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Something Orangeさんからの転載記事です。 その学者とは、「動物の権利運動」の元祖ピーター・シンガー(現在プリンストン大学教授。オーストラリア生まれ)。 ピーター・シンガーの著書「動物の開放」は、現在の動物愛『誤』運動のバイブルとなっている。 (以上、ブログ管理者)
2009-04-02(木) チンパンジーの命は障害者の命より重いと唱えた学者がいる。 たまに自分の日記の過去ログを読んでみると、おもしろい。「何でこんなこと書いたんだろう」と首をひねる記事もある一方、興味深い記事も見つかる。そのひとつが「動物の権利怖いよ、動物の権利」。 「動物の権利(アニマル・ライツ)」を掲げるある団体のQ&Aを取り上げているのだが、これ、実はぼくの意図が全く伝わらずに終わってしまった記事なのだった。 ぼくとしては「動物の権利」そのものを攻撃するつもりはなく、ただこの団体の主張だけがおかしい、というつもりだったのだが、「動物の権利」を全否定する言辞として受け取られたようなのだ。 そして、「動物の権利」なんて妙なアイディアを振りまわす団体がいるぞ、というレベルで話は終わってしまった。しかし、実はもっとはるかに深く複雑な問題を抱える話なのである。 一方、古い記事なのでタイトルは付いていないが、「こげんた」という虐待の末、殺害された子猫について書いた記事もある。 このふたつの記事を肴にして、動物愛護について考えてみたい。 まずはこのサイトを見てほしい。こげんた事件を扱ったサイトである。 有名な話だから、こげんた事件についてはご存知の方も多いと思う。福岡のある男性が、のちにこげんたと名づけられる子猫を惨殺し、その様子を実況中継したのだった。 で、亡くなったこげんたを愛惜するひとたちがこのサイトを作ったわけである。そこまではいいのだが、ぼくはこのサイトの内容に疑問を呈した。 何しろ、こんなポエムが載っていたりするのである。 ママをさがして7こくらいよるをすごした。。 ママはぼくがきらいになったのかな? ママはどこへいっちゃったんだろう。 すてられたの? おなかがすいてぺこぺこになった。 しかたがないから ゴミすてばにいたんだ そしたら おにいちゃんがきて ぼくをいえにつれていった あたらしいおうちだとおもって とっても うれしかった。 おいしいごはんもくれたのに、、 なんで? なんでぼくのしっぽをきったの? なんでぼくのあしをきったの? ぼく いいこにしてたよね なんのために ぼく うまれたの?うーん。微妙、微妙。 亡くなった子猫を愛惜すること自体はかまわないが、ここまで来ると単なる「こげんた萌え」じゃないか? 当時、ぼくはこんなことを書いている。 人間と違って、動物はことばを喋らない。したがって、内面を語ることもない。運命のその時、こげんたがなにをかんがえていたのか、それは永遠にだれにもわからない。 だが、きっと人間を心から信じていたに違いない、その信頼を裏切られて哀しかったに違いない、と想像するひとはいて、それは瞬く間に事実とすりかえられていく。 そしてこげんたはヴァーチャルな存在と化した。実在の人間と異なり、ヴァーチャルな動物は決して人間を裏切らない。人間の幻想を壊すことはない。 じっさいに目の前にいる猫なら、時にはその身勝手さにうんざりさせれることもあるかもしれない。しかし電子の猫は人間の期待を壊すような真似をしない。だから、その存在は、どこまでも純粋に、無垢に、無邪気に成長していく。いま読むと、何を偉そうに、という気がしなくもないが、内容そのものは問題の本質にふれていると思う。ようするに、動物を美化しすぎているんじゃないか、ということ。 そもそも、とぼくは考える。動物を虐待することは悪いことなのだろうか? こう書くと、悪いことに決まっている、という声が返ってきそうだが、本当にそうか? 毎年、犬猫が何万匹か保健所で殺されているわけじゃないですか。保健所が殺すことは良くて、一般市民が殺すことは悪いのか? もちろん、保健所が殺すことも良くない、という考え方もあるだろう。しかし、現実に邪魔な動物が道にあふれかえれば、保健所へ送り込むよりしかたない。 そこにあるものは、紛れもなく人間のエゴだが、でも、人間が人間である以上、人間中心主義を押し通すことはしかたないじゃん、と思いもするのである。 いや、やっぱりそれはおかしいよ、という考え方もある。それが先述の「動物の権利」である。これはオーストラリアの哲学者ピーター・シンガーが唱えた思想で、動物にも生得の権利があるとするものである。 シンガーさんは考えた。動物も感覚器官をもち、感覚を備えている以上、殺すにしても苦痛を与えるのはいくない、と。