ばれった〜宮-Love in Palace-創作(byちょるす)

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2章

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1

今朝も、いつものように目覚まし時計の鳴る前に目覚めたシンは、静かにベッドを抜け出すとシャワー室に向かった。

肌が赤くなるほど熱いシャワーのあとに、徐々に温度を下げ、最終的には冷水を頭から浴びる。

シャワー室を出るとバスローブを羽織り、ミネラルウォーターを口に含み、猫のように丸くなって眠っているチェギョンの前髪を、そうっと払った。

安らかな寝顔に頬を緩ませ、柔らかな肌を指でたどる。

おはよう・・・心の中でつぶやくと、チェギョンを起こさないように気をつけて寝室を出る。



書斎でパソコンを立ち上げ、インターネットの主要ニュースに目を通して海外市場の動向を確認するほか、前日のうちに側近達が提出して来た報告書を昌徳宮から持ち帰り、朝のうちに目を通すのが最近の日課だ。

淡々と日課をこなしていると、だいたい七時頃に当番の女官がお茶を運んでくる。

その頃にはあらかた書類仕事は済んでいるので、シンはゆったりと芳醇な香を楽しみ、私室に戻って着替えを済ませ、各方面へ朝の挨拶に赴く。




先ず、太皇太后の起居する南殿へやって来たシンを満面の笑みで迎えた祖母は、丁重な毎朝の挨拶を述べるシンを急かして常套句を途切れさせる。


「皇太弟、今朝の皇太弟妃の様子はどうです?」


ここの所、毎朝同じ祖母の問いに、シンはその都度笑顔で答える。


「御祖母様、僕がこちらに参る際には、健やかに眠っておりました。」


それは良かったと嬉しげな祖母に再度丁重な挨拶をして、御前を下がる。

次に向かった先は正殿の西側に位置する殿舎で、以前は遠来の国賓の接待などに用いられていたのだが、現在はヒョン上皇とミン皇太后の生活の場として使用されているため、誰からともなく上皇殿と呼ばれている。

両親に朝の挨拶を述べるシンに、太皇太后の言葉と一字一句違わぬ問いが向けられ、シンが先ほどよりも幾分芝居がかった調子で、それでも同じように丁重に答えるのも最近の日課であった。




最後に正宮正殿を訪れて、姉ヘミョン女皇帝に朝の挨拶を述べ視膳を行うシンの背中に、三度目の問いが向けられる。


「今朝のチェギョンはいかが?」


ここまで来るとシンも、不謹慎な言葉が漏れそうになるのを一旦飲み込み、姉皇帝に向き直って慇懃に返答しようと顔を上げた。

すると入室の名乗りを上げようとした尚宮の機先を制して、絶妙のタイミングでチェギョンが登場し、女皇帝に朝の挨拶を述べると視膳を手伝うためにシンの隣に並ぶ。


「今日は間に合いました!」


シンは、満足げな笑顔を浮かべるチェギョンを見てから、おどけた顔で姉に目配せし視膳に戻った。


「起こしてって言ってるのに!」


そんなシンにむかって小声で苦情を言うチェギョンに、ヘミョンから声がかかる。


「皇太弟妃?チェギョン?こちらにいらっしゃい?」


自分の座る長椅子の隣をポンポンと叩いてチェギョンを招く姉皇帝に、チェギョンも嬉しげに笑顔を浮かべて頷き、小走りで姉の隣に向かうと、ちょこんと腰掛けた。

そんなチェギョンの足元を気にする尚宮や女官たちは、姉皇帝付きの者まで、彼女が段差に躓かないように、絨毯に転ばないようにと、案じ顔を向けあとをついて回る。




皇太弟妃シン・チェギョンが帰国して、はや2週間が過ぎようとしていた。

マカオでの事件は、最近各国で頻発しているテロ事件の一つとして公式に報道され、潔く保安上の責任を認めて陳謝したマカオ政府に対し、韓国国民も好感を持ったようだ。

韓国政府としても、また皇室としても、事件解決に文字通り全力を挙げ、真摯な対応を尽くしてくれたマカオ政府に、公式に感謝の意が伝えられ、両国はこれまで以上の親密な関係に至ることとなった。

一方、帰国に伴う事件の衝撃からか、チェギョンは翌日から体調を崩し何日か発熱が続いた。

その為しばらくは大医院の厳重な管理の下、医女に付き添われて東宮殿を出ずに過ごしていたのだが、ここ2・3日のうちに元通りの元気で明るい笑顔を見せるようになって、シンを安心させていた。

ひそかに計画していた内輪だけの帰国パーティーは、体調を崩したチェギョンを疲れさせないようにと延期にしていたが、ようやく昨日、シンはガンヒョンらの友人たちを東宮殿に招き、チェギョンを懐かしい人々と再会させる事が叶った。

勿論チェギョンと彼女の家族は、帰国の当日に涙の再会を果たしていた。

その日、宮殿に招かれた府院君一家の待つ女皇帝の居間に、シンは連れ帰ったチェギョンを真っ先に連れて行き、抱き合う一家の様子を皇家一同と共に見守った。

そして直後に女皇帝から、宮殿の全人員に向けて皇太弟妃シン・チェギョン懐妊の布令が出され、その瞬間チェギョンはこの宮殿で女皇帝をもしのぐ最重要人物となった。

全ての侍従、全ての尚宮から女官に至る全員がチェギョンの様子に目を光らせ、決して彼女が一人になる事が無いよう、危険や事故の無いよう気を配っている。




「チェギョン?そろそろ国民に向けて、懐妊の発表をしようと思うのだけれど?」


優しく義妹の手を取って語り掛けるヘミョンは、マカオにたつ前と比べてほっそりとしてしまった義妹の手や頬を、いつくしむように撫でた。

視膳を終え椅子に腰掛けたシンは、尚宮たちによって姉皇帝に供される膳を見やりながら、義姉の言葉に不安げに頷くチェギョンに愛しむ眼差しを向けた。

懐妊発表に際しては皇室主催の記者会見が行われるのが慣例で、大医院の医務官が経過の順調な事を読み上げるだけなのだが、一応その場にシンとチェギョンも立ち会うことになっている。

質疑応答には主に医務官が返答し、その他に事前に届けられた一般的な質問事項に沿って、シンやチェギョンにも発言の機会がある。

つまりチェギョンにとっては、帰国して初めて公式に国民の前に出て、話をすることになるのだ。

シンは自分に不安げな眼差しを向けるチェギョンの緊張をほぐそうと、優しい顔で頷いた。

正殿の尚宮や女官たちは、そんなシンを見て驚きに目を見開く。

彼女たちは東宮殿や昌徳宮付きの者たちに比べて、最近のシンのそんな柔らかな顔に慣れていなかった。

尚宮たちが驚く様子に、悪戯を思いついた子供のような会心の笑みを浮かべたヘミョンは、次の瞬間大げさな困り顔でチェギョンを冷やかした。


「あら、そんなにシンの隣が良い?わたしの隣はイヤだったのね?」


姉の言葉にたちまち赤面し、ヘドモド言い訳をするチェギョンが可愛そうになったシンは、優雅に立ち上がって歩み寄り、彼女を腕の中に閉じ込めた。


「寂しかったのか?僕はここにいるだろ?」


明るい朝の日差しが降り注ぎ、姉皇帝や尚宮たちが居並ぶ中、耳元で甘い言葉を囁かれ、チェギョンはシンの腕の中で小さくなって固まってしまった。

鳩が豆鉄砲を食らったような尚宮たちの顔と、チェギョンの様子があまりに可笑しく、ついにこらえきれず噴出したヘミョンに、姉弟に揃って遊ばれたと気付いたチェギョンは暴れるものの、シンの腕からは逃げ出せない。


