よろずよもやまオーラソーマ日記

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大天使メタトロンについての考察

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グノーシスは思考形態ですがキリスト教やユダヤ神秘主義(ハシディック)やオーラソーマも影響を受けていますよ。
詳しくはウイキペディアで調べてみて下さい。

私の考え方は昔でいえば洗者ヨハネでしょうね。

聖書は歴史読み物でわたしにとっては信仰の糧ではありません。
加筆修正や誤訳がいままでもあり…宗派で都合のよい部分を取り入れたり消したりしています。

パウロは絶対的女性聖職の否定をしていますが…

マグダラのセンス(感受能力)を認められた嫉妬なので聖書主義にして都合の悪いのは葬ったのです。

信仰としてのキリスト教を受け入れて信仰している方には覆してすべてをなくすことになるので危険発言でしょうね。
でもASを受け入れている段階では無意識に選択していることを理解しなければならない時なんでしょうね。

もはや形ばかりの宗教は無意味であり…エッセネのように生きているひとが増えて宗教離れしているのが時代の答えなのだと私は思います。

自分を肯定して正しいとはいいませんが…

わたしはあくまで自説です。

新しい見地ですが同じ意見のかたも大勢います。

だからASは宗教を否定も肯定もしません。

真実や真理は自分の内側にあると釈迦もイエスも古代からいっているのに

まだ方法に囚われている…


実践あるのみ。

心理をどのように活かすか…

それが次世代の宗教であり哲学です。

今の宗教は学問でおわりそうですね。




どんな文献でも学説であって真実ではありません。

自分が論文をかくようになって思うのですが…。

さもありなんと…データーをそろえれば学説文献になり博士にもなれます。

でも一部分をみただけであり…

すべてではありません。

歴史をかたる上で今あるものを見て来た人はいないし…正しく書き残されているものもありません。

多分こうであろうという意見が多いものが採用されて事実と仮にされているのが今の学問学術の世界です。

2チャンネル的論争に破れて追放された学者もいます。

ダビンチコードはそれに対するある部分の気付きがあるから…

みな内在された直感で魅かれるのでしょう。

真理は学説でなく自分の内にあるからです。

だから釈迦もキリストも自分の光(真理)を信じなさい。

人は過ちを犯すし…赦しなさいと説く。

意見に合わなければ破門です。


たとえば天動説や地動説…

あれもそうじゃないですか?

聖女裁判で聖女となったジャンヌダルクは死刑囚から聖女になり…今はその座をおろされています。

人のすることは実にいいかげんです。聖女に該当した参考資料はなんだったんでしょうね。

私はキリスト教のよい部分と悪い部分をしっています。

そこで学んだのは…誰かの意見に左右されず…自分の内側に信頼することを現在のASでは教えています。

なぜか?

宗教には裏切りがあるからです。

それにより人を憎んだり神を憎むこともあります。

私は鞍馬で本物にあい…センタリングできました。

だから理論や今ある誰かの考えは信頼しません。

昔なら私の意見に賛同する人がいれば宗教になっていたでしょう。

そんな愚かなことはしませんが…
(笑)

私の考えや感覚に一番近い神道の教えは…命そのものです。

今存在する命あるものすべてのエネルギーや理(ことわり)を知り共存し…他を排除しません。
(人による破門はありません)

地球が嫌いだからと人間だけをほろぼすでしょうか?

ひとつの歴史にふれることでより多くの気付きがあります。

わたしは重箱のすみをつつくより…

重箱がある環境や何をいれればクリエイティブなのか知りたい。

その意見はマイクと同じです。

私は存在があたえてくれた自分の直感を信じます。

それが答えです。



ダビンチコードでいいたかったのは盲信しないで選択しなさい。

気付いた人は意識をしなさいというメッセージです。

そして…いくら否定しても…

マグダラは今ここに…その意識を伝えているのだと思います。

ゲイやセクシャリティーマイノリティーをはじくのでなく…
ギリシャ的に…
(笑)

すべてに美しさや創造性(女性性)を含んだ強さの時代が来ることをつげているのではないでしょうか?







