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片翼の青い鳥
It is only a key that I look.

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 僕は、シャツをひったくるようなことをしないように、自分を抑えた。普通に手に取り、ゆっくりと身につけた。
 養父が安堵の息をつきながら振り向く。
「もう帰っていいでしょう?」
 そう念を押す。養父はもちろん傷跡を見ていない。
「このあと、マサヤくんにはレントゲン検査を受けに行ってもらいます。看護師さんが連れて行ってくれるわ」
 僕はうなづいた。レントゲンはうまくやれそうだ。どうしたことか不思議でならないが、ドクターは傷跡に気づかなかったのだ。僕は信じられない思いがした。何も起こりそうにない。そう思ったら、なぜだか泣きたくなった。
「レントゲン検査から戻ったら、ここの精神科医の面接を受けてね」
 僕はまたしても、今聞いた言葉が空耳ではないかと疑った。ドクターはこともなげに言ったが、“精神科医”が何を意味する言葉かは知っている。精神科の医者のところに送り込むつもりなのだ。精神科の医者というのは、人の心の中を探って、思っていることを暴き出すプロだ。精神科の医者には、ごまかしがきかない。秘密を守りきれなくなる。
 横にいた養父は、怒りのあまり喘ぐように言った。
「何だって?」
そして、決めつけた。
「精神科医に診てもらう必要などない」
「それがあるんです」
 そう断言するドクターの顔からは、あの明るい笑みはすっかり消えていた。
「病院の方針です。このようなケースは、法的にもそういう決まりになっているんです。マサヤくんは情緒的に不穏な状態に陥り、自分で自分にケガを負わせたんですよ。こうしたケースでは、私どもは規則で、精神医学的な診断を行うことにしています。そうしていただかないと、マサヤくんをお帰しするわけにはいきません」
 僕は泣きたかった。看護師に伴われてレントゲン室に向かいながら、「もうダメだ」と思った。
 精神科の医師との“面接”の場に、養父が同席することは認められなかった。養父が食い下がったけれど、どうすることもできなかった。
「病院の決まりですから。未成年者に精神科の医師が面接するときは、親御さんは同席できません」
 僕をレントゲン室から連れ帰った看護師は言った。
 養父は、しぶしぶ待合室に戻り、僕はあの陽気なドクターがケガの治療をしてくれたベッドに戻り、腰を下ろした。
 背の高いベッドなので、足をブラブラさせながら、カーテンの“壁”をぐるりと見渡した。今、僕はたった一人で、精神科の医師に立ち向かわなければならない。気力の問題だ、そう自分に言い聞かせ、つとめて背すじをピンと伸ばした。それほどひどいことにはならないさ、と呟く。レントゲン検査のあと、シャツを羽織っても何も言われなかった。だから、少なくとも傷跡は隠れている。
 とうとう精神科の医師がやってきたが、第一印象は、気配がないというか、覇気がない様子をしているということだった。小柄で痩せていて、それほど年はいっていない女性だった。そこに人が誰もいないかのように、無言のままベッドの端までやってきて、クリップボードを手に取って眼を走らせる。そして、ようやく僕のそばに来て、囁くような声で自分の名を告げ、手を差し出す。僕はおざなりに握手をして、固い笑みを返す。医師は気にするふうもなく、再びカルテを読み出した。
 僕をどうするつもりなんだ? 頭の中の声が叫ぶ。その声が聞こえたかのように、医師は突然、眼を上げた。
「さてと、今日は何曜日だか言ってください」
 僕は、何のことを言われているのかわからず、医師の方を見た。
「今日は何曜日だか、わかりますか?」と促す。
「土曜日……」
 思い切って言った。どうやらこの答えでいいらしい。
「今日の年月日はわかる?」
 信じられない。いろいろ切り抜けてきたあとなのに、この小柄な医師はクイズでもやろうとしているのだろうか。何これ? 頭の中でわめく。それでも、年月日を答える。医師は次に内閣総理大臣の名前を質問し、そのあと、百から七を順に引く引き算をやらせた。七十二まで来るとやめさせて、カルテに何か書き込んでいる。何なんだ、これ! 頭の中で怒鳴りつける。
「それじゃ、その手の傷がどうやってできたか話して」
 淡々とした口調で言う。
「控え室に入ろうとして、ドアに手をはさんでしまったんだよ」
 もう少しマシな言い方をして、にっこり笑って、冗談めかしてしまうつもりだったのに、イライラしてすっかり忘れてしまった。
