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今年は秋が長かった。 こんな年は冬が厳しいと年寄り達の言うとおり、昨日今日と強い寒気に見舞われているソウルの街は、残っていた秋の衣を剥ぎ取られ、短い間にすっかり冬の街へと姿を変えた。 そして今、日が出て間もないぼやけた空に、冬の街の家々から湯気が立ち上っている。 そんな中を参集した五長老と他一名の面々は、今日は正宮内殿に設けられた謁見の間に、侍従や女官の案内で静々と顔をそろえた。 内殿に入って直ぐの、普段は控えの間として用いられている部屋を二つ繋げて、今日は臨時の謁見の間としており、中央の上座には女帝ヘミョン、向かって右脇には太皇太后、左にはヒョン上皇とミン皇太后の正装した姿が揃っている。 太皇太后の隣には、28週に入ったお腹を抱えて少し窮屈そうな皇太弟妃チェギョンが、隣に腰掛けた彼女の夫、皇太弟シンに手を取られて収まっていた。 「お召しにより参上仕りました。」 一同が定まった位置に揃ったのを見届けると、五長老上席者タン氏の恭しい声で、職を辞するフッ氏と、新任長老となるキョ氏任免の謁見が始まった。 チェギョンは、初めて目にする時代劇のような場面に興奮を隠せず、一人満面の笑みで頬を染めている。 特に、官位に応じて定まった意匠と色が用いられ、美しい色彩を放つ韓服に興味津々で、先ほどからつい身を乗り出して図柄を凝視しては、シンに握られた手を引き戻され、再び椅子の背に寄りかかるのだ。 そんな皇太弟夫妻の正面に腰掛ける上皇夫妻には、嫁の様子や彼女を気に掛ける息子の姿が良く見える。 最近ようやく妊婦らしく膨らんできたお腹を持て余し気味で、足元の怪しい妻を気遣うシンは、チェギョンの身の回りの世話を担う東宮殿付女官全員に、日々詳細な指示を与え、また彼女達からの報告を受けている。 それでも外出前には心配そうに妻を抱きしめ、一緒の時は何処に行くにも付き従うシンの姿は、彼の変貌ぶりに慣れた周囲にとっても未だに違和感をもたらし、ヒョン上皇もミン皇太后も苦笑を漏らす互いの目を見交わした。 「先ごろ嘆願の、フッ氏辞任とキョ氏就任の事、その後如何?」 「は、評議員全員の一致を以って承認、及び推挙の運びと・・・。」 ヘミョンの落ち着いた問いかけに、代表して返答するタン氏を除く四人の長老、及びキョ・サンウォンは低頭したままの姿勢を保っている。 お年寄りばっかりだけど、どの人がキョ・サンウォン氏なのだろう?長老というからにはお年寄りばっかりなのも頷けるけど・・・。 チェギョンは後方に畏まる、一番若そうな、それでも御爺さんに近い小父さんと思う男性に目を留めた。 先日のユルたちの話から、キョ・サンウォン氏が祖父と旧知の間柄と知り、チェギョンは今日の日を楽しみにしてきたのだ。 あの後、キョ氏と皇室の難しく入り組んだ因縁をシンから聞かされてはいるものの、それは過去の事。 もう済んだ事だから今回こうして五長老にも選ばれたのだし、御祖父ちゃんの友達が認められて良かった・・・とチェギョンは思っていた。 「では・・・副令キョ・サンウォンを正三品堂上とし、五長老の末席に命じる。」 「はは・・・。」 既に用意されていた辞令をヘミョンが読み上げた後、美しく装丁された巻物は尚宮から侍従の手を介し、静かに進み出たキョ氏へと手渡され、任命の儀は終了した。 その後、新任長老より女皇帝に御礼言上の一幕があり、ヘミョンから扇を下賜されてそれも終わる。 チェギョンは拍手したくなる衝動を抑えて、隣のシンに笑顔を向けるが、夫は固い表情で新長老を見つめている。 ・・・やっぱり複雑なのかな、シン君としては。 キョ氏の父親が戦争で国を逃げ出した事は、仕方が無いとチェギョンは思う。 戦争が怖いのは当然だし、王子の身分だからこそ一番に標的にされて、もし逃げ出さなければ殺されていたかも知れない。 誰もが聖祖陛下のように勇敢に戦える筈も無いし、それを強制する事は出来ないとチェギョンは思った。 でも、戦争が終わったからといってイソイソ戻ってきて、今度は自分が皇帝になろうとするのは、確かに間違っていると庶民の感覚でも思う。 「それはその人のお父さんの事なんだし、サンウォン氏はきっと良い人だよ。」 チェギョンはシンから話を聞いたとき、そう言った自分の言葉を受けて、夫が複雑な表情を浮かべた事を思い出していた。 チェギョンがシンを見つめて物思いに沈んでいる間に、いつしか太皇太后の手で一同に茶が振舞われていた。 女官に差し出された茶碗に気付かず、シンを見つめていたチェギョンに満座の注目が集まっており、ヘミョンに「皇太弟妃、毎日見る夫の顔が、そんなに珍しい?」と冷やかされ、初めて我に返ったチェギョンは頬を染めて茶碗を受け取った。 家族一同の笑みを含んだ視線に照れたチェギョンは、また冷やかされると思うとシンの方を向くことも出来ず、微笑ましげな視線を投げ掛ける長老達に顔を向けて、先ほど五長老の一員となったばかりのキョ氏と目が合った。 眩しげに自分を見つめる瞳の主を何処かで知っているような気がして、チェギョンは笑った。 警戒心の無いチェギョンの笑顔にやや驚いた様子のその人は、温かな笑みを浮かべてチェギョンに向かって一礼する。 この人が御祖父ちゃんの友達・・・そう思ったチェギョンは次の瞬間には、その人に話しかけていた。 「あの・・・私の祖父をご存知と伺いましたが?」 「は、実を申さば妃殿下とも、お目にかかった事がございます。」 チェギョンの目は、いつもの事ながら目前の興味のある人物のみに注がれ、心配そうな夫や家族の様子を見ていなかった。 だからシンの鋭い目がキョ氏を威嚇するように閃いた事も、ヘミョン以下皇室一同が不意に息を呑んだことも気付かなかったし、加えるなら同席していた長老達も無邪気なチェギョンとキョ氏の返事に気を取られ、のんびりと茶を啜るだけだった。 「そうなんですか!全然覚えていません・・・。」 「ご無理もありません、まだ三つか四つの頃でございます。」 祖父の友人だというキョ氏と、そんな昔に会っていた事が嬉しくて、興奮したチェギョンは席から身を乗り出し体勢が揺らいだ、慌てたシンが彼女を支えるが、その瞬間、夫の頼もしい腕の中で妻はお腹に手を当て、小さく叫び声をあげた。 「チェギョン?どうした!」 「動いた・・・!」 妊娠28週といえば、昔風に言えば7ヶ月にもなる。 安定期に入ればもうその頃から、赤ん坊がおなかの中で動く胎動を感じる妊婦もあるというのに、未だにお腹の子供が動く様子を感じられないチェギョンは、ここの所悩んでいた。 医務官からも医女からも、胎動を感じるかどうかは個人差があり、検診でも胎児の状態は良好だと説明されていたし、シンも「お前が寝ている間に動いているんだろう」とか「母親に似てお寝坊な赤ん坊なんだろう」とか、言いたい放題で慰めてくれたのだが不安は残っていた。 