一乗院日記

http://ichijyoin.com/もご覧下さい

温泉山一乗院の歴史

[ リスト | 詳細 ]

記事検索
検索

全4ページ

[1] [2] [3] [4]

[ 次のページ ]

今日は雲仙にあります一乘院歴代住職墓地の掃除に行ってきました。

一乘院は明治政府の出した神佛分離令によって大宝元年(701)の開山以降ともにあった温泉神社と分離され、廃仏毀釈によって温泉(現在の雲仙)にあった本坊が破壊されたため、明治2年(1869)に現在の南串山の地に本坊を移転しました。

寛永17年(1640)に遠州浜松鴨江寺より招聘された弘宥和尚によって中興されてから明治2年までは雲仙に歴代住職の墓はあります。更には明治13年(1880)に旧本坊跡地に復興された釈迦堂が昭和55年に独立し、現在の雲仙山満明寺になるまでの期間、十四世から十七世に至るまでの住職は、南串に移った本坊で住職を引退した後は、雲仙釈迦堂に隠居した経緯があることから、十七世淳海和尚までは雲仙に墓があるのです。

現在私は一乘院二十世を拝命致しておりますが、前述の中興弘宥和尚から数えて二十代目ということで、大宝元年(701)より寛永17年(1640)までの住職が全く分かりません。

下記に一乘院に伝わる縁起書の一部を抜粋しました。

温泉山縁起 追加
當世界の南に国有り。南蛮と号す。彼の国より鬼利支丹外道、日域に渡り、外道の法を弘む。金銀を以て万民に与え、魔法を勧む。

耽慾の輩、彼の法に歸依し、吾が朝の佛神、堂塔を破壊す。

此の時に至って、悉尽、當山の佛像、経巻を地中に埋め、或いは他山に移して空地と成る。六十余歳、吾朝の将軍、松平家康公、天下を治めたまいしより以来、鬼利支丹の法を制し、伴天連の輩を彼の国に追い帰し、跡を削り、名を埋づむ。しかりと雖も、薫残り尚を遺恨を挟む。高来天草の二島の土民等、一揆せしめ、原城に楯籠もり、蟷螂の斧を取ると雖も、龍車襲来して責め亡ぼす。高力摂津守忠房入部の守護を賜り、武勇・信心世に勝れ、佛神二道を崇め、當山の旧跡の絶えたるを悲しみ、仮に四面の社を建つ。土中より五佛像を掘り出す。其の長三寸余、則ち本尊と崇め奉り、社務を

一乗院の弘宥法印に賜り。二年治め遷化す。

資の宥誉法印を以て、爰に太守忠房殿、島中の人民が信心を発させしめんがために、五智の尊像を造立せんと欲したまい、宥誉、命を受け、寛永十九年(1642)壬午五月、摂州大阪に上洛し、造立成就す。

同じ年九月、本郡温泉に帰り来り、登山し、入佛す。

同二十年(1643)癸未九月、本社拝殿、造営成就す。

同月二十九日、遷宮(宮を移す)供養畢る。

忠房公、拝殿一乗院に永く百石を賜う事。

右は、本社の艮の角に造営、地曳す。御正体、金佛一百一十三体掘り出すること、何の時節にこれを埋めるのかを知らず。久しく土中に在りて朽ち損ず。正体、恙なきを以て内陣の左右に崇め奉るものなり。

万治三年(1660)庚子年、當山中興二世 宥誉法印
八月吉祥日

とあり、キリシタンによって寺院が破壊されたことが記されている。

永禄六年(1563)来日し近畿・九州各地でキリスト教を布教したポルトガルのイエズス会士フロイスは、その著作『日本史』に於いて
 
この高来の地は‥‥‥高く山が聳えている。その山には、いくつかの凹みがあって、そこから絶えず激しい勢いで種々の硫黄が噴出している。この硫黄泉に近く、かの山の上には大いなる僧院があるが、そこには実に大勢の仏僧がおり、また(同僧院は)その肥前国全体で(他に比べて)はなはだ多額の収入を有している。ここは日本における最大、かつもっとも一般的な霊場の一つで、不断に巡礼が訪れている。これらの寺院は温泉(うんぜん)という偶像に奉献されており、そのようなことから、この高来の地は日本でなおいっそうの名声と評判を有することになったのである。〔『日本史』第一部一〇八章〕
 
