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戦記 〜富山県甲飛会の軌跡〜

最初に。ミリヲタの部類ではあろうと思いますが、決して戦争を賛美したりするものではありません。
日本、世界歴史や地理が好きでして、社会人になりましてもいろいろ調べたり勉強をしています。
歴史は時代とともに、また見る側、評価する側の立場によってその評価が時々で変わります。
日本において大きな転換点となった先の戦争ですが、明らかにされていない、なっていないところ、語られない事も多く、それらが原因の一つとなって現在においても国際関係に悪影響を与えることがあり、毎度残念に思います。
そんな歴史事実を紐解く一端として戦記をご紹介していると言う点をご理解頂きますと幸いです。


西澤などベテランでトップエースになった搭乗員は、その厳しさで名を馳せる海軍予科練上がりの方が多いです。西澤さんは伝記が無かった様で、2000年に入って伝記が発刊され先ごろ読みました。
富山にも真珠湾で通信員として参戦、戦没された武田友治という十代の方が居ます。
小さい頃、陸軍で航空兵となり、操縦練習中に終戦を迎えられた知り合いの方がおり、いろいろ話を聞いたり、戦車操縦員となって中国大陸にいかれた方の話なども聞きました。


小学校の担任が陸軍の元砲兵で、戦争体験などよくされ、訓練で重い砲を担いで足がめり込む砂地を歩かされてそれは大変辛いんだよ!などという話を覚えていますが、そんな話を良く聞かされたものです。
宿題を忘れたり悪い事をすると掃除のモップの柄を60cmくらいに短く切ったもので精神注入棒を作り、良く尻を叩かれました。昔はこんな棒で並ばされてしごかれるんだよ、よくいっていました。
尻に青あざが出来てましたね。今では考えられない事ですが。
固い棒なんですが、クラスの悪ガキが力一杯尻を叩かれた際、ポッキリと折れてしまった事があり、目が点になった記憶があります。
その手は厚肉でカチンカチンに硬くなった石の様な手でして、平手で殴られることもあったのですが、吹っ飛びましたね。往復ビンタなんちゅうのもありました・・・
手加減していないと当時は思いましたが、あれでも相当手加減していたのだろうと思います。

高校では副校長が海軍航空隊の整備兵をしていて朝鮮の元山で終戦を迎えシベリアに抑留された経験を良く語っていました。
当時親戚のおじいさんや叔父さんなども戦争帰りでして、復員兵で働き盛りの方が非常に多くそう言う戦争体験を聞くには事欠かない時代でした。

仕事の取引先にもラバウルで整備兵だった方や、宮崎で整備兵をされていた方が居ます。
近所には、海軍に志願し宮崎や岩国の基地でB29の空襲になどにあわれたのおじいさんもいます。


さて、西澤さんは長野の白馬の近くでして富山の近くなのですが、長野と言わず富山にも存命の航空兵など沢山おられるだろうと思い、いろいろ調べて見ましたら、富山県甲飛会の軌跡という本が見つかりまして読んでみました。
また、図書検索で見つけた2007年発刊の新しい本で、靖国神社協賛の鎮魂特別攻撃隊の遺書という本も借りて読んでみました。

富山県甲飛会の軌跡
https://blogs.yahoo.co.jp/IMG/ybi/1/b1/f5/icarus777z/folder/1157895/img_1157895_66234273_0?13317803981.予科練には甲飛、乙飛などとあり、学歴社会だった海軍にあって進級の早さが違うことより甲乙の間で確執が多かったそうです。これは甲飛の会の会報です。
https://blogs.yahoo.co.jp/IMG/ybi/1/b1/f5/icarus777z/folder/1157895/img_1157895_66234273_1?13317803982.この方は302空で終戦を迎え、1週間ほど徹底抗戦を図った体験を綴られています。終戦当時の混乱の様子がわかる貴重な資料です。
この甲飛会は昭和40年代に結成されましたがその後会員が減り維持が困難となり、数年前に会を解散されました。
最後の会報には、特攻で無くなった富山出身の40人ほどの方の名前が記載されています。
富山市内にあります護国神社には、この甲飛の会の会碑が建立されているそうで、護国神社にはいろいろ戦争の展示品もあるそうで先日拝観にいってまいりまして、別途ご紹介したいと思います。

