ウ・ト・ペラニ 〜気法会通信

移ろい、移ろいゆくままの身体のことども

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そうではない何か、はどうやら

この世界では、周辺に追いやられ

存在を許されないようであり、、、



さて、これにて

このブログはまずは

幕を閉じることにいたします。



皆様、

ご愛読ありがとうございました。




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人の心の中に湧き起こる連鎖は
その人のもっとも弱い部分、
一番デリケートで、柔い心のひだの側壁を
通ってゆく、、。



無意識の影のコンプレックスとは、
ある時、知らぬ間に
フと、心の奥のほうに入り込んでしまった
想念である。

嫌悪すべき、苦手な
不安な何ものかである。

本人以外の人にとっては
どうと云うこともない
些細なつっかかり、なのだが
無意識の深いところで
巣くったまま、なかなか
解決されない、、、、。

人の連想は、この負のコンプレックスの
暗い道筋を好んで通ってゆく、、、。



無意識にスッと
入り込んでしまうものとは、
本人にとっては思いがけない
「何気ない一言」と云うものである。

「えー、そうなんだー、いつも
 だるそうな声で返事するんで、
 疲れてるのかと思ったー、、」
とか、言われて


…えっ、いつも最高に元気な声で
返事してるのに、、、、。
と、いぶかしみながら
そんな風に、人には聞こえるのかな…と
突然、迷路に迷い込んだように
不安を覚えるのである。

この人が、性格が嫌味だから
そう捉えるんじゃないか、
あるいはわざと面と向かって悪口を
言っているだけなのかも、、、と思う反面、
この何とも判断しがたいモノが
ひっかかったまま、心の奥の水面から
やがて、ひらりと沈んで
内奥のそのまた底に潜ってゆくのである。


やがて、それは無意識の底に溜まる
他の欠片と重なって、しだいに重い
コンプレックスに変質してゆくのだが、
それよりさらに、ヒョイと
いきなり、無意識の深い底にすとんと
潜ってしまうのは、
気の置けない家族や親しい友人の
軽いひとり言のような「一言」である。

「なにっ、汚い足!、、なんか太ももから
 お尻も汚いー!!」

これはなかば、からかい。
しかし、何の意図もなく生の形で
放り出された無垢な言葉でもある。

汚いとは、何であろうか、、
とらえどころがない、思い切り広範な
形容である、

どのこと?
この変な筋みたいのかなとか、、
色々、考える、、、、

言われたその時は、笑って済ませても
あとあと、ずっと
何かの折に気になり、自分の足を
眺めることとなる。

あっという間に、底に潜り込んだ
想念なのだ。



このような「何気ない一言」の
コンプレックス化を防ぐ方法が
ひとつある、
ファンタジーとするコトである。




思春期にいたって、彼は
目がますます細くなる。
両親はそんなに細くないのに
なぜ、細い?!

小3の時に、何気なく
4歳上の姉から「なんでー、何でそんなに目が細くなったの?」
と言われて、
以来、意識の底の底に巣くったままであった。

彼は、コンプレックスの
情動的な鬱散から、
目のすぐ上を鉄棒にぶつけて
切る怪我さえしている。


「ゴキ ヒロシの呪い」、、、
なぜ、大きくなってますます
目が細くなったのかを、
こう物語化して伝える。

小学校低学年の時、
NHKの紅白歌合戦に出場した
五木ひろしを、
彼は「目、細い!ただの筋みたいだ!!」
と、大笑いした罰なのだと
ことの因果関係のあらましを
説明する。
〜当時、彼は五木ひろしをゴキヒロシと
よんでいた。


ファンタジーは、
姿の掴めない、ぼんやりした
無意識のコンプレックスを
さらに、訳のわからない
茫漠とした世界に連れ出す。

けれど、一点だけ
もしかしたら、、、と云う
ひっかかりを、作るため
絵空事にはならない、
コンプレックスの分断化が
行なわれ、
ますます細くなるのでは、、
と云う漠とした不安が、引き離される。