と述べており、当時の温泉山満明寺の繁栄を示している。近世には、瀬戸石原に三百坊、別所に七百坊を有していたという伝承が定着しているが、実際それに近い壮大な寺観を有していたと思われる。
 しかしながら、時の日野江城主、有馬晴信がキリスト教に入信し、天正八年(1580)領内の寺社破壊が決行され、温泉山一山は破壊されている。前述の『日本史』には、
 
巡察師が滞在した三ヶ月間に、大小合わせて四十を超える神仏がことごとく破壊された。それらの中には、日本(中)で著名な、きわめて美しい幾つかの寺院が含まれていた。〔『日本史』第二部二〇章〕
 
温泉(うんぜん)と呼ばれ、日本では盛んな巡礼をもって知られる豪華な神殿‥‥‥その神殿は有馬の城の上、三里の地にあって、そこには大いなる硫黄の鉱山がある。神殿や僧院、および神仏像は、ドン・プロタジオ(有馬晴信)の改宗後に破壊されていた。〔『日本史』第二部五三章〕

 
とフロイスは述べており、当時の無惨な状景がうかがえる。更には薩摩島津氏の家老であった土井覚兼は『土井覚兼日記』に
 
當郡南蛮宗にて温泉坊中無残破壊候〔天正十二年(一五八四)四月八日条〕
 
と述べ、更には
 
言語道断、殊勝之霊地不申及候、悉荒廃之躰無是非候、四面大菩薩漸礎計残候〔天正十二年(一五八四)五月一日条〕
 

述べており、『日本史』の記事を裏付けている。その後、豊臣秀吉、徳川幕府はキリスト教が広まることによって国が乱れるのを警戒し、禁教令を出してキリスト教徒を取り締まったが、寛永17年(1637)年、島原の乱が起きます。

今年、世界遺産に登録される見通しの、長崎の教会群とキリスト教関連遺産に南島原市の原城跡も含まれておりますが、寛永14年(1637)から翌15年(1638)年の島原の乱の際、確かに原城に立てこもった3万7千人のキリシタンの方々は幕府軍の攻撃によって全滅したでしょうが、その前に、領内の神社仏閣の殆どを壊滅させてから原城に立てこもったわけで、その際、温泉(現在の雲仙)にあった一乘院の前身である温泉山満明寺も完全に破壊されたことが、一乘院に伝わる縁起書によって分かります。

島原の乱の際の島原藩主の松倉勝家は、乱を引き起こした責任から大名としては異例の斬首されました。その後、浜松城主であった高力摂津守忠房公が島原城主として着任されます。

その忠房公が浜松城のすぐ近くにある鴨江寺より、温泉(現在の雲仙)の寺院を復興するために招聘したのが温泉山一乘院中興弘宥和尚です。

イメージ 1
一乘院歴代住職墓地(中央が中興弘宥和尚墓碑、右は二世宥誉和尚墓碑)

弘宥和尚は寛永17年(1640)にやってきて僅か2年で遷化されておりますが、上記写真の墓碑は三十三回忌の際に建立されたものです。

キリシタンによって破棄し尽くされていた寺院の復興は並々ならぬ苦労があったのでしょう。

今日、キリシタンが迫害されたことばかりが報道されますが、キリスト教が無かった日本にキリスト教を広めるために宣教師達は何をしたのか。

大名や民衆を扇動して神社仏閣を破壊させた事実も知っていただきたい。

私はキリシタンに破壊された寺院住職として、その事実を発信していく役割を担っていると思っております。

その歴史も踏まえた上での世界遺産登録であって欲しい。

雲仙の墓掃除に行き、弘宥和尚の墓前に手を合わせるたびに、その思いに駆られ、また、弘宥和尚以前に雲仙におられてキリシタンに殺害されたであろう先師の思いも忘れてはならないと思います。

今日の雲仙は天気も良くて暑かったですが、草刈が終わって先師尊霊に手を合わせ、すがすがしい気持ちで南串に帰りました。

この記事に

開く コメント(5)