以上はkabanotakaraさんからのコメントに対して、未熟な私ではコメントできなかったので
ミシェルさんにコメントを依頼させていただいたお答えです。ミシェルさんは今、神道の勉強をされており深く共感されていらっしゃるようです。

私は縄文文化に興味があって、縄文を知るには神道を知らなければ・・・と、思っています。
メタトロンが一段落したら神道についても勉強したいと思いま〜す。


様々な意見をお持ちの方々の意見交換ができて、ネットでの交信ておもしろいですね。
 
未熟者ですがこれからもよろしくお願いいたしますね 
 

ちょっと恥ずかしいですが、最後に「愛を込めて」と書かせて下さいませ。

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エリザベツはマリアの叔母さんだし。二人ともエッセネでした。

婚姻が成立するまでマリアは神殿に仕える巫女(齋王)のような仕事をしていて…エッセネには女性の祭司(儀式がつかさどれる人=今の助祭的仕事)がいました。

ある年齢になると男の子は司祭になるために洞窟を脱出する儀式をおこないました。

でられなくて死んでしまう子もいました。

自分の知恵をすべて使いあらゆる恐怖を乗り越え神の選びを信じたものだけが羊を導く羊飼いである司祭になれます。

油注がれたものは現在のカトリックでは洗礼も、その次に行われる堅信式でもおこなわれますし、病者の癒しの時も、臨終の終油のときにも使います。特別な祈りをして司教だけが聖別できます。
ヴィッキーがいただいたメッセージは奥深く…

水を分けなさいといわれたことに大して最初に下層に水(洗礼)を上層に油(堅信)を魂の清め=癒しに用いたのではないでしょうか?

私はエッセネの前世をもちますが…
生活は今のオーラソーマのアマリンの合宿コースによくにていますよ。寝食をともにしますから…。

意識も体もとても自由でした。

迫害をうけて…私は文書をまもるために洞穴にいましたが閉じ込められて果てました。

他の人は城塞までおいつめられ魂は天へ体は谷に落ちていきました。
私は全員飛び下りたのを確認してから洞窟へ行きました。

私たちに迫害をかけ死へおいやとたのは…パウロでした…

だから現世でも違和感があるみたいです。



中世の宗教については間違いが多く学問が優先しています。

婚姻がだめなら旧約のアダムとエバから否定したことになりますね。

聖婚(信徒どうしの結婚)は秘跡になります。聖なるものだから婚姻と区別します。

エッセネはめい想的共同体であり…
独身性をとったのはカトリックだけです。

ラビ(司祭であり教師)であったヴィッキーの父は再婚までしていますよね。

再婚も聖書に兄と弟どれが夫か?というか所がありますが…

そういう籍に囚われたものさえ天にはないのです。

みなキリスト教とエッセネとイエスを混同していますが…

イエスはエッセネ派のユダヤ教徒として亡くなっていますし…

エッセネはキリスト教ではありません。キリスト教はパウロが作った当時の新興宗教だったからです。

エッセネはパウロにより迫害を強く受けます。
イエスと一緒にいたマリアが子を宿すのは血縁のないパウロには脅威なのです。

だから最後の晩餐にこだわった。
自分のために古いものを新たにする洗礼も必要だったんです。

でもキリスト教がわるいわけではありません。
その働きの中にキリスト意識があるからです。

司祭が独身であるのは中世の修道的生き方へのあこがれであり影響なのです。

イエスが独身だったか…だれもしらないからです。

聖書も都合のわるいところはすべてカットされてますし…

イエスの弟子であったマグダラも「マグダラ書」を残してます。

だけど熱心党であったパウロは男尊女卑の思想が強くエッセネにあった女性司祭の権限を全否定しています。

イエスのしたかったことは「女性の意識の開放」です。

マグダラは迫害を逃れガリア(フランス)に逃れたのは史実です。

さらにパウロやキリスト教一派に命を狙われていたせいもあります。

イエスとともに生きすべてを注がれた聖杯は彼女であり…彼女を後継者としたからです。

だから弟子たちはみな処刑前にイエスのもとを去り…

死んで都合のよいときに帰ってきて…まんまとその座をいとめたのもパウロなのです。

パウロは罪からの改心を中心にといていますが…

ユダヤ教では信徒の一人でしたがキリスト教ではラビになれますから…
裏切っても贖罪できる居場所が欲しかったんでしょうね…

だからマグダラは名でなく実をとったのです。

それは受け継がれながらASの中でも生きています。
ヴィッキーが一度キリスト教に改宗したけどユダヤ教に戻ったのはそのせいかもしれませんね。

彼女は今ユダヤ教にもキリスト教にも正統なエッセンスはなくエッセネの思想を再現させるプロセスとして存在したのかもしれません。

中世キリスト教はフランチェスコやブラザーサン…にみられるような貴族の宗教です。

あくまでグノーシスもスコラも哲学です。

ダビンチコードは私たちは宗教でなく…今もいきているキリスト的意識につながる必要があるというダビンチからのメッセージではないでしょうか?