それが今、初めて、赤ん坊がぐるりと動く感触が、はっきりと感じられたのだ。 「え?!」 驚く夫の手を自分のお腹に当てて、まだ元気に動く様子をシンにも感じさせる。 夫の顔を見つめるチェギョンの目の前で、全神経を手に集中させ、呆然と口を開いたままのシンは、やがてゆっくりと笑みを刻んだ。 「分かる?シン君?」 「ああ・・・動いてる・・・!」 互いに見つめあい、潤む瞳を輝かせる若い二人の姿は、世知に長けた老人たちにも清新な喜びを抱かせる。 そして、皇家とシン家の血を受け継ぐ新たな命が、初めてその存在を示したこの場に、何故自分が立ち会うことになったのか・・・、キョ・サンウォンは不思議な因縁に言葉も無かった。 とうとう自分が得ることが無かった子供という恵みを授かった、皇統を受け継ぐ運命を背負うシンに対して、サンウォンは初めて明確な嫉妬を感じ、同時に幼いチェギョンを抱いたあの懐かしい日に感じた、くすぐったいような愛しさを感じてもいた。 ♪♪♪♪♪♪♪♪♪ 「そんなところで何をしておいでかな?」 サンウォンは問いかけられて、ふと我に返った。 庭の片隅に立ったまま、束の間白昼夢を見ていたようで、近くに人がいることにも気付かなかった自分にうろたえたが、叩き込まれた自制心が、表情や仕草を細部までコントロールして、内心の動揺は表に出ない。 ゆっくりと声のほうを振り返ったサンウォンは、見覚えの無い老人が自分を眩しげに見つめている事に気付いた。 「おお、サンウォン様ですな、貴方様は?」 陽気に笑う老人の言葉は、質問の形を取った確認だったから、サンウォンは不躾な言葉に返答の必要を認めず、闖入者の姿を観察した。 老人の清潔だが質素な身なりは、日頃父の周囲に群がるたぐいの人間とは質が違う。 年のころは父よりもやや年配だろうか?老人の日焼けした、気の良さそうな顔に刻まれた皺が深い。 だが、よく観察しなければ分からない程度、僅かに片足を引きながら近づいてくる老人の様子には、無為に日々を送り閑をかこつ自分達とは違う、溌剌とした生気が感じられた。 「失礼だが貴方は?お見かけしないお顔ですが。」 「これはわしの方こそ、失礼しました!」 サンウォンの問いかけに、老人はワッハッハ・・・と、何が可笑しいのか豪快に笑って、戸惑う若者の顔を見て更に笑った。 そして表情を改め、無骨ながらも丁重なお辞儀と共に「わしはシン・チェブンと申しまして、お父上には以前大変お世話になった者です。」と続けた。 シン・チェブン・・・。 その名は父から聞いていた。 以前、父が王位継承権第一位の公子だったころ、屋敷で働いていた気のいい料理人だと。 公子時代に閑に任せて取り巻き連中に誘われるまま、遊びに出かけた先で彼の料理に出会い、素朴ながらも宮廷料理人の皿にも引けを取らないその味に驚いた父が、その後親しくなった彼を説き伏せて屋敷に連れて帰ったのだと聞いていた。 父がイギリスへ亡命した後、彼が革命で大きな功績を立て、活動の中で聖祖陛下の命を救った事もあり、その縁で今でも二人は昵懇の間柄だとか。 その革命時代のよしみもあり、王族会の主要な評議員達にも顔が利くので、勢力拡大のためにも手元において置く必要があると父は言った。 誰に対しても対等な協力者としてではなく、臣下や下僕として扱いたがる父は、本来なら皇室に繋がる数少ない頼みの綱である筈のシン氏の事を「手元に置く」と言い放つ。 誰もが過去の人となった父の事など見向きもしないというのに、今でも朝鮮王朝の公子としての誇りが、父の拠り所なのだとサンウォンには哀れだった。 父の財力を利用出来るだけ利用して、用が済んだら離れてゆく。 彼もそんな強欲な男達の一人か・・・それにしては様子が違うが・・・。
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3章
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彼が朝露の降りた庭に忍び出て咲き初めの薔薇の手入れをはじめたのは、下働きの者達が忙しく朝の準備に追われている頃だったから、既に陽も高く、家人の誰もが朝食を終えて仕事に散り始めた今になっても、サンウォンの不在に気付くものは一人とてなかった。 宵っ張りの父は朝食を滅多に取らず、たまに用意させても自室の寝台に寝そべったままだ。 常日頃、朝鮮王朝以来のしきたりや礼儀作法を口うるさく言い立てる割に、そんなところだけは英国流を踏襲したがる。 長い英国滞在で培った国際的感覚を生かさねばな!国を出たこともなく何の苦労も知らない皇室の連中のように、古臭い小さな考えに凝り固まった奴らと私は違うのだ!などと何かにつけて父は言うが、自分に都合の良い言い訳だとサンウォンは淡々と断じた。 そして今、サンウォンは家人達から忘れ去られた寂しさよりも、たった一人、誰にも知られずに、外界から隔たれた秘密の花園に隠れ居るような喜びのほうを強く感じ、さして空腹でもなかったので、手入れの済んだ薔薇の花弁を指の先で撫ぜながら物思いにふけった。 アニー・・・。 いつしかサンウォンの思いは、この薔薇の花と同じ名前の女性へと向かっていた。 亡命先の英国で生まれたサンウォンにとって、両親からどれほど口うるさく「お前は朝鮮王朝の王となる王子なのだ」といわれても、見たこともない祖国の王になる自分など想像の範疇外だった。 英国で一家が住まっていた館は、英国王室の分家の、そのまた分家の分家のような貴族が所有するマナーハウスで、ロンドンから遠く離れた素朴な田園地帯だったその村には、サンウォンと同じ世代の子供も大勢いた。 そんな田舎であっても、否、むしろ長年土地の領主に治世を任せてきた田舎だからこそかもしれないが、貴族とか王族とかの存在になれた英国の人々は、戦争で亡命してきた他国の王族である一家にも、打ち解けて接してくれた。 王族に生まれた両親は、目下の者達には丁寧な柔らかい物腰で接する事に慣れていたし、近隣の善意のかたまりのような住民達が、戦争で祖国を追われた一家を気遣って競うように館を訪れ、庭や菜園の手入れをかって出たり、教会や地域の催し物に誘ったりした。 戦争でわずかばかり苦労をしたといっても、王子として何不自由なく育った父キョンウォンは、サンウォンの幼かった当時は今のような捻くれ者ではなかった。 祖国を知らない息子に対して、王家の跡取りとして厳しく接することも多かったが、総じて見れば陽気な父は田舎の人々と共に、乗馬やクリケットに興じたりと活動的で、母も心優しい婦人達との手芸の集まりにサンウォンを連れて出かけ、大人たちが縫い物などをしている間に、子供達も集まって遊びに興じていたのだ。 あの頃が、一番楽しかった・・・。 サンウォンは数えで26歳にしかならない世間で言うところの若造の身で、まるで老人のような独白を胸に明るい日の光を受ける庭を眺めた。 