イメージ 1


上記の写真には

雲仙の歴史

701年  大宝元年 行基、温泉山に満明寺を開いた。
713年  和同6年 肥前風土記に「高来の郡」の地名の由来が記された。
1549年  天文18年 ザビエルが薩摩(鹿児島)に上陸。以降、九州各地にキリスト教が     広まった。
1571年  元亀2年 「白雀の乱」満明寺の僧が争いを起こし、僧達を2分しての争いに発     展した。戦火で寺が焼失。
1587年  天正15年 豊臣秀吉が宣教師追放令を出した。キリスト教弾圧の始まり。
1596年  慶長元年 キリスト教徒26人が長崎の西坂にて処刑された。
1613年  慶弔18年 徳川家康がキリスト教を完全禁止とした。幕府によるキリシタンの     国外追放や、教会の破壊などのキリシタン弾圧が強まった。
1627年  寛永4年 松倉重政のキリスト教徒迫害が過酷となった。「山入り」と称して教     徒を雲仙に送り、地獄責めで改宗の強要が続いた。
1653年  承応2年 加藤善左衛門が雲仙に湯治場「延暦湯」を開いた。



と記されている。

これは、雲仙の温泉街にある「雲仙お山の情報館」内に展示されている年表である。

雲仙はというと…

年表にもあるように、行基開創の仏教の霊場であった。温泉山満明寺は、近世には、瀬戸石原に三百坊、別所に七百坊を有していたという伝承が定着しているが、実際それに近い壮大な寺観を有していたと思われる。

しかしながら、時の日野江城主、有馬晴信がキリスト教に入信し、天正八年(1580)領内の寺社破壊が決行され、温泉山(現在の雲仙)一山は破壊されている。
永禄六年(一五六三)来日し近畿・九州各地でキリスト教を布教したポルトガルのイエズス会士フロイスの著作『日本史』には、

巡察師が滞在した三ヶ月間に、大小合わせて四十を超える神仏がことごとく破壊された。それらの中には、日本(中)で著名な、きわめて美しい幾つかの寺院が含まれていた。
                          〔『日本史』第二部二〇章〕

温泉(うんぜん)と呼ばれ、日本では盛んな巡礼をもって知られる豪華な神殿‥‥‥その神殿は有馬の城の上、三里の地にあって、そこには大いなる硫黄の鉱山がある。神殿や僧院、および神仏像は、ドン・プロタジオ(有馬晴信)の改宗後に破壊されていた。
                          〔『日本史』第二部五三章〕

とあり、当時の無惨な状景がうかがえる。
さらには薩摩島津氏の家老であった上井覚兼の『上井覚兼日記』に

當郡南蛮宗にて温泉坊中無残破壊候
                      〔天正十二年(一五八四)四月八日条〕

と述べ、さらには

言語道断、殊勝之霊地不申及候、悉荒廃之躰無是非候、四面大菩薩漸礎計残候
                      〔天正十二年(一五八四)五月一日条〕

述べており、『日本史』の記事を裏付けている。

尚、上記年表の1571年 元亀2年 「白雀の乱」は、有馬晴信がキリスト教に入信した時代とほぼ一致することから、フロイスの言う寺院破壊(キリスト教徒による)であろう。

また、温泉山満明寺は、寛永14年(1637)島原の乱により堂宇すべてを焼失、壊滅した。島原の乱の翌年(1638)11月、島原藩は松倉城主に代わり遠州浜松城主高力摂津守忠房公が城主に着任している。その家臣善左衛門清輔(現、雲仙湯元ホテル加藤家の先祖)の兄、当山中興弘宥法印(遠州浜松鴨江寺出)が島原城主高力摂津守忠房公の守護を賜り寛永17年(1640)大定院の旧地を再興し「温泉山一乗院」として復興する。

 安永7年(1778)6月の『温泉山起立書』によれば、

温泉山真言宗一乗院儀
本寺京都
御室御所
 仁和寺宮直御末寺ニ而御座候
山号 温泉山
 此山号之儀往古ヨリ之山号ニ而御座候
 尤熱湯涌出ニ付候御山号ニ而御座候
寺号 満明寺
是も往古ヨリ之寺号ニ而繁昌之時分ヨリ一山之寺号ニ而御座候