「いつだって僕は側にいる、何も心配いらないぞ。」


一転まじめな声で囁く夫の顔を見上げ、チェギョンは嬉しげに微笑んだ。


「そうよ、皇室広報が主催する記者会見ですもの、あなたは安心して座っていれば良いのよ。」

「はい、分かりました陛下。」


ヘミョンからも優しい言葉を投げかけられて、チェギョンは今度はしっかり頷いた。

今日の午後三時までにマスコミ各社に対して文書で正式発表を行い、記者会見は午後四時から・・・とその場で話は決まり、姉の前を下がったシンはチェギョンの手を取って東宮殿に戻った。




東宮殿に戻ると、今度は自分たちの朝食だ。

大学の講義や公務の時間に追われているシンが、既に用意されている席について先に食事を始めていると、衣服を改めたチェギョンが食卓に着く。

すると彼女の登場にあわせて、チェギョンの前には妊婦用の特別メニューが、恭しく運ばれてくる。

宮廷料理人たちが大医院の医務官と毎日協議の上、現在のチェギョンに必要な栄養素を含む食材を用い、彼女が食べやすいよう工夫を凝らした品々がずらりと並ぶ特別メニューで、栄養だけでなく味だけでもなく見た目にも美しい。

時折、皇太弟妃の実父である府院君チェウンから差し入れられる家庭料理をチェギョンが喜んで食べることから、宮廷料理人たちはチェウンに対抗意識がわくのか、日ごとに力の入った美しい膳が並ぶのを、シンはひそかに楽しみにしていた。


最近では以前に比べ、つわり症状も収まってはきているが、いまだにチェギョンの食は細い。

今ではマカオに行く前の健啖振りが信じられないほどで、満載の食卓はいつも大半が残ってしまう。

精魂込められた料理を残す事にチェギョンも心を痛め、彼女なりに頑張って食べるのだが、料理人たちが日ごとにエスカレートして品数を増やすので追いつかない。

そろそろ一言注意したほうがいいかな・・・と、シンはチェギョンの様子を見て心に決めた。

これでは食事自体がストレスになり、料理人の努力も意味が無くなる。

チェギョンの食べられる範囲で用意させようと、シンはチェ尚宮に目配せした。

シンの意図に気付いたチェ尚宮は、満腹に無理して詰め込もうとするチェギョンに歩み寄り、食後のお茶を差し出して言った。


「今日はよく召し上がられましたね、皇太弟妃殿下。」


チェ尚宮の言葉に、チェギョンもやや力の無い笑顔を返す。


「毎日がバイキングだな、これじゃ食べすぎだ。」


シンの笑顔に少し安心したのか、チェギョンも頷いて茶碗を取り上げる。


「残っちゃうと勿体無くて・・・。」

「心配要らない、これは皆、尚宮たちの食事になるんだからな。」


シンの言葉にチェギョンは「ホント?」と傍らのチェ尚宮を見る。


「はい、古来より皇家の方々のお食事は、女官に下げ渡される決まりになっております。」

「だから残したほうが良いんだよ、最近じゃ珍しいものが出て喜んでいるだろう。」


シンが水を向けると、チェ尚宮も調子を合わせて柔らかな笑顔をチェギョンに向けた。


「はい、皇太弟妃殿下の為に料理人が張り切るので、毎日素晴らしいお料理を頂き、みな喜んでおります。」


シンとチェ尚宮の二人の言葉に励まされ、チェギョンはようやく彼女本来の嬉しげな笑顔を浮かべた。

チェギョンの笑顔に安心したシンは、時間を確かめて席を立った。


「じゃ、行って来る。スンハが着くのは何時だった?」

「昼頃には到着との事でございました。」


シンはチェ尚宮の言葉に頷くと、見送りに出ようと席を立ったチェギョンを抱き寄せ、頬に口付けた。


「皇立病院に移送される事になっているから、見舞いに行こうな?講義が済んだら迎えに寄る。」

「ウン・・・行ってらっしゃい。」



東宮殿の前でシンを見送るチェギョンの胸には、わずかに寂しい思いがよぎっていた。

2

皇立大学は皇族と王族の子弟が学ぶ為に戦後創立された大学で、当時の運営は皇室と王族の私財でまかなわれていたが、現在では一般の大学同様に運営されている。

もともとは当初の目的である皇族と王族の子弟のほかに、一般の優秀な学生たちにも無料で門戸を開いていたが、時代の流れにあわせて学費無料の特待生枠は、近年狭められる傾向にある。

数ある大学の中でも群を抜いて競争率の高い、最高学府の中の最高学府の名をほしいままにしており、学歴偏重傾向の続く韓国社会では、学生やその保護者たちにとって憧れの大学といえる。

皇立大学創立に際しては創立者である聖祖陛下の強い信念の下、古く朝鮮王朝以来の学堂の精神が教育理念の根幹になっている。

学堂とは純粋に試験の結果を元に、実力のあるものを登用する事を定めた科挙制度の為の教育機関で、身分の上下無く、学ぶ意欲のあるものを広く受け入れ、人文・科学・政治・芸術などの幅広い分野の教育が行われていた。

そしてその流れを汲む現代の皇立大学でも、同様に幅広い分野での質の高い研究が、現在でも続けられている。



さて、一般の学生には狭き門であるこの皇立大学には、しかし当時皇太子であったシンは勿論、以前は義誠大君の称号を持ち皇籍を脱した後に王族となったユルも、今では皇家の一員であるチェギョン自身も、無試験で入学できる。

シンは現在周囲の予想を裏切って、経営や行政などの社会系統ではなく文学部の美学科に在籍しており、ユルは芸術学部の美術学科で油絵を専攻している。

チェギョン自身も帰国の後に希望の学科を聞かれ、ユルと同じ美術学科に在籍はしているのだが、内実は出産の為、公式には体調不良の為に、休学扱いとなっていた。

図らずも憧れの大学に在籍のかなったチェギョンだが、実際にシンと共にキャンパスを闊歩するそんな光景は、今日の懐妊発表の後には夢のまた夢になってしまう。


一度でいいから、シン君と一緒に大学内を歩いてみたかったな・・・。


贅沢な事だとは知りながら、チェギョンにそんな思いがあったから、今朝も登校するシンと共に行けない寂しさを感じてしまったのだ。

今でも充分周囲の目が厳しいのだが、懐妊が発表されれば今とは比べ物にならない厳重な管理を受ける事が、チェ尚宮の言葉からも周囲の様子からも想像できていた。

そうなれば大学を散策どころか、東宮殿を一歩出る事も一人ではままならない。


今日のお昼までが、シンデレラ・リバティ(期限付きの自由)ってヤツね・・・。


現代のシンデレラと名指しされる自分にとって、これほど皮肉な言葉もないとチェギョンは笑った。

シンを見送って東宮殿に戻り、綺麗に片付けられたダイニング・テーブルについたチェギョンは、さて・・・残された自由時間に何をしましょうか?と考えてみるのだが、どうにも思い浮かばない。