ミシェルさんとはMIXYで知り合いました。お会いしてはいませんがオーラソーマのティーチャーであり、キリスト教とエッセネ派を研究されています。柔道家であり、鍼灸師であり、ヒーラーであり、ティーチャーであり・・・。様々な側面を統合されているすごい人です。前世ではご一緒したこともあるそうです。残念ながら私にその記憶はありませんが・・・。文中のASはオーラソーマのことです。

ヒーリングスペース ”レムリア”にて癒しの仕事をされています。

”レムリア”のホームページはこちらから
   http://www.k5.dion.ne.jp/~lemuria/


ちなみに”レムリア”の主催者はヤフーブログでも異彩を放つブログを展開しているライヤさんです
   http://blogs.yahoo.co.jp/lemurialyre

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 キリスト教においてはイエスの血脈が正統なものであることが重要であることは、門外漢である私にも容易に理解できます。そのことがキリスト教がユダヤの聖典であるところの旧約をその発生の源として認めている所以でもあります。つまり、キリスト教においてイエスの血脈はキリスト教を正当化するためその血統の正統性が重視される。イエスは大工の息子である。ブッダが王族の生れであったのに対してイエスは一般大衆。どちらかと言えば貧しい生れです。しかし、その血統をたどるとソロモンやダビデ、果てはイスラエルの創始者アブラハムまで遡ることができる。しかし、その教義を知るにあたってはたかだか大工の息子であるイエスはいったい何処で、基盤となる教育を受けてきたのでしょうか・・・?最近では洗礼者ヨハネもイエスもエッセネ派というユダヤ教の一派の共同体の中で育成されたとする説が大きく紹介されています。

エッセネ派は紀元前2世紀から紀元後1世紀にかけて存在したユダヤ教の一派です。『エッセネ』という名前の由来は。古代シリア語で“医師”を 意味するといわれています。また、その教義により“敬虔”と訳されることもあるようです。エッセネ派はモーゼの律法を真摯に守り、禁欲的な修道生活と共同生活、婚姻によって結ばれない独身主義、菜食を守り祈りと瞑想に主眼を置いたとされています。婚姻によって子孫を残すのではなく教理にのっとって教団の仲間とする。厳粛な誓約と規律の遵守により宗教的清浄さを徹底しようとした敬虔な教団であるとされています。ヨセフスが『ユダヤ戦記』で彼らのことを『高潔な生活をすることで知られるエッセネ派』と紹介しています。

洗礼者ヨハネもエッセネ派に属し幼子イエスとは幼馴染(エッセネ派は幾つもの集団に分かれて共同生活を行っていたということですから、実際的には同じグループではなかったかもしれません。そのことはヨハネが獄中からイエスに宛てて使者を送った記述からもうかがえます。ヨハネは獄中からイエスに宛てて“貴方は予言が示すとおりに救世主なのか?”と問うています)であったことがレオナルド・ダ・ビンチによって描かれる“岩窟の聖母”によっても示されています。

洗礼者ヨハネの母親はエリザベトですが、エリザベトはモーゼの兄弟のアロンの末裔であるとされています。エリザベトは夫である祭司ザカリアとの間にヨハネをもうけるわけですが、その時にはエリザベトはすでに高齢で実際的なセックスによって懐妊し子をもうける年齢ではなかった。禁欲を推奨するエッセネ教団であったわけですから洗礼者ヨハネもまた、イエスを救世主として導くための預言者として、イエスと同じように天使の祝福によって生をなしたといえるでしょう。あるいは養子であった可能性もあります。“岩窟の聖母”でもヨハネの守護天使としてのウリエルが描かれています。

 1940年代後半に死海のほとりの岩窟にて夥しい数の聖書の写本が発見され“死海文書”と言われていますが、これが記述された年代などの一致により、ここに居住しこの文書を残した人たちは発見されたその場にちなんで「クムラン教団」と呼ばれていましたが、その後の研究によってこのクムラン教団の人々はエッセネ派ではなっかったか、という見解が有力です。エッセネ派の規模は約4000人にものぼりローマ帝国に滅ぼされるまで続いたといわれています。

