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護国神社参詣 〜富山県 護国神社・遺芳館〜

富山県甲飛会報を読み、3月7日に護国神社に建立された戦碑を見に行ってまいりました。

護国神社は戦争や亡くなった戦没者や公務で亡くなった県内の公務員を祀る国策の神社でして、その性格ゆえ一般の神社とは性格が異なり、全国神社会には加入を認められていません。
境内では、普通の神社と同じく祓いやお札、お守りなどを売られており、普通の神社となんら変わるところはありません。
この様に神社形式をとってはいますが、普通の神社とは違う性格を持っているかと思います。
そしてこれら全国都道府県に一つある護国神社の頂点にあるのが靖国神社です。

靖國神社には遊就館という戦争遺品が展示されているところがありますが、 護国神社にも展示館がありまして、富山県にも遺芳館という戦争遺品の展示館がありまして、そこへはいった事がありませんでしたので、今回拝観してきました。

https://blogs.yahoo.co.jp/IMG/ybi/1/b1/f5/icarus777z/folder/1157895/img_1157895_66234790_0?13319507751.正面です。市街の西側にありまして神通川のそばにあります。
https://blogs.yahoo.co.jp/IMG/ybi/1/b1/f5/icarus777z/folder/1157895/img_1157895_66234790_1?13319507752.脇に駐車場がありまして車をとめて中に入ります。富山県甲飛会の戦碑があります。
https://blogs.yahoo.co.jp/IMG/ybi/1/b1/f5/icarus777z/folder/1157895/img_1157895_66234790_2?13319507753.兵士の方の想いが込められています。
https://blogs.yahoo.co.jp/IMG/ybi/1/b1/f5/icarus777z/folder/1157895/img_1157895_66234790_3?13319507754.遺芳館。中に入るには、境内にある社務所に申し出て下さい。案内されます。
https://blogs.yahoo.co.jp/IMG/ybi/1/b1/f5/icarus777z/folder/1157895/img_1157895_66234790_4?13319507755.知らずに勝手に入ってしまいました・・・おお、あるね。
https://blogs.yahoo.co.jp/IMG/ybi/1/b1/f5/icarus777z/folder/1157895/img_1157895_66234790_5?13319507756.陸海の亡くなった方の遺品が展示されています。
https://blogs.yahoo.co.jp/IMG/ybi/1/b1/f5/icarus777z/folder/1157895/img_1157895_66234790_6?13319507757.アッツ島で戦死された小路 與作さんについての展示です。ちなみに富山は35連隊がありまして、精鋭な部隊でした。金沢には第9師団がありまして、各地の戦線に赴いています。
https://blogs.yahoo.co.jp/IMG/ybi/1/b1/f5/icarus777z/folder/1157895/img_1157895_66234790_7?13319507758.山崎定義陸軍中将、朝倉豊次海軍少将などなど偉い方も居たようです。
https://blogs.yahoo.co.jp/IMG/ybi/1/b1/f5/icarus777z/folder/1157895/img_1157895_66234790_8?13319507759.戦艦長門館長だった様です。凄いですね。はじめて知りました。
https://blogs.yahoo.co.jp/IMG/ybi/1/b1/f5/icarus777z/folder/1157895/img_1157895_66234790_9?133195077510.軍事裁判で裁かれた戦犯について書かれています。復讐裁判であった、とも書かれています。
https://blogs.yahoo.co.jp/IMG/ybi/1/b1/f5/icarus777z/folder/1157895/img_1157895_66234790_10?133195077511.富山大空襲について記載があります。昭和20年8月1日、200機ほどのB29に絨毯爆撃を受け3000人が亡くなり、負傷者8000人が出ました。民間人の殺害は戦争犯罪であり禁じられているのですが、戦勝国には一切お咎めがありませんでした。これが戦争と言うものです。ちなみに無差別爆撃をしたのはスペインでドイツ軍や、重慶への日本軍の爆撃が最初でした。
https://blogs.yahoo.co.jp/IMG/ybi/1/b1/f5/icarus777z/folder/1157895/img_1157895_66234790_11?133195077512.富山に投下された焼夷弾です。激しい空襲でして東京と同じくほとんど焼け野原になってしまいまして、今でも市街からは焼夷弾が出てきます。
https://blogs.yahoo.co.jp/IMG/ybi/1/b1/f5/icarus777z/folder/1157895/img_1157895_66234790_12?133195077513.特攻で亡くなった枝幹二さんの遺影です。
https://blogs.yahoo.co.jp/IMG/ybi/1/b1/f5/icarus777z/folder/1157895/img_1157895_66234790_13?133195077514.枝幹二さんの特攻前に残された詩です。知覧にも展示されているようですが、知覧で見て一度富山を訪れたいと思っていてようやくここに訪れることができました、と言う事が記帳されていました。名古屋の方でした。
https://blogs.yahoo.co.jp/IMG/ybi/1/b1/f5/icarus777z/folder/1157895/img_1157895_66234790_14?133195077515.遺芳館の拝観も終わり、本殿に向かいます。広くてなかなか立派な社殿です。
https://blogs.yahoo.co.jp/IMG/ybi/1/b1/f5/icarus777z/folder/1157895/img_1157895_66234790_15?133195077516.富山空港に着陸するB767です。67年前もB29がこんな具合に飛び交っていたのでしょうね。
https://blogs.yahoo.co.jp/IMG/ybi/1/b1/f5/icarus777z/folder/1157895/img_1157895_66234790_16?133195077517.護国神社案内パンフと青少年むけの「護国の御霊をまつる心」という説明書です。