再びシンの元に帰ってきて、この東宮殿での生活が日常になるにつれチェギョンは思うのだが、以前の自分は何が不満で、あんなにも意地になってここを出たがっていたのだろう?と不思議になる。

自由に宮殿の外に出かける事が出来ないのも、チェギョンの体調を考慮して徐々にではあるが、再び未来の皇后としてお妃教育の課題が山積している事も、何も変わっていない。

むしろ懐妊している今のほうが、自分に向けられる尚宮たちの目が格段に多く、息苦しいと感じてもいいはずなのだが、それも無い。

そのうえ、帰国後しばらくはチェギョンの側を離れなかったシンも、ここ最近では学業と公務とに追われ、二人きりの時間といえば、朝晩のほかには短い空き時間が僅かにあるばかりだ。

チェギョンにしても高校生だった以前とは違い、そろそろ勉強のほかに宮殿内部の仕事を覚えなくてはならないので、毎日の予定が無理の無い範囲ではあるが組まれている。

しかし、今の自分はここでの生活に苦痛を感じるどころか、お妃教育の為の課題をこなすにしても、宮中の仕事を学ぶにしても楽しんでいるし、しばらく離れていた宮殿の暮らしに完全に馴染んでいる。

もちろん当時と今とで大きく違う点は、シンとの互いの愛情に確信があるという事。

ただそれだけの事が、チェギョンにとっては大違いだった。


しあわせ・・・。


チェギョンは頬杖をつきながら、目に入るものをノンビリと眺めていた。





「皇太弟妃殿下、医務官が参りました。」


そうしている内にも毎朝の脈診の時刻になり、皇太弟妃付きの女官クム内人が、医務官や医女を伴ってやってきた。

食後の休息をとっていたチェギョンは立ち上がり、医務官に促されるまま長椅子に移動して腰を下ろした。

先ず医女に両手をとられ、脈を見られる。

その最中にも、チェ尚宮から医務官に朝の検温と体重の記録が手渡され、朝食で食べたものの内容や分量、お通じの状態までが事細かに報告される。


「今朝のご気分は如何でいらっしゃいますか、皇太弟妃殿下?」

「とても良いです。昨夜はよく眠れましたし、今朝は目覚めも良かったです。」


慇懃な医務官の言葉に、チェギョンもまじめに答える。

少し歩いた時などに息苦しくは無いか、立ち上がったり振り返ったりした際に眩暈はないか、頻繁にのどが乾いたりしないか、食事の内容で好みが変わったようなことは無いか・・・。

微に入り細を穿つ医務官の問いに、チェギョンが一つずつ丁寧に答えると、次に医務官からの指示で、医女がチェギョンの二の腕を指で押したり、目の下を引っ張って粘膜の様子を見たりと触診が行われる。

大人しくされるがままになっているが、なんで医務官自身が行わないのか、チェギョンには毎度の事ながら不思議だった。

満足げに「結構でございます」と告げる医務官の言葉に、チェ尚宮が安堵の色を浮かべてお辞儀をし、クム内人に送り出させようとするのを、チェギョンはとめた。


「先生?まだお腹が膨らまないんですが、本当に大丈夫なんでしょうか?」


今のチェギョンの不安といえば、この一事に尽きた。

帰国後しばらく発熱していたといっても、熱自体は微熱のようなもので、心身の疲れが取れるにしたがって重しをつけられたような体も軽くなった。

シンの側にいる安心感からか不眠の症状はすっかり取れ、胸のむかつき等のつわりも楽になったように思う。

マカオにいたときと比べると、食事もちゃんと取れているし、そろそろお腹が出てきても良いのではないかと思うが、いまだにチェギョンのお腹の大きさは、彼女が思い浮かべる妊婦の十分の一にも満たない。

以前にも検診で医務官に質問した際、妊娠の状態はきわめて順調だと告げられてはいたが、22週を過ぎた今も下腹部に淡いふくらみが見える程度で、用意された沢山のマタニティ・ウェアはいまだに手付かずのままだ。


これじゃちょっと太ってた時の私と変わらない・・・。


いつの間にやら豊富に取り揃えられていた、妊娠や出産に関するシンの蔵書を読んでも、平均的な妊婦に比べ自分のお腹が小さいように思えてならない。

つわりの時期に栄養が不足していたのが原因だろうか、それとも貧血のせいで赤ちゃんに栄養が行かなかったのだろうか?

シンの赤ちゃんに、何か良くない事でもあるのではないかと、チェギョンは心配だった。



「ご心配には及びません、皇太弟妃殿下。」


そんなチェギョンに柔らかな声で話しかけてくれたのは、普段は物静かに医務官の指示に従っている医女だった。

たしかに一昔前には栄養不良を心配して、妊婦はとにかく太るべしと栄養のあるものを食べさせたものだが、今では逆に妊婦の太りすぎが一番の問題になっている。

そもそも胎児はどんなに大きくなっても3,000グラム前後が正常で、それ以上になると分娩が困難になる危険性が増す。

胎児の重さに胎盤や羊水、母体と胎児の代謝をまかなう為に増加する血液等の体液や、子宮を支える為に発達する筋肉の重さを加えても、せいぜい5〜6キロ。

やや大雑把な計算かもしれないが、それ以上の体重増加は母体の肥満と考えて、ほぼ間違いない。

あるていどの体重増加ならば、増えた分の肉は母乳の材料として出産後に消費されるが、それも栄養状態の行き届いた現代では必要不可欠とはいえない。

また、少々の体重の減少はつわりの重い妊婦では珍しくないし、元々チェギョンは身長と体重が健康的なバランスを保っており、今でも病的な痩せ型とは程遠い。

検診でも胎児の発育は良好で、不安な材料は全く見受けられなかった。


「妃殿下は、理想的な体重を維持していらっしゃいます。」


温かな笑みと共に、ゆっくりと分かりやすい言葉で説明する医女の言葉に、安心したチェギョンはようやく愁眉を開いた。





クム内人が医務官一同を送って行くと、チェギョンはチェ尚宮に伴われて上皇殿を訪れた。

今日は宮殿で行われる重陽の儀式について、ミン皇太后から教えを受ける事になっていたのだ。

清水に菊の花を散らしてその水で殿舎のお清めを行ったり、毎年この日に行われる皇室主宰の品評会に出された菊の花を愛でる茶会を催したり、菊の香を移した酒を飲んで長寿を願うなど、宮中では折々の儀式を大切に受け継いでいる。

また女とはいえ皇帝であるヘミョンには、尚宮や女官など内命婦の管理は出来ないので、特別な行事の日以外にも、宮殿内部の昔風に言えば「奥」に当たる範囲は、今後はチェギョンが管理しなければならない。

皇太弟妃としてチェギョンに任された仕事は多く、当分はミン皇太后について勉強する必要があった。

一通り必要な事柄を教わり、最近チェギョンが書き溜めている覚書をまとめ終え、ミン皇太后が用意させた茶が運ばれてくると、太皇太后の訪れを告げる女官の声がミン皇太后の居間に届いた。