穏やかな時の流れる村の家々には垣根などなく、かろうじて牧草を食む牛達を囲う柵が張り巡らされてはいた。 長い冬と短い夏を、サンウォンは幾度もそんな村で、身分や階級など気にも留めない子供の一人として過ごした。 そんな村の子供達の中に、アニーもいた。 村の学校は歩くと子供の足で4・50分ほどもかかる距離で、サンウォンは毎朝馬車で送られて登校していたが、帰りは天気さえ良ければ、近所で仲良しのテディやジョーと遊びながら帰宅していた。 そのテディの妹が、サンウォンと同い年のアニーだった。 彼女は快活でお転婆な少女で、いつも兄にくっ付いて、釣りや木登りやボール遊び等、男の子の遊びに加わって負けることがなかった。 その反面勉強も良くできたアニーは、3歳年長のテディの宿題を代わって、兄から小遣いをせしめたりもしていた。 一家の住まうマナーハウスから一番近い民家がテディの家で、歩いても直ぐの友達の家に、サンウォンはたびたび遊びに出かけていた。 彼らの父親は農業の傍ら家具職人もしていて、素朴で味のある作品は人気があり、仲買人を通してロンドンからも注文が来ていたらしい。 そして近所の少年の中で一番大柄で力持ちだったテディは農家の仕事を手伝い、アニーは父親が作った椅子や机を磨く手伝いをしているのを、サンウォンが遊びに行くと良く見かけて、好奇心からその仕事を手伝わせて貰った事があった。 ボロ布に油を取り、薄く木肌に塗りつけて磨いてゆく。 そんな単調な作業だが、アニーと作業場を兼ねた物置の暖炉の前で、小さな丸椅子を並べて、お喋りをしながら椅子を磨いているだけで時の経つのを忘れるようで、サンウォンにはとても楽しかった。 しかしこれはどういう訳か父の知る所となり、戯れにせよ二度とそんな事をしてはならないと厳しく戒められ、約束させられてしまった。 「お前は王子なのだ。目下の者達とどんなに親しくしても、身分の違いをわきまえよ。」 友達を「目下の者」と断じる父の言葉は納得が行かなかったが、日頃は陽気な父が好きだったし、母も「職人のような仕事は一度の気まぐれで充分」と悲しげに言い聞かせるので、サンウォンもいう事を聞くしかなかった。 やがて時は過ぎ、サンウォンが11歳になると、両親は彼を代々英国王室の子弟が学ぶパブリック・スクールに入学させた。 村を出る日、仕立て上がったばかりの制服に身を包んだサンウォンが黒塗りの車に乗り込む時、館まで見送りに来てくれたテディとアニーを含む近所の子供達から向けられた、寂しげな眼差しは今でも覚えている。 昨日まで共に野原を駆け回っていた仲間と隔てられ、一人異世界に放り出されてしまったような喪失感や寄る辺のなさを、幼いサンウォンは感じていた。 学校へと向かう車中、両親の目を気にして涙を見せる事はなかったが、大切な温かいものから切り離される痛みと戦って、少年は沈み込んでいた。 始まるまでは不安で一杯だったパブリック・スクールでの生活にも、サンウォンはすぐに慣れた。 同い年の少年達ばかりの賑やかで楽しい生活。 両親の管理下から放たれた少年達の集団は毎日がお祭り騒ぎで、その騒々しくも賑やかな事といえば筆舌に尽くしがたいが、そこは英国が17世紀からの伝統を誇るパブリック・スクールであるからして、監督する教師達や上級生の手腕も然るもの。 表面上は整然と秩序が保たれていた。 そして同級生達は皆上流階級の子弟ばかりで、サンウォンを他国の王子としても拘りなく受け入れ、同じ仲間として扱ってくれたし、上級生のなかには英国王族の子弟も在籍していたから、教師達から特別扱いされるわけでもなく、サンウォンは自由に学生生活を謳歌していた。 あっという間に・・・という言葉の通りに楽しい7年が過ぎ、優秀な成績を獲得したサンウォンは、大学進学を前に両親の住まう家に戻った。 といっても、サンウォンがパブリック・スクールに入学して程なく、両親はかつて身を寄せていたマナーハウスを引き払い、当時はロンドン近郊にこじんまりとした館を借りて暮らしていたので、少年の頃の懐かしい思い出の村・・・彼にとっては故郷とも思える村に帰ることは、ついぞなかったのだが。 両親を・・・特に父を喜ばせたくて猛勉強を重ね、ついに厳しい審査の末に難関のケンブリッジ大学に通り、トリニティ・カレッジの一員と決まったサンウォンは、意気揚々と帰宅し、両親の喜ぶ顔を期待して二人に報告した。 幼い時には分からなかったが、成長するにつれてサンウォンも自分達一家の置かれている微妙な状況の変化を、感じ取るようになっていた。 終戦直後、米国とソ連による朝鮮半島の分断と、それに伴う立憲君主国家、大韓民国の建国。 国民によって韓国皇室が開かれ、初代皇帝には戦時下、国民のために革命活動に身を投じた父の従弟が選ばれた。 そして父が、事もあろうに朝鮮王朝の正当な後継者と名乗って皇帝陛下に対立していると知り、サンウォンは胸を痛めていた。 自分の目から見ても、父の主張には道理がない。 サンウォンの感覚では、勇敢な父の従弟が国民から皇帝に選ばれたのはむしろ当然で、韓国の人々が立憲君主制を望み、その皇帝を自ら選んだのなら、今さら古臭い血統などを盾にとって出るなど愚の骨頂だと思っていた。 この事はサンウォンからも父に対し折にふれて諫言していたのだが、キョンウォンは頑迷に自説を曲げず、この問題に意見する息子に対し、次第に激昂するようになった。 既にキョンウォンは誰も・・・息子のサンウォンでさえも対等な人間として見ることはなく、自分に逆らうものを認める事の出来ない人間になっていた。 サンウォンが心配したとおり、本国との帰国交渉がもつれきった現在に至る間に、亡命当時から比べると一家に向けられる周囲の目は冷ややかに転じていた。 焦った父は、なりふり構わず英国や米国の有力者にも資金を配り、八方に協力を求めたが事態は一向に好転せず、不機嫌にふさぎこむ事が多くなった。 一方、15年近くにも及ぶ長い論争に疲れた母は、今さら親しいものも少ない祖国に帰るよりは友人も多い英国でこのまま静かに暮らしたいと望み、両親の間には争いごとが絶えなかった。 昔のように仲の良い両親に戻って欲しいと、サンウォンは自分のケンブリッジ入学が、父の気分を変えてくれればと希望をかけていた。 期待したとおり両親は共に喜び、久しぶりに一家水入らずの晩餐は、終始和やかなひと時だったのだが、学期が始まりサンウォンが家を離れるとしばらくして、母から家をでて友人の館に身を寄せると知らされた。 驚いたサンウォンが二人をとりなしたが、既に両親の間に修復の見込みは無かった。 やがて父は母を正式に廃妃とし、さほど間を置かぬうちに新たな妻を迎えた。 父の二度目の妻は英国在住の韓国人富豪の娘で、サンウォンとは5歳しか違わない。 その頃には、父子の間に絆と呼べるものは消えうせており、サンウォンは滅多に家に戻らなくなっていた。 そんな時、サンウォンはアニーと再会した。 