 エッセネ派の共同体に入団するには厳しいおきてに従わなくてはなりません。入団の際には所有する財産は一切教団のものとされます。貧しいものも裕福なものも、共同体の中においては皆平等です。夫婦で入団することも許可されましたが、いったん入団すれば肉によるつながりはなくなります。人の子も自分の子も皆平等。血族のつながりによってではなく、その教義によってつながっています。予言によって顕れることが約束されている救世主が顕現した暁には、その膝元に終結し救済されるその時を待っている。エッセネ派の人々は肉体は滅びても魂は不滅であると信じていました。であるからこそ清浄に生き魂を清らかなものと保つために約束を結び、規則を破るものは食事を四分の三に減らされるなどして罪をあがなうことを求められました。

 また、エッセネ派は“神殿によらずして神に仕えることができる”と考えました。偶像崇拝を否定していたのです。また、生贄を捧げることも禁止しています。悪をもたらす肉体を離れた魂と精神を重要視し、魂を肉体から分離するためにの手段として祈りと瞑想を推奨しユダヤ教の聖典(旧約)に約束された救世主の到来を待ち望んでいたのです。救世主が現れた暁には真に救済されるのは自分たちであると信じていました。その祈りが天なる父に届いたのか、彼らの中から救世主が誕生したというわけです。

 
 洗礼者ヨハネはイエスに先駆けて布教活動を始めます。“悔い改めよ、審判の日が近づいている”“私は主の途を整えているに過ぎない。私の後にその人は現れる。私はそのお方の履物の紐をとく値打ちもない”

 洗礼者ヨハネは水によって洗礼を与えていますが、ユダヤの洗礼は油によってなされるのが古いしきたりです。しかし、エッセネ派においては油は汚れを付着させるものとして使用されていませんでした。そのことからも、ヨハネがエッセネ派の教育を受けていたことがうかがわれます。

“油を注ぐ”という行為にはユダヤの古い教えの中から“選ばれ者”という意味があります。エノクも神によって選ばれし者として油を注がれています。新約においてもイエスが自らを“油を注がれたもの”といっています。しかし、イエスは洗礼者ヨハネによってヨルダン川の水によって洗礼を受けています。このことは一見相反することのように思われますがそうではない。

 油は精錬された香油のことです。今で言えばハーバルオイルといったところでしょうか。つまり薬効がある。しかし、それは人間の手によって人為的にに作られたものです。使い方によっては毒にも薬にもなる。それに対して流れのある川の水は自然の恵みによる。当時のヨルダン川の水が清いものであったかどうかは判りませんが、自然の恵み、つまり神の恩恵によるものとする考え方です。また、香油は高価なものであり一般の民衆には手に入りにくい貴重品です。ヨハネは水を使うことにより貴賤を問わずその精神において洗礼を施したといえるでしょう。また、イエスもヨハネによって祝福を受けます。ヨハネによって祝福を受けるということはヨハネをつかわした天使の祝福を受けることでもあります。

 死海のほとりクムランは荒涼とした荒野です。エッセネ派の人々はモーゼが40年間も荒野をさまよって試練を受けたように、自分たちも荒野に身をおき苦境の中で精神修養を極めようとした人々です。しかしそれは決して苦行を推奨するものではありません。肉欲から離れ精神世界を追求するため、余分なものをそぎ落としてゆくための結果であったのでしょう。降水量の少ない地域で慈雨の恵である水は香油に匹敵するかけがえのない貴重なものです。キリストが“油を注がれたもの”といったのは、その伝統を持った人たちに受入れられやすい方便であったに違いありません。



オーラ・ソーマの創始者であるビィッキー・ウォールは“水を分けなさいという天の啓示”によりイクイリブリアムを創りました。ヴィッキー自身“どうしてそれができたのかわからない”と言っています。その結果、イクイリブリアム・ボトルのなかでは水と油が分けられ共存しています。ヴィッキーはユダヤ教のハシディック教徒の牧師を父にもち、敬虔なユダヤ教の教えの元に育てられました。“油を注ぐ”ことで知られるユダヤでは香油を精錬するする技術と薬草の知識は牧師によって受け継がれてゆくものでした、女の子供であるヴィッキーにはその秘儀相続の権利がなく、したがって相続者としての知識はありませんでした。しかし、ヴィッキーは小さいときから見えないものが見えるという特殊な能力がありました。それを知った父親はヴィッキーに日常の中でそれとなく知識を伝授していったということです。