 護国の御霊をまつる心
 崇敬会という護国神社の維持管理を後援する会もあるようです。ご興味あるかたは是非どうぞ。

本殿を出ようとした時に富山空港に着陸するB767が本殿上空を低空で横切っていきました。
平和な時代になりました。
昭和20年8月1日は200機ほどのB29の猛爆で富山は灰燼に帰してしまいましたが、ふとそんなB29を彷彿とさせます。
 富山大空襲 wiki 
激しい空襲でして、県内のあちこちから真っ赤に燃える富山市が見えたそうで、現在でも年配の方は実際にその模様をよくご存知です。
私のおばさんは、当時軍需工場で機関砲などを作っていた不二越と言う会社で働いていて、寮で寝ていて夜中に空襲があり、凄い火災で怖かったと言っていました。
翌日、自宅へ戻るように言われ、20km近くを歩いて自宅へ帰ったと話を聞いた事があります。

アジアや太平洋以外に富山でも戦争の傷跡はありますが、そんな戦争の記憶のある方も随分と少なくなってしまいました。

当時交戦的だったのは日本ばかりでなく、どちらかと言えば植民地政策を取る先進国の方が交戦的で日本を戦争に導いた所があり、アメリカに至っては当時の民主党政権のルーズベルトが日本が戦争に踏み出すのをてぐすね引いて待っていたと言われています。
ちなみに共和党は、対日禁輸に批判的で日本と和平を望んでいたようです。

いずれにせよ現在の平和を手に入れるにはあまりに大きな代償でした。

日本全国に護国神社と戦争遺品の展示がありますのでみなさんも各地で一見される事をお勧めいたします。
靖国といいますと、近隣諸国の反論もあり軍国主義の象徴の様に言われ、そう思われる日本人の方も多いかと思いますが、A級戦犯を祀ったばかりにそう言われて居る事は大変残念でなりません。
地元にありながら、詳しく護国神社を訪れることがなく理解が不足していたと思いますが、今回ゆっくりと訪れて良かったと思います。

戦後日本は、連合国に与えた戦争犯罪行為こそ連合国に裁かれましたが、日本の兵士や民間人の多くを死に追いやった行為は裁かれず、また日本人自ら反省し裁くこともなく、「戦争そのもの全ては悪である」と半ばうやむやにして現在に至ったため、正しく先の戦争を歴史として認識しているとは到底思えないのが実情です。この点、ドイツとはかなり国民性も異にしています。
また日本には、戦争の全体像を知る事が出来る戦争博物館と言える物がなく、個々人で書物を調べたりしないとその歴史像が浮かび上がらないと言うのも残念な事です。

