ばれった〜宮-Love in Palace-創作(byちょるす)

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1章

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チェギョン帰国まで

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1

時刻はまもなく21時、そろそろシンから電話が来る頃だ。

チェギョンは寝支度を整え、ベッドで豆腐人形を抱きしめながら携帯電話を見つめていた。


あの日、港で二人を見送ってからまだ2週間も経っていない。

それなのに、まるで大昔の事のように懐かしく感じる。




♪♪♪♪♪♪♪♪♪♪♪♪♪♪♪♪♪♪♪♪♪♪♪♪♪♪♪♪♪♪




チェギョンは本当なら空港までついて行きたかったのだが、国際空港へ行くにはフェリーに乗らなければならない為、大事を取って港での別れとなった。

人目につくからと、送迎の車内から遠ざかるシンの姿を見つめるチェギョンの目に、シンの前では見せなかった涙が溢れていた。

色つきのガラスに隠されて外から車内は見えない筈だが、太皇太后とシンが何度も振り返りながら随員に案内されてゆくのを、溢れる涙をぬぐいもせずにチェギョンは見つめていた。



乗船が終わりフェリーは出航した。

車を出そうとする大使館の職員を制して、チェ尚宮は車窓の向こうに食い入るような眼差しを向けるチェギョンに声をかけようとしたが・・・かける言葉が見つからなかった。



飛行機のほうが船よりマシなのに・・・。

チェギョンはゆるゆると遠ざかるフェリーを見つめながら思った。

こんなにゆっくりジワジワ遠ざかられると、いつまで見送ったらいいか分からないし、思い切りがつかないじゃない!

あと少し、あの防波堤を越えたら車を出して貰おう・・・そう思いながら、結局フェリーの巨体が靄に消えるまでチェギョンは見つめ続けた。




♪♪♪♪♪♪♪♪♪♪♪♪♪♪♪♪♪♪♪♪♪♪♪♪♪♪♪♪♪♪




物思いにふけっていると携帯のディスプレーが点灯した。

着信音がなる前に、チェギョンは受話ボタンを押し耳に当てた。


「シン君?」

息せき切って問いかけると、電話の向こうのシンは小さく笑ったようだった。

『何慌ててる、走ったり跳んだりしてないだろうな?』

結婚当初の、チェギョンをからかうような声音と同じだが、今はそこから愛情が伝わってくるのをチェギョンは不思議に感じた。

シン君はアレね、小学生と同じで好きな子には素直になれなくて、ついからかったり意地悪しちゃうのよね、きっと・・・。

耳元にシンの声を感じた途端、安堵感が胸に広がり、ジメジメだったチェギョンは一瞬で元気なチェギョンに戻っていた。

とはいえ後半は真剣に心配している様子なので、まじめに答えることにした。

「ご心配なく、私はもう母親なのよ?」

そう答えながらも、いつの間にか自分の左手が、無意識のうに下腹部に添えられていたのに少し驚く。

まだ膨らみも無く、胎児の存在を感じられる兆候は無いに等しいのだが、それでもいつの間にやら母というものに、なっているらしい。

『・・・それでお母さん、仕事のほうは片付いたのか?』

チェギョンは言葉に詰まった、シンに「お母さん」と呼びかけられたからではなく、今、彼から仕事の事を聞かれる程気まずい事はないからだ。


実はチェギョンは、まだ仕事先に辞職する事を話していなかった。



妊娠は病気ではない。

事実妊婦でも働いている人は大勢いるし、チェギョンの母の友人は仕事を続けながら3人も子供を産み育てていた。

仕事先に妊娠したことを話せば、力仕事などは免除されるし、書類整理などの体力的には楽な(チェギョンには苦手な)仕事に回してもらえるだろうから、しばらくはそうして仕事を続けたいと、チェギョンは思っていたのだが、シンは早急に辞める様にと言い張るのだ。


職場での彼女の立場は「韓国の元皇太子妃」ではない。

その事実は、館長や、その他にも主だった人々は知っているかもしれないが、口には出さないし、現場で共に働く仲間たちは、万が一にもチェギョンが現在も「皇族」であるなどとは、夢にも思わないだろう。

だからチェギョンは、信用できる彼らに事情と共に妊娠したことを話して、秘密を守って貰えば問題はないと思っていたのだが、この件に関してシンは頑なだった。

チェギョンの懐妊は極秘扱いで、大使館にも限られた人物を除いてその事実は伝えられていない。

もし数人でも漏らせば、何処から情報が漏れるか分からないというのだ。





「・・・今日はまだ、話してない。」

言い辛い気持ちが現れて段々小さくなる声に、電話の向こうでため息が聞こえた。

それを聞いて、チェギョンは無性に反抗的な気分になった。

「何で駄目なの?今日だって椅子に座って出来るツボを磨く仕事だったし!」

『そういう問題じゃない。』



分かっていた。

シンが問題にしているのは、チェギョンに帰国する意思があるのかどうかということだ。

ここマカオにいては伝わってこないが、皇室の全員が、いや今となっては皇族ではないユルやファヨンまでが一丸となって、彼女を穏便に帰国させようと努力していることは、チェギョンにもよく分かっていた。