太皇太后は、静かに上座を譲るミン皇太后に笑顔で頷きながら席に着き、掛けていた椅子から立ち上がってお辞儀しようとするチェギョンを、尚宮に命じて傍らに招きよせた。


「今日は気分が良いようですね、何を勉強したのです?」


温かな手で傍らにやって来たチェギョンの頬を撫でると、太皇太后は甘い祖母の声で訊ねた。


「重陽の意味と、儀式の礼式と、式次第を・・・。」


この問いにも戸惑うことなく滑らかに答えるチェギョンに、太皇太后はニコニコと頷き、ミン皇太后は小さく微笑んだ。

思えば結婚当初のチェギョンには、何度も驚かされたものだった。

お妃教育の課題は好き嫌いによって進度の開きが歴然で、言葉遣いも立ち居振る舞いも滅茶苦茶。

宮の雰囲気にのまれて大人しくなるどころか、予想の付かない行動で周囲を振り回し、皇太子妃としての品格が全く感じられない。

太皇太后より下賜された車をスクラップにしてしまった時には、心底先行きが案じられたものだ。

そうかと思えばとっさに暴漢からシンを庇って見たり、即興で鮮やかに漢詩を朗してみたり、国賓の接待も無事にこなした。

チェギョンがきてから、閉め切った部屋に爽やかな風が吹き渡るように、停滞していた宮殿の何もかもが変わった。

しかしミンは、今回チェギョンに奥の仕事を引き継ぐに際し、人が変わったように宮殿の行事やしきたりを飲み込んでゆく嫁を、頼もしく感じでいた。

自分たち皇家の全員と宮殿の人々を変えたチェギョン自身も、皇太弟妃として確実に成長し変化しているのを感じ、ミンは嬉しいような寂しいような奇妙な感慨を覚えた。

チェギョンの成長は嬉しいのだが、天真爛漫なその本質は変わって欲しくないと、ミンは愛しむ眼差しを無邪気に笑う嫁に向けた。

3

「今日はシン君・・・皇太弟殿下がお戻りになってから、スンハのお見舞いに行って来ます。」


鉄分とミネラルが含まれていて体にも良い上、とても美味しいから食べて御覧なさいと、ミン皇太后から差し出された黒糖のお菓子をかじってお茶を飲んだあと、太皇太后に今日の予定を聞かれたチェギョンはこう答えた。

いまだにシンのことを「皇太弟殿下」と呼びなれない。

いつか公式の場で「シン君」などと言い出してはと、一度は呼び名を変えてみたのだが、それが当のシンには不評で、翌日には元に戻ってしまった。

口の中で「皇太弟殿下、皇太弟殿下・・・」と繰り返しながら香り高いお茶を飲んでいたチェギョンは、自分の告げた言葉・・・特にスンハの名前に、祖母と義母が複雑な表情を見合わせるのに気付かなかった。

そして、赤ちゃんに良いならもう一つ食べて見ようかと、お菓子に手を伸ばそうとしたチェギョンに、案じ顔の太皇太后が声を掛けた。


「そんな体で宮を出るなど、危ない事はないのですか?」


普通の時でも滅多に宮中から出ずに暮らし、懐妊した時点で外出どころか殿舎を出歩く事も、もっての他だった時代が身に沁みているだけに、太皇太后の言葉にも顔にも、チェギョンを案じる気持ちが溢れていた。

そんな姑の思いも良く分かる上、前回の事件の経緯から、嫁がスンハに関わる事を快く思っていないミン皇太后だが、チェギョンには知らせたくないとシンから口止めされているため、表立って反対する事も出来ない。

まして今回のスンハは、その命を掛けてチェギョンとお腹の子を守ってくれたのだから。

今でも彼を信用したわけではないが、シンと共に見舞いに行くというのを、止める訳にもいかなかった。


「太皇太后陛下、スンハと申すのはチェギョンの恩人でございます、シンも居りますので・・・。」


心中の思いとは逆に、やんわりと太皇太后に取り成すミン皇太后は、それでも部屋の隅に目立たぬように控えるチェ尚宮に目配せをした。

ようやくチェギョンが宮殿に戻り、晴れ晴れと陽気な息子夫婦の様子を、毎朝の挨拶や最近増えた家族で集う夕べなどで間近にみて、一度は諦めた母としての喜びが胸を満たすのを感じるミンだった。

結婚して直ぐに夫に愛される妻の人生を諦め、その後皇太子となった夫について入宮した時に、素朴な家庭の母としての幸せも諦めた筈だった。

息子が皇帝になる姿を見ることが、報われる事の少ない自分の人生に対する褒美だと思い、そう口に出したこともある。

けれど今は、息子シンとチェギョンが共に幸せになってくれることが、自分にとって何よりもの褒美になると、ミンは思っていた。

ミンの胸中を察したチェ尚宮も、控えめに礼を返す。

これまでミンの信頼を、一度も裏切った事のないチェ尚宮であった。




上皇殿を辞去した後、チェギョンは東宮殿に戻って少し早めの昼食をとると、リビングのソファに腰を下ろして食後のお茶を飲みながら、チェ尚宮から歴史の講義を受けていた。

ここで言うのは歴史といっても一般的な国史ではなく、朝鮮王朝から韓国皇朝にいたる歴代王家を中心に据えた出来事の講義となる。

これはそのまま先例を大切にする現代皇室において、数々の物事を処理してゆく為の指針となり、今後シンと共に皇室運営に当たるチェギョンにとっては、いわゆる「虎の巻」ともなる大事な知識だった。

興味を持って聞くことで、以前は強力な睡眠薬代わりだったこの手の話も、今では悠久の歴史にロマンすら感じて聞けるから不思議だと、チェギョンはこの時間を楽しみにしていた。

それも、皇太弟妃に相応しくなろうと頑張っているチェギョンの為に、少しでも楽しく課題を進められるようにと頭をひねるチェ尚宮の、日々の苦労の賜物なのだが・・・。


チェ尚宮が「本日はこれまでにいたしましょう」と告げるのとほぼ同時に、もう一人のチェギョン付女官のロ内人が、いそいそとやって来てシンの帰殿を告げた。

その直ぐ後、侍従を従えたシンが颯爽とした足取りでやって来て、立ち上がって迎えたチェギョンに近づくと、おもむろに抱き寄せて腕の中に閉じ込めた。

最近のシンはその場に誰がいても構わずこんな事をするので、チェギョンはそのたび狼狽え、何度か苦情を言ってみたのだが、シンは「何がいけない」と全く平気な顔だ。

確かにマカオにいた頃はシンと触れ合うのも慣れていたが、寂しい新婚時代をすごしたこの東宮殿で同じ事をされると、どうにもこうにも困ってしまう。

尚宮たちの目を気にして赤面するチェギョンの髪に優しく口付けてから、少し体を離して顔を覗き込んだシンは、熱は無いのかと心配そうに訊ねた。


「平気よ・・・本当よ!」


疑わしげに自分の顔を観察されて、こんな事でスンハのお見舞いを中止にされてはたまらないと、異常の無い事を強調するが聞いてもらえず、チェギョンは苛立った。

終いには苦笑気味のチェ尚宮に検温を指示し、チェギョンが間違いなく発熱していない事を確認したシンは、漸く「出かけられるか?」と聞いた。

私を信用していない!と、少々おかんむりのチェギョンだったが、スンハのお見舞いに遅れてはならじと、チェ尚宮に手伝われて外出の準備を完了した。




久しぶりの外出に胸が躍る。

シンと共に車で出かけるのは帰国の日以来で、今後はしばらくこんな機会も無いと思うと、病院に向かう車窓の風景一つ一つにもチェギョンは心を躍らせた。

午前中に仕上げられて提出されたレポートに目を通しながら、シンは生き生きと様々な表情を浮かべるチェギョンを横目で盗み見た。

そして、こんな所は以前とちっとも変わらない・・・と微笑みつつ、シンはチェギョンの外出が今後は難しくなる事を思い出し、しばし考え込んだ。



皇立病院に到着すると、二人は病院長の出迎えを受けてから、担当の医師に案内されてスンハに割り当てられた特別室に向かう。

入院患者用の施設は外来患者の訪れる棟とは異なる建物で、その中でも特別室は渡り廊下を挟んだ別棟に位置しており、不特定多数の患者が立ち入る場所ではないものの、皇太弟夫妻が見舞いに訪れる事が知らされると、用心の為に予定の日の朝から建物内部のアルコール消毒が行われた。