個人的に右や左に傾いている気持ちや思想的な場所へ誘導しようとする意図はないのですが、教科書に記載されない歴史について皆さんの知見の一助となれば良いかと思っています。
当然、賛同や反論もあるだろうと思います。
他国に謝罪を求められたびたび右往左往しただ口先で謝罪を繰り返す前に、真実と正しい歴史に付いて知る事が大切だろうと思います。


ICARUS

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戦記 〜鎮魂 特別攻撃隊の遺書 KKベストセラーズ 原勝洋編著、靖國神社協力〜


太平洋戦争、最後の証言や零戦エースパイロットの西澤廣義さんの伝記などを読み終え、amazonで他の書籍を検索していて、ふとこの本が目に止まり本を借りて読んでみました。

靖国神社協力といいますと何か戦争賛美の様に思ってしまい、特攻賛美かと思われ眉をしかめられる方もおられるかと思いますが、本書は全くそうではなく、特攻の現実とその実施記録、遺書などを記し、その悲惨さを著したものです。

特攻隊と言いますと、命を捧げ死をもって国に奉公するという大変軍国調が強くきな臭く感じ、平和な現代にあって私でもちょっと避けてしまいそうな言葉です。
私自身もきな臭く感じられ最初ちょっと避けてしまいましたが、知覧に行き、そして靖国にもいきましたし、避けずにちょっと読んでみようと思い借りてみました。

このタイトルだけで周辺諸国では拒絶反応が起きそうな本です。
平和の時代にこう言う話題はとかく煙たがられ、右寄りであるとか、戦争賛美者かと思われたりする事が多々あるかと思いますが、個人的には日本史世界史などが好きでして、近代史の書物などなど個人的に読んでいて、そんな中の参考の1冊と思い読んでみました。

特攻は悲しむべき作戦命令でありまして、賛美すべきものでは無いと思っています。
兵士である前に一人の国民そして人間であった人々の葛藤や心の揺らめき、無念の気持ち、あとに残る方に託す強い願いがそこに現されています。
一人一人の人間が素となって現代に語りかけた思いを汲み取る事ができれば、亡くなった方も本望なのではないだろうかと思います。

鎮魂特別攻撃隊の遺書

https://blogs.yahoo.co.jp/IMG/ybi/1/b1/f5/icarus777z/folder/1157895/img_1157895_66234501_0?13317851571.戦記の場合、日の丸が国粋的、軍国的に感じてしまいますが、戦後教育の弊害でしょうかね。
https://blogs.yahoo.co.jp/IMG/ybi/1/b1/f5/icarus777z/folder/1157895/img_1157895_66234501_1?13317851572.銀河です。突入寸前で被弾、米軍空母の上を通過しています。
https://blogs.yahoo.co.jp/IMG/ybi/1/b1/f5/icarus777z/folder/1157895/img_1157895_66234501_2?13317851573.米艦船突入前の対空砲火の凄まじい弾幕です。
https://blogs.yahoo.co.jp/IMG/ybi/1/b1/f5/icarus777z/folder/1157895/img_1157895_66234501_3?13317851574.東京出身、植村眞久海軍大尉の遺書です。学徒出陣で召集された予備学生ですね。泣けてきます。
https://blogs.yahoo.co.jp/IMG/ybi/1/b1/f5/icarus777z/folder/1157895/img_1157895_66234501_4?13317851575.以前読んだ戦記で空母バンカーヒルに突入した小川清さんの遺書です。この方も予備学生です。別途伝記本がありますのでご覧下さい。

ついには涙が溢れてしまいました。
知覧や靖国で見た多くの遺書を再び目にし、最愛の家族を残し家族や日本の将来を残された者に託し、将来を信じて死に赴かざえる得なかったその複雑な心境を思い、目頭が熱くなります。
あまりに悲惨な戦争でした。日本人であるならば決して忘れてはならないと思います。
特攻について知っている方も知らない方も是非ご一読される事をお勧めいたします。