とあり、寺号の満明寺は温泉山一山の寺号として用いられていたことがわかる。
一乘院縁起書によれば、土中より三寸余りの五智如来像が出土し、本尊として崇め奉ったとされる。さらに中興二世宥誉法印は、島原半島の人民に信心をおこさせるため、五智如来像造立を発願して城主高力忠房公に申し上げ、城主の命を受け寛永19年(1642)5月、摂州大坂に行き、造立成就し同年9月、温泉(雲仙)に帰り入仏し、翌寛永20年(1643)9月、本社拝殿を造営成就している。

「雲仙お山の情報館」の年表には、この事実が完全に消されているのである。

温泉山(現在の雲仙)開山以来、山を護持してきた寺院が壊滅したのである。雲仙の歴史を語る上で、これ以上の事件があったであろうか。

昨日、長崎の教会群とキリスト教関連遺産の世界遺産への申請がやり直しになったニュースが流れたが、行政がこのような年表を作り歴史をねじ曲げてまでして登録したい世界遺産とは何なのだろう。
所詮、観光客目当ての客寄せパンダといった所か。

歴史は正しく後世に伝えるべきだということは、小学生でも分かることだ。それを時の権力者の事情によってねじ曲げるということは、あってはならないことである。

この記事に

開く コメント(0)

かっぱの手

河童の手

 当山位牌堂前の棚に当山に古くから伝わる河童の手がある。これは、伝説の僧、赤峰法印が退治した河童の手であるといわれるものである。昭和9年、雲仙が国立公園に指定された際、雲仙山内に於いて開催された国際産業観光博覧会にも、一乗院から出品した宝物目録の19番目にその記載があり、このことからも、当時から寺の宝物として大切に保管されていたことが伺える。

当山に伝わる伝説によると、


 雲仙は、その昔、温泉(うんぜん)と書かれておったそうな。
今は雲仙に統一されたが、温泉(うんぜん)岳・温泉(うんぜん)神社などに、温泉の表記が残っておる。この温泉の山をお開きになったのは、行基という有名なお坊さんで、大宝元年(七〇一)に温泉山満明寺を建てたのが、始まりということじゃ。満明寺は瀬戸石原に三百坊、別所に七百坊の僧坊を有する大寺であったそうじゃが、島原の乱で仏教諸寺院はみんな、焼かれてしもうた。

島原の乱のあと、島原のお殿様の高力忠房が、満明寺を復興し、温泉山満明寺一乗院としたのじゃ。この一乗院の第八世に、赤峰法印という偉いお坊さんが住んでいたそうな。

お山の中腹あたりにあるいまの「諏訪の池」には、そのころ悪いカッパの太将がおったと。なんでも、このカッパの大将、手下どもを集めて湯の町にあらわれ、女や子供にいたずらをしたり、麓の小浜まで下りて行って網を破ったり、悪いことばかりしておったのじゃ。

「これは困ったことじゃ。何とかしてカッパの太将をこらしめねばならぬ」こう思った赤峰法印はカッパの太将に戦いをいどむことになったのじゃ。さて、カッパの神通力と赤峰法印の仏力(仏さまの力)の二つがぶつかり、どちらも死力をつくして争うたそうな。

ところが、三日三晩たっても、どうしても勝負がつかなんだ。たまりかねた赤峰法印は、考えたあげく、負けたふりをして、お山の方へ逃げたのじゃ。勝ったと思うたカッパの大将は、その勢いにのって赤峰法印をどんどん追いかけたそうな。

そして、とうとう地獄道にさしかかったときのことじゃ。もうもうと湧きのぼる地獄の煙と熱気でカッパの頭の皿の水が蒸発してしもうた。さあ大変。大切な皿の水がなくなったカッパの大将は神通力を失って、そのままパッタリと道に倒れてしもうたのじゃ。

「カッパの手」は、その時赤峰法印が退治したカッパの手だけを、もぎとって残しておいたものだそうな。



とあり、その時の状況がよくわかる。これは、長崎の昔話 第二集に掲載されていたものを、こちらで加筆させていただいたものである。

その加筆の内容は、前述の赤峰法印とは、今まで謎の人物であったが、この度、調査の結果、文化九年(一八一二)に亡くなった当山八世摩尼珠院兼帯法印禅宥宥興大和尚が小浜町山畑赤峰(あかみね)生まれであることがわかり、おそらくこの人物が赤峰法印であると考え、上記の伝説に「一乗院の第八世」を付け加えている。
 この河童の手が何であれ、約二百年もの間、当山に「河童の手」として伝えられている歴史の重さ、人の思いを大切にしていきたい。

