時斬る博士と排奴氏

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こんなにも違う

 昨日はエイプリルフールだったため、「このブログ閉鎖します」というような嘘をつこうとも思ったのだけど、めんどうなのでやめた。しかし、日本にはやはりこの習慣は根付かないのでは、と思うときがある。嘘をたしなむ、というスタイルは非常にシャレていると思うのだけど、ジョークの文化がない日本では受け入れられないと思えてしまうのだ。

 余談ではあるが、この前「オーストラリアで離婚した男性が人生をリセットするため、自宅・仕事・友人を競売にかける」というニュースがあって、私はそのセンスに感心して大いに気に入ったのだけど、どうやら日本人には不評らしいと知って、日本人のジョークセンスのなさを嘆いたものだった。

 それはさておき、やはり日本と欧米は違う、というごく当たり前のことが最近やけに痛感される。一例は映画「靖国」の上映中止の件。表現の自由という社会の根幹を自ら放棄するという愚行だが、これは日本における自由が血を流して勝ち取った自由ではなく、お上から与えられた自由であるという事情に由来すると思われる。これに関連して、選挙の投票率が低いのもこの事情によるものと思われる。国民の5%が死ぬような革命で得たものを手放すことはないが、占領軍によって与えられたものには無頓着であるというのは、別段驚くことでもない。

 そして、もっとも日本人になじまないと思われる欧米の制度は実は民主主義ではないか、という思考にたどりつくのだ。やっぱりここに着地してしまう。

 日本には討論の文化がない。権利に対する執着がない(執着するのは個人の権利だけで、全体の権利には意識が及ばない)。話し合いで解決できない。でも右向け右は得意。没個性は得意。

 民主主義より、強力なカリスマ、例えばヒトラーについていくほうがいいだろう。現に小泉元総理のときはそれに近い雰囲気だったし、なにより今の閉塞感は1930代のドイツ・ワイマール共和国のそれに似ている気がする。もちろん生きていたわけではないからはっきりと断言はできないが、世界恐慌という世界情勢・国内政治の混迷・軍事的抑制などがそっくりだと感じてしまうのだ。

 民主主義と独裁どちらがいいかと聞かれて、即答することは私にはできない。いや、一般的には民主主義のほうがいい(方針転換の容易さ・反対意見が出ることによる政策修正の可能性など)ことはわかるのだけど、今の日本には独裁のほうがいいと思ってしまうのだ。悲しいことである。

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 今年も入試シーズンが終わる。受験生には過酷な時期だが、得るものは多い。それは確かだ。

 しかし、前から日本の受験システムに対して抱いていた疑問がある。それが「文理わけ」だ。もはや慣行となっており、疑う人は少ないかもしれない。だが、これこそ日本の活力を奪う元凶であると考える。

 恐らく多くの人が自分は文系あるいは理系だと思っていることだろう。実際、理学部出身の人に歴史の話をすると露骨にいやそうな顔をされるし、文学部出身の人とは数学の話ができないことがほとんどだ。これは結局、未知のものとの接触をさけることとなる。いわゆる食わず嫌いというやつである。

 私にはこの食わず嫌いで日本が失ったものが一つ思い当たる。iPodである。

 iPodおよびiTunesとそれに伴う楽曲のダウンロード販売はまさに文理融合の果実と言うべき存在である。iPodの製造には高度な技術、テクノロジーが必要だ。iTunesを必須ソフトとし、それにオンラインの楽曲ストアを組み込む販売方法はマーケティングの手法に通じていないと容易には思いつくまい。楽曲のダウンロード販売が主流になると見込んだあたりは経済学の才能を感じさせる。著作権の問題を解決するためには法律の知識は必須だ。さらにあの斬新なデザインも素晴らしい。これをひとつの企業が発明したのだから、まさに文理融合。

 ところが、このiPod、部品の多くは日本製だという。日本にもiPodをつくるチャンスはあったのだ。それを棒に振った原因が文理わけだと私は睨んでいるのだ。

 まずは文理という区分を廃止し、総合的な思考力・知識・独創性を養う教育に方向転換しないと、いつまで経っても日本人にiPodはつくれないだろう。

 さてここでようやく、学問の融合の話が出てくる。日本特有の事情かどうかは知らないが、学者は往々にして専門分野以外の知識を多くはもたない、いわゆる専門バカになってしまう。文理わけはこれを助長してもいるだろう。だが、現在われわれが直面する問題は従来の専門では解決できない。たとえば、それのみで地球温暖化の問題を解決できる学問分野があったら教えていただきたい。おそらくあるまい。

 さらに、専門バカは時折恐ろしいことをやってしまう。たとえば原子爆弾であったり、バブルであったり。

 だから学問を融合しなくてはと話を続けるのだが、こういうと、それは無理だという人が多いかもしれない。哲学と電子工学がどう結びつくのだ、と。

 これを解決する視点がひとつある。それは、どの学問も実は同じ対象を研究している、ということだ。全学問が研究しているもの、それは「人間」である。

 これを示すのはそんなに難しくない。まずは人文科学だが、これはたやすい。哲学や心理学が探究するのは人間そのものだし、語学が発話をする人間に興味を持たないはずはない。論理学のひとつの目標は人間の思考がプログラム化できるかどうかをはっきりさせることである。歴史学が人間を視野に入れず、どうやって人間の生み出す歴史を研究するのか。