戦争に負け、既に終わった過去の事、経緯はどうあれ戦死された方は戻ってこない、今更それを調べ、語って何になるという意見もあると思います。

太平洋戦争では軍属200万人、軍民合わせて340万人の方が亡くなっています。
大半は戦争後半の昭和19年以降の負け戦で亡くなっていると言われています。

開戦の経緯は当時植民地経済の帝国主義の時代で、半ば止むおえない事情があったにせよ、多くの戦死者を出した戦争の負け方に関しては日本側に大きな原因、問題があります。

極端な話、昭和19年頃で戦争を止めておけば数百万の犠牲を出さずにすんだわけで、大局を見通せず、終戦を決断できず、ずるずると敗戦を重ねてしまったのは日本側に原因があります。

昭和20年7月になりますと、特攻や迎撃に上がる飛行機も欠乏しだしており、富山も昭和20年8月1日200機のB29に爆撃され、無抵抗のまま成すがままに爆撃をされ市街が灰燼に帰し2000人の方が亡くなっています。そして6日に広島、9日に長崎に原爆が投下されています。
民間人の殺害は戦争犯罪で、無差別爆撃は当時も許されない行為です。
この点で連合国は責められるできですが、しかしこの様な状況で戦争を継続できる訳がなく、継続していい訳がなく、もっと早く降伏すべきだったのに戦争を継続し無駄に死者を増やした大きな責任は明らかに日本の側にあります。


特攻といいますと、飛行機による自殺攻撃でとかく象徴的ですので目立ちそれがいつの時代も取り上げられやすい事象だと思いますが、軍国教育の当時にあっては、志願だろうが、徴兵だろうが、入隊=天皇や国のためその命を捧げると言うのが常識となっている時代で、陸軍であっても攻撃の時は正に特攻と同じで、死を覚悟しながらの突撃であった様です。
平和な現代では全く考えられない事ですがそういう時代ですので、陸軍の兵士も特攻の航空機搭乗員も気持ちはほぼ同じだったろうと思われ、特攻だけを特別な攻撃で特別扱いするのではなく、当時一億総特攻とも叫ばれましたが、日本軍や日本全体が半ば自殺攻撃的であったろうと思われる記載が、戦記物を読みますと良く分かります。

陸軍の地上部隊にあっては上官の命令は絶対で、逆らって逃げたり、退却でもしようものなら抗命罪で死刑、敵に捕まって逃げ帰っても死刑でして、結局は死ぬまで前進するなり戦うほか無かった様です。

特攻の場合は、軍上層部が志願制を指導していましたが、実質的に「特攻希望者」と言われれば上官に逆らえない以上は命令と同じでしたし、昭和20年に入り大規模になってからは実質的に特攻者を調べリストアップし、組織的に特攻に赴かせた記載が戦記に見られます。

特攻は、昭和19年10月のフィリピン レイテ沖での海軍によるものが最初で、その後陸海軍合わせて約4000人の方が特攻で亡くなっています。
昭和19年、マリアナのグアム、サイパンが落ち絶対国防圏が破られ、敗戦色が濃くなり、終戦を睨んで最後に一勝して講和に持ち込みたい軍部がフィリピンで最後の必勝を期し海軍の大西中将が発案しました。
ただそれまで特攻作戦は無かったかといえば、昭和16年の真珠湾攻撃時、特殊潜航艇での真珠湾への攻撃は、実質的に特攻作戦ですし、また、日清、日露で二百三高地での屍累々の白兵突撃などすでに特攻状態で、そういう攻撃方法が日本に根深く内在していた様です。

もともと日本軍は、兵の命は天皇陛下のもの、生きて捕虜になる前に自決と決められており、兵士の命は半紙の赤紙の如くで軽く扱われてた所が大半だった様です。

ですから勝ち戦の無くなった昭和19年以降でも、敵に降参する事はなく、最後まで白兵突撃をし玉砕で全滅する事がほとんどでした。

陸軍の万歳突撃の場合、遺書などほとんど残らない様ですが、特攻の場合は出撃までは安全で時間に余裕のある後方にいますので、多くの遺書や写真、遺物が残っており、隊員の気持ちなどをこまやかに知る事が出来、それだけに現代にあっても多くの人々涙を誘います。
知覧、靖国神社はじめ、全国にある護国神社などに特攻隊員などの遺書や遺物が展示してあり、それを見る事ができます。