動物にもそれだけの権利があるんだ、と。人間だけを特別扱いするな、と。 一種の反人間中心主義の哲学ともいうべきものであるが、よく考えてみるとおそろしい結論に辿り着いてしまう。感覚器官の有無を基準にして権利の賦与を決めるということは、人間より動物のほうが権利主体にふさわしい場合がありえる、ということなのである。 シンガーは書いた。「チンパンジーを殺すのは、生まれつきの知的障害のために、人格ではないし、決して人格でありえない人間を殺すのに比べて、より悪いように思われる」と。 ようするに健常なチンパンジーの命は重度知的障害者の命よりも重い、ということである。当然だが、これは論議を呼ぶアイディアであった。 こうした発言を受けて、ドイツでは「シンガー事件」と呼ばれる事件が発生する。 一九九一年にオーストリアで国際ヴィトゲンシュタイン・シンポジウムが開催される予定だったが、その報告者のひとりとしてシンガーが参加することが公表されると、隣国ドイツの障害者団体が、シンガーの議論はナチスに通じるものだとしてつよく非難し、ついにはシンポジウム自体を中止に追い込んでしまったのである。うーん、ま、しかたないね。 しかし、とぼくは思う。シンガーは本当に間違えているだろうか? これは非常に取り扱いがむずかしい問題であるが、少し考えてみよう。 ぼくは時々思うのである。もし、ネアンデルタール人なり、クロマニヨン人が生きのびていたら、我々はかれらに「人権」を認めただろうか、と。 ぼくたちは人間と動物のあいだに線を引くことに慣れている。ひとはひと、獣は獣、それはあたりまえの事実であるように思える。しかし、よくよく考えてみればホモサピエンスもまた動物の一種である以上、その境界線は幻想以外の何物でもない。 考えてみよう。もし、ひととも動物ともいえないような、中間の存在がもっとたくさんいたら、と。そうしたら、動物と人間の境界線はもっとあいまいなものになっていたのではないだろうか? 動物に権利を与える、というアイディアも、それほど珍奇なものには思えなくなっていたのではないだろうか? ぼくは別にシンガーの説を認めるわけではない。「人格(パーソン)」だけを特権化して生命を見るかれの説はやはり納得いかない。 しかし、それでもなお、かれの思想はある種の発想の転換を促してくれるように思う。本来、人間と動物のあいだに境界線はないのだ、という見方。 だが、それでもやはり、ぼくは人間中心主義から逃れられそうにない。やはりチンパンジーより重度知的障害者の命のほうを優先するべきに思える。もっとも、それが倫理的に決定的な正解かというと、悩んでしまう。うーん。 こげんたに話を戻す。 なぜ、これほど多くのひとがこげんたを愛惜するのだろう? それは結局、こげんたが感情移入しやすい動物だからだ。殺されたのが亀だったらこれほどの感情移入は起こらなかったに違いない。ひとはひとに近いものしか愛さない。 そして、もし、そういうひとたちにこげんたの命は人間と同じほど重いか?と訊いたら、どう答えるだろう。あたりまえだ、と答えるかもしれない。しかし、それはシンガーへと通じる道ではないか? このように、一口に動物愛護といっても、いろいろ面倒な問題が存在しているのである。 動物虐待は、本当に悪なのか? 動物には、権利を認めるべきなのか? ぼくは悩む。あなたも悩んでください。 転載元:Something Orange
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2010年02月28日
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Something Orangeさんからの転載記事です
2008-02-13(水) 動物の権利怖いよ、動物の権利。 動物の権利(アニマル・ライツ)のサイトを巡っていたら、こんなQ&Aを見つけた。アニマルライツにかんする疑問質問に対して一つ一つ答えているのだけれど、その内容は相当に怖い。 たとえば、「動物実験を廃止することによって人の命を救うかもしれない医学的進歩がはばまれてしまう事をどう正当化するのですか?」という質問に対する答えはこう。 その根拠は私たちが同意を得ていない人間を強制的に実験台にしたりはしない理由と同じです! 我々が人体実験をしない事により得られていない情報は動物実験をやめることによって失われる情報よりも多いことでしょう。 もしも医学的進歩というものが命を救うためという理由で至上命題となるのであれば、なぜ動物だけがその救うべき命の対象とならずに虐待されなければならないのでしょうか? この世には「不正利得」と呼ばなければならないものがあり、動物実験によって得られる成果はまさにそれに当たるものだということを認めるべきです。 