|
チェギョンがチェ尚宮と二人マカオに来て、先ず決めたことが3つある。
その1、太陽の出ているうちは泣かない。
その2、電話は週に3回だけ。
その3、食事は日に三食必ず取る。
そして、この決まりの2つ目だけを、チェギョンはシンに告げた。
とにかく最初の1ヶ月は嵐のように過ぎた。
しなければならないことが山のようにあった上、新しい住まいや仕事に慣れるまでに様々なことがあった。
特にチェギョンには旅行でも海外に出た経験が無い。
大使館からの助力があるとはいえ、初めて韓国をでて外国で生活する事になった二人は、買い物一つにも戸惑うことばかりの毎日に疲れ果て、新しい生活にもそれなりに慣れ、緊張の解けた1ヶ月目にチェギョンとチェ尚宮は相次いで寝込んでしまった。
その1ヶ月のあいだ、ホームシックになる暇も無いほどの忙しさは、チェギョンの、ともすれば崩れ落ちてしまいそうな心を支えてくれはしたが、シンを思い出して涙を流す夜は続いた。
やっと想いの通い合った夫を恋しく想う気持ちだけでなく、窮地に残してきたシンや家族の事が心配で、チェギョンはどんな小さなことでも情報を得ようと懸命だった。
シンや友人からのメールやネットのニュースで、どうやらシンの容疑が晴れた事を知り、胸をなでおろした途端、真犯人としてユルの名が伝えられ、チェギョンはさらに混乱した。
衝撃的な記者会見の後、今度はユルが召喚され聴取を受けていることは新聞でも報道されていたが、その後の捜査については分からないままだった。
シンを陥れようとした人物がユルだとしたら、動機は何なのか?何故その事実を自ら明かしたのか?分からないことや納得できないことが多すぎた。
しかしそれまでの行き掛かり上、詳細をシンに訊ねるのは憚られ、実家の両親やガンヒョン達も報道される以上の事を知るはずも無い。
ユルを問い詰めたい思いで一杯だったが、何度メールを送っても短い謝罪の返信が一度届いたきり、電話に出ることも無かった。
謹慎中の身では、あまり大っぴらに宮内庁や大使館に問い合わせることも出来ず、ネットの掲示板などでは様々な憶測や過激なデマが流され、不安をさらにあおるだけだった。
情報網の発達した現代とはいえ、正確な情報を得るのがいかに困難か、チェギョンはもどかしい思いに悩まされ、ついにパソコンの電源を引き抜いてしまったことすらある。
そんな中で皇太后が交通事故を起こし、死線をさまよったと伝えられ、痺れを切らしたチェギョンは電話でコン内官を問い詰めた。
週に3回だけと決めた貴重な1回を、シンの声を聞かずに切るのは辛い事だったが…。
疲れきって倒れたチェギョンとチェ尚宮の二人が共に健康を取り戻したころ、シンからは事件の終結とその全容を知らせる手紙が届いた。
その手紙にチェギョンは泣いた。
太陽の出ている間は泣かないと決めたのに、ユルや皇太后が気の毒でたまらなかった。
もし自分が同じ立場に立ったら・・・?想像することすら恐ろしい仮定にチェギョンは震えた。
シンを苦しめた張本人だったとしても、宮廷でたった一人のよりどころである夫を喪い、息子と共に居場所を奪われた皇太后の事を憎むことは出来ない。
せめてこれからの人生を、新しく生まれ変わったと考え、幸せになって欲しい・・・と思った。
皇籍から脱し、新しい生活を始めたと告げられたユルに、チェギョンは「これからも友達でいよう」と手紙を書いた。
やがて、少しずつマカオでの生活が日常になって行くうちに、チェギョンの中にも将来の事を考える余裕が出来た。
その頃の韓国では皇太子廃位や皇帝退位などの混乱の真っ只中だったのだが、シンはそのことをチェギョンには知らせなかった。
無言のうちにその意を汲んでか、友人たちの誰も、シンが皇太子を降りたことをチェギョンに知らせるものは無かった。
そのため遠く離れたマカオには伝わらず、チェギョンは平和を取り戻した皇室を喜ぶと共に、自分はこのまま忘れ去られてしまうのではないか?と不安を感じていた。
朝鮮王朝時代とは異なり現代の皇室は一夫一婦制だが、不祥事を起こし長く宮廷を離れている妃が廃妃になっても不思議は無い。
シンが自分を見捨てるはずは無いと信じているからこそ、自分のためにシンが周囲の圧力に苦しみ孤立するのではないかと心配だった。
せめて自分の事では心配をかけないようにしよう。
小包で送られてきた高校の卒業証書を持って、チェギョンは博物館の学芸員見習い職員として正式に就職するため、大使館を訪れた。
そして、いずれ宮中に戻る日のためにお妃教育を続けようとするチェ尚宮に、チェギョンは言った。
「いまの私はただのシン・チェギョンよ、だから今の私に出来ることをすることにしたの。」
「しかし妃殿下・・・。」
「伝統文化を学ぶのは楽しいし、これからの仕事に役立つことがあると思う、でもそれはシン・チェギョンとして学ぶの。」
目を伏せて痛々しげに唇を震わせるチェ尚宮に、チェギョンは笑った。
韓国を出てシンの元を離れて以来、はじめて浮かべた、心からの笑みだった。
「ね?お姉さん。夢は宇宙征服よ!まずは世界一の学芸員かな?」
まどろみから覚めると、薄暗い室内にベッドサイドのランプが柔らかな陰影を与えていた。
心地よいシーツの感触に頬擦りをしていると、薄く開いたドアの向こうからチェ尚宮の珍しくうろたえた声がした。
「それでは殿下・・・!」
それに答えるシンの声はよく聞こえない。寝ぼけ眼をこすりながらチェギョンはベッドを降り、リビングに出た。
「どうしたの?」
ソファーの背に腰掛けていたシンはチェギョンを振り返ると穏やかな笑みを浮かべた。
「起きたのか」
直立不動でシンに向かい合っていたチェ尚宮の青ざめた顔に気付いて、チェギョンは不安の的中したことを知った。
やっぱり・・・。
「何かあったの?ねぇ、何があったの?」
すがりつくチェギョンの問いにシンは答えず、穏やか過ぎる笑みをうかべて彼女を抱き寄せた。
「満腹になったら眠ってしまうなんて、赤ん坊と同じだな、お前は。」
「シン君!」
諦めようとしないチェギョンに苦笑し、シンは不安げに見上げる彼女の頭から頬を伝うように撫でると抱きしめた。
「話すよ。おいで・・・。」
(画面デザイン Presented by まるごん )
|