トリニティ・カレッジはケンブリッジ大学の31あるカレッジの中の一つだが、学部生の数は一番多い。 同じカレッジに所属する者同士でも、互いに顔や名前を知らない場合も多いのだが、サンウォンとアニーも大学2年目の秋まで、同じカレッジに所属する相手の存在に気付かずに過ごした。 最初に相手に気付いたのはアニーの方だった。 年頃の女性が少女の頃と様変わりしてしまう事を考えれば、サンウォンがアニーに気付かなかったのも無理は無く、アニーの方とて「アレが韓国の王子様だって!」という同級の女同士の会話で、ようやく昔馴染みの面影と成長したサンウォンの姿を重ね合わせる事に成功したのだ。 そして講義の後、友人達と連れ立って歩くサンウォンに追いついたアニーが、「サン!」と昔の呼び名で幼馴染を振り返らせた時から、二人の付き合いが始まった。 懐かしさから急速に距離を縮め深まる二人の交際は、しかしやがて息子を監視していた父キョンウォンの知る所となった。 父は息子を呼びつけ、こう断じた。 曰く、お前は将来皇帝となる王子なのだぞ!外国人の妃など認めるわけにはいかない!身分というものを考えろ! サンウォンから見れば、時代に取り残された人間の妄想とも思える考えに凝り固まった父は、卑劣にもアニーの両親にまで手を回したらしく、その直後サンウォンは彼女の友人からアニーが学期半ばで他のカレッジに移ったと聞かされた。 確かな恋ともいえない淡い想いを残したまま、サンウォンはアニーに二度と会うことは無かった。
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そして今、皇室や王族会がキョンウォン父子帰国のために用意した、旧貴族の邸宅に身を寄せて既に3年近くが経過していたが、サンウォンは若いみそらで日がな一日なす所もなく、ただ漫然と時を過ごすのみ。 そんな彼の楽しみといえば、英国時代に知ったガーデニングだった。 不本意ながら父と共に国に戻り、父の愚かな拘りのために慣れ親しんだイの姓を改め、それでも一般人として職を得て堅実に生きることは不可能なのだと、サンウォンは早い段階で思い知らされた。 生まれ育った英国とは違い、韓国の人々は貴族や王族という存在を敬いながらも遠巻きにし、サンウォンから見るとまるで珍獣のように扱う。 貴族であろうと王族であろうと頓着せず、一般人と同様に気安く接してくれる友人に囲まれていた英国での学生時代、彼の周りには称号を持つ貴族の子弟も数名いたが、仲間達の誰もそんな事にこだわらっていなかった。 貴族だからと敬われる事も、逆に拒絶にされる事もなく、彼らはそれを目や髪の色の違いと同程度の認識で、当たり前のように受け入れていたように思う。 しかし元王子とその息子という「立場」でしか彼を見ない祖国の人々の中で、サンウォンは一人で町に出かけることすら躊躇われる状況に置かれた。 キョ氏父子の行動を牽制するため、王族会が彼らの帰国を大々的に報じた為だ。 今はまだ、国民の大多数にとって戦争は過去ですらなく、そんな彼らにとって「自分たちを見捨てて逃げ出した元朝鮮王朝の後継者」である二人の帰国は、ただでさえ苦しく悲惨な記憶を呼び起こし、手放しに歓迎出来ない風潮は根強い。 そんなところに、王族会側の警戒感を漂わせた報道が加わり、父子に向けられる一般国民の視線は更に厳しいものにならざるを得なかったのだ。 二人のために用意された邸宅も王族会の評議員達の館が立ち並ぶ中にあり、彼ら父子を監視する意図は明白だった。 また、身動きが取れない周囲の目をはばかるだけでなく、一般の国民として生きることは、一人、現代から遠く離れた朝鮮王朝時代に取り残された父の矜持が許さない。 ならば、どれほど冷遇されようと王族の一人として皇室に仕え、国と皇室の発展に力を尽くす事で、父が放棄した元王子としての責務を全うしようかと考えても、それまでに父が起こした数々の騒動を思えば難しく、結局サンウォンは何もする事がなかった。 大学であれほど熱心に学んだ法律の知識も、いずれは自分で事務所を立ち上げたいと言う夢も、全ては無価値で無意味なものになってしまった。 やがて青年は次第に無表情になり、毎日を一人黙々と庭仕事に費やして過ごしていた。 それでもはじめは無聊の慰めに1種類ずつ好きな草花を取り寄せて、伝統的な様式を守る庭園の人目につかない片隅で細々と栽培する程度だったのだが、仕舞いには装飾的な腰高の囲いを設け、素朴な門扉に“イングリッシュ・ガーデン”と看板まで掲げた本格的な庭園を作り上げてしまった。 客を呼びつけておいて、平気で長時間待たせるキョンウォンから謁見の許しが出るまで、訪問客は庭で時をつぶすのが習慣になっていたため、まるで本職の庭師のように花壇に精魂を込めるサンウォンは、しばしば彼らの相手をしていた。 韓国では珍しい本格的な英国庭園を案内された客達は、やがて訪問の趣旨を取り違えたようにサンウォンの庭で過ごす時間を喜び、青年はそこで多くの知己を得ることになる。 息子が庭いじりをたしなむ事を、父キョンウォンも貴族の趣味として最初は黙認し、やがて屋敷を訪れる客達の評判になるに連れ積極的に協力するようになっていたから、サンウォンは一層のめりこんだ。 そして遠く海外から取り寄せられ、国内ではサンウォンの庭でしか目にする事の出来ない品種を目当てに訪れる人々を前に、キョンウォンは過去の栄光を取り戻す妄信を強めていった。 その妄信は、やがてキョンウォンをして現実世界から目をそむけ、聞きたいことだけを聞き、信じたい事だけを信じる、正常な精神のバランスを欠く人間に至らしめる事になり、そんな父の変化を目の当たりにした青年は自責の念に駆られた。 父の元を離れ、自分の意志で新たな人生を築き上げたい望みはあるが、父をここまで追い込んだ責任が自分にもあるのではと思うと、決意が鈍った。 ♪♪♪♪♪♪ 朝の日差しの中、初恋の少女アニーと同じ名の薔薇は白い小ぶりな花を咲かせており、清らかな花弁をもてあそびながらサンウォンが物思いにふけっていると、台所の仕事に雇われて来ている中年の女中が、見覚えのある老人を伴ってやってきた。 その賑やかな笑い声の主が、つい二・三日前に見知ったばかりのあの老人だとサンウォンは息を呑んだ。 薔薇の茂みの陰に隠れて立っている形になったサンウォンは女中と老人には見えていないようで、人々から忘れ去られた静かな時間を引き伸ばしたい青年は息を潜め、それでも熱心に二人のやり取りに耳を澄ませた。 なぜなら初対面のあの日、老人があけすけな笑顔で自ら名乗った瞬間の印象が、強く鮮明にサンウォンの心に残っていたからだ。 それこそ、景色だけでなく老人の言葉だけでなく、あの日の天気や日差しの加減も、その時微風に香っていた花の名前さえ思い出し、記憶の中に再現できそうな気がするほどに。 