そして、「動物実験に代わる方法が何もない場合もあるのではないでしょうか?」という質問に対してはこう答えている。 この質問に対する答えは簡単です: 「そうだとして、それがどうしたと言うのだ?」 人間を強制的に犠牲にしなければ得られない様な知識がなくても、私たちは(現在)十分、幸せであるという事を思い起こしてみましょう。私たちは子供に対しても、精神薄弱者に対しても、あるいは(エイズの様に)動物に対する実験からは満足すべき結果が得られない病気の患者に対しても、強制的に実験をしたりはしません。つまり、人間は実験には使わないし、そうしなければ得られない様な知識は放棄するという倫理的決断がすでになされているのです。 動物の権利の論拠もそれと同じです:人間と実験動物(彼らも人生の主体者です)を区別できる様な道徳的根拠は存在しないがゆえに、動物実験は道徳に反するものであり、廃止すべきものなのです。ナチスが強制収容所の囚人に行った実験から得られた知識が道徳的に反するのと同様に、動物実験により得られる、いかなる利益も道徳に反するものなのです。……いや、同じじゃないだろ。 たしかに「人間と実験動物を区別できる様な道徳的根拠は存在しない」と考えるなら、つまり、ネズミの命もヒトの命も命は命、同じ重さなのだ、と考えるなら、動物実験の問題と人体実験の問題は「同じ」だといえる。 しかし、そんな考え方に納得できるひとがどれだけいるだろうか。この回答はまわりくどい言い方でこういっているのではないか。「ネズミを殺すくらいなら、ヒトが死んでも仕方ない。なぜなら、ネズミもヒトも道徳的に区別できないからだ」。 しかし、少なくともぼくはヒトの命はネズミの命よりも重いと考える。ネズミをひねり殺すことでヒトの命が救われるのなら、そうすべきだと思う。 この考え方はアニマルライツ論者のいう「種差別」にあたるだろうか? そう、あたるだろう。 しかし、助けられるとわかっているヒトの命を見捨てるくらいなら、差別論者であるほうがずっとましだと思う。 たしかに、動物実験に全面的に賛成することは出来ないが、少なくとも、「ヒトもネズミも命の重さは同じなのだ」とする、この種の考え方には、何かうそ寒いものを感じる。 たとえば、何かの理由で少数のヒトたちおよび大量のネズミといっしょに洞窟に閉じ込められたとする。食料は限られている。いつ救援が来るかわからない。この場合、どう行動するべきだろうか? 普通はヒトの間で食料を分かち合って日々を過ごすことになるだろう。しかし、「ヒトと動物は道徳的に区別できない」とするなら、当然、この食料はネズミにも分け与えるべきだということになるはずである。 何かおかしくないか? おかしいとぼくは思うのです。 転載元:Something Orange
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Something Orangeさんからの転載記事です Dear,こげんた―この子猫を知っていますか? 作者: mimi 出版社/メーカー: ハート出版 発売日: 2004/07/15 「Dearこげんた」。 それはある男によって嬲り殺しにされ、インターネット上でその様子を流された子猫「こげんた」を巡るサイトである。 はじめて見つけたときから数年、ぼくはしばしばこのサイトの存在についてかんがえてきた。 あきらかに善意から生まれたサイトである。ネットに数多くある悪意から生まれた醜悪なサイトとはわけが違う。しかし、それでも、このサイトのやりかたには納得できないものを憶えた。 こう書くことは善意で活動している人びとの心を傷つけることになるかもしれない。しかし、それを承知でいうなら、ぼくにはその活動がどこか歪んだものに思われたのだ。 本書はそのこげんたにまつまわるさまざまな反応を一冊にまとめた本。この本を読んで、ぼくはあらためて思った。やはり、こげんたを巡る物語には、どこか歪んだものを感じずにはいられない、と。 こげんたの名前が有名になったのは、その死後のことである。インターネットは悪意の吹き溜まりでもあるが、善意の中継地点でもある。このあまりにあわれな子猫に対し、さまざまなひとたちが同情の声を寄せた。 多くの詩や画像や文章や、そして人形の写真までものが寄せられた。そして、こげんたの存在はヴァーチャルになっていった。 この本の著者のなかに、生前のこげんたを知っているひとはいない。したがって、この本のなかのこげんたは、ほとんど架空の存在である。 かれらは、こげんたの「内面」をこんな風に想像していく。 ママをさがして7こくらいよるをすごした。。 ママはぼくがきらいになったのかな? ママはどこへいっちゃったんだろう。 すてられたの? おなかがすいてぺこぺこになった。 