ファンタジーの効用とは
このようなモノである、
形のはっきりしない
心の奥深くに溜まった澱のような
コンプレックスやルサンティマンを
分節化し、因果の不明な不安や嫌悪感との
つながりを断線する。





願望、
願望は、この底におり溜まった
負の想念の帯の上にぽつりと発生し、
菌類のように、きのこのように
それこそ一夜のうちに
大きく膨らんでゆく。

願望は、その生まれ始めは
こんな具合で、
コンプレックスやルサンティマンの
培養で生まれるものなのだ、
銀貨の裏表のような関係である、と
よく言われるようなものなのである。

コンプレックスの裏返しを
強く望めば、望むほど
コンプレックスは、深く強力に
無意識の奥底にうがたれ、
願い、願うごとに
願望の膨らみにぶら下がる尻尾のようなものが
伸びてゆく、
たぐり寄せると、太く重い
鉄の鎖の束になって、
それが黒々した負の想念に累々と繋がっている。




願望を、願い事に
分離させるには、
もやもやしたカオス的な
あいまいな状態からひとつ
明確化することで、
鎖をひとつひとつ解いてゆくしかない。

明確化して整理して
要求を際立たせ、
ぽしゅうううんと
広大無辺な空間に、打ち上げてしまうしかない。

ポンッと
はじけて無方に散らばり
消え去ってしまう行方を
静かに眺めていれば良いのである。


彼方に消えた
忘れ去った夢となった願望は、
しかし、思い出しても思い出せない頃に
やがて現実となって
帰ってくるのである。、、、、


負の想念から
切り離され、無空に散じた
自在な心が、
応えて集ったいくつもの心を
連れ立って、
帰ってくるのだ、、、、、・





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言葉に流れ込むもの

人が言葉を生み出したやむを得ない事情とは、
圧倒的な「余力」を、掴み取ったからだろうか、、、、、



人の「言葉」とは、単なるコミュニケーションではない、
意思伝達の手段としてのみ、
発達したわけではないのである。


その草創期には
1対1のコミュニケーションより
集団生活のある決まりや規律を
象徴させるために
発明されたのかとも思えるが、
威嚇に使うには、
まどろっこしいし、
神性を付加したものであったなら
ここ一番で使うしかないから
頻度が少ない。
禁忌タブーも発明しなければならないし、
とても、
バラエティー豊かに
枝葉が発達して行ったとは
考えにくい。

「言葉」が、共通した思念を
興起させるには、
意味の信号を送り返さないといけないと云う
ワンクッションの手間とタイムラグが発生するから、
「言葉」の使い勝手は
原初の生活においては、さほど便利とも
言えない。


「言葉」がもし、種族保存のための
オスからメスへの、ウーイング的な
誘引のための道具として発達したなら
オスの言葉は、多少無意味な誇張の意匠を
まとっていたとしても、
もう少し、まっとうに
メス〜彼女らに、届くはずなのだが、、、
メス〜彼女らは、
およそ、見当はずれのイメージでもって
それらを、受け止めている。



言葉が、伝達の手段であるとしたら
もう少し、効率的に
相手に届かねばならない、、、
けれど、
言葉は、言葉として受け取られるわけでなく
言葉の表象として受け取られるのだ。


言葉のしずくが
受け手の心にぽとりと
玉になって落ちる、、。
このしずくは朱色の玉なのかもしれない、
けれど、受け手の青い心の桶水の中に
落ちた瞬間、紫に混じり合ってしまう。

受け手は、紫の玉に
さらに、連想のくさりを繋げてゆく、、、

人は、このように
言葉を言葉として受容できない。


アプリをダウンロードしながら、
アプリの表題に
引き寄せられた受け手の心象の滓が
インストールに交じり合いながら
意味を付与してゆくのである。
インでなくて、
アップロードして言葉を受け取ったつもりになる。

