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宝の山
「地獄への道は、無数の善意で敷き詰められている」。ファシズムの二枚舌を見破ろう。橋下批判、草の根ファシズム批判は宝の山別館で

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遺族が闘士になった理由

ーー(文中から抜粋)ーー

そして、平凡な保護者や会社員でしかなかったのに、遺族はやむを得ず闘士になりました。

戦わなければ現実を少しも変えられないという事実を知ってしまったためです。

次にまた会う時は、闘士ではなく平凡な私たちの隣人として、 路上でしばしば会うおばさん、おじさんとして会いたいのに、 いつになったらそんな日がやってくるのか、今も分かりません。

しかし遺族たちは多分こう言うでしょう。

遺族たちは「もう忘れないことだけではいけない」と口をそろえて叫んでいます。 「行動しなければならない」と叫んでいます。

もっと熱心に、もっと多様な方式で、もっと着実に、もっとじわじわと戦わなければなりません。

遺族と共に。 市民と共に。




読んでるうちにセウォル号のお母さんたちと福島のお母さんたちが重なってきた。

事故が起きるまでは福島のお母さんたちもごく普通のお母さんだった。
そのごく普通の母親たちが、わが子を守るために闘いに立ち上がり始めたらその時から、某「短○○じさん」たち「草の根ファシスト」や右翼からプロ市民などと罵倒されるようになった。
韓国の母親も日本の母親も、親の想いは何ら変わらないのだ。

ただ違っていることがひとつある。

日本に有って韓国にないモノ
韓国に有って日本にないモノ
それは労働者本体の根源からの決起だ
日本に労働者の根源的な決起が無いことが、福島のお母さんたちを孤立させてしまった。
ゼネストで立ち上がれなかったことが、お母さんたちの口を閉ざさせ、沈黙させてしまった。

もしもこの日本で、労働者が韓国・民主労総のようなゼネストで立ち上がり、母親に連帯していたら、福島のお母さんたちを孤立させはしなかっただろう。
安倍政権の「暴走」も許しはしなかっただろう。
安倍は改憲の「か」の字もクチに出せなかっただろうと思う。

労働組合の御用組合化と、労働運動の翼賛化が大きな要因だ

でもここであきらめたら終わりだ
ここで諦めたら原発の次は戦争が待っている、若者が戦争で殺されてしまう。
戦争情勢はもうすぐそこまで迫ってきている。

何としても労働者本体の全国総決起をつくりだそう
日本列島を労働者のゼネストで揺り動かそう
全島ゼネストで安倍政権を打倒しよう

民主労総は明日からゼネストに入る

組織の総力を挙げてセウォル号遺族たちに連帯する
民主労総は遺族たちの無念を一身に背負って、パク・クネ政権を打倒するつもりだ

福島を経験した私達はとても他人ごととは思えない。

韓国のお母さんに有って、福島のお母さんたちにないモノ、
それは労働者のゼネストだ。

日本の労働者の未来をかけて、民主労総ゼネストを断固支持し、連帯しよう


(以上、当ブログ管理者)








「また会ったあなた方」

[パク・ピョンハクの文を書く、生を書く]セウォル号惨事1周年追慕文化祭

パク・ピョンハク 2015.04.20 18:23


1年前。惨事がおきてまもなく、遺族がバスに乗って安山からソウルに来た夜のことを思い出します。
セウォル号惨事を交通事故だと遠回しに言ったKBS報道局長から謝罪を受けるために汝矣島に来た遺族は、 結局警官に止められてアスファルトの上で長い時間を送るしかなく、 結局悲しみと怒りにからだを震わせながら、大統領と会うために青瓦台へと向かいました。

光化門の前でバスを降りた遺族が青瓦台に通じる道で清雲洞町役場に来ると、 警官たちはまた壁を作って前途を塞ぎました。 そこで私は今も忘れられない残酷な光景を見ました。
遺影を胸に抱いたお母さんたちが、道を塞ぐ警官たちの前にひざまづいて、 両手を手を合わせて、とめどなくしくしくと泣いていたのです。 子供たちを死なせた自分たちが罪人だ、頼むから許してくれと、ぜひ一度大統領様に会わせてほしいと、 お母さんたちは大声で泣きながら、頭を地面につけました。 遺族だけでなく、そこにいたすべての人々がみんな一緒に泣いた夜でした。

しかし1年経った後で、 あの日の夜よりもっと残酷な光景を見ることになるとは思いませんでした。




惨事1周年になる4月16日。 市庁広場で開かれる追慕文化祭に参加するために7万人が集まりました。 文化祭を終えた遺族と市民は光化門の焼香所に行くため、車道に出てデモ行進を始めました。
ところが警察は東亜日報社と東和免税店にわたる巨大なポリスラインを設置していました。
高い壁の上ではカメラを持つ警官たちが休む間もなく閃光を光らせていました。 遺族と市民は清渓広場側に方向を変えましたが、光化門側へと行く角はあちこちが警察バスで塞がれていました。

乙支路側まで行くと道があり、そちらに行くと鍾路3街でした。 人々はまた光化門に行くために行進しましたが、鍾閣駅のあたりでまた警察に止められました。 人一人が通ることもできないように、警察バスが列を作って壁になって停められていました。