しかたがないから ゴミすてばにいたんだ そしたら おにいちゃんがきて ぼくをいえにつれていった あたらしいおうちだとおもって とっても うれしかった。 おいしいごはんもくれたのに、、 なんで? なんでぼくのしっぽをきったの? なんでぼくのあしをきったの? ぼく いいこにしてたよね なんのために ぼく うまれたの?なるほど、泣かせる文章である。 しかし、はっきりいうなら、これは本物のこげんたとはなんの関係もない、ただの観測者の創作である。 人間と違って、動物はことばを喋らない。したがって、内面を語ることもない。運命のその時、こげんたがなにをかんがえていたのか、それは永遠にだれにもわからない。 だが、「きっと人間を心から信じていたに違いない、その信頼を裏切られて哀しかったに違いない」、と想像するひとはいて、それは瞬く間に事実とすりかえられていく。 そしてこげんたはヴァーチャルな存在と化した。実在の人間と異なり、ヴァーチャルな動物は決して人間を裏切らない。人間の幻想を壊すことはない*1。 じっさいに目の前にいる猫なら、時にはその身勝手さにうんざりさせれることもあるかもしれない。しかし電子の猫は人間の期待を壊すような真似をしない。 だから、その存在は、どこまでも純粋に、無垢に、無邪気に成長していく。 こんなことを書くぼくは無情だろうか。ぼくもまた、可哀想なこげんたのために涙を流し、同情するべきだろうか。 しかし、ぼくはいまだに動物を殺すことがそんなに悪いことなのか確信をもつことができない。なるほど、ゆっくりと猫を殺していくなんてひどい話だと思う。 だが、すべての生き物が平等だというのなら、猫の健康を保つために蚤(のみ)を駆除することはどうなのだ。あれはひどくないのか? なにより、このようにして生まれた感傷の行き先が心配なのである。 こげんたに対する同情と感傷はどこへ行くのだろうか。当然、こげんたを殺した社会への批判へと結びついていく。 「なぜこんな陰湿な事件が起こる社会になってしまったのだろう」と著者は書く。 しかし、この種の「陰湿な事件」は動物愛護なんて精神がなかった昔のほうがより多く起こっていたのではないか。 ただ、昔はインターネットなんてものがなかったから、その情報が共有されることがなかった。ただそれだけのことかと思う。 以前に比べてはるかに減少した少年犯罪が、マスコミにくりかえし取り上げられることによって、あたかも多発しているかのような印象が社会に植えつけられる、そのプロセスと基本的には同じことである。高度情報化社会の副産物だ。 「時の流れも君が生きた証を消せはしない」と題したあとがきにあたる文章には、こんなことが書かれている。 こんな話をご存知だろうか? ある時、飼っていた犬が死んでしまった。 それを見た子供が 「お母さん、電池取り替えてよ」。 事の重大さに、気づいて頂けただろうか?ざんねんながら、ぼくには「事の重大さ」はわからないようだ。どこかの子供が「電池取り替えてよ」と言ったという話、それはありがちな都市伝説に過ぎないではないか。 その子供は、本当に実在するのだろうか。実在するとして、どこに住んでいるだれなのだろう。どうやってその話は広まったのだろうか。 ぼくは、たとえば「ゲーム脳」による「いまどきのこども」批判に共感できないのと同じ理由で、この現代社会批判にも共感できない。時には感傷より理性を優先させる必要があるのではないだろうか。 親愛なるこげんた。 かれは人間の暴力によって死んでいった。そのこげんたに対し、同情が集まるのは自然なことだと思う。 しかし、だからといってその存在をどこまでも美化し、「歪んだ現代社会の犠牲になったかわいそうな子猫」のイメージを無限に拡大していくことは、それこそ歪んでいるように思えてならない。 疑問の余地のない善意は、時として悪意よりもっと危険なのではないか。 動物虐待が問題ではないというのではない。ただ、「可哀想だからやめろ」というのとは違う次元でロジックが組み立てられるべきだと思うのだ。 ぼくらはだれも皆、ほかの生き物の命を奪ってのみ生きていくことができる。その事実から目をそむけた動物愛護は、動物愛護の名にあたいしないと思うのである。 ちなみにこの本、Amazonには62のレビューが寄せられていて、四つ星がみっつ、三つ星がひとつあるほかは、すべて五つ星の最高評価である。
*1:Amazonでこの本のレビューを読むと、「犯人を死刑にしろ」といった論調が少なくないことに気づく。まるで猫の命のほうが人間の命よりずっと重いと感じているようだ。これはヴァーチャル化した猫が人間の期待を裏切らないのに対し、人間は時に醜悪な内面を垣間見せるからだと思う。 |
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