韓国への帰国が決まってからというもの、彼自身の意志を無視して変転する環境や周囲の人々の勝手な思惑から身を守るため、豊かな感受性を持つ陽気な青年だったサンウォンは、心に城壁を築き上げた。 本当なら英国に残り職を得て家庭を作り、離れ離れに暮らしていた母を呼び寄せて共に暮らしたい、苦労をかけた分安心させてあげたいと思っていたサンウォンは、強引な父の取り決めで帰国を強いられた。 父は息子が自分と共に帰国することを拒むなど、初めから思いもよらないらしく、何もかもが決まってしまってから帰国の日を知らされたサンウォンは、韓国の土を踏んだその時から自分の心を麻痺させてしまった。 そんな、サンウォンにとって無彩色と化していた現実世界に、あたたかく眩しい陽光を投げかけたのが、無骨な老人の底抜けの笑顔だった。 「ウチでたくさん取れたもんだから、形は良くないけどネ・・・。」 息を潜めて様子を窺うサンウォンの佇む茂みを通りかかりながら、シン老人は片手に大きな麻袋を抱えて照れくさげに笑った。 どうやら自家栽培の農作物を届けに来た様だ。 この館に雇われている事では、家族から反対され知人からも嫌味を言われたりと不愉快な事も多く、坊ちゃんは良い方だけど旦那様は陰気だし、来る客といえばふんぞり返った嫌な奴ばかりだし、いくら給料が良くてもねぇ・・・とふさいでいた中年女中は、チェブンの素朴であたたかな気遣いに感激して、しきりに礼の言葉をまくし立てる。 日頃は口の悪い中年女中が、足の悪い老人を気遣って荷物を持とうと愛想良く申し出るのに、シン老人は「女衆に重い物を持たせるなんて出来ませんや」と威勢良く断って、嬉しげに頬を染めた中年女が示した食材置き場まで、のっしのっしと麻袋を運んでゆく。 そんな老人の様子にサンウォンは、アニーの父親が時折畑で取れたカボチャなどを届けてくれた事を思い出していた。 ・・・そうだ、あの時は母上がパイを作って下さった。 回想の温かさに涙ぐんだ青年は、女中と別れたチェブンが一人、のんびりと薔薇の茂みの前を帰るのに気付かなかった。 ややびっこを引きながら薔薇の茂みを通り過ぎようとしたチェブンは、不意に立ち止まり暢気な目を素朴な白い花に向け、唐突に話し出した。 「これは何という花ですかね?」 前置きもなく、視線を向けられた訳でもないが、サンウォンは老人が自分に向けて語りかけているのを感じた。 気付かれていた様子はなかったのに・・・と、サンウォンは驚いたが、考えてみればシン・チェブンは革命グループの中でも歴戦の勇者だと聞いたと思い直し、青年は茂みの外へ歩み出た。 サンウォンが丹精を込めた美しく咲く花々に感心し、緩んだ口元に笑みを浮かべて惚れ惚れと眺めるチェブンの、いかにも暢気そうな容貌からは分からないが、戦時下では占領軍の兵士達と渡り合い、危険と隣り合わせの毎日で磨かれたに違いない感覚は、年老いた今も変わらず鋭い筈だと青年は認めた。 「薔薇です。・・・アニーと言います。」 「ほう!これが薔薇ですかい?薔薇ってなぁ・・・もっとゴテゴテしてると思ってたが!」 こんな薔薇なら私も好きですわい!と大らかに破顔した老人は、サンウォンの笑みを誘った。 笑ってみて、サンウォンは驚いた。 自分がこんな風に自然に笑えるのは、一体どれくらい振りだろうかと思い至ったのだ。 興の乗ったチェブンが指差して訊ねるまま、サンウォンは薔薇を始めとして彼の丹精した庭の花々を案内して回った。 「これだけの庭じゃあ手入れも一仕事だ!サンウォン様は立派な百姓になれますよ!」 一通り見て回ったチェブンは感心して若者を見上げ、褒め称えた。 土は肥えてるし立ち枯れの枝もなく、病気にかかった株も虫にやられた株もない。 様々な計算の末に細心の注意をはらって設計され美しく整えられた庭は、適切な間隔をあけて様々な樹木や花が配置されており、一見すると、それぞれの植物が無造作に自然のまま生えているかのように感じる。 亡き妻の実家が農家で、自分でも小規模ながら畑を持っているチェブンには、庭の彼方此方に尽くされた丁寧な仕事の跡や、サンウォンの苦心が読み取れたのだ。 一方のサンウォンは「立派な百姓になれる」という賛辞に言葉もなかった。 自分に対して「百姓になれる」などと言う人間は居なかったし、そして人によっては侮蔑と捉えるかもしれないこの言葉を、この老人は心から最上級の賛辞として口にしているのだという事が、若者には分かったのだ。 「有難うございます。」 頬を染めた若者は、小声で答えた。 そんな若者に、何か新しい発見でもしたように見開いた大きな目を向け、やや首をかしげたチェブンは、やがて顔をくしゃくしゃにして笑った。 「腹がすいているんでしょう?百姓仕事は朝飯前にするもんだが、これだけの庭じゃあペコペコになっちまう!」 思いもかけない賛辞に口ごもった若者を見た老人は、どこか元気のない様子を空腹の為と考えたようだが、慌てて否定しようとした彼の腹が控えめな音を立て、それを聞いたチェブンが豪快に笑う前でサンウォンは赤面した。
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こんな時間に家人を煩わせたくない、いつもの事ですから昼食まで待ちます・・・と遠慮する青年は、「飯は一日三度、食べたが良いですよ」と主張する老人を説き伏せようとしたのだが、あえなく失敗。 そんならワシが何か軽いものでもこしらえましょうかい?!とその気になっているチェブンに促されて屋敷に戻り、彼の言うままに遅い朝食の準備を頼んでしまった。 サンウォン様の御為にチョットした物をこしらえたいので、少しだけ台所を使わせて欲しいとニコニコ顔のチェブンが頼んでみると、日頃は縄張りを荒らされるのを嫌う中年女中も快諾してくれた。 そして見る見るうちに焼き饅頭や、先ほど持参したばかりの新鮮な野菜を使った炒め物や、スープなどを整えるチェブンのその腕前は、見物していたサンウォンや女中にとっても目を見張るもので、料理の薀蓄を交えたお喋りをしながら、楽しげに包丁をふるう様子に見ているこちらまで引き込まれてしまう。 良いお天気ですから庭で食べましょうと、サンウォンが庭園の真ん中に用意したテーブルに、湯気の立つ料理の皿を女中が運び整えた。 食卓の用意が整うと、折角の素晴らしいご馳走を一人で食べるのでは味気ない、皆で食べましょうとサンウォンが熱心に勧めるのに、誉められてほくほく顔のチェブンも嬉しげに同意した。 そして、しきりに恐縮する女中を手招きした老人は、芝居っ気たっぷりに女中の耳元で声を潜め、「サンウォン様に、得体の知れない料理を食べさせるわけにはイカンでしょう?」と尻込みする彼女を唆し、山盛りの皿を差し出して「お毒見です」と目配せする。 チェブンの押しの強さに負けた女中は、優しい坊ちゃんのお為だし・・・と自分に言い訳をして、端に遠ざけた椅子の上で、巨体を小さくして料理に舌鼓を打った。 