線とマチエール

このBlogの日記は私小説風の体裁を取っています。そのため、出来事、登場人物の心境には作者の主観も含まれます。予めご了承ください

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「言は意を尽くさず(言葉は心象の全てを顕すにはたりない)」などと、わざわざ易経の一節を引くまでもなく、東洋的思惟の根幹には、「言語不信」の思想があると言ったのは、たしか井筒俊彦だった。しかし、かといって「言葉」はコミュニケーションの根幹であることも言うを待たず、ゆえに東洋の聖人は名称を正し、よく「言葉」を操る者でもあった。

言葉とは「存在を顕わにするものだと」、何の文献に依ったかは忘れたが、仮にそのように定義すれば、その存在の「存」という字は、生まれた子を祝して、そこに生命あることを顕わにする儀礼であり、また「在」という字は、そこに呪器をそえて、生命の拠所たる大地を顕すための儀礼であった。

まさに「存在」という言葉の古層には、そうした古代の感情が幾重にも堆積していて、仮に言葉が人間の意の全てを尽くしきれないとすれば、たしかに「存在」という言葉一つただ発してみても、そこに埋もれた古代からの営みは感ぜられない。

それはまさに個人存在にしても同様で、「私」という言葉を一言発して見ても、そこには彼の人の堆積した人生は見えないのである。

     *     *     *

しかしまた「言葉」の背景には、ギリシア詩学に謂うところの「トポス」という概念もあるらしく、それは我が国の「枕詞」にも似ていて、いまだ言葉が呪的言語であった頃に、「八雲立つ」と謡えば、そこにはまさに出雲の国の風景が垣間見られた。

この意味に於いて「言葉」は、「真なる言語の響きは、宇宙の果てまで尽きることがない」と説いた、古代印度の哲人よろしく、人間心理の深奥から創造的イマージュを喚起する。それは今でも私たちが、賢治や漱石の文学に人知れず涙することに似ているのだろうか。

     *     *     *

はたして「コトバ」とは何か?という事を考えると、それは「不信の言語」であり、またひるがえって「真の言語」でもある矛盾を内包している。

それ故に、孔子は名を正すことを最善とし、荘子はこころみの妄言に遊び、老子は函谷関の果てにその言葉を閉じた。東洋において哲人は、この「コトバ」の持つ自己矛盾について、まったく自覚的であったのだ。

こうして、さらにその「コトバ」を存在論へまで敷衍してみる。そこでは言葉によって顕される存在世界も、言語同様の矛盾を内包しているはずである。それ故に古来、存在とは空華(有無)のあわいであり、また人間の生とはその意志と面影のあわいでもあった。私たち東洋は、つい百年前くらい前まで、こうした存在論を持っていたのである。

昨今様々なメディアや通信環境を通じて、現代はまさに「コトバ」が横溢している。はたしてその「コトバ」とは、いったい「不信の言語」であるか、または「真の言語」であるか。はたまた、それは僕のこのこころみの妄言同様、どちらともつかない、頼りのない「コトバ」であるかしらん。

おしまい

※写真は老子

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