線とマチエール

このBlogの日記は私小説風の体裁を取っています。そのため、出来事、登場人物の心境には作者の主観も含まれます。予めご了承ください

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【雑文】

【雑文】

オリエントの偉大な思想家「荘子」は、その著作「内篇」の中で、存在のリアリティというものは、コトバで表した途端に、表現されたコトバと、コトバから取りこぼされた本質(リアリティ)とに分かたれ、二重性を帯びると謂った。

ではそのように、本来のリアリティが寸断されるような事態がしょうじるのならば、発したコトバを掻き消してでも、そのリアリティそのものに帰れば良いのではないか。そう発議してみても、彼はもう手遅れだと謂う。

既にこの存在者(現実)の世界は、コトバで分かたれて二重性を帯びている。本来の姿に戻ろうという善意は、コトバで寸断された残響をよすがにするしかない。このようにして世界は、コトバによって二重性をおび、人間の中の善意によって、その残響を愛慕する三になる。

先達の「老子」は、そのことをとらまえて、一は二を生じ、二は三を生じ、三は万物を生じると謂った。

(かつて詩人の中原中也は自身の弟に、この美しい夕暮れを、安易にコトバにするなと、沈黙をしいた)
 
 
   *   *   *
 
 
こうしてこの存在リアリティの二重性は、オリエンタルな思索の、永遠のテーマとなった。釈迦は因縁の諸相を克服して「中道」を求め、(およそ)五百年のちの龍樹(ナーガリュジュナ)はその釈迦を愛慕して、存在のリアリティとは、「(仮)有」と「空 (クウ)」のあわいにあるのだ理論化する。

いったい東洋哲学一般において、この「間(あわい)」とは、不変のテーゼとなった。

曰く、はじまりが有るということは因縁が有るので、それを名づけて「(仮)有」という。 

曰く、因縁によって生じるものは、自らの性 (サガ) 有ることは無いので。故に是を「空 (クウ)」という。

曰く、即ち唯一の真実(存在リアリティ)とは、この「(仮)有」と「空 (クウ)」の境にある。即ち是「中道」である。

孔子の孫の「子思 (シシ)」は、祖父の真意が失われることを恐れて「中庸」を著わしたというが、いったい中庸とは、いわば「真ん中」である。人間にとってその存在リアリティとは、この揺れ動く「真ん中」にあったのだ。
 
 
   *   *   *
 
 
はたしてこの揺れ動く、”ゆきかい” と ”おとづれ” の ”あわい” はいかに生ずるか滅するか。

西欧では、デカルトという偉大な哲学者が生じて、「コギト・エルゴ・スム(我思うゆえに我あり)」と謂ったそうだが、その ”思う” 主体のコギトですら、たとえばユングなどに謂わせれば、そこにも「自我」と「自己」の二重性を帯びることになる。
 
 
   *   *   *
 
 
そして僕はここに、もう一人の、オリエントの偉大なる思想家のコトバを想起する。

「自らに求めても、他に求めても、自分自身の本性は、自身の心をはなれない(抄訳)」空海のコトバ。

彼は謂う。

この存在の本源(大日如来)からこそ、(コトバの)本不生である始まりの音源(パロール)が生じるのだと。

(やんぬるかな、近代言語学の祖・ソシュールは、パロールを分析の対象から外した)
 
 
   *   *   *
 
 
僕は空海の名前を出すまでに手間取った。

僕は今、実は彼の次のテーゼにまいっているのだ。

即身成仏義に曰く、「智(悟り)とは、決断簡択(決断し、択び取る)の義である」。

僕はここに、デカルトの遥か先を夢想する。

オリエントにおける、主体性の義を、夢想するわけである。
 
 
 
おしまい 
 
※写真は弘法大師・画像

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