中でもシンは全知全能を傾けて、チェギョンのために尽くしてくれているだろう事も。

しかしチェギョンは危ぶんでいた。

シンを疑うのではなく、距離を置いたからこそ見えてきたものがあるからだ。



おそらく以前のチェギョンならば、どんな問題も皇帝の意思一つで片がつくと考えていただろう。

特に国の法律を犯したわけでもないチェギョンに対し、処遇を定めるのも許すのも、皇帝の自由になると思っていたに違いない。

だが、皇室というのは皇族のみを指すわけではなく、いわゆる集合体なのだ。

皇族と王族、そしてそれらを支えようとする宮廷に関わる人々と、存続させようとする国民の意思の集合体といえる。

この現代に皇室が存在する矛盾・・・つまり特権的な一族の存在を認める矛盾を抱えながら、それでも伝統を保持する為には絶え間ない努力が必要なのだ。

そして象徴となる皇家の一人一人が、皇族として求められる品格を備える為に努力し、役割を果たす必要があるのだということ。

自分が犯したのは、その人々の長年の努力を踏みにじるという大きな罪なのだと、今のチェギョンには分かっていた。

簡単に許されて良いことではない。

だからこそ、帰国が叶わなかった時のために、此処に自分の居場所を残しておきたかった。

懐妊したことを告げられれば、いよいよ動けなくなっても仕事をやめるのではなく、休職扱いにすることも可能だから。




そんなチェギョンの思いも、シンは見通していたに違いない。

『キム氏の尽力で、王族会でも帰国を認める勢力が増している。準備しておかないと困ることになるぞ?』

優しい声に、チェギョンはそれ以上反抗できなくなってしまった。

「無理しないでね、じゃ、また明日!」

『ああ、お休み。』

目を閉じてシンの「お休み」の言葉を聞く・・・これが毎夜の習慣だった。

困るのはどうしても閉じた目蓋から涙がこぼれてしまうことで、シンに気付かれないように、お休みの挨拶をするのに苦労する。

「・・オヤスミ、シン君。」

2

お弁当箱をリュックの一番下に、タオルと・・・急に寒くなった時のために薄手のカーディガンも、病院で貰った鉄分の錠剤も入れた。

準備は完璧!



「お姉さ〜ん、イッテキマ〜ス♪」



チェギョンは荷物を片手に寝室を出ると、姿の見えないチェ尚宮に声をかけつつ玄関に向かう。

しかし玄関扉をふさぐように立つチェ尚宮に気圧され、立ち止まる。

今の彼女は最近では見かけなくなった宮中の制服を身につけ、腹の前で手を交差して静かな面持ちでチェギョンに相対している。



「・・・どうしたの?お姉さん・・・。」



自転車に乗れないから、早く出ないといけないんだけど・・・。

入宮直後に戻ったかのようなチェ尚宮の様子に、言葉に出来ないぶんは口中でつぶやく。



「妃殿下、お話がございます。」

「分かった、でも急ぐから帰ってから聞くね?」



話の内容は概ね予想がつく。

チェギョンが仕事を辞める気の無い様子に、チェ尚宮が業を煮やしているのは分かっていた。

それでもしばらくの間は、同僚の休暇が入っただの忙しい時期になるからだのと何とかごまかせていたし、いよいよ風向きが悪くなる気配を察すると、いち早く吐き気をもよおしたりして逃れていたのだが、どうやら今度は捕まってしまったらしい。

とりあえず今は逃げよう。

真正面から彼女に見据えられると、つい逃げ腰になっていた入宮前の訓育時代に戻ったかのような錯覚を覚え、チェギョンは上目遣いで懇願した。



「妃殿下のお体は、既にお一人のものではございません。」



逃げられないのね・・・。

彼女の懇願が耳に入らなかったようにお説教を開始するチェ尚宮の様子に、チェギョンは諦めた。

仕事の前に資料室で勉強するつもりで用意していたので、時計を見ると始業時間にはまだ充分余裕がある。

おとなしくしていよう・・・。

作戦変更、今度は神妙にお説教を拝聴する体を取り繕うチェギョンである。




精密検査では異常が無かったとはいえ、妊娠高血圧症の兆候が見られ要観察との医師の診断があったこと。

本来ならば懐妊した直後から大医院の管理下に入り厳重な取り扱いが求められるべきところ、今回は帰国まで警護も無い無防備な状態に甘んじねばならないこと。

ただでさえ初産は予測不可能な変調が心配されるうえ、異国の地できめ細かい対応が難しいこと。

皇室にとって20年振りの孫君の誕生は国全体の重大事である上、チェギョンの懐妊によってシンの皇太弟冊封にも追い風が吹く・・・等々、チェ尚宮の誠心からのお説教は、チェギョンの右耳から一応脳みそを中継して左の耳に抜けていた。