それでも二人が、特にチェギョンがウイルスや菌や感染するのを防ぐ為、建物に入る前からマスクなどの予防措置が施されており、珍しそうに防護服のような上着を羽織ってマスクをしたチェギョンは、シンと自分の顔を見て笑い転げた。

そのいでたちでスンハの部屋を訪ねたシンとチェギョンだったが、部屋に近づくにつれ、今まで不自然に陽気にしていたチェギョンが無口になり、ついには下を向いて立ち止まった。

シンはチェギョンの手を引いて顔を上げさせると、その目を見つめて一つ頷いた。


「わたし、何て言ったらいいのか・・・。」


夫にすがる様にしてチェギョンが胸のうちを明かすと、シンは破顔し、あっさりこう答えた。


「僕は彼に礼を言いに来た。彼は僕自身にとっても命の恩人だ。」


静かな夫の言葉に、離陸直後に胸に刻んだ決意を思い出し、チェギョンは腹部の淡いふくらみに手を添えた。

スンハに助けて貰ったお礼を、そして危険な場所に置き去りにしたお詫びをするまでは、彼のために流す涙は封じておこうと決めたのではなかったか。

肩や太ももに大怪我をして出血が酷く、病院で緊急に止血の為の手術を受け、回復にはしばらく時間が必要だと聞いてから、チェギョンは何といって彼に詫びたらよいか悩み続け、今の今までずっとその言葉が思いつかなかったのだが、シンの言葉が思い出させてくれた。

何よりも真っ先に、彼にお礼を言わなければ!赤ちゃんと私を二度も助けて貰ったのだから、それも二度目はその命を掛けてまで。


担当医がノックの後に病室のドアを開け、目隠しの為に置かれたついたての陰で二人はマスクと上着を外し、続き部屋の手前にある応接間に足を踏み入れた。

奥の寝室のベッドではなく椅子に腰掛けてたスンハは、斜め前に立って彼を見下ろす随員に見張られてでもいるように、居心地の悪そうな顔をしていたが、二人を見ると立ち上がり、跪こうとしてシンと担当医に止められた。


「私ごときの為に、このような場所までお運び下さり、恐縮でございます。」


応接セットの椅子にチェギョンを座らせ、自分も隣に腰掛けると、教科書どおりの直立不動の体勢で口上を述べるスンハに、シンは穏やかに「掛けてください」と言った。

わずかにためらいを見せたスンハだが、シンの言葉に逆らえず、随員の差し出した椅子に浅く腰掛け目を伏せた。


「先ずはお礼を言わせてください。有難うございました。」


言葉は簡単だが、そこに込められた思いはスンハに通じたようで、返す言葉も無く黙り込む恩人に向かって、シンは頭を下げた。

慌てたスンハに止められるが、構わずゆっくり頭を上げたシンは、先ほどから無口な妻に優しい眼差しを向けた。


「ありがとうございます、赤ちゃんと私と、二度も助けていただきました。」


チェギョンが震える声でやっと言った途端、それまで堪えていた涙が溢れ出してしまい、さらに慌てたスンハは身の置き所の無い様子でチェギョンの涙を見つめていた。

皇族の顔をまじまじと見るなど、多大に礼を失した行為だと分かっているのに、スンハはチェギョンの清らかな涙から目を離せずにいた。

彼女の夫が指で優しく涙をぬぐってやる様子を呆けたように見つめていたスンハは、振り返ったシンと目が合い、慌てて視線を逸らせた。

逸らせた視線の先に静かに佇むチェ尚宮の姿を捉え、二人は互いに目礼を交わした。

妊娠のせいなのか、最近とみに感情のコントロールが難しくなっているチェギョンを落ち着かせると、シンは妻と子の恩人に向かって改めて礼を述べたあと、こう続けた。


「聞いた所によると、今すぐにでも退院したいとの事ですが?」

「は、どうかお願い申し上げます。」


目を逸らそうとする彼自身の意思とは反対に、しゃくり上げるチェギョンが気になる様子のスンハが、時折妻を盗み見る目の色に引っかかるものを感じたシンだが、表面上は穏やかに事前に医師から聞いていた話を確認すると、スンハは熱心に肯定した。

心配そうなチェギョンの顔と深く頭を下げるスンハを交互に見て、シンは仕方なくという様子で続けた。


「分かりました、しかし条件があります。完治するまでユルを身元引受人として医師の指示に従う事。出来ますか?」


シンの言葉に初めは躊躇したスンハだが、静かな中にも断固としたシンの態度に抵抗を諦めたのか、結局この条件にしたがって近日中に退院し、ユルの世話を受ける事を了承した。

それからは、皇室からとして今回の彼の尽力に対する礼の品や感謝状の贈呈を行い、それとは別にチェギョンがスンハの為に選んだ土産を渡した後、チェ尚宮が用意した茶菓が並べられた。

シンは、怪我の具合や皇室専用機が離陸した後の出来事について、スンハを心配するチェギョンの問いに、彼が律儀に言葉少なく返答する様子を終始穏やかな眼差しで眺めた。

4

病室を出て宮殿に向かう車中で、シンはチェギョンから、彼女が一度目にスンハに助けて貰った時の話を聞いていた。


「初めはシン君かと思ったの。」

「僕?」


スンハと自分を見間違えたと聞かされて、会ったばかりの彼の印象を思い浮かべ、首をかしげた。

チェギョンの恩人でなければ彼をどう思っただろう・・・?

