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小学3年生の僕は、初めてのオリジナル曲を完成させた。白鳥が初めて羽ばたく瞬間をイメージした曲だ。 僕は、タイトルに“白い夢”とつけた。 初めてのコンクールに先立ち、Y社の発表会に出演できることになった。僕に参加資格はなかったが、ピアノの先生の計らいだった。発表会なので優劣はない。先生は、まず、観客を前にして演奏する雰囲気に慣れることを僕に勧めた。 課題曲は自由だったので、僕は、このオリジナル曲を弾くことにした。 しかし、その日に向けて練習していると、恐ろしい考えが湧いてきた。僕が“真っ白”と呼ぶ狂気のことだった。発表会当日に、この“真っ白”が現れたらどうなるか。自分をコントロールすることが出来るのだろうか。確かめる方法は一つしかない。テストしてみるんだ。つまり、わざと“真っ白”になるように仕掛け、そして止められるかどうか試してみる。でも、いったいどうやったら起こせるんだろう。“真っ白”になるのは突発的なもので、どんなときになぜ起こるのか、自分でも全然わからない。そう、いったい、どうしたら意図的に起こせるのか? 眼を閉じて、警戒信号が鳴り始めるときは、どんな感じだったか、何とかして思い出そうとする。今にも心臓が破裂するかと思われるほど動悸が激しくなり、頭が朦朧としてくるときの記憶を、何とかしてたぐり寄せようとする。だけど、自分自身で実際に体験したという実感がまるでない。本か何かで読んだことのようにしか思い出せない。浅く早く呼吸して朦朧状態になろうとしてみたが、身体は意のままにならず、必要な分だけ酸素を取り入れるだけだった。結局、諦めるしかなかった。随分、長い時間、不安なままベッドに横たわっていた。やがて自然の睡魔にとらえられ、いつの間にか苦渋の眠りへと落ちていった。 しかし、深夜のあの恐怖は根拠のないもののようだった。“真っ白”は、次の日も、その次の日も起こらなかった。そして、丸一週間が何事もなく過ぎた。初めはとても信じられなかった。だけど、机の前のカレンダーで日付を勘定してみると間違いない。これほど長いブランクがいつあったのか思い出せないくらいだった。しばらくの間、この紛れもない奇跡のおかげで、僕は幸せだった。鍵盤を叩く力がみなぎっている。コンディションは最高だった。アレはもう終わったんだ、そんな希望を持つようになった。そう、きっと、“真っ白”は突然やんだんだ。それもあり得ることだった。始まったのも突然だったし、何の前触れもなかったのだから。けれど、本当は、あの悪夢が終わったとは信じられなかった。そして、日を追うごとに、もし今度アレが起きたら、とても手に負えないのではないか、という不安が強大になっていった。 最初の一週間が二週間になり、そして三週間が過ぎても何も起こらなかった。ただ、僕はますます苛々し、落ち着かなくなった。牧師さんと姉にも会っていない。そして、発表会の日がやってきた。 僕だけ控え室があった。そんなものは必要ないのだが、養父が見栄をきって会場の控え室をおさえていた。とにかく、僕を他の人たちと分けようとする。控え室では、僕とピアノの先生の二人きりで出番を待った。モニターには、大ホールの映像が映し出されていて、進行の具合が手に取るようにわかる。僕を除く出演者は全員、あたりまえのごとく控え室などなく、次にステージへ上る人を含んだ五人が、ステージから見て右側の最前列に腰掛けている。その横に係員がいて、タイミングを計りながら次の出演者をステージへ誘導する。そしてすぐに、新しい五人目の出演者が最前列にやってくる。 僕の出番がやってきた。初めてのステージだ。 照明が眩しい。精神はとても集中できていた。ステージからは、こんなにも観客の表情がわかるものなのか、と初めて知った。深く頭を下げて、スタインウェイの前に座る。 左脚に体重をかけ、左肩が持ち上がる。左肩から右手の指先までが水平になった。僕の構えを見た観客の、戸惑いの空気が伝わる。 僕は、さらに集中力を高めるために眼を閉じ、そして、“白い夢”を演奏した。 演奏を終えた僕は、観客のみんなに手を振った。最高の気分だった。 控え室に戻ろうとした僕は、大ホールからホワイエに出た。けれど、ひどく混み合っていて、しかもみんな、やけに緩慢に動いている。僕の行く手を人混みが塞いでいて、回り込んだり、すり抜けたりする余地もない。ようやく控え室に辿り着いたときには、誰かれ構わず大声で叫びたくなっていた。控え室のドアを乱暴に開けると勢い良くドアを閉めた。勢い余って、ドアが再び開いてしまった。もう一度強く閉める。また跳ね返る。 そのとき、僕はあの馴染み深い警戒信号が鳴るのを感じた。初めのうちは、ドアを閉めるのに夢中で気にならなかったが、動悸が激しくなり、呼吸が苦しくなって、何が起こりかけているのかわかった。一瞬、ほっとさえした。随分長い間、待ち構えていたわけだから。だけど、すぐに、今回のは何かが違う、とぞっとしながら悟った。進行が早すぎる。もはや、止めようがない。 「マサヤくん、素晴らしい演奏だったわよ!」と、先生は立ち上がり、僕を抱擁しようと近づく。 「うん……」 僕の意識は、すでに解体しはじめていた。頭が動かず、コントロールを急速に失いながら、僕はそれが起きたのを知った。最後に思考することができなくなった。意思が消えた。僕にできるのは、ただ眺めていることだけ。自分の手が、ドアを繰り返しバタンバタンと閉めているのを、遥か遠くから眺めているような気がする。すると、もう一方の手が、ドアの間に移動するのが見えた。今度は、その手に向かってドアが叩きつけられる。先生が何事か大声で叫んだが、僕には何を言っているのか理解することができない。手の皮膚が破れ、血が滲んできた。なおもドアは叩きつけられる。頭の中では、このまま続けば骨がやられると警告していたが、僕にはやめる力がない。控え室の外にいた子が大声で叫び、後ずさっていく、ほかの子たちも遠巻きにしてじっと眺めている、とおぼろげに意識する。人垣の中にアイの顔があるのが見えたが、気にかける段階は、とうに過ぎていた。先生が僕をドアから引き離そうとして叫ぶ。僕の両腕を掴もうとした者もいる。だが、僕はものすごい力で振り払った。腕を狂気のように振り回し、もはや手にドアが届いていないのに、ドアを叩きつける動作を繰り返す。アイの声が聞こえた。 「やめて!」 けれど、その声はすぐに僕の喉からほとばしる絶叫にかき消された。 もっと多くの手が僕をつかまえようとする。ほかの大人たちも駆けつけてきた。彼らは口々にやめろと叫んだが、僕は身をよじり、向きを変え、何とかして彼らから逃れようとした。僕は笑いたくなった。でも、出てきたのは悲鳴のような声だ。両腕を押さえつけられた僕は、肩を揺すり、上半身をリズミカルに動かして、頭を強く壁に打ちつけた。今度は額が切れた。 「この子を壁から引き離さないと」 足で蹴り、泣きわめく僕がいた。 この出来事が、関係者にインパクトを与えた。大勢の子が、大人たちが、関係者は言った。 「あいつは誰だ?」 |

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