一乗院日記

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温泉山一乗院の歴史

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上記の写真には

雲仙の歴史

701年  大宝元年 行基、温泉山に満明寺を開いた。
713年  和同6年 肥前風土記に「高来の郡」の地名の由来が記された。
1549年  天文18年 ザビエルが薩摩(鹿児島)に上陸。以降、九州各地にキリスト教が     広まった。
1571年  元亀2年 「白雀の乱」満明寺の僧が争いを起こし、僧達を2分しての争いに発     展した。戦火で寺が焼失。
1587年  天正15年 豊臣秀吉が宣教師追放令を出した。キリスト教弾圧の始まり。
1596年  慶長元年 キリスト教徒26人が長崎の西坂にて処刑された。
1613年  慶弔18年 徳川家康がキリスト教を完全禁止とした。幕府によるキリシタンの     国外追放や、教会の破壊などのキリシタン弾圧が強まった。
1627年  寛永4年 松倉重政のキリスト教徒迫害が過酷となった。「山入り」と称して教     徒を雲仙に送り、地獄責めで改宗の強要が続いた。
1653年  承応2年 加藤善左衛門が雲仙に湯治場「延暦湯」を開いた。



と記されている。

これは、雲仙の温泉街にある「雲仙お山の情報館」内に展示されている年表である。

雲仙はというと…

年表にもあるように、行基開創の仏教の霊場であった。温泉山満明寺は、近世には、瀬戸石原に三百坊、別所に七百坊を有していたという伝承が定着しているが、実際それに近い壮大な寺観を有していたと思われる。

しかしながら、時の日野江城主、有馬晴信がキリスト教に入信し、天正八年(1580)領内の寺社破壊が決行され、温泉山(現在の雲仙)一山は破壊されている。
永禄六年(一五六三)来日し近畿・九州各地でキリスト教を布教したポルトガルのイエズス会士フロイスの著作『日本史』には、

巡察師が滞在した三ヶ月間に、大小合わせて四十を超える神仏がことごとく破壊された。それらの中には、日本(中)で著名な、きわめて美しい幾つかの寺院が含まれていた。
                          〔『日本史』第二部二〇章〕

温泉(うんぜん)と呼ばれ、日本では盛んな巡礼をもって知られる豪華な神殿‥‥‥その神殿は有馬の城の上、三里の地にあって、そこには大いなる硫黄の鉱山がある。神殿や僧院、および神仏像は、ドン・プロタジオ(有馬晴信)の改宗後に破壊されていた。
                          〔『日本史』第二部五三章〕

とあり、当時の無惨な状景がうかがえる。
さらには薩摩島津氏の家老であった上井覚兼の『上井覚兼日記』に

當郡南蛮宗にて温泉坊中無残破壊候
                      〔天正十二年(一五八四)四月八日条〕

と述べ、さらには

言語道断、殊勝之霊地不申及候、悉荒廃之躰無是非候、四面大菩薩漸礎計残候
                      〔天正十二年(一五八四)五月一日条〕

述べており、『日本史』の記事を裏付けている。

尚、上記年表の1571年 元亀2年 「白雀の乱」は、有馬晴信がキリスト教に入信した時代とほぼ一致することから、フロイスの言う寺院破壊(キリスト教徒による)であろう。

また、温泉山満明寺は、寛永14年(1637)島原の乱により堂宇すべてを焼失、壊滅した。島原の乱の翌年(1638)11月、島原藩は松倉城主に代わり遠州浜松城主高力摂津守忠房公が城主に着任している。その家臣善左衛門清輔(現、雲仙湯元ホテル加藤家の先祖)の兄、当山中興弘宥法印(遠州浜松鴨江寺出)が島原城主高力摂津守忠房公の守護を賜り寛永17年(1640)大定院の旧地を再興し「温泉山一乗院」として復興する。

 安永7年(1778)6月の『温泉山起立書』によれば、

温泉山真言宗一乗院儀
本寺京都
御室御所
 仁和寺宮直御末寺ニ而御座候
山号 温泉山
 此山号之儀往古ヨリ之山号ニ而御座候
 尤熱湯涌出ニ付候御山号ニ而御座候
寺号 満明寺
是も往古ヨリ之寺号ニ而繁昌之時分ヨリ一山之寺号ニ而御座候

とあり、寺号の満明寺は温泉山一山の寺号として用いられていたことがわかる。
一乘院縁起書によれば、土中より三寸余りの五智如来像が出土し、本尊として崇め奉ったとされる。さらに中興二世宥誉法印は、島原半島の人民に信心をおこさせるため、五智如来像造立を発願して城主高力忠房公に申し上げ、城主の命を受け寛永19年(1642)5月、摂州大坂に行き、造立成就し同年9月、温泉(雲仙)に帰り入仏し、翌寛永20年(1643)9月、本社拝殿を造営成就している。

