フィールドワーク&maps♪

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鎧潟を歩く。

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新潟とは、新しい潟、と書く。

南東側の日本アルプスから侵食された土砂と豊富な雨を運んできた、信濃川をはじめとするたくさんの河川が、この地域を埋め立て、沈め、潟を作った。

そういうことなのだ、と歩いて初めて実感した。

巻駅から、昭和の匂いを感じる街並みを抜けて、この辺りで一番高いはずの、西川の自然堤防に向かって歩いた。
さして高くない自然堤防とその上の人工堤防、溢れそうな水。
その水は鎧潟の方に向かって引かれていた。
自然流下ではなく、揚水ポンプによって。

でも、西川から中郷屋の集落に向かって歩くと、明らかに下っていると感じた。
そして、中郷屋の集落は、明らかに水田より一段、高かった。
寺の前、集落の東側を、用水路(青)と排水路(黄)が平行して流れていた。
道路とほぼ同じ高さの用水路は、野菜などを洗うのに使われているらしく、板が渡してあったり、干し場が設けてあったりした。
排水路は明らかに、集落の東側の水田面と同じくらい、もしくは低い位に感じる高さだった。

中郷屋から鎧潟に向かっては、どこを歩いても、水田の中の排水路は、いったいどこに排水するのだろうと思うくらい、底が深かった。
それくらい深くないと、水田から水がはけないくらい、標高が低く、地下水位が高いと言うことなんだろう。
だから、用水路(青)は排水路(黄)と立体交差していた。

そして、飛落川の旧堤防を越えると、恐らく自然堤防地帯であったろう、周りより明らかに高い荒れ地が広がり。
その先に、ほぼ、0m地帯が広がる、すり鉢のような旧鎧潟。

かつてこの辺りでは、田舟が使われ、足踏み水車が揚水だけでなく排水にも使われた。
三年一作、鶏またぎ米といわれるほど、深田で作柄が悪かった。
そのような田から集まってきた水が、鎧潟に湛水していた。
戦後、地主がそれぞれ排水機場をつくり、排水したが、稲刈りの時期には止めたため、雨が降る度に増水していったという。
http://www.maff.go.jp/hokuriku/kokuei/shinkawa/tiiki_rekisi.html

1968年までに、国営事業によって、鎧潟は干拓された。
そのときに、飛落川と大通川は付け替えられた。
その工事の最中に、古墳時代末期の遺跡が出てきた。
川底の数mも下から。
それが、大島橋遺跡。
そこには今、弁天さまが祀られている。

新潟の6〜7世紀の遺跡は、多く水田の下深くに埋もれているという。
新潟を流れる河川の浸食力と堆積力の並外れた強さを感じる。

そして、その潟を抱え込んだ浜堤や砂丘を作った、海の力、風の力を。
そこで生きる人間の、底力を。

閉じる コメント(3)

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う〜〜〜ん。
ワタシは遊んでいただけですが
う〜〜〜〜ん。
なるほど

2009/8/31(月) 午後 11:40 ぶたままん♪

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今のような穀倉地帯にするまでは多くの苦労があったのですね。
やっぱ、日本人はすごい!

2009/9/1(火) 午前 0:48 ken

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うふふ、これもある意味道楽ですよ、ぶたままんさん♪

この潟をここまでにしたことは凄いと思いつつ、近代的利水・治水にいささかの疑問を持っているわたしとしては、ここまで苦労する必要があったのかとも思うのですよ、kenさん。

2009/9/2(水) 午前 0:18 nya=^--^=geo


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