人々がみんな集まって警官を非難する叫びが鍾路市内に雷のように鳴り響きました。




その時でした。 光化門に通じる交差点に停められていた警察バスの上に誰かがはい上がり始めました。
すぐ手をたたく音があふれました。
よく見ると、黄色いチョッキを着た遺族とマスクをした市民でした。
「施行令を廃棄しろ」、「真実を引き揚げろ」というスローガンが書かれた横断幕がバスの上に掲げられました。 遺族はバスに上げられたマイクを持って次々に発言を始めました。

その日の夜、遺族と市民は何とかして光化門に行くために、仁寺洞側に行ったり、 世宗文化会館裏道を利用したりもしました。 もちろん警官たちは、何かがあれば催涙液をまいたり盾を振り回しました。 その渦中で遺族の1人が警官のひどい鎮圧で肋骨を四本も折り、病院に運ばれて行きました。

しかしこの文を書く今最も残酷だった記憶として残っているのは、 1年間で「闘士」になってしまった遺族等を見ることになったことです。

1年前まで、遺族はセウォル号惨事が「政治」に関係することをとても敬遠してしました。 遺族と一緒にいようと訪ねてきた人々が「大統領が責任を取れ!」と叫べば、 遺族が立ち上がって怒って止めました。 そして発言をするときも、常に「私たちは政権退陣を叫ぶつもりではありません」という言葉を付け加えたりもしました。 多分その時まで、大統領という人に何か期待をかけていたためだったのでしょう。

しかし、惨事を全く忘れてしまったかような大統領と政府の態度に、 遺族も少しずつ変わっていきました。

年が明けても何もせず、惨事1周年になっても相変らず何もしない大統領と政府を、 遺族はついに胸の中から消してしまったのです。 そして、平凡な保護者や会社員でしかなかったのに、遺族はやむを得ず闘士になりました。

戦わなければ現実を少しも変えられないという事実を知ってしまったためです。




マイクを握っておずおずと手探りで発言していた遺族が、いつしか集会の司会者顔負けにさらさらと順序だって話せるようになりました。
舞台に上がり、多くの人の前で堂々と発言する遺族を見るたびに、私の心はとても痛みました。 あの人たちがなぜあんなに変わらなければならなかったのだろうか。 家族と共に平凡な人生を暮らしていた人々が、どうして闘士になって街に出てこなければならなかったのだろうか。

 徒歩行進をして、五体投地をして、断食をして、断髪をして、その上 「私たちは死ぬ覚悟はしていない。 私たちはすでに死んだ。 だから恐ろしいことはない」とまで言うほどに遺族を追い詰めたのはいったい何だろうか。

しかしそうした問いの答はあまりにも明らかだという事実が、もうひとつの残念さであり、悲しみでした。

答は明らかでした。

遺族が闘士になった理由は1年前にセウォル号惨事が起きた理由と違いません。 生命よりも利益を前に出す人々。
安全より利害得失をさらに問う人々。 強い権力の前にただひざまずく人々。 惨事まで「従北追い込み」の道具に使おうとする人々。

 そんな人々が普通に存在する限り、家族を失った悲しみと恨は決して解けないということを、遺族は悟りました。 「大統領」と「政府」という名前で存在しているところの人々です。

2015年4月16日。 惨事1周年にまた会った遺族たちは、もう悲しみに沈むこともなく、 遺影を抱きしめて泣き叫ぶこともありませんでした。 胸の中がばらばらに裂けても、遺族たちはさらに強くなったように見えました。
 
警察の暴力を恐れる遺族はたった一人もいませんでした。
盾を振り回せば全身で受けて、警察バスが道を塞げばバスの下に入って横たわりました。

道端に横になって、何日も夜を送ることは、もう何でもありません。 惨事1周年をはさむ4月の第3週を「追慕週間」ではなく「行動週間」にしようと主張したのは、まさに遺族たちでした。




それでこの文を書く私の心は非常にみじめです。

家族を失った人々が一番先頭に立って戦わなければならない時代。 家族を失った人々の肋骨を折る時代。 家族を失った人々の顔に催涙液を吹き付ける時代。
家族を失った人々が誰よりもさらに強い闘士にならなければならない時代。 そんな時代を私は暮らしています。

闘士に変わるまで、遺族の胸の中には果たしてどんなことがあったのでしょうか? 彼らはどんな地獄を味わい、どんな絶望に包まれたのでしょうか? 私はあえて想像することもできません。
警察バスの屋根に上がって立ったまま、市民と警官に向かって力強く発言した遺族の姿がまったく頭の中から消えません。
断髪していくらも経たない青々とした頭で一番前に立ち、 警官と衝突した遺族の姿を今でもくっきり思い出します。 いくらひどい時代だと言っても、本当にこんなことはありえません。

遺族たちは「もう忘れないことだけではいけない」と口をそろえて叫んでいます。 「行動しなければならない」と叫んでいます。

 当分は、いや、あるいはとても長い時間が経つまで、遺族は闘士として暮らさなければなりません。 次にまた会う時は、闘士ではなく平凡な私たちの隣人として、 路上でしばしば会うおばさん、おじさんとして会いたいのに、 いつになったらそんな日がやってくるのか、今も分かりません。

しかし遺族たちは多分こう言うでしょう。

 その日は自然に私たちのところにやってくるのではないと。
私たちが、私たちの手で勝ち取らなければならないのだと。

もっと熱心に、もっと多様な方式で、もっと着実に、もっとじわじわと戦わなければなりません。

遺族と共に。 市民と共に。




転載元転載元: 宝の山(新別館)

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