しかしこの言葉は聞き捨てならない。



「これ以上引き伸ばされる御積りなら、僭越ながら私が処理させていただきます。」

「お姉さん!」



彼女の言葉は単なる脅しではなく、その言葉どおり実行する人だと、長い付き合いになるチェギョンには分かるだけに、聞き流すわけにいかない。

シンを別にすれば、チェギョンの気持ちを一番理解してくれているはずのチェ尚宮である。

どうして仕事を辞めたくないのか彼女に話したことは無いが、懐妊発覚から2週間もチェギョンの好きにさせていたことから見ても、チェ尚宮には分かっていると思っていた。



「もし妃殿下に、万一の事あらば、公子殿下はいかが思し召しでしょう?」



この言葉だけは言いたくなかった・・・とチェ尚宮の顔に書いてあるようにチェギョンには思えた。

確かに、その言葉に対抗するすべを持たないチェギョンであった。



「お願い、もう少しだけ待って。」



もはや進退は窮まった。

これ以上は無理なのだと、チェギョンも覚悟を決めた。



「妃殿下・・・。」

「充分気をつけるから、後少しだけ待って・・・。」



うつむくチェギョンとその姿を見つめるチェ尚宮の間で無言の時が過ぎ、ついにチェ尚宮が折れた。



「では本日より、行き帰りのお供をさせていただきます。」

「え?」



その格好で?とチェギョンは思ったが、それを言っては彼女を刺激することになる。



「着替えてまいりますので、少しお待ちくださいませ。」



お供なんて・・・余計目立つと思うけど・・・と、これも口には出せないチェギョンであった。





♪♪♪♪♪♪♪♪♪♪♪♪♪♪♪♪♪♪♪♪♪♪♪♪♪♪♪♪♪♪





「今日はファイルのインデックスを見直して、古いものは新しく直してね。」

「はい。」

今日も力仕事じゃない・・・良かった。

所蔵物のデータは膨大で変動も多い為、定期的な整理が必要だが、優先順位的には低く扱われがちで、見直されないまま古いファイルインデックスで誤魔化しているのが現状だった。

面白い仕事とはいえないが、体力的には負担が少ない。

チェギョンはほっとしたのも束の間、エレナになんと言って辞職を伝えればいいのか、悩んでいた。

お世話になってばかりで、まだ何もお返しできていないのに・・・。

いつも元気なチェギョンが暗い顔をしているのを見て、エレナは小さく苦笑をもらした。


先輩学芸員のエレナはチェギョンより30歳上で4人の子持ち(うち下の二人は双子)。

全員が既に独立して夫にも先立たれたので、気楽な一人暮らしだと快活に笑う気のいい女性だ。

ポルトガルと韓国と中国とその他色々の混血で、「配合は複雑すぎて説明が難しい」のだそう。

長年自分のルーツに関わる各地の博物館で学芸員の仕事を続けてきたベテラン中のベテランで、最近では招かれて大学で教鞭をとってもいる。

中長期の展示計画を立てて館長に提案したり、所蔵品や所蔵情報の整理をしたり、学芸員や見習いの仕事の割り振りを行うのも彼女に任された仕事で、チェギョンがひそかに目標にしていた女性だ。

エレナのほうでもチェギョンを気に入った様子で、仕事の合間に学芸員の仕事についてや日常の様々なことを話す友人でもあった。

皇太子妃時代に学んだ事柄がここでも役に立ち、チェギョンが古い書物に比較的明るいことを見抜いたエレナに即戦力として頼りにもされ、古文書の扱いや内容の電子化などの仕事を教えてもらっていた。



日ごろは展示されない所蔵品の情報を整理していくうちに、無機質なデータがチェギョンの中で意味を持ち始め、引き込まれて黙々と作業を続けた。

チャイムの音にふと気付くと、午前の時間はあっという間に過ぎてしまったようだ。

チェギョンは持ってきたランチボックスを片手に、日当たりの良い中庭のベンチに腰を下ろした。



「いい?」



するとエレナもサンドイッチ片手にやってきた。



「ええ、どうぞ。」



答えながら、辞職の話を切り出すチャンスだと、チェギョンは表情を改めた。



「アンタのいい人はどんな男?」

「え?」



恋人はいるのか?なんて話が出たことはあったけど、こんな風に単刀直入に聞かれた事は無い。

チェギョンは咥えたサンドイッチを飲み込むことも忘れて、エレナを見た。

エレナは大きな笑顔で、まっすぐチェギョンを見ていた。



「妊娠したんでしょ?」


しばらく前から、そうじゃないかなぁ・・・とは思っていた。

ここのところ元気がなさそうだから心配もしてたんだけど、いくら待っても相談してくれないし、そろそろこっちから聞いてみようかと思ってね・・・。

大きな口で気持ちよく食事を片付けながら陽気に続けるエレナの言葉に、チェギョンは目を白黒させた。



「何で分かったんですか?」

「体つきとか、動作とか・・・分かるよ経験者だもん。」



だから、ここんとこアンタが苦手なデスクワークが多かったでしょ?

