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人類最後の地獄のようなセウォル号惨事、私たちも共犯ではないか

[ヤン・ギュホン コラム]新自由主義の全面化、われわれにも責任

ヤン・ギュホン(労働者歴史ハンネ代表) 2014.05.14 19:25
 今回犠牲になった子供たちが1997年に生まれた子供たちだということをわれわれはしっかり記憶しなければならない。 97年はIMFが起きた年で、それにより労働階級が新自由主義構造調整の爆弾を全身で受け、 労働者・庶民の生存が強く脅かされた時点だった。 97年生まれの子供たちのほとんどが、生まれた瞬間からお母さんの胸で乳を飲んで眠れる子供たちではなかった。 お父さんとお母さんの不安な雇用で、おばあさんに面倒を見てもらったり、保育園に預けられ、不安な幼年時代を送った子供たちだった。
 
 政府の救助放棄とマスコミの歪曲報道が遺族を怒らせ、一つ二つと公開される子供たちの動画を見ると、子供たちがとても落ち着いて、優しく、毅然としていたことがわかる。 人によって情緒に共感する部分は少しずつ違うかもしれないが、 子供たちが頑張って働くお母さん、お父さんに共感しながら優しく自ら育って暮らしてきたことを考えると、胸が詰まる。
 
 いつも子供は目に入れても痛くないものだが、この時期の親は子供たちが生まれた時からの不安と隔離感(赤ん坊はお母さんの胸から落ちることを恐怖と感じる)に非常に鋭敏で、 それが幼い赤ん坊がその生存環境に適応する過程だったことを涙で見ていなければならなかっただろう。 こうした時代的な環境のため、親と子供たちの精神的な連帯感はとても特別で、 そうした苦痛を共に体感して生きてきた40代の親たちは、さらに遺族の苦痛と痛みを社会的な事件として客観化させる。 皆が悲しみ、絶望しているが、特に40代の朴槿恵(パク・クネ)支持離脱現象がはっきりしているというのは、そうした一端をうかがわせるものだ。

国家は国民の生命を守るために存在するものだと思っていた

 全員救助という誤報の中で、そのままうまくもみ消されるかと思われた事件が、二十日以上、まともに不明者の収拾ができておらず、 まったく常識の線で処理しようとしない政府に対し全国でキャンドル民心が燃え上がっている。 まだ父母も弔っていないのに、どうして子供を弔うことができるのかわからないという若いお母さんの言葉を思い出す。 「賢い人たちと一緒なら賢い人になるものと思っていたし、強い人と一緒にいれば全てがうまく解決すると思っていて、こうして子供を送るなどとは本当に思わなかった」と。 子供と家族の面倒をみるために身を粉にして働いても、賢い人たちが責任を果たしてくれるという国家に対する信頼があったのだ。
 
 ほとんどの人は、異口同音にセウォル号以前と以後では違わなければならないと話している。 大統領さえ積年の弊害と国家の改造を語り、専門家の集団も現実からかけ離れた多くの政策と慣行を批判するのに忙しく、特にマスコミで吹き荒れた国民の厳しい批判意識と、いくつかの報道機関内部の宣言は、マスコミの地形が変わるという慎重な展望も出ているが、 言論権力の属性上、容易ではないだろう。 最近誰もが反省し、申し訳なく思って変えなければと声を上げているが、 何が申し訳なく、何を変えなければならないのかについての具体性は把握されておらず、 その本質的な原因である階級的な問題が随所でもみ消された痕跡が発見されるのだから、 残念で心苦しいばかりだ。

セウォル号惨事は新自由主義体制の作品

 今回のセウォル号大惨事は、97年の外国為替危機以後に韓国で吹き荒れ、韓国の社会が受け入れてきたあらゆる新自由主義体制が作り出した構造的な犠牲だ。 構造的な犠牲とは、それがどこかの一部門やひとりに責任を負わせて解決することができない程、とても強い輪で結ばれた階級的な結果だということだ。 積年の弊害の主導者は、一度も既得権を奪われたことがない韓国の支配層かもしれないが、あらゆる分野でその支配の鎖をやむを得ず受け入れて暮らしてきた民衆もセウォル号惨事の本質を少しは理解しており、 焼香所を訪れる人たちは醜い大人で申し訳ないと叫んでいるのかもしれない。
 