「雲仙お山の情報館」の年表には、この事実が完全に消されているのである。

温泉山(現在の雲仙)開山以来、山を護持してきた寺院が壊滅したのである。雲仙の歴史を語る上で、これ以上の事件があったであろうか。

昨日、長崎の教会群とキリスト教関連遺産の世界遺産への申請がやり直しになったニュースが流れたが、行政がこのような年表を作り歴史をねじ曲げてまでして登録したい世界遺産とは何なのだろう。
所詮、観光客目当ての客寄せパンダといった所か。

歴史は正しく後世に伝えるべきだということは、小学生でも分かることだ。それを時の権力者の事情によってねじ曲げるということは、あってはならないことである。

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かっぱの手

河童の手

 当山位牌堂前の棚に当山に古くから伝わる河童の手がある。これは、伝説の僧、赤峰法印が退治した河童の手であるといわれるものである。昭和9年、雲仙が国立公園に指定された際、雲仙山内に於いて開催された国際産業観光博覧会にも、一乗院から出品した宝物目録の19番目にその記載があり、このことからも、当時から寺の宝物として大切に保管されていたことが伺える。

当山に伝わる伝説によると、


 雲仙は、その昔、温泉(うんぜん)と書かれておったそうな。
今は雲仙に統一されたが、温泉(うんぜん)岳・温泉(うんぜん)神社などに、温泉の表記が残っておる。この温泉の山をお開きになったのは、行基という有名なお坊さんで、大宝元年(七〇一)に温泉山満明寺を建てたのが、始まりということじゃ。満明寺は瀬戸石原に三百坊、別所に七百坊の僧坊を有する大寺であったそうじゃが、島原の乱で仏教諸寺院はみんな、焼かれてしもうた。

島原の乱のあと、島原のお殿様の高力忠房が、満明寺を復興し、温泉山満明寺一乗院としたのじゃ。この一乗院の第八世に、赤峰法印という偉いお坊さんが住んでいたそうな。

お山の中腹あたりにあるいまの「諏訪の池」には、そのころ悪いカッパの太将がおったと。なんでも、このカッパの大将、手下どもを集めて湯の町にあらわれ、女や子供にいたずらをしたり、麓の小浜まで下りて行って網を破ったり、悪いことばかりしておったのじゃ。

「これは困ったことじゃ。何とかしてカッパの太将をこらしめねばならぬ」こう思った赤峰法印はカッパの太将に戦いをいどむことになったのじゃ。さて、カッパの神通力と赤峰法印の仏力(仏さまの力)の二つがぶつかり、どちらも死力をつくして争うたそうな。

ところが、三日三晩たっても、どうしても勝負がつかなんだ。たまりかねた赤峰法印は、考えたあげく、負けたふりをして、お山の方へ逃げたのじゃ。勝ったと思うたカッパの大将は、その勢いにのって赤峰法印をどんどん追いかけたそうな。

そして、とうとう地獄道にさしかかったときのことじゃ。もうもうと湧きのぼる地獄の煙と熱気でカッパの頭の皿の水が蒸発してしもうた。さあ大変。大切な皿の水がなくなったカッパの大将は神通力を失って、そのままパッタリと道に倒れてしもうたのじゃ。

「カッパの手」は、その時赤峰法印が退治したカッパの手だけを、もぎとって残しておいたものだそうな。



とあり、その時の状況がよくわかる。これは、長崎の昔話 第二集に掲載されていたものを、こちらで加筆させていただいたものである。

その加筆の内容は、前述の赤峰法印とは、今まで謎の人物であったが、この度、調査の結果、文化九年(一八一二)に亡くなった当山八世摩尼珠院兼帯法印禅宥宥興大和尚が小浜町山畑赤峰(あかみね)生まれであることがわかり、おそらくこの人物が赤峰法印であると考え、上記の伝説に「一乗院の第八世」を付け加えている。
 この河童の手が何であれ、約二百年もの間、当山に「河童の手」として伝えられている歴史の重さ、人の思いを大切にしていきたい。