いまだ驚きから立ち直れないでいるチェギョンに、エレナは事も無げに言う。

思い悩んでいたことをあっさり片付けられて、力の抜けたチェギョンは笑い、その勢いで口を開いた。



「辞めなきゃならないんです。」

「そうだろうね。」



妊娠が理由で辞めるなんて、エレナになんと思われるか不安だったチェギョンに、再び陽気にエレナは続けた。



「宮殿に帰るのかい?」



二度目の驚きに目を見張ったチェギョンに向かって笑ったエレナの顔には、知らないと思ってた?と大きな文字で書いてあった。

言葉も無いチェギョンの手を取って、思いやり深い母の顔でエレナは静かに続けた。

宮殿に帰るにしても、帰らないにしても、もしここに戻ってきたければチェギョンはいつでも帰ってきて良いんだと。



「でも、アンタの旦那は骨がありそうだからね、大丈夫だろ?きっと。」


お日様が出てるのに・・・でも嬉し涙は良いことにしよう・・・チェギョンは溢れる涙を堪えられず、エレナに抱きついて泣いてしまった。



そしてエレナの取り計らいで、しばらくの間、体調が許す限りデスクワークに限定して仕事を続けられるように、シンとチェ尚宮を説得することが出来た。

3

「・・・見苦しい振る舞いは大概になさった方が、御身の為ですよ。」

相手の言葉を待たずに一方的に通話を切断する。

そして、話の内容を録音する為に動かしていたレコーダーを止めた。

爽やかな風のぬけるサンルームで籐製の長いすに横たわり、ファヨンは深くため息をついた。

恵政宮時代の己に立ち戻っていたこの数分の通話が、心身に堪えたのだ。



事件を契機に、恵政宮ファヨンと繋がりの深かった王族会の評議員たちの大部分は、処分を恐れる余り疎遠になるばかりか、進んで彼女に不利な証言をするものまで現れた。

しかし面白いもので、同じ事柄にも受け取る者の見方や人格によっては、正反対のリアクションをとる場合があるのが世の常。

攻撃は最大の防御と思ったか、処分を待つ位なら賭けに出ようと自棄になったのか、かえって攻勢をつよめる一派も出てきた。

その一派に、今まで王族会では傍流になりきれず、さりとて資金や才覚の不足で主要な役職には就けないでいた数人が呼応する形で、ファヨンに対して協力を迫ってきたのだ。



主にファヨンではなくユルを助ける為だろうが、事件の収拾のための筋書きを書き実行したのは、当時皇太子であったシンと姉のヘミョン。

それを知らない王族たちの中には、ファヨン自身の策謀で皇室を欺き、危機を乗り切ったものと考える向きもあるらしい。

たとえ皇籍からは離脱しても条件さえそろえば復帰が可能なだけでなく、ファヨンの親族は王族会の中でも指折りの資産家ぞろい。

今でも彼女が会の中で大きな力を持っていることは事実だった。

その力を当てにして、彼女に擦り寄ってくるものは少なくない。

曰く、チェギョンを廃妃させて自分の娘をシンに押し付けた後、女帝ヘミョンに難癖をつけて退位に持ち込み、若い皇帝シンを意のままに操ろう・・・と、ファヨンにしてみれば噴飯ものの世迷言を、大の男が本気で持ちかけてくるのだ。




それもこれも私の蒔いた種だ・・・。

ファヨンは自嘲した。

ユルが正当な地位に戻り皇帝に即位した暁には・・・と、かつて彼女が持ちかけた夢物語は、彼らの中に燻っていた不満を苗床に大きな欲望の花へと成長してしまった。

そしてそれは、彼女自身の手で摘まねばならない花だと、胸を締め付ける後悔の中、彼女は決意していた。





♪♪♪♪♪♪♪♪♪♪♪♪♪♪♪♪♪♪♪♪♪♪♪♪♪♪♪





ファヨンの両親は駆け落ちの末に結ばれたらしい。

らしいと言うのは、彼女が物心つく時に既に二人はこの世に無く、母方の祖父の家で乳母や召使にかしずかれて育った為で、両親の顔は写真の中でしか知らなかった。

祖父母や親族たちは、親の言いつけに背き、何処の馬の骨とも知らぬ男について行って、勝手に子供を産んで、挙句野垂れ死んだファヨンの母や、身分違いをわきまえず良家の子女をたぶらかした父親を悪し様に言った。

幼い子供に直接悪口を浴びせるものは無かったが、それも父には全く似ず、美しかった母に瓜二つと言われたファヨンを、祖父母が可愛がってくれたからに過ぎない。

迷惑をかけた娘の子を引き取って、愛情深く育てるなんて・・・いずれ裏切られなければ良いが・・・と、意地の悪い陰口は少女だったファヨンの心に、影を落とした。

彼女はいつも祖父母の、ひいては周囲の人々の期待に応えなければならない重圧を感じていた。




やがて成人し、女優として成功を収めても、彼女は依然として自分の居場所が何処にも無いように感じていた。

ヒョンに出会って彼を愛し、そして愛され、やっと息つく場所を手に入れたと思ったのも束の間、彼女に皇室からの縁談が持ち込まれた。

皇太子妃に・・・との申込みに、ファヨンの祖父母は有頂天になった。

その祖父母に対し、嫌だとはいえなかった。



いや、違う。

私自身が求めたのだ、愛情よりも権威を。

誰の顔色もうかがわずに済む生活を!何者の意にも従う必要の無い地位を!