明るい太陽の下で囲む賑やかな食卓は若者の心を浮き立たせ、食後のお茶を用意した女中が空になった皿を下げていった頃には、陽気な老人を相手に、この数年の無口を取り戻すように話に花を咲かせていた。 話し上手なだけでなく聞き上手なチェブンに促され、サンウォンは外来の植物を育てる苦心や工夫をポツリポツリと語った。 そして若者の語る事柄に熱心に聞き入り、好奇心に輝く瞳をまん丸に見開いて話の続きを催促する老人に、サンウォンはやや照れながら、最近では薔薇の新種の交配を試しているのだと漏らした。 香は良いが花の小さい品種と、大輪の花を咲かせる品種の花粉を掛け合わせて、双方の良い特色を併せ持つ新しい品種を作り出す事が出来ないかと考えていると、きわめて単純化した新種交配のしくみを説明する。 驚いたチェブンから手放しで感心され、専門家でもないし、まだ始めたばかりで、どうなるか全く分からないが・・・と謙遜するサンウォンはやがて表情を曇らせた。 「しかしこれは、自然の摂理に背く事なのかも知れません。人間の勝手であるべき姿を変えるのですから。」 突然声を荒げた若者の口から、堰を切ったように溢れ出した言葉に老人は驚き、暫く小首をかしげて考え込んだ。 そして難しい顔で押し黙る老人を思いやり、詮無いことを言ってしまいました・・・と曖昧な微笑みで誤魔化そうとしたサンウォンに、一転して明るい瞳を向けたチェブンは楽しげに語った。 「百姓は虫や病気にやられんように作物を守ります。」 生えっ放しでは、虫に食われたり病気にやられたりで良い作物は出来ないし、肥料もやって土を耕さなきゃあ美味いモンは食えない。 そりゃあ自然の山菜や野草も上手いけど、太って美味いものをべたいのは野生の獣も、ワシら人もおんなじだと思うです。ワシは、ワシらも自然の仲間だと思うですよ、おっきな生き物の家族の一員だと思うです。 綺麗な花が見たいと思う気持ちも自然の仲間の気持ちだと、ワシは思うですよ。 それに、自然の決まりはワシらが破ろうと思って破れるモンではありませんですで、サンウォン様がなさる事がその決まりを破る事なら、それは決して上手くは行かんです。 自分の言葉に照れたように、ここでチェブンは口を閉ざした。 そして美しい庭の景色に緩んだ顔を向けた。 あたたかな沈黙の中、老人の言葉がサンウォンの胸にしみこんでゆき、その胸から全身にジワジワと熱が伝わっていった。 不意に全身を満たす活力に青年は震え、大きく息を吸い込んだ。吸い込んだ空気は新鮮で冷たい水のように彼を潤し、サンウォンはみずみずしく薫る花や緑から分け与えられた生気を、そのまま飲み込んだ気がした。 「サンウォン様は、庭師になんなさるですか?」 やがてチェブンはくりくりと見開いた瞳をサンウォンに向け、おもむろに尋ねた。 私が、庭師になる?そんなことをあの父が許すわけがない。思いもしない老人の問いにある種の滑稽さを感じ、また、もしこんな事を聞いたら激怒するであろう父の姿が脳裏に浮かんで、サンウォンは笑って答えた。 「いえ、庭は私の趣味でして、大学では法律を学びましたが・・・。」 しかし口ではそう答えながらも、確かに今後もこのままの状況が続くなら、私は結果的に、この家専属の庭師という事で人生を終えるのだろうな・・・とサンウォンは思った。 「法律ってぇと、そんじゃあ、弁護士先生とか裁判官様とか?」 白黒が半々程度で混ざるモジャモジャの眉を八の字に寄せ、「お」の形にタコの様に突き出された口でそう呟いたチェブンは、徐々に上体をのけぞらせ、しげしげとサンウォンを眺めまわした。 そんな老人の目には、驚きと尊敬の念がありありと見て取れ、その目を真っ直ぐに向けられた青年はくすぐったい気持ちになった。 チェブンの言葉にも、そして豊かな表情にも濁りというものがない。 彼の全身から直接伝わってくる明確な感情が、サンウォンには心地よかった。 そして、満点を誉めて貰おうとする子供のように胸を張って、かつて英国ケンブリッジ大学に在籍する学生だった頃の志望を口にしていた。 「貿易関係の法律を主に学びましたから、いずれはそういう仕事をしたいと考えていました。」 サンウォンの言葉を聞いたチェブンは、青年の期待通りに全身で強い感心の態を示し、更に強い尊敬の色に染まった瞳をしばたかせて何度も頷いた。 そんな彼の反応に気を良くしたサンウォンは、緩んだ顔をチェブンから背けて湧き上がる照れくささを隠したが、やがて思い当たって唇をかんだ。 今の自分は、ここで、ただ、死なないでいるだけだ。口にした夢が実現する事は無いとゲームの初めから諦めている臆病者、実現の為に周囲に働きかける事も自ら学ぶ事もせず、ただ無為に時間をつぶしているだけ・・・、ただ漫然と流れに身を任せているだけだ。 そんな自分を、生きている人間といえるだろうか。 もう一度、生きたい、自分の足で進みたいと青年は思った。 今さら確認するのも馬鹿馬鹿しいが、自分には父キョンウォンの言うとおりに皇統を継ぐ気持ちなど無い。たとえその気があっても、妄想病患者の世迷言のような未来が現実になるわけが無いと、サンウォンは冷めた目で割り切っていた。 それなのに自分はこの三年間、一体何をしていたのだろう?美しい牢獄のようなこの屋敷で、幼い子供の時分と同じく父の言いつけに従って暮らし、時が過ぎてゆくのをただ見送っていたのは一体何の為だったのか。 サンウォンは、無駄に費やした三年という歳月を思った。 現実から目をそむけて、この屋敷にこもって膝を抱えて蹲っていれば、時の流れと共に自分を取り巻く厳しい世界が優しくなるとでも?なにかが変わるとでも?そんな事は、ありえないと知っていた筈だ。 その時、サンウォンは突然、20代前半という人の一生で一番活気に溢れ、楽しく有意義な筈の三年を無駄にした事に思い当たった。 そして、会話の途中で急に口を閉ざし、俯いて考え込む青年に不思議そうな眼差しを向け、やがて小首をかしげて一人席を立ち、花壇を眺めに行ってしまったチェブンにも気付かず、強い後悔に打ちひしがれていた。 父は・・・朝鮮王朝第一王位継承権者イ・キョンウォンと言う人は、いわば過去に置き去りにされた亡霊だ。 パブリック・スクールに入学して以来、家を離れ、両親と別れて生活する時間が長かったのは確かだが、生まれて以来26年近くの付き合いだ、父の思いや人となりは熟知している。 王子として生まれ、何不自由なく育ち、いずれは王になるものと信じて疑わなかった父は、戦争によって国を出る事さえなかったら、今頃は人々に慕われる君主になっていたのかもしれない。 もし父が100年前の時代に生まれていたら、幸せな生涯を終えたかもしれない。 しかし時代は変わり、世界は大きく変わってしまった。 それでも過去に生き続ける父は、自分の主張を無条件で受け入れない世界には、決して目を向けようとはしないし、おそらく今後も、望まない現実を受け入れようとはしないだろう。 