線とマチエール

このBlogの日記は私小説風の体裁を取っています。そのため、出来事、登場人物の心境には作者の主観も含まれます。予めご了承ください

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あとみよそわか

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※写真は新潮文庫「父・こんなこと」 
 
 
 ナーガールジュナの「空・仮・中」の三段論法は、どうも人間の一つの思考の癖のようである。

 そもそも始まりというモノが仮定できれば、そこには因縁がある。因縁があれば即ち生じるから「(仮)有」。しかし因縁によって生じたものにはそもそも自性が無い。自性が無い故に「空」。実存とは結局その仮有と空、有無の中道でしかない。

 このことはギリシャ哲学から大乗仏教、そして空海「密教」へと連綿と受け継がれ、空海は長い仏教史を引き受けて、これを「阿字本不生」と言い、ここに日本的なる精神(若しくは感受性)の一つのプロトタイプを見つけてくれた。

 このプロトタイプは、僕は、後に法然や親鸞、道元が引き受けてくれて、柔らかい日本語として、民衆へと浸透していったと思う。鎌倉から室町にかけて、これは(例えば世阿弥の「能」や利休の「一期一会」等によって)一つの「方法」として日本人の遺伝子へと深く浸透していく。

 例えば渡辺京二氏の「逝きし世の面影」に見る(江戸の)“日本文明”の姿などは、その爛熟であるかと思う(もちろん文明には影がある事も含みつつ)。

 果たして近代が失ったものの中に、その(封建時代における)「方法」があると思う。これは例えば、僕は幸田露伴や幸田文親子のやりとりに具現化されているとも思っていて、文女史の「あとみよそわか」等の中に、僕は「空・仮・中」の実践を見る気がする。

 例えば龍樹(ナーガルジュナ)と障子や襖の張替え(「あとみよそわか」とはそんなやり取り)、そういった対角線を結ぶ日本人論が、もうそろそろ出てきて欲しいものだと思う。



おしまい

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