このことを
かつて幻想と呼び、
個人の幻想領域から
対幻想と共同幻想に分化してゆくことを
証左した時代の旗手がいた。



言葉が強力な力を持つのは、
共通した時代の思念とも云うべきものを
共同の表象として
掲げられたときだけである。

時代の気分を
まさに代弁する、そのときその時にのみ
旬であり、すぐに色あせ消えてゆく
「流れの言葉」と云うものがある。

いくつも現われては消え、
消えては、また別の言葉をまとって
表われる、、
先進的で創造的な人々が、
時代の動きの、波打つ機運を感じ取り
かすかで、不確かではあるけれど
掴み取っては、象徴させる「言葉」である。

しかし、この「流れの言葉」は
人々に認知され、共同の表象に代わったときには
すでに、実態が消え去っている。
人々が、時代の言葉として使い始めたときには
すでに、終わった言葉となっているのである。


ちょっと前には
化学反応〜ケミストリ、と云う言葉が
コレを担っていた。

この合い交えそうに無い異種のものの
交感が、まったく予想もつかない
展開を生み出すと云う
この感覚が、活きいきとした
次の時代の気分を予感させた。


「流れの言葉」が、
共同の表象にすり替えられたとき、
この強力な時代の「言葉」は、
人々の思念や欲求の鬱散を吸い込み、吸い込みして
大きく強大なブラックボックスに
変じてゆく。

創造的であること、自ら言葉を選び取ってゆくこと、
内省的であること、感覚を正しく意識に上げること、
すべてを吸い込んで、
段取りを飛ばして、単純化し、短絡化し、
モサモサ考えなくても、とりあえず
使っておけば、やり過ごせるような
そのような強大で頑迷な「言葉」に変わる。



この一年、
まさにこのようにして
もやもやした時代の気分をどう
表せばよいのか、時代の旗手たちが
迷っていたさなかに
ひとつの言葉が表象化されている。

言葉自体は、多くの意味を
現わしていない。
他の地域との分別のための
記号であり、名前に過ぎない。

けれど、この単純な言葉に
時代の気分やあらゆる言いようの無い
不安や不満が流れ込んだのだ。



「フクシマ」、、、、
この言葉に、人々はすでに
深い内省や希望の端緒を読み取ろうとはしない、

さらに単純化され、記号化された
「フクシマ」に、
思考は無化され、踏むべき段は飛ばされ、スキップして
そう云うもの、として
言葉の中に放り込んで、何もかも投げ込んで
省みようとしない、、、
途方にくれていた人々には、ちょうど良い
隠れどころだったのだ。



人々の共同の思念は
こうして、表象化された言葉に逃げ込む。

やむにやまれぬ
共同の心が生み出した時代の処方だったとも言える。



けれど、
この「言葉」に乗じて
自分の尻拭いをせずに
厄払いをしようとしている一群の人たちがいる。


町内や自治体で
執り行なう「どんど焼き」みたいにして
どうにも手のつけようのないモノを
何もかもごちゃまぜにして、
放り込みに来る人々である、、、、。








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大問題な、新型掃除機である。


5年ほど使った掃除機がついに、壊れてしまい
かねて、検討していた新型掃除機を購入した。

現在の掃除機事情と云うものは
大変なハイテク合戦のようで、
一時、席捲しかけたサイクロン方式が
紙パック勢の巻き返しに苦戦している
状況であるらしい。

紙パック方式の根強い人気の理由は
溜まったごみ処理の簡便さに
尽きるのであるが、
最新型は、強力な巻き返しを図るため
ハイテクを随所に詰め込んである。

購入した新型掃除機は、紙パック方式である。


吸引しようとする清掃面の塵芥をセンサーで
検知して、吸引力をコントロールする、
汚れが激しいと、ノズルの外枠が赤く点灯して
今、きわめて汚いところを、素晴らしく吸い取り尽くしてますよ!
と、誇らしげにサインを送るのである。

