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久しぶりに台風の通り道になってしまって。 あちこちで冠水や倒木などの被害があったようで。 大まかに地図に落としてみたら、思っていたとおり、低湿地が広がる海岸平野や、河川沿いに多かったみたいで。 梅田川と七北田川の合流点付近も一時冠水、バスが迂回したようで。 http://www.pref.miyagi.jp/kasen/sins-umeda.html 丘陵地を切り開いた新興住宅地の谷間の道も、こういう雨の時には冠水して、大変なことになりやすく、また崩れやすくもなり。。。 ということを、改めて認識した台風となりました。 思ったより県内の被害が小さかったのがせめてもの幸いです。 というわけで、台風一過の空を撮ってみましたが、なんだかまだすっきりしない。。。
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新潟とは、新しい潟、と書く。 南東側の日本アルプスから侵食された土砂と豊富な雨を運んできた、信濃川をはじめとするたくさんの河川が、この地域を埋め立て、沈め、潟を作った。 そういうことなのだ、と歩いて初めて実感した。 巻駅から、昭和の匂いを感じる街並みを抜けて、この辺りで一番高いはずの、西川の自然堤防に向かって歩いた。 さして高くない自然堤防とその上の人工堤防、溢れそうな水。 その水は鎧潟の方に向かって引かれていた。 自然流下ではなく、揚水ポンプによって。 でも、西川から中郷屋の集落に向かって歩くと、明らかに下っていると感じた。 そして、中郷屋の集落は、明らかに水田より一段、高かった。 寺の前、集落の東側を、用水路(青)と排水路(黄)が平行して流れていた。 道路とほぼ同じ高さの用水路は、野菜などを洗うのに使われているらしく、板が渡してあったり、干し場が設けてあったりした。 排水路は明らかに、集落の東側の水田面と同じくらい、もしくは低い位に感じる高さだった。 中郷屋から鎧潟に向かっては、どこを歩いても、水田の中の排水路は、いったいどこに排水するのだろうと思うくらい、底が深かった。 それくらい深くないと、水田から水がはけないくらい、標高が低く、地下水位が高いと言うことなんだろう。 だから、用水路(青)は排水路(黄)と立体交差していた。 そして、飛落川の旧堤防を越えると、恐らく自然堤防地帯であったろう、周りより明らかに高い荒れ地が広がり。 その先に、ほぼ、0m地帯が広がる、すり鉢のような旧鎧潟。 かつてこの辺りでは、田舟が使われ、足踏み水車が揚水だけでなく排水にも使われた。 三年一作、鶏またぎ米といわれるほど、深田で作柄が悪かった。 そのような田から集まってきた水が、鎧潟に湛水していた。 戦後、地主がそれぞれ排水機場をつくり、排水したが、稲刈りの時期には止めたため、雨が降る度に増水していったという。 http://www.maff.go.jp/hokuriku/kokuei/shinkawa/tiiki_rekisi.html 1968年までに、国営事業によって、鎧潟は干拓された。 そのときに、飛落川と大通川は付け替えられた。 その工事の最中に、古墳時代末期の遺跡が出てきた。 川底の数mも下から。 それが、大島橋遺跡。 そこには今、弁天さまが祀られている。 新潟の6〜7世紀の遺跡は、多く水田の下深くに埋もれているという。 新潟を流れる河川の浸食力と堆積力の並外れた強さを感じる。 そして、その潟を抱え込んだ浜堤や砂丘を作った、海の力、風の力を。
そこで生きる人間の、底力を。 |
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岩木川右岸の山麓や、屏風山南部には、縄文前期の遺跡も残る、岩木川下流域。 縄文のころには大きな内海であったと考えられている。 http://suido-ishizue.jp/nihon/08/01.html 11世紀の遺物が出てきた福島城址は、平泉より古い東北最大の居城とも言われ、安東水軍の山城としても使われたといわれる。 そして、屏風山から北に伸びる砂嘴の上に形成された十三湊。 日本海交易の拠点として中世に栄えたと言われるが、記録がほとんど残っていなかった。 岩木川の堆積物により十三湖や水戸口に続く明神沼や前潟が浅くなり、また海流と冬の日本海からの強い風で水戸口が埋まり、湊としては寂れた。 津軽藩初代・津軽為信がもともと「腰切田」とも言われた深田の岩木川下流域のうち、南側からの開発を進めた。 おそらくそのころに、少し離れた馬鹿川の自然堤防上の若宮集落が成立したと思われる。 ちなみに「馬鹿川」というのは、十三湖の水位によって川が逆流するので名づけられたといわれる。 日本海からの風砂害を防ぐための屏風山への植林もこのころから続けられた。 春未だ浅い岩木川の雪解け水、夏から秋にかけての台風などによる洪水や、用水不足による干害による飢饉に何度も見舞われながらもこのあたりの開田と土地改良は各村々によって進められ、水争いも絶えなかったという。 大正7年から、岩木川改修工事が行われ、現在の水戸口の整備が進み、十三湖の排水もよりスムーズとなった。 昭和19年からの食糧増産計画にかかわって行われた、国営西津軽農業水利事業を皮切りに、戦後、昭和23年から国営十三湖干拓建築事業が行われた。 米軍撮影の航空写真では、その直前の状況が伺える。 http://archive.gsi.go.jp/airphoto/ViewPhotoServlet?workname=USA&courseno=M1010&photono=108 また、昭和33年の大水害により、岩木川の12堰が破壊されたことから、岩木川統合頭首工が建設され、用排水路の管理の一本化が進んだ。 昭和50年代にはかんがいと排水を兼ねた若宮機場などが建設され、下流域の乾田化が進み、圃場整備も進んだ。 http://www.jomon.ne.jp/~jsk/srid.htm http://www.jomon.ne.jp/~jsk/tikuzu.htm |
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火山麓土石流扇状地で、標高5〜600mの山腹にあるため、扇端湧水帯ははっきりとは見られません。 1744年(延享1)白石城主7代・片倉村廉のころに6代・伊達宗村がここに牧場をつくったのが開拓の始まりだそうです。 http://www.pref.miyagi.jp/nosonshin/kouikisuirityousei/pdf/miyaginototikairyounenpyouver102.pdf 第二次世界大戦後、引揚者が入植、厳しい自然条件のもとで開拓が行われたといわれます。 http://d-helper.lin.go.jp/dairy/backnumber/11/05.html |
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もう、ずいぶん前になってしまいましたが、閖上を歩いた時の写真です。 |



