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片翼の青い鳥
It is only a key that I look.

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 あの日から三日間は、惨憺たるものだった。翌日の朝は目覚まし時計が鳴る前に、頭痛と手の疼きで目が覚めた。バスルームの鏡で自分の顔を見て、打ちのめされた。額の右半分と右眼が腫れて、紫色になっている。眉の傷口にあてたガーゼに血が滲んでいる。瞼が腫れ上がり、目が潰れかけている。頬には一面、火傷の痕のような赤く擦りむけた傷跡が広がっている。何気なくその傷跡に触れようとして手を上げると、その手もまた、白い包帯の下でズキズキと痛む。自分の姿をまじまじと見ていると、執事が背後のドアのところに現れた。
 養父は前夜、激昂し、僕は外出禁止になった。
「少しは落ち着きましたか?」執事は、僕の顔を見て言う。「しばらくは学校にもやらなくていい、とご主人様がおっしゃっていますから、それを最大限に活用しましょうよ」
 執事は、僕の予定外の小休暇をどう活用するか、その計画を練るように威勢よく言った。
「音楽室に一日中いられるのですから、朝練と午後練の間も練習できますね。コンクールも近づいてくることですし、ピアノの先生には、通常より余計に時間をさいていただくことにしましょう」
 けれども、計画どおりにはいかなかった。僕は松葉杖をつき、執事と音楽室に着くと、僕の腫れ上がった顔と包帯をした手をひと目見るなり仰天したピアノの先生は、その場で僕を制した。
「脚もそんな状態なのに、転倒して、また傷跡が開いたら、本当に大変なことになるわよ。治るまで一週間くらいは休みをとってください」
 異議を唱えようとする執事に向かって、彼女はきっぱり告げた。
 僕が何より気に病んだのは、そう言いながら執事を見つめる彼女の眼つきだった。その疑視には、心配と、それからよくわからないが、疑念のようなものが混じっていた。
「いったい、どうしたの?」
 彼女が僕に訊く。僕が答える前に、執事が割り込んだ。
「それを、あなた様にお答えするつもりはありません。お坊ちゃんは今、とても充実していて、コンクールに向けてレッスンを休みたくないということです。あなた様は、お坊ちゃんの練習を見ていてくれるだけで良いですから」
「だけど、本当に大丈夫かしら?」
 彼女は僕の方を見て言った。僕は、彼女が執事の話を信用していないとわかった。というか、そのように思えた。
 本当のところ、僕は自分の思考や感覚がすべて信用できなくなっている。あの小柄な女医は病院で、僕のことを精神病だと言っていた。ということは、頭がおかしいということだ。自分が今、正常なのか、異常なのか、頭がおかしい自分に、どうしたら判断できるというのだろう。
 ピアノの先生は、僕の方を訝しげな眼でまだ見つめている。彼女はすべて見抜いている、自分がしているあのことも……僕は突然、そう確信する。見ただけでわかってしまうんだ。病院で変わってしまったんだ。もう、秘密を持てない人間になってしまったんだ。自分がおぞましく醜悪な行為をしているとみんなにわかる、そんな印のようなものがついているんだ。この先もずっと、どこに行こうと、人にすべて見透かされてしまう……。
 こんなふうに考えるなんて、本当に頭がおかしくなっている、心のどこかでそう言う声がする。そう、もう本当におかしくなっているんだ。気がふれた人、狂人、精神異常者、精神科の病人。これらの言葉はすべて自分のことを言っている、そう僕は思った。彼女に眼を見られないように、顔を伏せた。
 駆け出したい。音楽室を出て、走って走って、暗がりをうずくまって潜んでいられる安全な場所を見つけたい……。彼女が執事の方を向き、スケジュールを立てている間、僕は横で立って待っていることに、全精力を傾けなければならなかった。
 しかし、その瞬間を見計らったかのように、“精神科の病人”という言葉が頭に浮上した。小学生の僕には強烈な響きだ。締め出そうとしても浮かんできてしまう。
「精神科の病人になる」医師はそう言っていた。
 考えないようにするんだ、と自分に言い聞かせる。けれども、心の中で膨張していく恐怖に、太刀打ちできない。精神病になるってどういうことだろう? 落ちぶれて、住む場所もなくなり、道端でひとり言なんか言うようになるんだろうか? 入院させられるんだろうか。どれくらい入院させられるんだろう。入院したら、どうなっちゃうんだろう? そのまま一生出られないとしたら……。
 そんなふうに考えるのはやめろ、頭の中の声が命令する。けれども恐怖は消えない。この病気は、思考できなくなるまで心が蝕まれていくのだろうか。もし、思考できなくなったらどうなっちゃうんだろう。どうやって生きていくんだろう?
 やめろ、と頭の中の声が叫ぶ。だが、また別の声が囁き続ける
 もし、もう頭がおかしくなっているとしたら、どうする? どうやって生きていけばいいんだ?
 傷みが走った。手元を見ると、組み合わせていた両手の指に力が入り、ケガで腫れ上がった肉を強く圧迫していた。傷口は何重にも包帯で覆われているが、圧迫されて盛り上がっている。ゆっくりと両手をほどく。だが、僕は包帯に眼を惹きつけられた。真っ白で清潔な包帯。爪で絆創膏を剥がしはじめる……。
「きみが自分を傷つけるのは、感情的にそうする必要があるからだ」
 病院の医師はそう言った。自分を傷つけるから、頭がおかしくなるんだ。だから、もし絆創膏を剥がし、この傷にしたいことをしてしまうと精神科の病人になってしまう。
 それにしても、その衝動はそれまでなかったものだ。傷口を開くことを思いついたのは、このときが初めてだった。ケガしたところを、もっと痛めつけてやりたいと感じている。だとしたら、医師が考えている以上に重症だということではないか。今は、“真っ白”にもなっていないのに。突然、この問題がすごく重大に思えてきた。そして、すごく怖い。
 でも、ガーゼにも傷口にも手を触れなければ大丈夫だ、自分に言い聞かせる。
 もし、手も触れず、新たに傷も負わせなければ、僕は本当は頭がおかしくなんてない。わかった? 
 自分が誰かと取引しているのを認めた。でも、いったい誰と取引しているのか……それがわからない。寒気がして、歯の根が合わなくなる。どうか、頭がおかしくなりませんように、僕はその誰かに祈り、そして、気を取り直して大声をあげた。
「さあ、弾くぞ。ぼくなら一人で大丈夫だ。ごちゃごちゃ言うなら、みんな出て行ってくれよ。ケガのことなら大きなお世話だよ。ぼくのことを止める権利なんて誰にもあるもんか。こんなケガに負けてたまるか。ぼくなら大丈夫だ。ぼくの邪魔をしないでくれよ」
 そして、僕は鍵盤を叩き始めた。自分の影を振り払うように集中する。頭の中のイメージを限りなく膨らませてゆき、完璧を創造する。僕は、もう行くしかない。今さら戻るなんてことはできないんだ。怖いけど、泣きそうだけど、メソメソしてたって誰も僕を助けてくれないことは、自分が一番よく知っている。みなしごが泣いたら、みんな笑えばいいだけなんだから。けれども、涙は零れた。
 周りのことなんて、どうでもよかった。ピアニストがピアノを弾き始めると、もう誰も演奏を止めることなどできない。できるのは、耳を傾け、そして待つことだ。誰も僕を止められないということに、本当は気づいている。
 そう、この僕でさえも。







Masaya Isemiya
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