吸い込み口は、かなり重い。
ノズルやパイプも太く、いかにもタフな姿形である。
それだけで、以前使っていた
旧型の本体分くらいあるような感じである。

新型は、抜かりなく
この重量感を軽減するため
自走式と称して、吸い込み口にモーターを内蔵し
センサーによってコントロールされながら
自分で床面を進んでゆく。


これが、なんとも心地よい。
面白いのである、、、、

何か、フワッと浮かび上がるような感覚がある、
ガス充填の大きなバルーンを操ってるようでもあり、
トコトコ急いだり、寄り道したりの
犬の散歩をしているようだし、
何とも、生き物っぽい感じが楽しい。



掃除と云うのは、身体技法である。

掃除機といえども、
身体をどう捌くかと云うことが、
「掃除」を「祓い」にしたり、
「場つくり」に出来る
身体技法になるのである。


掃除は、場を整える。
チリやホコリを、掃いて除くだけでなく
辺りの気の質を、変える。

さっぱりした澄んだ空間に気が満ちている、
ザワザワした心は、静かになり
自分の中心に、自分が戻ってくるような
落ち着いた心地が生まれる。


その部屋に足を踏み入れた瞬間に
ふと、感じ取れる、、
眺めただけで、何か安定感がある、、、
掃除は、そのような場に
空間をつくる身体技法なのである。


心地よく住み、楽しく語らい、
適当に不満を言っても包容されている、
集注した仕事をこなすのも、
予想外の出来事にも、むやみに慌てない心持ちで
対処できるのも、
どのような場に居るのかにもよるのだ。



ローテクの旧型を使いこなしていた以前は
まさに、この身体の捌サバきによって、
掃除を「掃除」と出来ていた。

ところが、この新型は
何とも、扱いづらい、、、。

自分で、吸引をコントロールし、
自分から早めたり、ゆっくり重点的に吸い込もうとする
自走の新型は、私にとっては相手任せである。

「ふき掃除をしたような」と云うふれ込みで
宣伝されているとおり、その吸引力は
世間の評判も高い。
しかし、きれいになった感じがどうも、
違う、、のである。


機械と云うものは、
いかに効率的にまた効果的に
目的をこなすか、と云う大命題に
能力と想像力をつぎこんで
形になしたものである。

目的は、その時代、時代の価値観を反映する、
今は、便利で快適で簡単に扱える!!が、第一である。

どんな人でも、
非力でも無頓着でも無造作でも、、
誰がやっても、きれいに仕上がるように
ハイテクが駆使されている。

ここに、「身体技法」は
つけいるスキがないようである、
「捌き」なんて、必要ないよ!というばかりに
いたれり、尽くせりに
キレイに仕上がるのである。


廃用性萎縮と云う、医科用語がある。

身体には、使わないでいると
不要であると判断されて、
能力はあるのに、機能が衰えてしまう、
萎縮して、退化してしまう
ひとつの、システムコントロールが
備わっている。

身体にとっては、無用な体力を使わないよう
集中力と瞬発力を温存するための
取捨選択なのだが、
簡便さと迅速、汎用性を第一とする現代生活にあっては
身体の大切な機能まで
使わないですむような暮らしぶりになってしまう。



「道具」と云うものの基本は、
身体の延長である。

身体の捌けるように、身体の能力を最大限に
発揮できるよう、工夫がこなされたものが
「道具」なのである。

身体を離れ、身体の能力を減ずるようでは
「道具」には、ならない。

身体の能力を知らず、知らず使いこなすような
「余地」が、そこになければならない。



自走式新型掃除機は、まだ
使い始めたばかり、、である。
つけいるスキのなさそうな「完璧さ」に
いかに、身体を捌けるか、
身体技法となせるかが、
コチラの技術の、ためされドコロである。

何も、そんなコトまでしなくても、、、
と、言われても
そうは、いかない、、のである。




人は、人の創り出したものによって、
常にさいなまれる危険をも
選択させられている。

いつも自覚して覚醒していなければ
生命を危うくさせられる問題が
そこには、内包されているのである。



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