両親のようにはなりたくなかった。

しかしその為に人生から愛情を締め出した。

私はずっと後悔していた・・・。


夫が亡くなり、自分が捨てたヒョンが皇帝となったからではなく、愛を捨てたことを。

しかし後悔している自分を認めたくなかった。

自分の選択に間違いは無いと思いたかった・・・自分自身にそれを証明する為に、ユルを皇帝にせねばならなかったのだ。

失ったものにふさわしい対価を得ねばならなかった。




私は何処で道を誤ったのだろう?

爽やかな午前の日差しに輝く緑を眺めながら、ファヨンは自問していた。

ヒョンを捨てた時?しかし、皇太子妃に成らなければユルはこの世にいなかった。

それを思うと、ヒョンとの別れを後悔する事は、ファヨンには出来なかった。

失った過去にとらわれることなく、今ある幸せを大切に、未来に向かって進むことが、夫を亡くしたあの時の私に出来ていたら・・・。





外出を告げる為に、しばらく前からサンルームに下りてきていたユルは、思いに沈む母を驚かせないようにそっと声をかけた。


「かあさん、出かけてくるよ。」


ゆっくりとファヨンの傍らに座り込み、その手に自分の手を重ねて、ユルは母の顔を覗き込んだ。

私がまた無茶をしないか、自分を置いて逝かないか、心配しているのね・・・。

ファヨンは息子をこんな風に苦しめてしまった自分を、改めて苦々しく思ったが、安心させてやりたいと願う母としての思いがその顔に表れた。


「行ってらっしゃい、彼を見つけ出すなんて!シンも驚くでしょう。さすが私のユルね。」

「母さん、無理はいけないよ?」


最近では少しずつ以前のような気力と体力をとり戻しつつある母に安堵しながらも、チェギョンの帰国を後押しする為に、ファヨンが動いているらしいことをユルも察知し、心配していた。

以前は時折強い自己嫌悪の発作に襲われ、呼吸が不安定になるなどの、うつ症状を呈し、精神安定剤を服用していた母である。

外部の人間との接触で症状が悪化するのではないかと、危惧していた。


「ユル?心配要らないわ。自分のしたことの後始末を一つずつ終わらせて、そして貴方たちが幸せになってくれれば、私は許されたと思えるかもしれないの。」


そう語る母の目をしばし見つめ、ユルは笑顔で立ち上がった。

玄関の扉が閉まる音を聞くまで、静かに長椅子に横たわったまま息子の気配を追っていたファヨンだが、おもむろに立ち上がると再び受話器を手にした。


「ソ・ファヨンでございます。伯父上様にお取次ぎください。」







♪♪♪♪♪♪♪♪♪♪♪♪♪♪♪♪♪♪♪♪♪♪♪♪♪♪♪♪♪






「ユル!」


講義の後、大学のカフェでユルと落ち合う約束をしていたシンは、通路にせり出した一番外側のテーブルに腰掛ける従兄弟に向かって手を振った。

わざと普段より身近に護衛を待たせて注文を済ませると、周囲を警戒して小声と代名詞での会話となる。


「彼女、まだ仕事に行ってるんだね。」


頑固な彼女らしいと、小さく笑みを漏らす従兄弟をにらむと、シンも苦笑して応じた。


「ああ、先輩の同僚には正体も懐妊も見抜かれて、それをいいことに協力して貰ってる。」


諦めたよ・・・と笑う様は、どう見ても恋女房のお座布団にされているお惚気亭主の顔だった。

寂しいような嬉しいような奇妙な感慨は、小さな針となってユルの胸をちくりと刺したが、それを振り切って持参したファイルを取り出し、テーブルに置いた。


「あの件、手配済んだよ。」


チェギョンにボディーガードをつける事にしたのはしばらく前のことだったが、皇室として護衛を派遣する事は、かえってチェギョンの懐妊を外部に漏らす恐れがあり、容易には出来ない。

