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私が子供のころ「ゼロ戦黒雲隊」という連続テレビドラマがあった。
テーマソングの「平和守って今日も行く ゼロ戦 ゼロ戦 黒雲隊」というような詞の一部などがこま切れになって今もボンヤリと頭の中に残っている。
この番組を当時の私は喜んでみていたと思うのだけれど、今考えてみると不思議な気がする。
外国の領土領空領海を侵犯派兵して、そこで数千万の尊い人命をゆえなく奪った日本侵略軍があらゆる悪業をつくした末にようやく降参し、「あやまちは二度と繰り返しません」と一億総懺悔して深く反省した国と国民。
悪徳の限りを尽くした戦時中の所業を、頭を垂れて懺悔し、謙虚に反省し、被害諸国民の霊前に黒衣服喪しているはずのこの国で、ゼロ戦や日本兵が平和を守るために活躍奮戦していたとするようなドラマがテレビを通じて広く茶の間に流され、人々は何の違和感もなく、むしろわずかな憧憬を含めてそれをなつかしげに見入っている。
なにも「ゼロ戦黒雲隊」に限らず日本では戦後もこうして侵略戦争を肯定的にとらえた、あるいは隠然と礼賛する姿勢すらうかがえるようなドラマや映画が多数つくられてきたのではないのだろうかと想像される。 なぜなら、日本軍国主義の属性おぼしき破片は、敗戦以降も恥じることなく日本国中に氾濫していたからであり、その旧思想の破片がやがて時を経て寄り集まり新日本軍国主義を現代に蘇生させる。
その破片とは例えば、場末のパチンコ屋ではいつも決まったように「軍艦マーチ」が大音量で流され、庶民が集う忘年会などでは必ず軍歌が熱唱されていたし、何より国民は経済的繁栄という「現実」を前に戦争への真摯な反省=「理性」を短期間のうちに投げ捨てていった、等々という日常のにぶい光の中に埋もれたコマ撮りの数々だ。
「理性」が「現実」に負け続けるというアノいつものうっとうしい歴史がこうして際限もなく繰り返されてゆく。
これがドイツならどうだろう?・・・「ゼロ戦」ならぬメッサーシュミットが米英仏軍を退治するために雄々しく空中戦を演じるようなテレビドラマが戦後に制作されただろうか? そしてドイツの人々はそういう「カギ十字」礼賛の映像に目を細めるだろうか? また、イタリアではどうだろう?
日本では戦前〜戦時中に激しく回転し続けた狂った歯車が、終戦以後も一向に取り替えられる気配すらなくそのまま保たれ使われ続けているのだと言える。日本という社会システムの総領域に生じている歪みは、この古い傷んだ歯車が狂おしく現役で回転し続ける限り再生産され続け、日本国内限定版のウソと錯誤は国民の間で異常な繁茂と膨張を続ける。
例えば・・・皇軍の性奴隷としての従軍慰安婦の存在などウソだ、というウソが。米国務省の報道官ですら「日本軍が性的な目的で女性の人身売買に関与した、重大な人権侵害で嘆かわしいことだ」と5日の記者会見で述べている。
痛ましい過去を背負わされ、すでに高齢で数少なくなってしまった生き証人たちが、怨みの涙にくれている時、その全員が現世を旅立ってしまいさえすれば、「カラスは白いのだ」とする公認史観を定着させることができるとの日本政府の胸算用なのだろう。
安倍晋三の「美しい日本」という履歴書にとって「従軍慰安婦」は何が何でも経歴から抹消しなければならない「汚物」なのだろう。だが本当は彼女たちの存在と後年の処遇こそ、日本の野蛮な戦争を、そして戦後日本社会の卑劣な歪みを、正像で映し出してくれる峻厳な鏡なのだ。
1945年まで狂った歯車を回し続けた旧社会は、なんとしても日本国民の手でこっぱみじんに打ち砕かれるべきであった。しかし何も起こらなかった。
日本国民の大部分は、怒りと復讐心を自分たちが苦しめられた元凶にたたきつけることはなかった。こうして「ゼロ戦黒雲隊は平和を守って飛び続けた」という旧思想が、砂が水を吸い込むように日本社会では戦後も抵抗なく受け入れられたのだ。
それはドイツでもイタリアでもなく古い歯車をそのまま温存してしまった日本という奇妙な特殊社会のなせるわざだった。