大きく変わってゆく時代の節目に生まれたことが、父の不運だったのだ・・・と、サンウォンは初めて父親という人に悲しみを抱いた。 幼い自分にとっては、厳しいけれど強く明るく聡明な父親だったし、かつてはそんな父を誇らしく感じていた。 長じて後は威圧的な父を疎ましく思ったこともある。 母を離別し、息子と何歳も歳の違わない後添いを迎えたときには憎しみすら抱いたが、それでも父はサンウォンにとって強い権威の象徴、畏怖を感じる対象だった。 父を哀れと思う事になるなんて・・・と、サンウォンは悲しかった。 「何をしている!」 「父上・・・。」 穏やかな日差しが降り注ぎ、微風に揺れる草木のざわめきの中、サンウォンの物思いが高圧的なわめき声で破られた。 「下女に聞いたぞ、こんな所で下賤の者に同席を許すとは、一体、其方は何を考えておる!」 目覚めたばかりなのだろう、だらしなく部屋着を着崩してガウンを羽織ったままのキョンウォンががなり立てる言葉に、サンウォンは目をむいて立ち上がり、顎を上げて父の赤ら顔と対峙した。 「シン氏は父上のご友人では!」 「友人だと!?王の世子たる其方にとっては皆臣下だ!何度言えば分かる!」 この言葉に、サンウォンは深く息を吸うと目を閉じ、奥歯を噛みしめた。 後生大事に実体のない権威にしがみつき、そうして虚勢を張って、何もかもを拒否して、貴方は何を守っているのですか、何がそんなに大事なのですか!妻や子や自分自身の幸福よりも、貴方にとって何がそんなに貴重なのですか! 言いたい言葉は沢山あった、しかし何を言っても無駄だと青年は全てを飲み込んだ。 父と自分は相容れない、分かっていた筈だった・・・。これ以上何を話しても平行線だ。 胸の奥の徒労感とわずかに残る寂寥を押さえつけたサンウォンは、騒ぎを聞きつけて、やや離れた場所からびっこ引き引き慌ててやってくるチェブンに別人のような笑顔を向けた。 「今日は本当に有難うございました、父上、シン氏に農作物を頂いたのですよ。」 「・・・ほう、それは良かった。」 チェブンに見られていた事に気付いていなかったキョンウォンは、流石に気まずくなったのか息子の鋭い視線に促されて不承不承頷いて見せ、そのまま踵を返した。 心配顔のチェブンに「宜しければ薔薇を少しお持ちください」と声を掛けたサンウォンだが、振り向きざまの父の言葉に凍りついた。 「シン・チェブン、今後は分をわきまえよ。」 寂しげに「申し訳ございませんです」と挨拶し、頭を下げて帰ってゆく後姿を見守りながら、サンウォンの心は再び冷え込んでいった。
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どのくらいの時が経ったのか、目を閉じたまま両の拳を震わせて立ち尽くしていたサンウォンが、ふと気付くと、客人も騒ぎに気付いて案じ顔を覗かせていた家人も、威丈高にふんぞり返った父親も去った庭で、彼は一人風に吹かれていた。 心地よさげに微風を受け、サワサワと揺れる薔薇の枝が突然の強風にしなり、白い花がサンウォンの頬を打った。 ――サン!シッカリなさい―― 負けん気の強いアニー、やんちゃな盛りの男の子達に混じって、決して後れを取らなかった。 女の子だからとサンウォンが彼女を庇おうとすると、キッと眦をあげてその手を拒んだアニー。 まるで彼女に叱咤されたようだ・・・と、若者は皮肉な笑みをその口元に刻んだ。 出会って間もない老人と記憶の中の幼馴染。強烈な存在感を主張する二人からの助勢を得て、決意を胸に秘めたサンウォンは館に戻り、執事に父の居場所を尋ねる。 メイン・ダイニングにてお食事を・・・と返答する執事は、日頃は物静かな若者が発する妙に強張った声に異常を感じ取り、意識して上体を傾けたまま、無礼にならない程度に素早くサンウォンの様子を盗み見た。 鼻息も荒く「分かりました」と踵を返すサンウォンを見守る執事の表情は暗く、足早にダイニング・ルームに向かう若者の背後で、執事は痛ましげに眉間を寄せ、ひそやかな溜息と共に首を振った。 「父上、お話がございます。」 メイン・ダイニングの扉を押し開くなり、サンウォンは開口一番、声高に宣言した。 「何事だ。」 若かりし頃の美丈夫が見る影も無く、肥満した肢体をひざ掛け椅子に押し込めて、朝食を――時間的には既に昼食と言った方が良い――取っていたキョンウォンは、息子の剣幕に毛ほどの関心も示さず、ノロノロと咎めるような視線を向けた。 空ろな瞳に何の感情もあらわさずにブランデー入りの紅茶を煽り、キョンウォンは息子と目を合わせることもなく、五月蝿そうに短い言葉を吐き捨てた。 そしてサンウォンの返事も待たずにのっそりと席を立ち、サンルームのカウチに重たげに身を投げ出し、葉巻を手繰り寄せる。 その怠惰な姿に我知らず目をそむけた若者は、拳を握りしめ、嫌悪感を呼気と共に吐き出して苛立つ心を落ち着かせる。 落ち着け・・・私情に流されてはいけない。これはビジネスだ。大学で仲間たちと、裁判や交渉のシュミレーションをした時のように、完全にビジネスと割り切って、論理的に話を進める。父の・・・否、相手方の感情論に流されてはいけない。 頭の中で繰り返す言葉が体に浸透するのを待ってから、サンウォンは父親の濁った瞳を見ないように意識して視線を下げ、強張った低い声を出した。 「父上、私、近々ここを出ようと存じます。」 爆弾発言に父が怒り狂うものと、心中で身構えたサンウォンだったが、しかしキョンウォンは毛ほどの動揺も見せずに、己がくゆらせた葉巻の煙を、ただ眺めている。 「ふん・・・。」 「私も成人男子、いつまでも親に甘えるようでは恥ずかしく存じます。」 父親の反応に不審を抱くものの、過剰反応されなかったことに力を得たサンウォンは、反対に備えて用意した建前の文句を並べて見せた。 「ふむ・・・。」 「無為に暮らす事に飽いたのです、どうか御願い申します。」 父親に向かって従順に頭を下げた息子を一瞥もせず、キョンウォンは葉巻の香にしばし目を細めていたが、思いついたように身を起こすと呼び鈴を鳴らして執事を呼び、息子に傍らのソファーを指し示した。 サンルームの入り口で「お呼びでございましょうか」と畏まる執事に向かって無造作に片手を振り、キョンウォンはブランデーを・・・それから過日の王族会からの書状を持て・・・と命じた。 畏まりました・・・と最敬礼を返し、丁重に扉を閉めて遠ざかる執事のひそやかな足音を背後に聞きながら、サンウォンは落ち着き払った今日の父に、今さらながら違和感を覚えていた。 「私も其方の今後については考えておった。」 「は・・・有難う存じます。」 思いもよらない、静かで理性的な父親の言葉に驚き、サンウォンはソファーの上で身じろぎをした。 落ち着かない息子の様子に空ろな眼を向けた父親は、「当然の事だ」と悦に入った様子で鼻を膨らませ、やや得意げに語りだした。 「過日、王族会より申し入れがあってな。