出来ることなら依頼者の身元をかくして、韓国皇室と関わり無いラインで、ボディーガードが手配出来ないかと考え、シンはユルの力を借りることにした。


「そうか、それで?」


表情を一瞬で引き締めて、シンはファイルを受け取り中身を確認する。

中には英文の履歴書と職務経歴書が数人分、報告書が1通用意されていた。

パラパラとめくるシンの傍らで、ユルは声を落として説明する。


「イギリスの友人経由でね、外人部隊出身を4名ほど・・・。」


何度か小さく頷いて満足を示したシンは、近づくウエイトレスの姿に、ファイルをブリーフケースにしまった。

注文の品が運ばれウエイトレスがテーブルを離れる。

シンに気付いたギャラリーを護衛の数人で遠ざけると、二人の周囲は見えない壁に閉ざされた空間のように、雑踏から切り離された。


「まとめ役には?」


長い足をゆったりと組んで、優雅に紅茶の芳香を楽しむシンの様子からは、久しぶりに会う従兄弟と楽しむティータイム以上の緊張感は感じられない。

しかし話の続きを促す声は、意志の強さを意識して隠そうとする低音に押さえられていた。

そんなシンにユルは少し挑戦的な視線を向けて答えた。


「以前僕についていた、スンハにしようと思う。」

「なに?」


スンハといえばファヨンの下でシンを陥れようとして暗躍した、実行犯のリーダーではないか。

事件のドサクサの最中にいち早く姿を消した為、皇室でも身柄を抑えることが出来なかった。

寛いだシンの表情が硬く引き締まり、カップに向けられていた視線がユルの瞳を捉えた。


「優秀な男だし、国際的な訓練を受けている。間違いは無いよ。」


正面から視線を受け止めつつも、どこか捉えどころの無いユルの表情に警戒心がもたげるものの、シンは次の瞬間にはそれを振り切った。

少なくとも、ユルがチェギョンを害することはありえない。


「・・・そうか、そうだな。いつからになる?」


シンの言葉に無邪気な笑顔に戻ったユルは立ち上がり、足元に置いてあったカンバスや画材を取り上げた。


「じゃあ、早速今日から。」


ユルは不審気に眉を寄せる従兄弟に背を向けると、「既に現地入りは完了しているんだ。」と得意げに手を振り、立ち去った。

4

ソウル近郊の古くからある閑静な住宅街・・・という呼び名は現状を完全には描写しないかもしれない。

ここは一般的には「御屋敷町」と言われる地帯。

その中でも北西のなだらかな丘を登りきった一等地に、王族会最長老のキム氏の屋敷はある。

伝統的な建築様式の中にも最新式の設備が導入されており、内部は快適そのもの。

細部にわたって美しく整えられた内装は、宮殿の装飾を手がける職人の手によるものだ。





屋敷の庭園には新月から五日目の若い月が、けだるい夏の夕刻に冴え冴えと鋭い光を投げかけており、その月をめでるには格好の開けた窓のなかでは、壮年の男たちが一人の老人の前で力なく首をたれていた。

彼らの頭を一渡り眺めてから、はるかな月に目を向けると、老人はゆっくりと口を開く。



「わしが何も知らぬと思うているようだな?」



キム氏の静かな声に、呼び出された数人の評議員は体を小さくした。


二週間ほど前に電話で面談を乞うて来たファヨンに対し、キム氏は数瞬の逡巡の後その願いを聞き入れ、電話の翌日に二人の会合は実現した。

ファヨンから受け取った数本の録音テープと3冊にも渡る分厚いファイルに収められた、一部の王族による皇室に対する反逆の証拠は、キム氏とその腹心の手で充分に精査され、今日の最長老による御前召喚のはこびとなった。

結果的に呼びつけられたのは、キム氏の呼びかけに反して、いつまでもチェギョンの帰国に異を唱える強硬派の王族たちでもあり、そのうち年頃の娘を持つ親が3人、残りはその兄弟たちである。




「先の恵政宮の騒動の時、問題にしようと思えば出来た・・・。」



独り言のような老人の言葉に顔を見合わせる男たちは、さらに椅子の上で体を縮こまらせた。

彼らの多くが元皇太后ファヨンと通じ、ユルの皇位継承に、ひいては皇太子シンを陥れる策謀に手を貸していた。

そして目論見が成った暁にはユルと、己の娘との縁組を狙っていたものたちなのだ。



「上皇陛下の御温情で、不問に付して頂いた事をなんと思ったか・・・。」



老人が言葉を切ると、針の落ちる音さえきこえるのではないかと思われる沈黙の中、居並ぶ男たちは呼吸の仕方も忘れたらしく息を詰まらせている。



「そなたたちが加担した悪事の証はここにある。よもや露見していないとでも思うておったか?」



終始穏やかに、しかし睨みすえる眼差しは、この真夏に悪寒をもよおす迫力で語り掛ける小柄なキム氏の前で、大の男が肩を落とす。



「このことはわしの胸一つにおさめておこう、今後は二度と皇家の方々に失礼の無いように。」



優しいほどの老人の口調だが、退出を命じられた一同は魂を抜かれた屍さながら。

そんな折にシン公子の来訪を告げられたものだからたまらない。

嬉しげに招き入れる老人に慌しく礼をすると、一目散に逃げ出して行った。






ここの所の多忙にもかかわらず、シンは少しでも時間があくと足繁くキム氏やそのほかの長老諸兄を訪ね、皇太弟冊封を前に改めて皇室運営の教えを乞い、その一方でチェギョンの帰国に助力を求めていた。

年老いた彼らには、若いシンとの会話がことのほか楽しいらしく、彼らの若い頃の出来事や聖祖陛下のお言葉などを交えて、シンに有益な助言を与えてくれ、今後の協力を約してもくれた。