私は先ほど「一億総懺悔」して被害諸国民の霊前に服喪云々、と書いたが、それはどうやら私の誤った推量だったようだ。作家の中島京子は8/8の朝日新聞への寄稿文で以下のように述べている。 『終戦直後の新聞を繰っていると、やたらと出てくるのが「一億総懺悔」という言葉だ。戦争に負けたことを、戦死した兵士と天皇に向かって謝らなければならないらしいのだが、「一億」みんながやらなければならないという主張が、政権担当者によってなされ、戦争を煽ったメディアが積極的に報じているところが、何とも責任逃れくさくて受け入れがたい』
なるほど! 「懺悔」は数千万の命を奪った被害諸国民にわびるものでも、数百万の邦人犠牲者に対するものでもなく、何とそれは・・・戦禍生々しいあの終戦直後からしてすでに「第一級戦犯昭和天皇」と皇軍兵士に対する「懺悔」だったのだ。
ことさらな言い方をすれば、これは強盗殺人犯が獄中で流した涙の正体が、加害行為の悔悛によるものではなく、成就しなかった完全犯罪に対する悔し涙だった、というのと同質ではないか! と私には思える。
70年も前に終わった出来事を今更くどくどしくぼやくのは前向きな姿勢ではない! と現代の若者たちの目には私の問題意識が退嬰的のものに映るかも知れない。しかしそうではないのだ。
平安時代に生きた人間たちの仕わざが、現代に目立たないインデックスを残していることはあり得るだろう。しかしそのことで平安の時代精神が現代人に影響を及ぼしているとか、現代人を束縛しているなどという濃厚な関係はすでにない。
これとは異なり、先の戦争は今日の私たちに思想的・物質的に深甚な影響をもたらしている。1956年の経済白書で政府は「もはや戦後ではない」と記したそうだが、2014年の現在に至ってさえ「戦後は終わっていない」と私は断言できるし、いやそれどころか70年前に終わったはずの侵略戦争の恐るべき後遺症はまさに「これから始まる」のである。
この恐ろしい後遺症は、敗戦当時海外在留邦人が700万人を超えていたという日本の凶悪な海外侵略の結果生じたものだ。
つまり海外邦人の一斉帰還により発生したベビーブームと呼ばれる人口ピラミッドの畸形こそが、その後の歳月につれだって〜高度経済成長〜団塊世代の高齢化〜経済社会の腐朽〜財政硬直化・財政破たん〜破たんを糊塗するための再侵略戦争〜そして最後に日本のカタストローフを必然化する。
今後さらに劇症化するこうした現在進行形の戦争後遺症については、私はすでに何度かブログで触れていることでもあり「繰り言をいう年寄りは嫌いだ!」と睨まれそうなのでやめておこう。
ただ、「戦後は終わっていない」というのはこの「後遺症」ばかりを念頭に置いているのではない。戦時中の精神的情況が解体を免れてそっくりそのまま現在にタイムスリップしていることをも指している。戦後ならず戦中すら終わっていない。
8/2朝日新聞「悩みのるつぼ」で金子勝はこんなことを書いている。
『ハンナ・アーレント「イェルサレムのアイヒマン〜悪の陳腐さについての報告」 彼女は透徹した論理で、ユダヤ人を強制収容所に移送した責任者であるアイヒマンの裁判を分析します。
彼女によればアイヒマンは検察側が主張する「倒錯したサディスト」ではなく「実に多くの人が彼に似て」おり「恐ろしいほどノーマル(正常)だった」 アイヒマンは「無思想性」ゆえに「自分の昇進には恐ろしく熱心だったということのほかに彼には何の動機もなかった」
そして「想像力の欠如」によって「彼は自分のしていることがどういうことか全然わかっていなかった」
アーレントがアウシュビッツの大虐殺をみて行き着いたのは、ごく当たり前の「悪の陳腐さ」でした。そう考えると誰でもアイヒマンになりうるのです。他者について考えることをやめ、自らのまわりのごく当たり前のことを繰り返す「陳腐な悪」に染まったら、内なるファシズムに負けてしまうからです』
私はこれを読んだ瞬間、安倍晋三の顔が頭に浮かんだ。なぜだろう? 彼こそ「無思想性」の「陳腐な悪」を地で行く人だと思えたからだ。