この記事に

開く コメント(2)

 昭和51年(1976)3月、南串山「一乗院」は、同町内「宗教法人延命寺」を吸収合併。「宗教法人延命寺」の檀徒の位牌を当山位牌堂へ移転した。
 又、同年、雲仙「釈迦堂」は独自で庫裡(集会所)を建設。
 昭和54年(1979)、雲仙「釈迦堂」は、『観光と信仰のメッカに』とのキャッチフレーズで京都大学教授、大森建二工学博士を招いて釈迦堂再建を計画。それを機に、雲仙「釈迦堂」が本坊「一乗院」管轄下という状態では、釈迦堂再建に支障をきたすと言う理由で、雲仙「釈迦堂」独立の気運が高まり、同年6月、本坊「一乗院」は雲仙「釈迦堂」より独立の要請を受ける。
 それに伴い、南串の本坊「一乗院」の住職及び総代と、雲仙「釈迦堂」の関係者との間で数回の会議が持たれ、同年9月25日、本坊「一乗院」が独立を容認した場合の旧「釈迦堂」の山号寺号は「雲仙山満明寺」、住職は福田宥定師とすることで双方合意。
 そして、同年10月13日の一乗院総代総会の決議にて「釈迦堂」の独立を容認すること、及び「釈迦堂」独立の際に本坊「一乗院」が寄付する財産の処分を決定。同年10月15日、本山に財産処分承認願いを提出。同日、処分する財産を檀信徒、利害関係人に公告した。同年11月1日、本坊「一乗院」は雲仙「釈迦堂」に対し、寄付証明を提出。この時「温泉山一乗院」から「雲仙山満明寺」に、寄附された主なものは、境内地、釈迦堂・宝物殿・集会所の建造物、釈迦大仏及び脇仏等であった。
 尚、「一乗院」は、本山からの財産処分の承認書を、同年12月23日付で受けている。
 よって「温泉山一乗院雲仙釈迦堂」は、昭和55年(1980)1月、真言宗御室派総本山仁和寺の認可を受け、南串山「温泉山一乗院」より正式に独立し、「雲仙山満明寺」として活動を開始し、当山一乗院とは法類寺院となった。

この記事に

開く コメント(0)

雲仙一乗院釈迦堂移転

 昭和9年(1934)温泉(雲仙)が国立公園に指定された。それまで雲仙は温泉と書かれていたが、現在の雲仙と記載されるようになったのはこれ以降である。
 雲仙が国立公園に指定されたことを受け、雲仙の山内開発の一環として、新湯よりの道路拡張、万国博覧会会場広場の確保等の計画により雲仙一乗院釈迦堂は現雲仙山満明寺敷地へ移転を余儀なくされた。
 昭和10年(1935)温泉神社前寺領の売却費と、県からの移転費等をもって、現在の「雲仙山満明寺」敷地(県管理下の国有地)の造成を行い、敷地は県からの無償貸与で、宝物殿建設、釈迦堂、庫裡の移転を行い、昭和14年(1939)頃に完成を見ている。
 移転跡地は昭和12年(1937)分筆され、後日、島鉄及び、警察派出所敷地として賃貸することになった。
 当時の住職一乗院十七世淳海は、かねてより南串山本坊の櫃に眠る多くの宝物の開帳が念願であった。それは寺の移転を契機に宝物殿を第一期工事として建設したことからも明かである。また、当時の島原鉄道社長植木元太郎氏を会長、同重役の古川箴一氏を副会長に「一乗院復興保存会」を設立し、大衆に浄財を仰いでいる。即ち十七世淳海は、宝物開帳により内外の注視を集め、釈迦大仏信仰の参拝者増員による寺内安泰、強いては山内の活性化につながるとの理念であったそうである。しかしながら、その後、時局不穏に陥り、かの第二次世界大戦勃発に至ったことは、誠に不遇であったと言える。

この記事に

開く コメント(0)

全4ページ

[1] [2] [3] [4]

[ 次のページ ]


.


みんなの更新記事