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太平洋戦史残侠伝(番外)
東京裁判で終身刑を言い渡された梅津美治郎は昭和二四年一月八日に直腸ガンで獄死した。
この「無言の将軍」は生涯、日記や手記など残すことはなく、
病床には「幽窓無暦日」と書かれた紙片が残されていたという。
皇道派と統制派の激しい路線対立にあった昭和陸軍にあって、
学者肌の軍人と呼ばれた梅津は良識派軍人とも言えるだろう。
たとえば、梅津の部下としての参謀次長・河辺虎四郎もそういったタイプの軍人だった。
良識派軍人というと、
海軍の米内光政・山本五十六・井上成美の「海軍左派トリオ」または「海軍三羽烏」を
思い浮かべるだろうが、暴走した軍部といわれる陸軍にも多数存在していた。
現場指揮官としては、「武士道的軍人の典型」と評された今村均。
アメリカ軍の指揮官に「日本軍のなかでももっとも勇猛であった」といわしめた硫黄島の戦いを指揮した栗林忠道。
インパール作戦での撤退でみせた宮崎繁三郎の姿勢。
駐在武官にあっては辰巳栄一や磯田三郎、小野寺三郎などがあげられる。
陸軍の中核をなす、参謀本部にあっては日中戦争開戦当時の参謀本部次長だった多田駿や
戦争指導班(参謀次長直属組織)の堀場一雄など決して少なくはなかった。
大東亜戦争の失敗には支那事変による長期消耗戦突入と米国開戦があげられる。
満州事変の首謀者・石原莞爾でさえも、日中戦争には不拡大派の立場をとった。
不拡大派は少なくなかったのだろうが、それがまとまって流れを変えるには至らなかった。
また、日米開戦に対しても無謀であるという見解を持つ者たちは「消極派」として、
声高な「積極派」に押し切られてしまう。
時代的な環境と軍人としての在り方の問題もあるだろうが、
良識派のひとつの特徴として彼らは政治色が薄い。
結果として、時代は常に声の大きい積極派が主導権を握り、彼らはその流れに甘んじることになる。
梅津美治郎の生涯を俯瞰してみると、まさに典型的な良識派軍人だったことが窺える。
組織力学の法則なのだろうか。
激しい派閥抗争が繰り替えさえた場合には、
その中間地帯にある無色な人物が重要なポストに就くものである。
そのことが、梅津を二二六事件の事後処理を担当したことや、
最後の参謀総長として太平洋戦争の降伏文書調印式全権を引き受けることの宿命を暗示させている。
梅津の東京裁判で戦争責任はノモンハン事件の事後処理として関東軍司令官を五年間務めた経歴と
昭和一〇年の「梅津・何応欽協定」に比重がおかれたという。
この何応欽協定とは、華北で相次いだ反日テロが国民党の主導によるものとし、その撲滅を理由として、
一、河北省内の国民党支部をすべて撤廃
二、国民党駐河北省の東北軍第51軍、
国民党中央軍および憲兵三団の撤退
三、河北省主席である于学忠の罷免
四、すべての抗日団体とその活動の
取り締まり
という内容の協定だったが、梅津自身は当初このことをまったく知らなかったという。
手厳しい言い方にはなるが、謀略や政治に疎いのである。
日本はミッドウェー海戦の敗北の後の「あ」号作戦(マリアナ沖海戦)の失敗によって、
敗戦は決定したのだと言われている。
そう考えると「レイテ海戦・フィリピン攻防戦」も「硫黄島」も「沖縄戦」も無意味な戦いになってしまうだろう。
特攻自体もそうである。
なぜ、日本は戦い続ける必要があったのだろうか?
梅津自身も本土決戦は不可能であるとしながら、
終戦時の御前会議では陸軍を代表して本土決戦を主張している。
そして、ポツダム宣言受け入れには参謀次長の河辺と共に断固反対したが、
天皇の意志が受諾にあると知るとそれを受け入れる。
米国戦艦ミズーリ号の甲板に立ったのは降伏に賛成した鈴木貫太郎総理(海軍出身)でもなく、
米内光政海軍大臣でもなかった。
陸軍参謀総長として、統帥の崩壊に立ち会う軍人・梅津美治郎の心境は想像を絶するものがあっただろう。
そう考えれば、人間の運命と時代の巡り合わせとは不思議なものである。
また、良識派というものも非力を思い知らされるのである。
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