 朴槿恵政権は、セウォル号惨事の中で、彼らの無能に対する反省は一言もなく、 政権に危機が迫っているから国家改造をすると青瓦台は忙しそうだが、 もつれた糸のように複雑にからんだ彼らの既得権の鎖を彼らがほどいて解決できるなど、牛も笑う。 それは自分の頭や体を打つということなのだが、この惨事で全国が悲しんでいるのに 医療分野の規制緩和でサムスンに特典を与えているのを見れば、 彼らの真情性はまったく見えない。 医療分野の規制緩和や民営化は、米国のように貧しくて死に放置される貧民を次第に量産していくだろう。そしてその結果は、特定の地域と財閥と既得権の私的な利益追求だろう。 つまり、彼らが追求する国家改造とは、国民の生命と安全のため「国家安全処」ではなく、 彼らの安全のためだけの「資本安全処」そのものだろう。

国民の生命を外注化する国家

 労組を無力化するために用役を投入し、労働者を弾圧する暴力を無視して、 労働者だけを捕まえて行く警察が、民衆のツエにはなれない。 これと共に今回の事故を誘発した清海鎮資本などと癒着し、ある種の既得権を享受してきた海水部傘下の官僚集団と海上警察などは、 国民の生命と安全に責任を持つ海のツエになれないのは明らかだ。
 
 海難事故は日常的なものではないので、また国民の普遍的な感情から、 災難や戦争などに準じる災害は当然国家が責任を持って解決するものだと理解してきたので、 今回の災難の解決を混乱させる民営化方式に接して驚く人も多かったようだが、 これは海という特殊性によってさらにわかりにくさをもたらしたのだろう。
 
  国家に無限の信頼をよせる市民が外注化されたシステムに生命を預けなければならない新自由主義秩序の未開さを知らず、 パニック映画のように自分とは無関係の遠い国の話だと考えていたことが惨めにも裏切られたのだ。 しかし市民が膚で知る前に、国家はすでに国民の生命を外注化する新自由主義システムを着々と進行させてきたのであり、 これは決して清海鎮に限った問題ではなく、社会全般に広がっている深刻な問題だ。
 
 そうだ。われわれは新自由主義がいかに恐ろしく野蛮なものなのか、 自分がそうした事態に直面しなければきちんと感じられない。 毎日の暮らしの中で、人間的なあらゆる事が猶予されて暮らしながらも、 他の労働現場の戦いを彼らの食い扶持のため戦いとしか見ず、 まだ自分が置かれた状態ではないからと安心して生きていく。
 
 ところがセウォル号惨事と竜山、双竜車事態、そして地下鉄事故は、 決して別物ではない。 セウォル号の沈没は、労働の柔軟化により効率的な市場原理を追求する資本と権力の合作の結果だった。 乗客を救助すべき海上警察と政府は、遺族と命の味方ではなかったように、 そのような過程をわれわれは竜山と双竜車事態で、すでに体験していたのだ。 それこそ新自由主義は、外国為替危機の嵐と共に押し寄せ、 国民が認識できない領域にまで国の隅々にまで入り込んでいた。
 
 労働者が労災で死に、構造調整で絶望して息を引き取り、整理解雇で生活を失って自殺しても、彼らは絶対に弔問や哀悼はしない。 むしろ世の中を恨んで死んでいった遺影までを踏みにじった。
 
 だからセウォル号惨事の遺影の前でさえ涙の一滴も流さないあくどい邪悪な政府が、 何を改造し、何を守るというのだろうか。 彼らの既得権を守るために、利益を倍加させるために、 規制緩和という名目で正常な雇用を減らして効率の名で不安定な雇用と外注化にアクセルをひたすら踏み続けることで、 民衆の生命の安全は、国家経済の発展という虚名の下で無視されるシステムを構造的に創り出している。

新自由主義全面化、私たちにも責任がある

 こうした事情を目の前ではっきりと見た民衆は、もう国の全てが疑わしく信じられないという不信と怒りとくやしい心情を持て余し、道路に出てきてキャンドルを灯している。 お母さんと青少年と赤ん坊を抱いて出てきた家族中心のキャンドルを見て、 そして5月10日に安山に集まったキャンドル国民行動を見て、 悲しみの共有がいかに貴く、熱く人々を一つさせるかも見た。
 
  しかし、それがこうしたすべてを起こした悪辣な資本主義の世の中を変える主導的な役割を果たせないのではないかという考えは、 キャンドル集会の間ずっと胸を押さえ付けた。 誰かがキャンドルを握っていては、具合が悪くてきちんと敵と戦えないといったが、 キャンドルの火だけでは足りない。
 