日本各地に軍人会があるのですが、みな高齢となり人数も減り集合や維持が困難となり解散される会が相次いでいます。
一方で、戦友や上官が居るために、公言することが憚られて来た事柄が、会の解散や生き残った方の減少に伴いしがらみが無くなり、また余命少なく後世に事実を残したいという方も多く、今になり新たな事実も語られ始めています。
明らかにならないことが多くある中で、先の戦争についてそういう話に耳を傾けることもまた大事なことだろうと思います。


ICARUS

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あの、取り急ぎブロリン&お気に入り登録サセテ頂きましたm(__)m
後程ユックリ来ます(≧ω≦)

2012/3/15(木) 午後 0:40 [ あある ]

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予備学生の零戦搭乗員で、元山航空隊に所属していた方の戦記を先日読んだので、当時の平穏な元山の様子が伺い知る事ができたのですが、やはり戦後は大変な事になったのですね。。。(ちなみにこの方は鹿屋に移動し、岩本徹三などと共に特攻の直掩を行った、大変貴重な戦記でした)
302空の徹底抗戦騒動の渦中にいたとは、これまた貴重な資料ですね。15日以降、零戦、雷電、月光、銀河などで全国の基地を廻って徹底抗戦のビラをまいたそうですが、そんな多彩な最新機材を抱えた302空のような部隊ならいざ知らず、殆んどの部隊は機材も人も満身創痍だったので、同調する人はあまり居なかったようですね。

2012/3/15(木) 午後 0:56 カッシー

Junkoさん、CBR250の新車なんですね。ヨロピクです〜

2012/3/15(木) 午後 1:41 ICARUS

カッシーさん、武装解除された際の厚木の写真を見ても結構飛行機の数は揃っていますね。陸海軍とも終戦時各1万機ほど残存していらしですが、どこに残っていたんでしょうね。

長野のヤマさんのお父さんが昭和20年7月から九州の鹿屋に任官しましてお話を伺ったのですが、確かもうまともに飛ぶ飛行機が無かったと言っておられました。
全国から飛行機を集め石川の小松や朝鮮の元山あたりで特攻隊を急造したらしいですが、宮崎の整備兵だった方も、ボロボロの隼が送られてきて、飛ぶだけで精一杯という話をされていました。

大村辺りはまだ紫電改などが残っていた様ですが、当時本土決戦に備えてもう飛べる飛行機は温存して敵が来ると空中退避で逃げてましたね。埼玉に居たおじいさんもその様を見たと言っておられました。

2012/3/15(木) 午後 2:08 ICARUS

元山は戦闘も無くて平和でして後方の練兵基地だった様ですが、戦後急遽ソ連が入ってきていきなり連行されてシベリアだったらしいです。元山は大きな基地だったのでまともな機体や新鋭機も沢山残っていただろうと思います。石原都知事が三国人と言ってましたが、当時朝鮮では日本が負け朝鮮人が傍若無人に振る舞いヤバかったらしいですね。日本に戻るも地獄、ソ連に行くも地獄だったらしいです。

富山のこの302空の方の手記は長く、状況がつぶさに分かり大変貴重です。反乱寸前でヤバかったみたいですよ。15日以降も飛行機で飛び回りビラを撒いたらしく皇室も説得に動き8月23日頃ようやく武装解除に応じたらしいです。
関東界隈の陸軍帝都防衛隊も終戦直後は、命令に反して降伏しないとか九州から特攻に行く、などという方が多くいたと聞きます。

2012/3/15(木) 午後 2:35 ICARUS

戦後まもなく樺太にソ連が攻めて来た時、これでようやく死ねると日本の戦車隊が突っ込んでいきましたが、その様な方も実際いたので、血気盛んな方が結構いたのでしょうね。

一方でビルマやニューギニアなど、終戦でこれで生き延びて日本に帰れる、と皆喜んだそうです。しかしこのあと各地で半年から2年ほど抑留され強制労働などで直ぐには帰れなかったのですが・・・
悲喜こもごもですね。

2012/3/15(木) 午後 2:42 ICARUS

小学生の頃は社会の先生がよく授業を脱線して戦時中の話などをしていたコトを思い出しました。
モチロン、精神注入棒??
ありましたよ(笑)
アレでお尻を一発ヤラレテ腰から砕けました(;^_^A
昔はソレガ当たり前な時代でしたけど今はナカナカそーはイカナイようで

2012/3/16(金) 午前 4:58 [ あある ]


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