ユダヤの教えを基盤にして創られたイクイリブリアムの中には、その秘儀が隠されているのかもしれません。伝統(油)の中から新しい流れ(水)を分け、何時しかそれが大きなうねりとなって人々を魅了する時がやってくる。精神世界の新たな夜明けが・・・。今私は、初めて水と油で構成されたイクイリブリアムの中に潜む深遠な意味が理解できたような気がします。




 上記はルーブル版の”岩窟の聖母”です。依頼主の不興を買いナショナルギャラリー版が描き直されています。意味深なルーブル版、どちらがヨハネかイエスか明確でなく、また聖者としての輪もないあたり、人間としての苦悩を予見しているようで私は好きです。「何で”岩窟”なのかな~?」と最近まで不思議でした。その道の険しさを暗示するものと思っていました。それは一つの比喩なのだとおもいますが彼らがクムラン教団の出身だとすれば、これも”納得”です。遠くに見えるのは死海の塩の柱か・・・?

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イエスの血脈

 ゴルドウィンによれば『エノク書』のはじまりに美しくだりがあって、エノクが死と変容の前に天を訪れた次第が記されており、描写される情景は来るべきもののリハーサルのようである、と述べています


そして主がミカエルに向かいて『行きてエノクの衣を脱がせ、エノクに油を注ぎ、われらの如く栄光の衣をつけさせよ。』と告げれば、ミカエルは命じられたとおりになしたり。わが衣を脱がし、露の如くすばらしき油をわが体に塗りたるが、この油は没薬にも似た薫あり、日差しの如く輝けり。わが身をみれば、他の者たち(天使)の如くあいなりて、違い一つなく、死に対する恐れと戦慄はもはやなからん。

                『エノク書』より

エノクは生前のその行いにより、神から真実の記録者、最大の書記に選ばれメタトロンのなかに吸収された。エノクはその能力を持ったままメタトロントと同化し、ゆえにメタトロンはあらゆることを天の記録保管所に記録する天の書記官として知られることとなったのです。




『出エジプト記』にはメタトロンにふれたくだりがある。

『視よ、
われ天の使いを遣わして
汝に先立たせ
途にて汝を守らせ
汝をわが備えし所へ導かん』


モーゼに神が話しかける。自分が神であると言うことを知らしめるためにその印を見せるくだりである。天の御使い、つまり天使が「炎の柱」として顕れるところ。この炎の柱として現れた天使はメタトロンだといわれています。炎の柱となって顕れた天使の顔は『太陽よりも燦然と輝けり』と記述されています。これは来ることを教える神そのものと言う説もありますが、神は必ず容を変えて顕れる。この使いは神そのものと言うより「小ヤーウエ」としてのメタトロンに違いない。

                             『天使の世界』マルコム・ゴルドウイン



新約ではこのくだりは、来るべき救世主イエスキリストの存在を告げるパプテスマのヨハネのことであると解釈しています。これも一つの解釈として否定するものではありません。今でこそ“キリスト教”として、それは世界宗教になっていますが、初期の段階ではイエスが教え導こうとしたのはユダヤ教徒たちであり、形骸化した旧約の世界を今の時代に(イエスの時代)則して構築しなおし、ユダヤの生きた教えとするためであったのです。その結果、イエスによって伝道された教えはユダヤという民族を超え広く伝播されることとなり、土着の宗教の神々と混合しながら様々な要素を含み、その解釈のも拡大し様々な派閥を生んでいっといえるでしょう。

初期のキリスト教を考える時、ユダヤ教の一派である“エッセネ派”を抜きにして語ることはできません。オーラソーマではイエスもマリアもエッセネ派からでているという考えを推奨しています。

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中道について

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 キリスト教社会には中道はありません。善と悪がある。しかし、仏陀は中道を説きました。キリスト教が人間の根源は悪であり、しかしその大元には無垢の魂がひそんでいる。であるからこそ、一点の曇りの無い無垢の魂に立ち戻るためにダークサイドに光を当てることの必要性を説いている。神の赤子として無垢の魂を取り戻しなさい、と言っている。しかし、そこへ至る道は苦難に満ちている。旧約で神が人間に与えた課題は、神が善なるものとは信じられないほど壮絶なものでした。これでもかこれでもかと、人間を試している。そして、否応無く制裁の鉄槌を振り下ろす。まさしく試練の連続です。支配者である神を恐れることを教える恐怖政治のようです 