シンに取っても興味深い祖父や家族の古い出来事の話題に、単なる顔つなぎや根回しの意図を超えた交友が結ばれつつあった。



「今宵はどんなご用件かな?」



上機嫌をあらわに手招きまでして部屋に迎え入れたキム氏に丁重な挨拶をして、勧められた席にシンが腰を下ろすや否や、キム氏のせっかちな問いに驚かされる。

礼を失してはならないと、普段なら先ず当たり障りの無い話題を持ち出すところだが、この老人にはそれがわずらわしいのだろうとシンは察した。

ならばこちらも単刀直入にと、シンは切り出した。


「チェギョンが懐妊いたしました。」

「それはめでたい。」



キム氏にチェギョンの懐妊を明かすについては、皇室内部でも散々話し合いがもたれた。

一般的に胎児が安定期に入ると言われる20週までは、残すところ一週間余り。

流石に少し焦りの見え始めたシンに、キム氏に全てを明かしてチェギョン帰国の時期を具体化するようヒョン上皇が勧めたのだ。

吉と出るか凶と出るか危ぶんでいたシンにとって、驚く気配も見せず、当然の事のように受け流された事は拍子抜けだった。



「ついては・・・。」


何とか体勢を立て直し後を続けようとするシンの言葉を、老人はやんわりと遮る。


「早急に妃殿下のご帰国を願わしゅう存ずる。皇帝陛下にはかようにお伝え下され。」


よく頑張った幼子をねぎらい、御褒美を与えるかのような老人の恵比寿顔に小さな反感がもたげるも、そんな場合ではない。

とうとう、チェギョンを迎えに行けるのだ・・・。

胸中をうねる想いの渦にのまれそうになり、シンは目を閉じ、涙を堪えた。



「有難うございます!」


深く頭を下げた後、その端正な顔一面に笑みをたたえてキム氏を見る曾孫に、老人は目を細めた。


「何のかのと時間もかかろうが、のう公子、身重のお体には度重なる館移りは堪えようの?」

「はぁ・・・。」


そこまで気が回っていなかったシンは、チェギョンの体調を思って表情を曇らせた。

素直になったものだ・・・笑った老人の目は深く刻まれた皺に隠れてしまった。



「先ずはご自身が東宮殿にお戻りあれ、それがよい。」

「は・・・。」


何処までも従順に、シンはキム氏の言葉に首肯した。





♪♪♪♪♪♪♪♪♪♪♪♪♪♪♪♪♪♪♪♪♪♪♪♪♪





さらに様々な事柄についてキム氏やその腹心たちから具体的な助言を受けた後、キム氏の館を辞したシンは、宮殿への帰途の車中でチェギョンに電話をかけた。

呼び出し音が3回なった後、チェギョンの声で応答がある。


『シン君?どうしたの?こんな時間に・・・。』


驚いて目がまん丸になったチェギョンの顔が目に浮かぶ。

温かな思いに胸が詰まって声が出ない。


「チェギョン・・・。」

『・・・なに?』


不審なシンの様子に、少し怯えたようなチェギョンの声が、目を閉じて彼女の気配に全霊を傾けるシンの耳を愛撫した。


「ああチェギョン・・・やっと迎えにいける・・・!」

5

チェギョンはいつもならばチェ尚宮と二人きりの夕食に、今夜はエレナを招いての賑やかなディナーを囲んでいた。

食事の塩分制限や、逆にたんぱく質や鉄分、ビタミン、繊維質など今のチェギョンが摂らなければならない栄養素を熟慮のうえ、美しく整えられたチェ尚宮苦心のご馳走がテーブルに並んでいた。

ここの所つわりが酷く、安定期が近づくにつれ落ち着くとの医師の言葉とは正反対に、いつまでも胸のむかつきが取れない。

食が細くなる一方のチェギョンを心配して、チェ尚宮も献立に様々な工夫を施し、宮中にも連絡を取って大医院の指示を仰いできたが、なかなか効果が現れないでいた。

チェ尚宮の心遣いに済まないと思いながらも、以前の自分なら二口で平らげた筈の料理が、いつまでも消えてゆかない。

毎度の食事が苦痛に思えてきて、チェギョンは「必ず一日三食摂る」と決めたことを後悔した。

そんな折、日ごろお世話になっている感謝を示す為にとエレナを夕食に招くことを勧めたのは、チェ尚宮だった。

彼女にしてみれば、お客様を招いて気分を変える事で、チェギョンの憂鬱も取れるのではないかと、祈るような思いだった。

楽しいひとときを過ごすチェギョンの携帯電話が着信を知らせた。

誰だろう?お客さんだし、後でかけなおそうかな・・・と何気なくディスプレーを見やるとそこにはシンの名前が表示されていた。

慌てて受話ボタンを押し、エレナに目礼して席を離れる。




「シン君?どうしたの?こんな時間に・・・。」

『チェギョン・・・。』



いつに無い様子のシンに不審を覚えるものの、悪いことがあったわけではないようで、優しく彼女の名を囁く声は興奮にかすれていた。

不意に二人で過ごした夜の記憶がチェギョンの全身によみがえり、うろたえたチェギョンは、不安げにこちらの様子を覗うチェ尚宮やエレナの視線を、ついたての影に逃れて断ち切ると、動揺をシンに悟られぬよう小声で問うた。