 社会科学の研究対象も明らかに人間だ。経済学は人間ひとりひとりの行動を調査する。政治学・法学・経営学はそれぞれの営みの主体である人間を映し出す。

 自然科学も実は人間を研究している。生物学は人間を遺伝子的に見つめ、天文学は宇宙で人間の起源を探り、化学は日々人々の生活に密着した研究を行っている。

 大雑把だがこんな感じで諸学問は結びつく。その焦点、人間が改めて顧みられるとき、少しは世界が変わるのかもしれない。

斜めに政治を見る

 福田康夫首相を見ていて、何かに似ていると思っていた。その何かが今まで言語化できなかったのだが、ようやくわかった。「いやいややらされている学級委員長」だ。

 相似点は次の通り:「空気」で選ばれた、熱意がなくひとごと、無難が一番、etc…

 まあ軽い冗談ではあるが、冗談ではすまない何かを感じるのは私だけではないだろう。何かがおかしい。総理大臣の行動や発言があんなに軽くていいのか。「〜ではいけません、〜だといいですね」なんていうのはテレビのコメンテーターや街角の声に任せればいい。あなたの役目はいけないことをなくすこと、いいことを実現することだ。

 この事態は「自民党総裁=総理大臣」の構図から来ているのかもしれない。自民の独特の論理、いわゆる振り子の論理で選ばれるのは彼しかありえなかった。それはあの時期の政治を見ればあきらかだ。だが彼は総理に適任ではないように思われる。とすれば、段落頭の構図が間違っているということになる。

 もっとも、だからといって野党の党首が総理になれば問題はなくなるかといえば、むしろ逆だろう。方向性があまり与党と違わない野党と百八十度違う野党しかないのも原因のひとつだが、なにより実はどの野党も本気で政権を狙っていないことが最大の問題だ。政権奪取後のビジョンが見えないことと言ってもいい。変えたいこと、変えないことが明確でないと、選びようがない。

 アメリカの大統領選挙を見ていてもわかるが、二大政党といっても必ずしもお互いを全否定するわけではない。民主党のオバマもヒラリーも、共和党のブッシュの始めたバイオエタノール政策を支持している。国家として一貫する部分があってもいいのだ。その発想が日本の政党には不足しているように感じられる。

 このままでは選挙でも白票を投じるほかないかな、と思い始めている。行先不明の船には乗れない。

国防

 イージス艦事件があり、さらにその対応がお粗末すぎることもあり、この国の国防に不安を感じる人が多くなってきたと思われる。しかし、こんな時だからこそあえてこう問うてみたい。

 「この国は、そうまでして守るに値するか」

 外敵を防ぐのは、実はそれほど難しくない。国民が団結することができるし、はっきりした変化には対応しやすい。本当に難しいのは、内患を防ぐこと。それも、緩慢な変化・腐敗を。

 社会保障制度は「内なる国防」といわれるが、まさにその通り。これは私なりに解釈するとこうなる。社会保障がしっかりしていない国は活力が徐々に減退していき、ヒト・モノ・カネが流出し、国際社会における存在感を失い、世界から軽視され、蔑まれるようになる。こうなるとどの国も友好関係にはならなくなる(メリットがない)し、侵略される可能性が高くなる。軍事力があっても無意味。

 たとえ軍事力が大したことなくても、戦争を仕掛けられることがなければ問題ない。そして、戦争を回避する最良の方法は、他国にとって自国が不可欠な存在になること。さらに、自国の存在感を高めるにはその基盤を固めること、すなわち教育の振興と社会保障制度の整備が必要。こうくれば、上で述べたことは必然ともいえる。

 究極的には、上記の方法を世界各国が実践すれば世界から軍隊を撤廃できる日が来る。実際、経済のグローバル化はそれを推進しつつある。だが、人類の叡智はまだそこまで到達していないと見るのが自然だ。まずは国防コストの削減あたりから取り組むといいだろう。

 ミサイルで防衛するだけの価値を日々の生活に持たせること、それこそが喫緊の課題だ。

成人検定

 成人年齢を引き下げる動きがある。つまり、十八歳から成人にしようということだ。もちろん社会的な影響が大きいので十分な議論を要するが、この動き自体は歓迎したい。

 しかし、それよりももっと根本的な解決法がある。それは、成人を一種の資格にすることだ。

 現行法では二十歳から成人だが、とても成人とはいえないほど未熟な人が多いのが現状だ。だが、一方では中高生にも自分の考えをしっかり持ち、社会に主体的に関わろうとしている人がいる。さらにいうと、最大の問題は成人の定義が年齢以外に定まっていないことだ。こうした問題を一挙に解決するため、成人検定なるものをつくり、それを合格した人だけを成人と認めてはどうか、というのが今回の提案だ。

 具体的には、成人検定を下級・中級・上級の三種設け、それぞれの合格者を下級市民・中級市民・上級市民に認定する。その資格によって、日常生活に制限を加える。たとえば、選挙権は下級市民から、被選挙権は上級市民から、中級市民証明書を提示すると特定のサービスが受けられるなど。ほかにも、職種に応じて必要とする成人資格を変更したり、罪を犯した人の成人資格をはく奪したりすれば、社会の秩序は保たれるだろう。

 欠点は多いが、こうでもしないと解決できない問題もまた多い。差別を推奨するわけではないが、区別は必要だ。

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