其方の妃についてだ。」 「な・・・。」 思いもよらない話の流れに、サンウォンは絶句した。 そして、水面に映りこむ世界のようにユラユラと揺れて見える父キョンウォンが、酒に濁った瞳で自分をひと撫でするのを呆然と見つめた。 父はシニカルに頬をゆがめつつ、いつの間にか執事が運んできたブランデーグラスを片手で握り締め、もう一方の手で大判の封書を息子に向けて放った。 目の前に放られた封書を手に取り、機械的に解いて中身を取り出すサンウォンの脳裏に、半ば独白のようなキョンウォンの呟きが不自然に拡大されて反響していた。 「その娘が、ス家の生き残りだ。」 キムだ・・・こんな事を思いつきおったのは・・・そんな事は分かりきっておる。あの男は晴朗君(朝鮮王朝時代 聖祖陛下の号)の妃の一族だ。無論、私を蹴落とそうと目論んでおったに違いない。親切ごかしに近づいて、私と其方を罠にはめるつもりだ。 戦争前から既に没落しておったが、ス家の当主は元々歴代の神職をも務めた家柄。望めば東宮妃として不足の無い家格に、私も不服の言いようが無いはずと笑っておるに相違ない。 だが・・・このたびは奴どもの手策に乗ってやる事にしたのだ。あの者どもは何も知らぬ。こちらを罠にはめたつもりで己の足元に穴を掘っておるとも気付いておらぬ!はっ・・・はっ・・・は! キョンウォンの支離滅裂な呟きの大半はサンウォンにも理解不能だったが、封書に入っていたのがどんな種類の文書であるかは間違いようが無い。 経歴書、家系図、釣書、身元保証人からの人物紹介状、健康状態を保証する医師の診断書、持参金の目録・・・。揃っていないのは写真だけだった。 ここから導き出される、分かりきった結論が目の前にある。 しかしサンウォンは、渡された文書の束をノロノロと捲りながら、彼の意志に関わらず変転してゆく状況の中で、自分が何処に流されようとしているのか見極められず、半ば呆然としていた。 無理も無いがな、あんな成り上がり者に我ら一族の長い歴史の重みが理解できよう筈もない・・・。いずれにしてもこれは好機ぞ、大人しう縁組を受け入れたと見せて油断させておくのだ。 「その娘を其方の妃として娶る。急ぎ準備をせよ。それから・・・」 「父上!一体・・・何のお話でございましょう。」 底光りするキョンウォンの瞳の狂気を直視できないサンウォンは、文書の束に目を落としたままだったが、それでも父の言葉を遮った声には、従順に流される気は無いとの決意がこもっていた。 話の途中で言葉を遮る無礼に反射的に目をむいたキョンウォンだが、睨み据えた息子の姿に罵声を飲み込んだ。 端然と座したままのサンウォンは、膝に文書の束を抱え、歯を噛みしめ、やや俯きがちに前方の床を睨んでいる。 その姿に動かしがたい意思の力を見たキョンウォンは、一つ大きく息をつくと、物柔らかに語りだした。 「息子よ、私は、玉座を取り戻す事を、諦めた。」 驚きにサンウォンは固まった。 今、耳にした言葉が信じられない。 呼吸すら忘れて狼狽える若者は、ゆるゆると顔を上げ、父の顔を直視した。 視線の先の父、キョンウォンは、空虚な瞳を、息子に向けていた。 最後に、こんな風に互いの目を見詰め合ったのが何時だったのか、サンウォンには思い出せなかったが、今、見交わす父の目に自分が映っていない事だけは分かった。 彼の父親は、既に、何も見てはいなかった。 ただ時間に取り残された者の悲哀と、人々から忘れ去られた者の痛みと、居場所を奪われた者の憎しみ、それだけが朝鮮王朝最後の後継者であるキョンウォンの目に映る全てだった。 私が玉座を取り戻す事は、ついにあるまい。しかし其方は諦めてはならぬ。其方は未だ若い。 私は其方に最高の教育を受けさせた。王位を継ぐものとして修めるべき教養も、品格も・・・。勿論、国を離れた生い立ちゆえか、其方は幾分己が身を軽く考えすぎる嫌いがあるが、それも高貴な者の鷹揚さと言えば仕方もないこと。目下のものに慕われる事も必要だ。其方は私の自慢の息子だ。 其方ならば、必ず私の無念を晴らし、悲願を達してくれると信じておる。 此度の縁組を持ち込んできたのは、簒奪者の一味、王族会の不忠者の策謀ではあるが、彼奴らの読みは浅い。其方に跡取りの無いス家の娘を娶わせ、やがてはス家の姓を継がせ、イ家への復帰を阻止し、ひいては皇位から遠ざけようとの腹は見え透いておる。 だがな、これは彼奴どもの狙いを逆手に取る好機なのだ。 由緒正しい家柄のス家だが、今では跡取りの男子もなく、たった一人の生き残りの娘は24にもなって嫁の貰い手も婿養子の話もまとまらず、寂れた館に暮らしておると聞く。 彼奴らが、そのような娘を其方の妃にと言い出したのは、後ろ盾も縁故も無い没落貴族の生き残りをあてがって、我らの勢力をそぐ目論見だ。 だがな、私を正当な君主と仰ぎ、忠誠を誓っている他の貴族どもをひきつけておくには、かえってこの方が都合が良い。決まった勢力と手を組めば、他の者達が離れてゆこう。王者とは、常に大勢を見なければならんのだ。 其方が正当な地位を取り戻した暁には、後ろ盾も無い娘など、何とでもなる。幸い長老の誰かしらが親代わりとなり、古臭い館にも手を入れて持参金も彼奴らが充分に用意するそうだ。其方は悠々と任せておれば良い。 ここはひとまずこの娘を娶り、恭順の態を取り繕う事だ・・・。 己の言葉に酔ったように、次第に加熱するキョンウォンの長口上を聞くうちに、サンウォンは、無性に大声で笑い出したくなった。 さぁ!自分がここで、この父の面前で衝動に身を任せて笑い出したら、果たしてこの哀れな病人は、どんな反応をするのだろう?目をむいて怒鳴るだろうか、それとも都合の悪い現実を無視して、何事もなかったように振舞うのだろうか? 若者が漏らした小さな嘲笑は、妄想に身をゆだねる男には届かなかった。 久しぶりに会話らしい会話をしているというのに!何処から見ても正常に見える、おそらく事情を知らない者の目には、子を思う父親の愛に溢れたような今日の父であるというのに!何故だ、いつから、一体何処からこんな事に! 接点の見えない会話に疲れたサンウォンの目に、父キョンウォンは哀れな病人としか映らなかった。 「父上、折角のお心遣いですが、私は・・・気が進みません。」 病人をなだめる為の優しい声で返答し、サンウォンは溢れてくる涙を、まばたきで退けた。 「安心いたせ、年は年だが容貌に不足は無いらしい、いずれにせよ決まった話だ。」 この縁談が調えば、其方は晴れて独り立ちとなる。親元が窮屈になったらしいが、それも無理のないことだ、あと暫くの辛抱と心得よ。 今日は朗らかな父の、陽気で空虚な、笑い混じりの言葉に耐え切れなくなったサンウォンは、静かに頭を下げ、足早にその場を後にした。 呼吸がしたい・・・日の光の中で・・・。
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