日本の国やそこに住む国民、そして家族のことを思う気持ちがこれら遺書にしたためられており、生と死と、日本や家族、そして自分自身のはざまで心が揺れ動き葛藤しているであろう兵士の気持ちが推し量られ、遺書を読むものの心を揺さぶります。

本書に記載されている遺書を読みまして、知覧へ言って読んだ遺書なども思い出し、書いた本人の心情を思いますと思わず目を熱くしてしまいました。

特攻はじめ、昭和19年からのニューギニアやフィリピン50万人、ビルマのインパール19万人、そしてマリアナなどでの数万人単位での玉砕戦死は、兵士の命を軽んじた戦法をとった日本側の責任が大きいかと思います。

特攻を指示した海軍大西中将は、終戦直後、特攻隊員にお詫びして自決し上官として責任を取り命をもって償ったのは、インパールで責任を逃れ戦後も講演で言い訳をして回った牟田口中将に比べればまだいい方だったかもしれませんが、木の葉の様に扱われ亡くなった方は戻ってきません。

自国軍に大変大きな犠牲を強いながら、戦後連合国による戦争犯罪追及もされずに戦後も安穏と過ごされた方は多く、そういうあってはならず悲しむべき自己反省しない無責任体質が、先の大震災時の政府などの対応をみますと現在もこの国に流れているのではないかと思われ憤りや悲しみを感じることがあります。


以下参考に。
召集令状
戦時における陸軍の召集のうち召集令状等はその色から赤紙などと呼ばれた。 以下は召集令状の各色・種類である。

赤紙=充員召集、臨時召集、帰休兵召集、国民兵召集、補欠召集
白紙=教育召集、演習召集、簡閲点呼 
青紙=防衛召集
青紙の「防衛召集」とは、空襲などの際に国土防衛のため、予備役・補充兵役・国民兵役(在郷軍人)を短期間召集すること。

用紙は、縦15.5cm、横25.7cm。黒のインクで印刷され、紙の厚みが半紙のように薄い。召集令状(赤紙・白紙・青紙)は陸軍省が作成した動員計画に基づき連隊区司令部で対象者を指定(名簿からランダムに該当者を抜き出す)して発行し、警察署の金庫に密封保管され、動員令が発令されると警察官が市区役所・町村役場にこれを持参し、役所役場の兵事係吏員が応召者本人に直接手渡し(不在の場合はその家族に)交付した。その際受取人は受領日時(何時何分)を記入し押印する。令状は本記と受領証からなり、本記には応召者氏名、住所、召集部隊名、到着日時等が書かれ、これは部隊までの交通切符代わりになる。
受領証は、職員が市区町村役場に持ち帰り、「召集令状受領綴」という記録簿に保管する。
令状表面には、召集される者の氏名、配属される部隊名、部隊に出頭する日時などが記載される。

一般に赤紙が「一銭五厘」と呼ばれるのは、応召者本人が本籍地から離れて暮らしている場合、実家から郵便で令状が来たことを知らせたのが原因という説もある。直接本人が令状を受け取った場合も合わせれば、郵便で知ったケースは少数派と想像され、少数派の事例をもって徴兵制度への一般的な揶揄となったのかには疑問も残る。
第二次世界大戦頃の日本海軍の充員召集令状は「紅色」であった。


ICARUS

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戦記 〜富山県甲飛会の軌跡〜

最初に。ミリヲタの部類ではあろうと思いますが、決して戦争を賛美したりするものではありません。
日本、世界歴史や地理が好きでして、社会人になりましてもいろいろ調べたり勉強をしています。
歴史は時代とともに、また見る側、評価する側の立場によってその評価が時々で変わります。
日本において大きな転換点となった先の戦争ですが、明らかにされていない、なっていないところ、語られない事も多く、それらが原因の一つとなって現在においても国際関係に悪影響を与えることがあり、毎度残念に思います。
そんな歴史事実を紐解く一端として戦記をご紹介していると言う点をご理解頂きますと幸いです。