妻と子供を救ってくれた、かけがえの無い恩人だと思わずに彼の印象を思い出す。

大怪我を負ってから日も浅く、長距離の移動で疲労があるはずなのに、立ち上がり跪こうとした際にスンハが見せた俊敏な隙の無い動作は、シンを守る翊衛士の誰にも劣るまいと思える。

チェギョンに向けられた瞳の色だけは、スンハの全体の印象に比べて、違和感を感じるほど柔らかく異質だったが、猛禽類のような鋭い瞳と得体の知れない影のような雰囲気を併せ持つ、油断のならない危険な男・・・とシンには見えた。

少なくとも妻に近づけたい種類の人間ではないと思った筈だ・・・。

シンはそんなスンハと自分とに類似点を探すが、全く分からない。


腑に落ちない様子の夫の顔をみて、チェギョンは無邪気に笑った。


「私もすぐには分からなかった。目が似てたの。」

「目が?」


今もシンの目を愛しげに見つめる大きなチェギョンの瞳は、彼女と初めて会った時から無遠慮だと思うほど真っ直ぐだった。

それまで誰もそんな風に彼を見る者はいなかったから、チェギョンが向けてくる心の中まで見通すような視線に、初めは強い抵抗を感じたのを思えている。

しかし何時の頃からか、彼女がその瞳を誰か他の人間に向けることが耐えられなくなった。

向けられた強い視線に、シンの胸中を懐かしい記憶がよぎったが、チェギョンは視線を逸らそうとはせず、じいっ・・・とシンの目を見つめてうわ言のように囁いた。


「結婚してすぐの頃の・・・寂しい瞳。だからきっと優しい人だと思ったの、シン君に似てるんだもん。」


口では喜ばせるような言葉を呟いているくせに、目はシンの目を通して彼の知らない過去の情景を見ているようで、突然湧き上がった苛立ちと不安に煽られたシンは、そんなチェギョンを腕に抱き寄せ小声でつぶやいた。


「あまりライバルを増やしてくれるなよ・・・。」




シンの指示で、車は宮殿に戻る前にソウルの街を一周するように遠回りをし、チェギョンは街の様子や人々の様子を車の中から楽しんだ。

繁華街では路肩に一時駐車させ、随員に命じて世界的なコーヒーのチェーン店に、チェギョンの好みのドリンクを買いに行かせ、持ち帰りのお菓子を二人で分け合って食べた。

眺めのよい丘に車を停め、窓を開け放って公園で遊ぶ子供達の姿に目を細め、チェギョンは下腹部にそっと手を添えた。

二人が通った高校の周囲やシンが通う皇立大学にも車を走らせ、流石に彼女の実家周辺は、皇室専用車を見慣れてしまった住民達に見咎められる事を警戒して避けたが、他にもチェギョンが行って見たいだろう所を巡った。


久々の外出を楽しんだ後は東宮殿に戻り、しばしの休息と着替えの後に、二人は会見場となる参内殿に向かった。

やや緊張しながら臨んだ懐妊の公式発表と記者会見も、チェギョンは優しく手を握ってくれる夫の隣で、医務官の説明を聞きながら笑顔を浮かべていれば良く、質疑応答にも殆どシンが答えた。

質問されたのも事前に決まっている通り、「男の子と女の子とでは、どちらがご希望ですか?」や「お名前はどのように?」などの他愛の無いものばかりで、その全てにシンが笑顔で答えるのをチェギョンは幸せな思いに包まれて聞いていた。

最後に、マカオでの事件に巻き込まれた事について、心身に影響は無かったか、またどんな感想を持ったかとの質問が飛んだが、チェギョンは落ち着いて答えた。


「国民の皆様には御心配を頂きましたが、私はとても元気です。誠意を尽くしてくださったマカオ政府の方々にも感謝しています。」

「テロに対する不安をお持ちではありませんか?」


場をわきまえぬ無遠慮な質問に、シンが妻をかばって発言しようとするのを笑顔で抑えると、チェギョンは質問した新聞記者の顔を正面から見つめて答えた。


「テロは恐ろしいと思います。」

溺れた後、水が怖くなる事があるように、人は恐ろしい経験をすると、もう一度同じ目に会わない為に用心するようになりますね?

私も次に飛行機に乗るときには、きっとこの事件を思い出してしまうと思いますし、見知らぬ人と会うときに不安を覚えるようになるかもしれません。

けれど人との出会いは素晴らしいものです。

5年前の私にとって、今の夫・・・は「見知らぬ人」ではありませんでしたが話をしたことも無かったですし、親友達の殆どにも出会っていませんでした。

明日めぐり合う今の私にとって見知らぬ人が、未来の私の、大切な人になるかもしれないのです。

「今日会った人が良い人で、いつか仲良くなれるのだと、信じていたいと思っています。」


気負いの無い柔和な笑顔でこう結んだチェギョンの言葉に、記者たちは誰からとも無く立ち上がり、小波のように拍手が沸いた。

広報室の内官が記者会見終了を告げ、温かな拍手と祝福の声の中を、シンはチェギョンを伴って会見場の参内殿広間を後にした。




東宮殿に戻ると、シンは少し疲れた様子のチェギョンを休ませ、自分は午後の分の公務をこなす為、側近を伴って昌徳宮に向かった。

リクライニング・チェアーに体をもたせ掛け、差し出された薬湯を飲むチェギョンの足をマッサージしていたクム内人とロ内人に、チェ尚宮は入浴の用意をするように指示を与えた。

空になった器を受け取り、一休みして落ち着いた様子のチェギョンに一礼したチェ尚宮は、畏まった姿勢で告げた。


「大変ご立派でいらっしゃいました、妃殿下。」


チェ尚宮の言葉に照れたチェギョンは、アルフレッドを胸に抱いて微笑んでから言った。


「マカオで沢山の人と出会ったでしょ?皆に本当の事をいえなくて、それが少し心残りだったの。」


だからこれからは、人との出会いを大事にしたいと思って・・・と、チェギョンはアルフレッドに向かって小さく呟いた。

今は年齢相応にかわいらしく見えるチェギョンが、つい先刻、大勢の記者とカメラマンの前で堂々と意地の悪い質問を乗り切って、周囲に感動を与えた皇太弟妃と重ならず、チェ尚宮は微笑を浮かべた。

不思議なお方・・・お仕えして長く経つというのに未だ分からない事が多い主人だと、チェ尚宮はアルフレッドとじゃれ合うチェギョンの横顔を見つめながら思っていた。




昌徳宮での執務を終え、シンが東宮殿に戻ったのはチェギョンが就寝した後だった。

会見等で時間をとられ久しぶりに遅い帰還となったが、さほど疲労は感じていない。

侍従から一日の報告や翌日の予定を聞き、就寝前にシャワーを浴びて寝巻きを羽織ったシンは、物音を立てないように注意してチェギョンの隣に滑り込み、太平楽な寝顔を盗み見た。

今日の記者会見でのチェギョンには驚かされた。

会見前には不安そうにシンの手を握り、緊張でそわそわと服を直したりしていたくせに、始まってしばらくするとカメラに向かって笑顔を作る事も出来るほど落ち着いて、記者に向けた医務官の説明にもフンフンと相槌を打っていた。

結婚してから今までに何度も、予想できない彼女の反応や行動には意表を衝かれていたが、今日は本当に驚いた。

新聞の夕刊には間に合わない時間だったが、テレビのニュースでは懐妊の発表に次いでチェギョンの言葉を大きく取り上げていた。

参りましたよ、皇太弟妃殿下・・・。

甘い夫の顔で妻を抱き寄せて目を閉じるシンは、幸せという言葉の意味を噛みしめていた。




♪♪♪♪♪♪♪♪♪♪♪♪




『どうも予定通りには・・・。』

「・・・流石はシン・チェブンの孫娘といった所か、まだまだこれからだ。焦るな。」


リビングの大きく開かれた窓から街の夜景を見下ろしながら、キョ・サンウォンは片手にブランデーグラスを揺らしつつ、電話機から響く声に淡々と応えた。

電話の相手は、今日の会見でチェギョンに最後の質問を浴びせた新聞記者で、歯切れ悪く、目論みの不首尾を報告してきたのだ。

サンウォンにしてみれば、わざわざ報告を受けずとも、記者会見の様子はテレビ中継されていて既に承知していたし、夜のニュースではどのチャンネルもこの話題で持ちきりだった。