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 昭和51年(1976)3月、南串山「一乗院」は、同町内「宗教法人延命寺」を吸収合併。「宗教法人延命寺」の檀徒の位牌を当山位牌堂へ移転した。
 又、同年、雲仙「釈迦堂」は独自で庫裡(集会所)を建設。
 昭和54年(1979)、雲仙「釈迦堂」は、『観光と信仰のメッカに』とのキャッチフレーズで京都大学教授、大森建二工学博士を招いて釈迦堂再建を計画。それを機に、雲仙「釈迦堂」が本坊「一乗院」管轄下という状態では、釈迦堂再建に支障をきたすと言う理由で、雲仙「釈迦堂」独立の気運が高まり、同年6月、本坊「一乗院」は雲仙「釈迦堂」より独立の要請を受ける。
 それに伴い、南串の本坊「一乗院」の住職及び総代と、雲仙「釈迦堂」の関係者との間で数回の会議が持たれ、同年9月25日、本坊「一乗院」が独立を容認した場合の旧「釈迦堂」の山号寺号は「雲仙山満明寺」、住職は福田宥定師とすることで双方合意。
 そして、同年10月13日の一乗院総代総会の決議にて「釈迦堂」の独立を容認すること、及び「釈迦堂」独立の際に本坊「一乗院」が寄付する財産の処分を決定。同年10月15日、本山に財産処分承認願いを提出。同日、処分する財産を檀信徒、利害関係人に公告した。同年11月1日、本坊「一乗院」は雲仙「釈迦堂」に対し、寄付証明を提出。この時「温泉山一乗院」から「雲仙山満明寺」に、寄附された主なものは、境内地、釈迦堂・宝物殿・集会所の建造物、釈迦大仏及び脇仏等であった。
 尚、「一乗院」は、本山からの財産処分の承認書を、同年12月23日付で受けている。
 よって「温泉山一乗院雲仙釈迦堂」は、昭和55年(1980)1月、真言宗御室派総本山仁和寺の認可を受け、南串山「温泉山一乗院」より正式に独立し、「雲仙山満明寺」として活動を開始し、当山一乗院とは法類寺院となった。

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雲仙一乗院釈迦堂移転

 昭和9年(1934)温泉(雲仙)が国立公園に指定された。それまで雲仙は温泉と書かれていたが、現在の雲仙と記載されるようになったのはこれ以降である。
 雲仙が国立公園に指定されたことを受け、雲仙の山内開発の一環として、新湯よりの道路拡張、万国博覧会会場広場の確保等の計画により雲仙一乗院釈迦堂は現雲仙山満明寺敷地へ移転を余儀なくされた。
 昭和10年(1935)温泉神社前寺領の売却費と、県からの移転費等をもって、現在の「雲仙山満明寺」敷地(県管理下の国有地)の造成を行い、敷地は県からの無償貸与で、宝物殿建設、釈迦堂、庫裡の移転を行い、昭和14年(1939)頃に完成を見ている。
 移転跡地は昭和12年(1937)分筆され、後日、島鉄及び、警察派出所敷地として賃貸することになった。
 当時の住職一乗院十七世淳海は、かねてより南串山本坊の櫃に眠る多くの宝物の開帳が念願であった。それは寺の移転を契機に宝物殿を第一期工事として建設したことからも明かである。また、当時の島原鉄道社長植木元太郎氏を会長、同重役の古川箴一氏を副会長に「一乗院復興保存会」を設立し、大衆に浄財を仰いでいる。即ち十七世淳海は、宝物開帳により内外の注視を集め、釈迦大仏信仰の参拝者増員による寺内安泰、強いては山内の活性化につながるとの理念であったそうである。しかしながら、その後、時局不穏に陥り、かの第二次世界大戦勃発に至ったことは、誠に不遇であったと言える。

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雲仙の釈迦大仏

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 明治30年(1897)旧歴5月26日朝6時半頃、温泉(雲仙)「釈迦堂」は、護摩堂の裏から出火し、堂宇(護摩堂、釈迦堂、聖天堂)並びに諸仏一体も残らず悉く焼失した。
 爾来、時の住職・檀徒を中心に島原半島内外の有志より浄財を募り、明治43年(1910)釈迦大仏建立に着手。大正3年(1914)、現在の大仏完成。大正6年(1917)開眼に至った。尚、現在の雲仙山満明寺の大仏の背面に建立及び、大仏解体による金箔総塗り替え時の関係者の名前が記されている。
 もうすでにお亡くなりになった一乗院の総代長老によると釈迦大仏は、京都より海路で運ばれ南串山京泊港に寄港し、檀信徒の出迎え並びに御詠歌隊の奉詠を受け、小浜町北村の港より登山されたとのことである。
 この釈迦大仏は現在も、昭和55年(1980)一乗院より独立した雲仙山満明寺にて大切に祀られている。その当時の温泉(雲仙)釈迦堂は、現在の満明寺前駐車場付近にあり、一間程の高台に建っていた。平成13年(2001)温泉山開山壱千三百年記念事業の一環として、かつての一乗院釈迦堂跡地に「史跡 温泉山一乗院」記念碑を建立し、簡単な歴史を紹介している。
 一乗院ゆかりの地である雲仙において、後世に歴史を伝える礎となれば幸いである。

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