう言うのです。「かわいいこどもたちですよね。でもあの子たちはここを出たらほとんど確実に刑務所に行くんです!」
なぜ?答えはアルコール中毒とドラックだそうです。もともとここに来る子どもたちは、親たちがアルコールやドラックにはまり、DVをふるい、親と住めなくなった子たちが多い。そうしてその子たちもかなりの確率で同じ道を歩んでしまうのだとか。
そもそもベラルーシ社会にはドラックが蔓延していて、子どもでも12歳を過ぎるぐらいから容易に手に入れることができるそうなのです。通訳者の彼女自身、小さいころから近寄ってくる麻薬への拒絶を貫かねばならなかったそうです。
一方での子どもや親への無償の医療や保養の提供。他方でのアルコール中毒やドラックの蔓延。僕は、ベラルーシという国をどうとらえていいのか分からなくなりました。
もとよりわずか数日の訪問で、しかも事前の調査もほとんどできていない僕に、この国の概要をつかむことすら難しいのは承知で、そのためこの報告もまだまだ僕がみたベラルーシのごく一部を切り取ったものでしかないことをお断りしておく必要があります。
それでも感じたのは、僕が理解できないだけでなく、社会そのものに巨大な混沌があるのではないかということでした。放射線障害と闘うのと同時に、いやある意味ではその前にアルコール中毒やドラックとも闘う必要がある。それをもたらしている社会的要因を正すべき必然性にこの国は置かれている・・・そのことを強く感じました。
続く
 
 
 ああベラルーシ、ああウクライナ(中)
 