その内容は皇太弟妃懐妊の喜びを報じるのみならず、皇太弟妃シン・チェギョンの変貌振りにも焦点が当てられており、皇室始まって以来初めての庶民出身の妃殿下だが、いつの間にか皇家の一員として、また将来の国母として立派に成長を遂げられている。

また皇太弟殿下も、父親となった喜びからか以前に比べ穏やかに明るくおなりで、一段と皇帝に相応しい器量を磨かれたようだ。

お二人とも妃殿下の国外追放で辛い思いをされたが、その事が良い結果をもたらしているのでは・・・と、コメンテーターの顔も一様に明るい。

チェギョン帰国の際、空港で撮られた二人の再会シーンなども再度放映され、身重のお体で海外でのお暮らしのご苦労はいかばかりであったか、皇太弟殿下のご心痛を思うと御いたわしい、心中よりお察し申し上げる・・・などと、視聴者からのメッセージも紹介された。


当初の目論見では、彼の質問に皇太弟妃チェギョンが満足に返答出来なかったり、皇太弟シンが庇って発言したりすれば、将来の皇后としての彼女の資質に対して疑いの記事を載せられる。

あるいは発言の言質をとって難癖をつけられるだろうと見越していたのだが、見事に外れてしまった。

この状態で皇太弟妃に不利な報道を行う事は、一般の読者や視聴者に反感を生じさせる懸念がある。

今後の計画にも支障をきたすのでは・・・と許しを請う記者に、サンウォンは鷹揚に計画の緩やかな続行を伝えた。




実際、皇太弟妃帰国の後に懐妊の報せを受けたキョ・サンウォンは荒れた。

あの時、事前に皇太弟妃懐妊の情報を掴んでさえいれば、もっと有効な手段が取れたものを!そうなれば彼の目的は九分どおり達せたのだ。

皇太弟に子供ができ、万一それが男子であったら、サンウォンの目論見に大きな障害が生じる事になる。

私室にこもり、もてあます思いを拳に込めてジッと立ち尽くしていたサンウォンだが、幼少より父から叩き込まれた教えの数々を反芻しては、憤怒と屈辱を耐えた。

簡単に勝利しては面白みが無い。

コレでまた一つ、ゲームに難易度が増したというだけの事だ。

皇家一同も王族どもも、今は幸せに酔っているがいい。

そのうちに全てをひっくり返してやる・・・!

5

シン・チェジュン、数え歳で17歳。

今年の3月から高校に入学し、大人の一歩を踏み出した彼は、目標とする理想の男らしい体型に近づく為に、毎朝祖父の眠る墓地までトレーニングをかねてランニングをはじめた。

暢気なようで結構色々と考えてもいるチェジュンは、両親が姉の事で心を痛めていることを思いやり、自分だけでも立派になって両親の心配を取り除いてあげようと、日夜彼なりに気を使っているのである。

最近その姉が、なんだか分からないが大変な事件に巻き込まれながらも無事に帰国を果たし、義兄も両親も一安心している。

赤ん坊が産まれるまでは気が抜けないと、足繁く姉夫婦を訪ねる両親二人の嬉しそうな様子を見て、チェジュンも喜んでいるところだ。


そして今朝も元気に張り切っているチェジュンは、秋の香が漂い始めた墓地横の石段を2段飛ばしに駆け上がり、祖父の墓前に朝の挨拶をしようと木戸を通り抜けると、何処からか小鳥の鳴く声がする。

朝は小鳥が鳴くものだが、どことなく鳴き方が異なる気がして辺りを見回すと、土塀のわきに生えている木の根元近くで、バタバタともがいている雛を見つけた。

どうやら木から落ちたようだ。

巣はチェジュンの手の届かない位置にあり、周りに踏み台になりそうなものは無い。

悩んだチェジュンは、それでも何とか巣に戻してやりたいと、親鳥が来るのを待ったがその気配は無かった。

いつか家に営巣したツバメの雛を見たいとせがんだチェジュンに、祖父が巣が見える所まで抱え上げて雛を見せてくれた事があった。

その時、「人間の匂いが付くと親鳥に嫌われる」といって、雛に触らないよう約束させられたのを思い出し、チェジュンは土で手を汚して枯れ草を集め、もがいている雛をその枯れ草で包むように抱き上げて、何とかして土塀によじ登り、巣に戻してやろうと奮闘した。

そこに立派な身なりの男性がやって来て、チェジュンに声をかけた。


「何してるんだい?」

「巣に戻してやろうと思って・・・。」


チェジュンが答えるとその男性は、やや戸惑う様子を見せて「止めた方が良いよ」といった。


「どうしてですか?」


男性の浮かべた複雑な表情と、ためらいがちなその言葉を不思議に思ったチェジュンは、無意識に小首をかしげて問い返した。

そのチェジュンのしぐさが、男性の目には年齢以上にあどけなく映ったのか、更に言い辛そうにして「自然の定めだからね」と呟いた。


「助けちゃいけませんか?僕も自然の一員だし、助けたいと思うんです。」


チェジュンのその言葉に、男性は言葉を詰まらせて、彼の顔をじっと見つめた。

しばらくそうしていた男性は楽しげな優しい笑みを浮かべ、巣がある木のわきの土塀に向かって屈みこみ、自分の肩を踏み台にすると良いとチェジュンに告げた。


「だめですよ、服が汚れちゃいます!」

「それしかないよ、助けたいんだろう?」


男性の言葉に躊躇いながらも、チェジュンがスポーツシューズを脱ぎ捨ててその人の肩に乗ると、彼は大きな手でチェジュンの体を支えながら、チェジュンが土塀によじ登り雛を巣に戻すのを助けてくれた。


土塀から降りたチェジュンは男の人がそろえてくれた靴を履くと、丁寧にお礼を言おうとしたのだが、その前に男性の運転手が彼を迎えに現れ、男性はチェジュンに笑いながら手を挙げて行ってしまった。

お礼を言い損なったチェジュンは、彼の去った後姿をしばらく見送り、巣に戻った雛が元気に鳴く声に目を細めると、ご機嫌になって祖父の墓前に向かった。



♪♪♪♪♪♪♪♪♪♪♪♪♪



チェギョンが帰国してから既に一ヶ月が過ぎていた。

東宮殿での生活にも毎日の日課にも馴染み、すっかり心身の健康を取り戻したチェギョンは、いまだほっそりとした体型を保っているものの、腹部のみは妊婦らしい柔らかな曲線を増していた。

今朝も、いつものように午前中は大学の講義を受けるシンを見送った後、医務官から毎日の脈診を受け、上皇殿でミン皇太后から奥の仕事について教えを受けたチェギョンが、昼少し前にチェ尚宮とロ内人に付き添われて東宮殿に戻ってくると、クム内人から皇太弟シンが既に戻っている事を知らされた。

今日の昼食は二人一緒!と喜んだチェギョンに、シンは更に彼女を喜ばせる話を用意していた。


「昌徳宮に連れてってくれるの?」


それぞれに午前中の出来事の話しがはずむ昼食の席で、シンが妻の体調を確かめてから提案した午後の予定に、チェギョンは目を輝かせた。

普段、昌徳宮にいる間のシンは、山積する公務や来客をさばくためチェギョンの相手ができないので、今まで彼女を同伴する事は無かったのだが、その反面、昌徳宮ならチェギョンの友人も招きやすい。