彼の演説の随所を飾る無内容で抽象的な言葉の数々。彼は場数を踏んで経験的に馴れたアジテーターではあっても、中身の問題としての思想家ではない。
私は、思想家が良い、というつもりは毛頭ない。推理小説の筋立てを構築するような机上の論理に終始し、生活の中から編みたてられていないような「知性だけの思想性」には人を動かす魅力が感じられないし、「硬すぎる思想」は信仰に近づいているように見えて薄気味悪い。
また人間という最上位概念を思想が踏み越えてしまうと連合赤軍のように「犯罪と紙一重」に堕してしまう危険もある。
「思想」が飯の種になることは絶対にないし、「思想」を背負い込んで実生活で得をすることも役立つことも絶対にない(その逆は多いが)。だったら「無思想性」が「より良い」のかと傾けばそこにはアイヒマンが居り安倍総理がのべっと顔を出す。そして旧731部隊が中国の人々に対して行った麻酔なしの生体解剖や身の毛もよだつ数々の人体実験という、無思想ゆえに「お上」の命令を素直に実行しただけにすぎない「悪魔のような忠実な仕事ぶり」に思い至る。
少し前にNHKで自衛隊が1時間に渡って放送されていた。私はその時少し体調を崩していたのと、どうせNHKだから自衛隊の宣伝放送だろうと思ったので、普段以上に目の粗くなったザルのような私の感覚器がほとんどの具材を素通りさせてしまった。その中でもザルに少し引っかかったのが自衛隊員の無思想性だった。若い男女の隊員たちが、なぜ自衛隊に入隊したのかとの質問に答えていたが何れも、災害救助の人助けや国の役に立ちたい、という幼い善意や自分探し、あるいは上位概念への奉仕にとどまり、排外主義や政治的世界地図を描く者はいなかった。私は、これで人が殺せるのかな? と思ったが、今考えるとこういう「無思想」が最も冷淡に黙々と人殺しを請け負うのかもしれない。「命令だから」「仕事だから」「たくさん殺せば国の役に立つ」「たくさん殺せば出世できる」と。
『そう考えると誰でもアイヒマンになりうるのです』 若い自衛隊員の行く末が案じられる。
ついでに付け加えておくと、現役中に亡くなった自衛官の遺影ばかりがいっぱいに並べられた部屋で若い自衛隊幹部候補生らが黙とうだったか敬礼だったかをして厳かな気を満たさせる部分があったが、この遺影の中には毎年100人前後という自殺に追い込まれた自衛官たちは排除されている。こういう考える材料を提供されていない「作られた情報音痴」こそ素直に人を殺せる。
名誉な死と不名誉な死! 人間の実存を、これほど安っぽい基準でランク付けようとし、人の死後をも処罰の手をゆるめないのは権力人の手法だ。
前にも書いたが日本の国民はほとんどまともな情報からは干されている。ましてや兵士にはきわめて歪められた切り貼り情報しか与えられないのは軍の常識だ。(教室に集められた若き自衛官たちが教官に歴史教育を授かっていたが、他国民を躊躇なく殺す仕事に有益な歴史観が一体どのようなものか誰にだって想像はたやすい)
情報が公開されないという安心感があるからこそ政府も軍も悪いことが平気でできる。どれほど真面目な人でも絶対にバレないという公的保証があれば悪いことにも手を染めてしまうだろう。
正しい情報という光がさえぎられている島国日本。大切な情報のほとんどが消毒殺菌されてしまった無菌室のようなこの閉鎖スペースの中で、愛国主義や軍国主義・排外主義など感染力が強いダマシの誘引思想だけが、政府〜宗教〜メディアの結託により芳香を放ちながら次々と醸造されている。
しっかりと生活に根付いた「対抗できる思想」を持ち合わせていない人々は、たやすく感染してしまうだろう。抗体未生の幼児のように!
私たちは現世的利益のひとかけらももたらしてはくれない「思想」というやっかいなお荷物を、高校球児たちが持ち帰る「甲子園の土」のように、各々自分だけの袋に詰め込んで生涯大切に懐き続けていくしかない。それは第三者には決して理解されない、自分だけの孤独な喜びとでも言うべきなのだろうか?
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