「カルテには、ケガは自傷行為、つまり、わざと自分で自分を傷つけたものだと書かれてあるけど」
「ドアがなかなか閉まらなくて、あわてちゃったんです。ずっと緊張していたし、初めての発表会だったから……」
 僕は微笑んでみせたのだが、医師はカルテを読むのに忙しくて見ていない。
「家で何か問題があるのかな?」
 答えようとすると、驚いたことに顔をそむけてあくびを噛み殺している。僕はあっけにとられた。必死の思いで答えようとしているのに、この女はあくびをしている。
「ごめんね」医師は申し訳なさそうに苦笑した。「ダブルシフトだったもので二十四時間、寝ていないの。それじゃ、家のことを聞かせてもらえる? 何か問題があるの?」
「別に」
 むっつりと答える。その態度の変化について、医師は何も触れなかった。
「脚のケガは、交通事故によるものよね。まだ痛む?」
 僕は、その質問には答えず、医師を睨みつけている。
「最近、試験がうまくいかなかったとかは?」
 Aマイナス以下の成績は取ったこともないよ、バカにするな、と頭の中で言う。声に出して、「ないよ」と、きっぱりと断言する。
「ピアノは好き? 発表会で演奏を失敗しなかった?」
「ぼくが失敗なんかするもんか。ぼくは、もっともっとうまくなるんだ」
「だとしたら、自分自身にケガを負わせるほど気が動転してしまった理由が見当たらないわね」
「ないよ」
「自傷行為はよくやるの?」
 一瞬、口ごもった。
「ううん、してないよ」
 医師は、初めてぼくを鋭く見据えた。
「カルテには、傷跡がたくさんあるって書いてあるけど?」
 このときだ。病院側の人間が僕を捕まえるために、どうやって連携したのかがわかった。あのにこやかなドクターは、結局、傷跡のことをカルテに書いておいたんだ。そのあとで、計画的に、こっちの医師が妙なクイズを出して油断させる。ここの大人は、誰一人信用ならないと思い知らされた。
「腕を診せてもらえるかな」と、医師が言った。
「ぼくは何も……」そう言いかけたが、医師は腕をしっかりつかんで裏返し、腕の内側を光の方に向けると、さっきのドクターがやったように袖をたくし上げた。傷跡がまたさらけ出された。
 肌に残る、或いは生々しい色をした、或いは古く白くなった何条もの傷跡。僕の傷跡。僕の秘密。
 果てしなく長い時間、医師がその腕を見つめていたように思えた。そこにあるもの、その意味するところ、すべてが見抜かれたと観念した。
 とっさに腕を引っ込めようとしてみたが、医師はまだしっかりとつかんでいる。こんなことをする権利は誰にもない、この傷跡は僕のプライバシー、人目にさらされるなんて。僕は怒鳴りつけてやりたいと思った。けれども、あまりの恥辱感に言葉が出てこない。もう一度、腕を強く引くと、今度は医師もそれを許した。引っ込めた腕を、身体にぴったりと押しつける。だが、今さらそうしても、威厳を取り戻すことはできなかった。涙がこぼれそうになり、まばたきして抑えた。消えてしまいたい。死んでしまいたい。医師は表情を変えることなく見つめている。何を考えているのかまるでわからない。
「かなり前から、こういうことをしてきたのね」医師がようやく口を開き、抑揚のない声で言った。「きみが自分を傷つけるのは、感情的にそうする必要があるからなの。精神科の病人になりたくなかったら、セラピストのところに定期的に通ってもらうね」
“精神科の病人”という言葉が何を意味するのか、僕は訊きたかった。このことで、自分に愛想をつかしてはいない、と言ってほしかった。傷跡を見たのは、あの女医のほかは、彼女が初めてだ。傷跡のことで話をした唯一の大人だ。何か少しでも優しい言葉を僕は必要としていた。けれども、医師は立ち上がった。
「今日は、もう家に帰っていいわよ」
 眼を上げて医師を見ようとした。大丈夫だ、と僕に言ってくれ。僕に何か話しかけて。
 頭の中の声が懇願する。でも、眼に涙があふれ、顔をそむけてしまった。涙を見られたくなかったからだ。
「診断書には、きみが治療を受けるよう勧告しようと思います」そう言って、医師は出ていった。
 メソメソ泣いていてもどうにもならないんだから、もう泣くのはやめよう、と思った。医師にも面倒を見きれないんだ。病んでいると言った。この先もっと酷くなって、この病院に戻ってくると。僕の人生は、そういうことになっていると。
 結局、僕は身支度を始めた。立ち去る前に、シャツの袖をゆっくり慎重に下ろし、傷跡を隠した。



Masaya Isemiya
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