ベラルーシ訪問の続きです。
 
4日目はミンスク市からゴメリ市への旅でした。この旅もとても印象深かった。バスで4時間ほど揺られてゴメリに向かったのですが、その車中で、ベラルーシにもう20年近く毎年通い続けているIPPNWドイツ支部のシーデントップさんが、この国の概要を教えて下さいました。
僕にとってとてもショックだったのは、この国がソ連時代の対ナチス戦のもっとも激しい攻防地点であり、町々がナチスによって壊滅的な被害を受けたということでした。
ナチスは1941年6月に、それまでの「独ソ不可侵条約」を破り、一斉にソ連領土への侵攻を開始しました。「バルバロッサ作戦」と命名された侵略でしたが、そのとき侵攻は大きく三つにわけて行われました。
北方軍集団が、バルト三国を経てレニングラード攻略を目指したのに対し、最も大規模だった中央軍集団が、ベラルーシを横断して西にある首都のモスクワ攻略を目指しました。南方軍集団は、ソ連の穀倉地帯だったウクライナの制圧を目指しました。
当初、ソ連赤軍はドイツ軍の侵攻の可能性を過小評価していたため、多大な犠牲を出しつつ攻め込まれてしまいましたが、それこそミンスク付近で反撃に転じ、壮絶な戦闘を繰り返します。これに対してドイツは占領地で激しい略奪や殺戮を行い、撤退する時には焦土作戦を敢行しました。
まさにベラルーシは、モスクワを守るための盾となり、ナチスの攻撃を一身に受けてたくさんの血を流したのでした。多くの街が壊滅し、蹂躙されてしまいました。
ウクライナも同じです。現在の首都のキエフでの攻防が最も激しく、業を煮やしたヒトラーはモスクワに進撃する中央軍集団を途中からキエフに振り向けさせました。結局、ドイツ軍はキエフを落せず、この町は後にソ連政府から「英雄都市」の称号をもらったのだそうです。
ナチスによってさんざんに攻撃され、蹂躙され、たくさんの血を流したベラルーシとウクライナ。その戦争の傷跡から町を作り直し、戦後40年かけてもう一度、豊かさを取り戻しつつあったときに、この地域はチェルノブイリ事故に襲われたのでした。何ということでしょうか。
特にゴメリの町は汚染が激しく、舗装などされていなかった道路を通じて、どんどん汚染が拡大したため、当時のソ連政府がリクビダートルや住民を動員して、真っ先に道路の舗装化を行ったのだそうです。そのための工事のときに、土の中からナチスのヘルメットやたくさんの遺体が次々と出てきたそうです。
さて、そのゴメリでも病院に案内されました。ここは子どもだけでなく、リクビダートルの方たちも専門的にみている病院でした。病院の中を案内されて、幾人かの医師に質問をすることができました。
しかし何とも言えなかったのは、子どもたちの白血病を含めて、明らかに放射線障害ではないかと思われる多くの症例に対して、医師たちが決まったように放射能との因果関係は分からない。証明されていないと答えたことでした。
前掲の書物を紐解いても同じような見解が載せられています。「今日までの調査研究では、甲状腺がん以外の悪性腫瘍の発生頻度の増加と原発事故による放射線の因果関係は証明されていない」(同書p54)
小児白血病への対策などは手厚いものがあるものの、この国の政府も医師たちも、放射能と健康被害との関係では、ICRP(国際放射線防護委員会)など、非常に被害を過小評価する国際機関と変わらない見解を述べているのです。
どうしてこうなるのでしょうか。まだまだ多くのことを分析しなければなりませんが、それでもシーデントップさんの解説等も通じて見えてきたのは、まずはソ連のもとで「社会主義体制」をとってきたこの国が、今、プライバタイゼーション(私有化)の劇的な進行過程にあるということです。
社会主義から資本主義に変わりつつあるわけですが、しかしその場合の資本主義とは、社会保障制度などを手厚くしようとした、第二次世界大戦後の自由主義各国が採用したケインズ主義的資本主義ではなく、弱肉強食の論理にもとづいた新自由主義の資本主義です。
しかも社会資本の多くが国有財産だったこの国の新自由主義化とは、公共財のもぎ取り合戦を意味しています。旧来の社会主義的官僚制の下で力を持っていた人々が、真っ先に新自由主義化し、公共財の私物化を始めたのです。
ではどのような人々が力を持っているのか。この国の体制がしばしば「独裁」と呼ばれるように、もともと旧体制の高官だった一部の人たちが実権を握っているわけですが、実は国外にも大きな勢力がある。ロシアで「資本家化」した人々です。これらの人々が「投資」を名目に、ベラルーシの公共財もどんどん私物化している。
例えば、私たちが泊まったIBBミンスクの宿舎の周りは、開発地域で、どんどんと高層マンションが建てられている最中でした。そのうちの一室に住む方が、会議のアテンドにきてくださったのですが、彼女が住まうその高層マンションのオーナーは、なんと現ロシア市長婦人なのだそうです。
そのように多くのロシア資本がこの国に入り込んできている。政府もロシア資本と密接な関係を保っていて、例えばロシアの車を買うと税が安く、ヨーロッパの他の国の車を買うと100%もの税がかけられてしまうのだそうです。中古になると免税されるそうですが、中古という規定は10年以上経たないと得られないのだとか。
放射線障害に関する評価がどのような仕組みの下で、決められているかまでは分かりませんが、ロシアの「資本家」に強い影響を受けているこの国の公的医療機関で、なるほど、放射線障害をきちんと表に出すことなどとてもできないことは容易に理解できました。
そもそもこの国は、ゴメリ大学で放射線障害を積極的に明らかにしようとしたバンダジェフスキー博士も、でっち上げの罪によって投獄しています。ロシアとの連携のもとに、放射線障害の実相を隠そうとしてきたのがこの国のあり方なのだと思われます。
そうした国の、公共機関を訪ねて、それでこちらが思うような答えがすんなり帰ってくることなど当然、あり得ません。ではどうして私たちはここに訪ねたのか。この企画を練り上げたドイツの方たちは何を実現したかったのか。
そこで見えてきたのは、ベラルーシの国家体制がどうあろうとも、チェルノブイリ事故の犠牲者を助けたいと願うヨーロッパの人々の思いでした。中でも一番、深みを持っているのはドイツの方たちであるように僕には思えました。
この理由も単純ではありません。二つの視座があります。なぜか。ドイツ自身が1989年まで東西に分断された国家だったからです。このうち西ドイツの側は、ナチスの侵略への深い反省を社会的に深めてきていて、その思いからも、かつてのナチスとの激戦区だった地域の人々を救わねばと思っている。
実際、旧西ドイツやオーストリアはベラルーシの病院などに多大な寄付もしてきています。
一方で、東ドイツの側は、社会主義時代に、さまざまな形でロシアとの協力関係もありました。とくに科学者たちは、博士になるにはロシア語が使えなければなりませんでした。そのため旧東ドイツ側のインテリは、ロシア語を話せる人が多いのです。
その典型の1人がドイツ放射線防護協会のセバスチャン・プフルークバイル博士です。彼はロシアへのアンビバレントな感情を教えてくれて、次のように語っていました。
「まず第一にロシアはわれわれにとって占領国だ。ロシア語を学ばなければならないのは悔しいことだった。」「しかしわれわれは社会主義建設で協力もしあった。社会主義は確かに矛盾に満ちていたが、しかし弱肉強食のアメリカなんかに文句を言われたくはない。それよりはまだロシアの人々の方にシンパシイを感じるのだ」と。
そのため、チェルノブイリ原発事故があったとき、東ドイツ市民は、チェルノブイリの子どもたちの救済に乗り出した博士たちの事業に、いくらでもカンパをしてくれたと言います。
この旧東ドイツの人々にロシア語を話せる人がとても多く、もともとさまざまな人的交流の素地があったこと。ここに旧西ドイツの人々が合流し、ドイツからチェルノブイリの被害を手助けしようとする深いパイプが作られてきたこと。
そしてまたベラルーシが独裁的であろうとも、このような人道的援助の連なりは否定できなかったこと。そのためにIPPNWドイツ支部の医師たちなどが、頻繁にベラルーシを訪れ、現地との協力体制を積み上げてきたものがあるのだと思えます。
そうして今回、ドイツの人々は、ベラルーシのたくさんの医師や研究者も招き、福島事故後の日本の私たちも招いて下さって、大きな医師協議会を開催してくれた。人的な交流が深まる中でこそ、さまざまな国の事情を越えて、放射線防護の厚みのある広がりが作られていくことを期待したのだと思います。
その意味で、今回の国際医師協議会は、歴史の厚みに支えられた企画でした。ヨーロッパにおける長い交流の蓄積無くして、日本人である僕が、ベラルーシの病院を訪れることなどできるはずがなかった。その点で僕は深い感謝の念を抱いています。
続く 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
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