 5月10日は安山集会で最大規模の2万人が参加し、デモ行進の基調は沈黙デモ行進だった。 集会隊伍は、多くが労働者たちの組織隊伍だった。 悲しみで一杯の目と、残念さは見ることができたが、労働者階級の声と怒りは感じられなかった。
 
  デモ行進で、自発的なスローガンと喚声で「朴槿恵責任と退陣」、「子供を生き返らせろ」が流れただけだ。 セウォル号事件で確認されたように、マスコミが主犯だと目星をつけた事故の主要原因の安全不感症と船員、海上警察の責任は、皮相的な責任糾明でしかない。
 
  彼らが隠している明らかな真実、資本の利益のための構造調整と、資本と結託した権力の攻撃は現在も進行中で、 これからも続くのは自明な事実であり、だから労働者の役割が重要だ。
 
 金大中(キム・デジュン)政権の整理解雇と盧武鉉(ノ・ムヒョン)政権の非正規法案、 制度化を阻止できなかった責任を民主労組陣営は否定することができない。 民主労組運動は、変革性が瓦解したことで路線が薄れ、民主労組運動の精神も見つけるのが難しい時間を送ってきた。
 
  昨今の状況であるセウォル号事故を呼び起こした間接的な責任が私たちにもあるという厳しい自責が必要だ。 またセウォル号の問題を階級の問題と理解して、闘争の前面に出なければならない。
 
 これは単に犠牲者のほとんどが労働者の子供だからだけではない。 整理解雇、非正規法案阻止に失敗した結果が、新自由主義の全面的な拡散を呼び起こし、 非正常的な雇用形態を正常なものと認める新自由主義秩序に順応した結果がセウォル号につながっているからだ。

闘争の前面に闘争する連帯体を組織しよう

 セウォル号事件は資本の貪欲が起こした惨事だ。 子供たちを犠牲にした主犯は、新自由主義という怪物であるため、 子供たちの死を無駄にしないためには新自由主義に決着をつけることだ。 当分はキャンドルは消えないだろう。 それだけセウォル号はこの社会に衝撃を投げていて、革命的なさまざまな措置が要求されている。
 
  この重大な任務を誰がするのだろうか? 野火のように起きるキャンドルも、強い風が一回吹けば、少しずつ消えていくのではないだろうかという憂慮も振り切れない。
 
 こうした時期に労働者階級の対応が弱ければ、第2、3のセウォル号が続かないという保障はない。 こうした根源をえぐり出す闘争の持続的な役割を牽引し抜いて、 前で引っ張っていく運動の主力部隊として、民主労総と社会運動組織が立ち上がらなければならない。
 
  メーデーのような分散と無気力が続けば、民主労組運動は深刻な危機を迎えることになるだろう。 組織の限界だと数字をごちゃごちゃ言うのではなく、できる限りの決議を集め、労組組織と社会団体、政治組織を網羅する闘争連帯体で強固な闘争を組織しなければならない。
 
 公権力に妨害されて座り込むような無気力な連帯体ではなく、 塞がった所に道をつけ、車壁を越える闘争を組織することにより、 民主労組運動の戦闘性を回復させてこそ、 セウォル号のような絶望を防ぐことができ、 資本主義の新自由主義秩序に対応することができる。
 
 新自由主義攻撃元年の97年に生まれ、短い人生を生きた子供たちが、私たちに投げかける一番重要な話は 「入試地獄、競争で飼い慣らした新自由主義共和国より、死の国の方が良いですね」といった恐ろしい叫びがこだまになって返ってくるようにしてはいけない。 切迫した気持ちで、彼らが、または生きている多くの潜在的セウォル号の子供たちが叫んでいる言葉を、一番最後まで耳を傾けて聞き、受け入れる主体が労働者階級だ。
 
  国家の本質は国民の生命を保護することだが、それは労働者たちが国家を作った時にのみ可能だ。 今の国家が生命を保護すると信じるのではなく、どのような国家なら生命を保護されるのかを考えなければならず、 そうした国家は私自身、闘争する労働者が作るのだという真理は絶対に消えないだろう。 したがって、以前の労働者大闘争の時期をやり直そう。 全てが手遅れでどうしようもないという敗北主義的な考えを捨てて、 今からでもやり直さなければならない。
原文(チャムセサン)
 

転載元転載元: たたかうユニオンへ!

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