 それに対して、仏教では神の世界のような上から目線ではなく人間としての立場から人間としてのあり方を説いています。「この世は苦渋に満ちている。苦しみからは何も生れない。では、その苦しみから脱却するにはどのようにしたら良いのか。そのためには、こうしなさいよ・・・。」と、教えを説いているのが仏教なわけです。


 仏教では人間の中の善も悪も認めている。もっといってしまうならば、善悪は結果論である。人間の行った行為が他に及ぼした結果が人間によって判断された結果与えられた価値基準であるに過ぎない。それらが生み出される大元に有るのは苦しみである。それらは決して消滅しない、逃れられない。生は苦しみの上に存在している。逃れられず有るのならば、その有るを有ると認めた上で、無いと考えたなら有るも無いと同じ。でも、あるものは無いとはなかなか認められない。だったら、有るは有るで認めなさい。認めながらそれをきれいに掃除していきなさいよ、と言っている。苦しみを呼ぶものに固執しないで捨てなさいね。いらないものは捨てていきなさい。そうしたら最後に幸せだけが残るでしょう。もし、貴方が苦しみをよぶとわかっていながら手放せないものがあるとしたら、苦しみで自分をがんじがらめにしてしまっているのはあなた自身なんですよ。だから、常に心の掃除をしなさい。固執しないで手放していきなさい。生きることは苦しみを伴う。苦しみから逃れるとはできない。でも、軽くすることはできる。その一つは執着しないこと。手放してゆくこと。善も悪も認めなさい。認めたうえで埃が付かないようにお掃除していきなさいよ


 仏教の教えを私はこのように理解しています。シャカ族の王子として生まれたゴータマは、修行に入る前に人間のあらゆる快楽を経験しています。しかしその快楽は欲望を増すばかりで少しも心を満たしてくれなかった。本当の心の平安とはいったい何処にあるのか・・・。それを見つけるために修行の旅に出るわけです。そして七年の苦行の果てにたどり着いたゴータマに去来したものは『快楽によっても苦行によっても心の平安は得られない。肉体を痛めつけることは無意味だ。ましてや快楽によっても。肉体を離れたところに魂の平安はある。生きて肉を持っている限り苦しみと付き合わなければならない。肉を持つことは苦界に生きること。ならば苦界に行きながら魂の平安を保つためには、過度に求め、また過度に否定するのではなく中庸が良い。過ぎたるは及ばざるが如し。中道こそ生きる道である。』と、悟ったのです。

 キリスト教の中では常に善と悪が戦っている。正確には旧約はユダヤ教の聖典でありますから、イコールキリスト教とは言いがたいとはいえ、旧約に示された内容は仏教的に言えば苦行を良しとしているといえます。しかし、果たして、このような精神的な戦闘状態の中で魂の平安が保たれ、神の赤子に立ち戻れるものでしょうか?

 神もその間違いに気がついたのでしょうか?キリストを罪のあがない人として贄に差し出すことにより人間に最終通告をしてきます。

 『このように善良なものを、おまえたちは罪人として十字架にかけたのだ。キリストはおまえたちの罪を一身にあがなう為死んでゆくのだ。おまえたちの内にある良心は痛まないのか。死に直面しながら尚も無知なおまえたちの罪を許したまえと、我に訴えるキリストに対して良心の呵責は無いのか・・・。』

 新約のなかにはこのような記述はありませんが、『悔い改めよ』と言う言葉は頻繁に出てきます。『悔い改める』と言う言葉のなかには、やはり心の中で善と悪が葛藤している様がうかがえます。精神的なバトルがされているのです。仏教の中道とは似て異なるものです。しかし、大天使メタトロンの中にはその両方が共存している。決して、戦っているという記述が無いのです。静かに、ただ有るのです。メタトロン自身でさえ自分の中の混沌をただ観照している。メタトロンは書記官ですから記述するのみで発言はしません。メタトロンは書記であり観照者なのです。

 私には、この観照者メタトロンに象徴される姿こそ人間が立ち戻らなければならない本来の姿でありまた、宇宙の本質のような気がしてならないのです。

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