西澤などベテランでトップエースになった搭乗員は、その厳しさで名を馳せる海軍予科練上がりの方が多いです。西澤さんは伝記が無かった様で、2000年に入って伝記が発刊され先ごろ読みました。
富山にも真珠湾で通信員として参戦、戦没された武田友治という十代の方が居ます。
小さい頃、陸軍で航空兵となり、操縦練習中に終戦を迎えられた知り合いの方がおり、いろいろ話を聞いたり、戦車操縦員となって中国大陸にいかれた方の話なども聞きました。


小学校の担任が陸軍の元砲兵で、戦争体験などよくされ、訓練で重い砲を担いで足がめり込む砂地を歩かされてそれは大変辛いんだよ!などという話を覚えていますが、そんな話を良く聞かされたものです。
宿題を忘れたり悪い事をすると掃除のモップの柄を60cmくらいに短く切ったもので精神注入棒を作り、良く尻を叩かれました。昔はこんな棒で並ばされてしごかれるんだよ、よくいっていました。
尻に青あざが出来てましたね。今では考えられない事ですが。
固い棒なんですが、クラスの悪ガキが力一杯尻を叩かれた際、ポッキリと折れてしまった事があり、目が点になった記憶があります。
その手は厚肉でカチンカチンに硬くなった石の様な手でして、平手で殴られることもあったのですが、吹っ飛びましたね。往復ビンタなんちゅうのもありました・・・
手加減していないと当時は思いましたが、あれでも相当手加減していたのだろうと思います。

高校では副校長が海軍航空隊の整備兵をしていて朝鮮の元山で終戦を迎えシベリアに抑留された経験を良く語っていました。
当時親戚のおじいさんや叔父さんなども戦争帰りでして、復員兵で働き盛りの方が非常に多くそう言う戦争体験を聞くには事欠かない時代でした。

仕事の取引先にもラバウルで整備兵だった方や、宮崎で整備兵をされていた方が居ます。
近所には、海軍に志願し宮崎や岩国の基地でB29の空襲になどにあわれたのおじいさんもいます。


さて、西澤さんは長野の白馬の近くでして富山の近くなのですが、長野と言わず富山にも存命の航空兵など沢山おられるだろうと思い、いろいろ調べて見ましたら、富山県甲飛会の軌跡という本が見つかりまして読んでみました。
また、図書検索で見つけた2007年発刊の新しい本で、靖国神社協賛の鎮魂特別攻撃隊の遺書という本も借りて読んでみました。

富山県甲飛会の軌跡
https://blogs.yahoo.co.jp/IMG/ybi/1/b1/f5/icarus777z/folder/1157895/img_1157895_66234273_0?13317803981.予科練には甲飛、乙飛などとあり、学歴社会だった海軍にあって進級の早さが違うことより甲乙の間で確執が多かったそうです。これは甲飛の会の会報です。
https://blogs.yahoo.co.jp/IMG/ybi/1/b1/f5/icarus777z/folder/1157895/img_1157895_66234273_1?13317803982.この方は302空で終戦を迎え、1週間ほど徹底抗戦を図った体験を綴られています。終戦当時の混乱の様子がわかる貴重な資料です。
この甲飛会は昭和40年代に結成されましたがその後会員が減り維持が困難となり、数年前に会を解散されました。
最後の会報には、特攻で無くなった富山出身の40人ほどの方の名前が記載されています。
富山市内にあります護国神社には、この甲飛の会の会碑が建立されているそうで、護国神社にはいろいろ戦争の展示品もあるそうで先日拝観にいってまいりまして、別途ご紹介したいと思います。

日本各地に軍人会があるのですが、みな高齢となり人数も減り集合や維持が困難となり解散される会が相次いでいます。
一方で、戦友や上官が居るために、公言することが憚られて来た事柄が、会の解散や生き残った方の減少に伴いしがらみが無くなり、また余命少なく後世に事実を残したいという方も多く、今になり新たな事実も語られ始めています。
明らかにならないことが多くある中で、先の戦争についてそういう話に耳を傾けることもまた大事なことだろうと思います。


ICARUS

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