元々東宮殿などの正宮奥に位置する殿舎に外部の人間を招くには、事前に届出などの手続きを踏まねばならない上、皇太弟妃が懐妊中ということもあり、宮全体が外部の人間に対してピリピリした雰囲気を漂わせている。

また、今はスパイを警戒する事情もあって、東宮殿に出入りできる人員は限られた範囲の中に制限していた。

チェギョンの家族はともかくガンヒョンらの友人達を招くにあたって、昌徳宮ならば招く側も招かれる側も比較的気楽に使いやすいと思いついたシンは、少し前からチェギョン付きの翊衛士や昌徳宮の警備責任者に、皇太弟妃が訪れた際の警備計画を考えておくように指示していた。

昨夜提出された報告書で準備が整った事を確認し、チェギョンの体調を見た上で、今日は初めて彼女を伴って、皇太弟が管轄するもう一つの宮である昌徳宮に、女主人である皇太弟妃を案内しようと思っていたのだ。


何かしてやって、これ程甲斐のある人間も珍しいな・・・。

シン君と一緒に出かけられる!と全身で喜びを表現するチェギョンが、それなら早く行こう!と彼を急かし、自分も急いで食事を終わらせようとする様子に目を細め、ノンビリしていたシンは、再度急かされて残りの食事を急いで済ませた。




東宮殿前の車寄せから専用車に乗り込み、やや心配顔のチェ尚宮らに見送られて隣の昌徳宮に向かうチェギョンは、歩いても直ぐなのに、この距離を車で行くなんて変よね・・・と心の中だけで呟いてみる。

シンはクスリと笑うチェギョンの顔に愛しげな笑みを向けて、彼女の手をとった。

東宮殿付きの女官として昌徳宮付きの尚宮に気を使ったのか、今日はチェ尚宮も他の女官達も同行していないが、翊衛士はチェギョンの側を離れない事になっているから、問題は無いだろう・・・と、シンはご機嫌な妻を横目で見ながら思いをめぐらせた。

女官の中には、長年の間に培われた独特なしきたりや複雑な力関係が、今なお残っている。

見慣れた者が付いている方がチェギョンにとっては良いのではと思うが、女官内部の事について自分が口を挟むのは問題が大きい。

チェギョンもこれから宮廷に仕える全ての女官達の統括をしなければならないのだから、いつまでも自分が庇っていては彼女の為にもならない。

また、過日の記者会見での様子や、最近旧暦の九月九日に宮中で行なわれた重陽の儀式に際しての采配を見るにつけ、既に彼女は充分に皇太弟妃としての責務を果たす力量を備えているのではと思う。

自分が過保護に庇っている事が、逆に周囲の彼女に対する評価を下げる事になってはならないと、シンも考えを改めるようになっていた。




♪♪♪♪♪♪♪♪♪♪♪♪♪




正宮の東に位置する昌徳宮へは、直線距離で約500メートル。

東宮殿からも、歩いて20分程度で到着する、正しく「お隣」の宮といえるが、その歴史は古く、かつてはここが正宮として用いられた事もある由緒正しい宮殿である。

現在では外苑の一部を公園として公開しており、都心のオアシスとも言うべき緑に溢れた空間を提供している。

公園と外苑を区切る塀は、かつては伝統的な土塀だったが、現在では最新式の防犯対策が施された堅牢な、しかし視覚的な美しさにも気を使った金属製の塀がめぐらされている。

皇太弟の到着に門が開かれ、警備の者達がいっせいに敬礼を向ける中、車は更に宮の奥へと進む。

車の窓ガラスに手をついて、初めて見る昌徳宮の内部に目を凝らすチェギョンは、まるで無邪気な子供のようで、シンは思わず背後から妻を抱きしめるのだった。



正殿前の車寄せに停車し、側近の一人によってシンの座った側のドアが開けられる。

先ずシンが車を降り、後方を回ってチェギョンに手を貸し、彼女の降車を手伝う様を、出迎えの一同が目を細めて見守った。

そしてシンはチェギョンの手を取って、正殿の応接室、彼が公子時代ここに一人で暮らしていた時にはリビングとして用いていた部屋に、キョロキョロと周囲を見回して落ち着かない彼女を案内する。

妻をソファに腰掛けさせ、シンは呼び寄せておいた昌徳宮に仕える主だったもの一同を、チェギョンに引き合わせた。


「彼がここの侍従長、レン内官だ。」

シンの言葉に進み出たのは、熊のような大きな体に似合わぬ柔和な顔つきの初老の男性だった。

白髪まじりの頭をゆっくりと下げて、深々と丁重な礼を向ける彼にチェギョンが丁寧に会釈すると、侍従長は心地よい低音の声で挨拶をした。


「レンと申します、皇太弟妃殿下。麗しきご尊顔を拝し、恐悦でございます。」


その後はレン侍従長から侍従や女官の紹介が続いた。

正宮に比べて使用頻度は低いとはいえ、昌徳宮は貴重な文化財でもある。

皇室の予算とは別枠で、文化財維持のための国家予算が組まれてはいるが、それも潤沢とはいえない。

管理には様々な箇所に膨大な手間と人員がかかるのだが、彼らは選び抜かれた少数の人員でそれらをまかなっていた。

中でも主にシンが執務を行う正殿を管理するのは、ミン尚宮を初めとする三人の女官達だった。

チェ尚宮よりも年配の三十代後半あたりに見えるミン尚宮は、上品だが弱々しく寂しげな印象を与える外見で、見るからに有能と思わせるタイプではない。

ミン尚宮の下にはアン内人とリ内人が続き、そのほかに他の殿舎を管轄する若手のペク尚宮ほかの女官達が、皆ミン尚宮の指導を受けて仕事に励んでいるという。



「彼らは僕の仕事を補佐している、イム、ペツ、トウだ。」

尚宮たちの後ろに控えていた若くて長身のイムには、空港や東宮殿でも会ったと笑顔を浮かべたチェギョンに、やや小太りで一見どこかの営業マンのようなペツと、中年がらみでどこかの企業の重役といった風情のトウも加わって、三人は笑顔でお辞儀をした。

シンの言葉では、イムはフットワークの軽さと頭の回転のよさを生かして、シンの秘書のような役割をこなし、ペツはインターネットや各種情報の収集や分析、トウは各種スピーチ等の原稿立案や、豊富な経験と人脈を生かしたシンの相談役といった割り振りのようだ。

紹介された人々の名前と顔を忘れないように、頭の中に覚書を出現させて必死に書き留めていたチェギョンだが、シンの言葉で一同は散会し後にはミン尚宮一人が残った。


「僕は仕事があるから、後はミン尚宮に宮を案内させるといい。」


彼女の頬に手を当てて、優しく告げる夫の言葉に元気よく頷いたチェギョンは、傍らで微笑むミン尚宮にぺこりとお辞儀をした。

くれぐれもチェギョンに無理をさせないようにと注意を促すシンの言葉に、かしこまって礼をする彼女の姿を観察するが、とても昌徳宮の女官を統べる古参尚宮のイメージとは一致しない。

チェギョンは有り余る好奇心に輝く瞳を、ミン尚宮に向けた。

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