「・・・なに?」

『ああチェギョン・・・やっと迎えにいける・・・!』


時ならぬ甘い疼きに戸惑いつつも目を閉じて、うっとりとシンの声に聞き入っていたチェギョンだが、「迎えにいける」という言葉に目を見開いた。


「え・・・?」

『キム氏との話がついた。明日にでも陛下に対し王族会から、正式にお前の帰国請願が出るだろう。』





夢ではないか。

チェギョンは左手でついたてに掴まった。

足元がフワフワとして体が浮くようだ。

耳元のシンの声さえ妙に反響して、不確かにきこえる。

何か形のあるものに掴まって、これが現実だと言う証が欲しかった。

チェギョンの様子に異変を感じたチェ尚宮が、足早に近づいてくる音さえ夢の中のように遠く感じる。

次の瞬間、世界がぐらりと揺れた。




「妃殿下!」
「チェギョン?」



ついたての倒れるガタンという大きな音と、チェ尚宮とエレナの叫び声が響き、チェギョンは自分が卒倒しかけた事に気付いた。

チェ尚宮に支えられ、椅子に腰掛ける。

取り落とした携帯電話を、エレナが拾い上げた。




『どうした?チェギョン?チェ尚宮!何があった!?』



手にとっては見たものの、受話器からきこえるシンのうろたえた声にエレナは苦笑し、チェギョンに向かって視線で合図すると少し離して耳にあて、応答した。



「チェギョンは大丈夫、興奮して眩暈がしただけよ。妊婦は血圧が不安定になりやすいからね。」



ゆったりとチェギョンに歩み寄りながら、エレナはシンに事態を説明する。

電話の向こうの物音に驚き、狭い車中で大声を上げたため、壁で隔たれた運転席にまでシンの声が伝わったらしい。

マイクで無事を問う運転手の声に苛立ちながら、シンはその説明を聞く。

安心した後、声の主が聞き覚えの無い年配の女性だと気付き、シンは言葉を改めた。



『ああ・・・、失礼ですが貴女はもしや?』

「チェギョンの友人の、エレナ・マリア・マルケスと言います。ちょっと待ってね?」



エレナは椅子に腰掛けるチェギョンの手をとり、落ち着けるように背中を撫でると携帯電話を差し出す。

いまだ眩暈の収まらないチェギョンの代わりに、チェ尚宮がそれを受け取った。



「恐縮でございますが殿下、妃殿下はまだお話になれないご様子でございます。」



チェギョンの様子を案じながらも直立不動の姿勢で、やや頭を垂れ、丁重に電話の相手に語り掛けるチェ尚宮の様子に、エレナは内心で笑ってしまった。

電話じゃ向こうには見えないっていうのにね・・・。

付き合いは浅いが、最近職場への行きかえりに同道した際、チェギョンを通じて知り合ったこの女性の生真面目さに、時に無性に笑いがこみ上げてくるのだ。



『チェ尚宮、チェギョンの帰国が決まりました。』

「!・・・はい。」



シンの言葉に、チェ尚宮は弾かれたように顔を上げ、目に涙を浮かべてチェギョンを見つめた。

同じく目を潤ませているチェギョンと、言葉にならない思いを共有し、チェ尚宮は胸を詰まらせた。



『近々宮殿からも連絡があると思うが、急ぎ準備を整えて下さい。チェギョンの様子は?』

「かしこまりました。お待ちくださいませ。」



大柄なエレナに寄り添われ、温かな手のひらでゆっくりと背中を撫でられて、少し落ち着いた様子のチェギョンに電話を渡そうと、チェ尚宮は震える足で歩み寄るが、シンにとめられる。



『無理をさせる事は無い、また後でいつもの時間に掛けます。』

「お伝えいたします。」



わずかに震えるチェ尚宮の声に、シンは小さく笑う。

シンの母とのかかわりが深かったせいか、他の女官に比べて幼い頃から知っているチェ尚宮は、優秀であることは勿論、ほぼどんな時でも仮面のような沈着さを崩さない女性だった。

以前のシンには、彼女の姿が息苦しい宮廷の象徴のようにも見えていた。

そんな彼女もチェギョンに出会った事で、随分変わった。

順風だった筈のキャリアを投げ出して、チェギョンについてマカオまで・・・。

そんな感慨に微笑を浮かべると、ふと思いついてチェ尚宮を促す。



『マルケスさんに代わって下さい。』

「はい・・・。」



シンの意図を計りかね戸惑いつつも、チェ尚宮はエレナに向かって携帯電話を差し出した。

エレナは目を見開いてチェ尚宮、そしてチェギョンの順に顔を見交わすと電話に出た。



「もしもし?」

『初めまして、イ・シンと申します。妻がお世話になりました。帰国が決まりましたので、ご挨拶を。』



電話の向こうからは若い男性の力強い声が、先程とは打って変わって落ち着いた調子で語りかけてきた。

これがチェギョンの夫、韓国の皇位継承者ね・・・。

エレナは自分にとっても関わりの深い国の君主となるシンの頼もしい声を聞き、年若い友人の幸せのために喜んだ。



「そうかい、よかった。私は寂しいけど、元気でいればいつでも会えるしね。」



シンは、自分の身分を知ってなお、こうまで改まらない話し方をする人も珍しいと興味をひかれた。

そしてそれが不快でないばかりか温かく心地よい印象を受けるのは、彼女の人柄だろうか・・・と、実際に会ってみたくなった。



『はい、是非わが国にもおいでください。』


社交辞令にとどまらない熱心さでシンは付け加えた。



「そうさせて貰うよ。切って良いのかい?」


エレナは電話の向こうシンと、チェギョンとチェ尚宮の一同に確かめてから通話を切った。

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