線とマチエール

このBlogの日記は私小説風の体裁を取っています。そのため、出来事、登場人物の心境には作者の主観も含まれます。予めご了承ください

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【蠱中のこと】

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今日は読み始めてまだ途中のままになっていた「蝸牛庵 訪問記」を再び読み始めた。文豪・露伴に寄り添いながらその終焉の日まで記録した小林勇のエセー。
 
露伴七、八歳の頃「そのときには自分が盲人になると覚悟してそのあとのことを幼心にいろいろ考えた(中略)このときが僕が悲しみというようなものをおぼえた最初のことだ」僕はそこまで読み終えて本を閉じた。
 
ふと、悲しみというコトバから、二十代の頃に読んだ、旧約聖書「ヨブ記」の一節を思いだした。
 
「そんなことは聞きあきた 君たちはみなわずらわしい慰め手だ 風のような言葉にはてしがあろうか 一体何が君を駆って言葉を続けさせるのだ わたしとても君たちのように語りたくなるだろう 君たちとわたしが位置を交換できれば」
 
注釈を引く。昔の傍線が目に付いた。
 
「人は言葉で語り合うことをやめ得ないが、それで正しくお互いに理解することは必ずしも出来ない。しかし語り合うことをやめることも出来ない」
 
昔「人形」という店があって、いつもそこで酔いつぶれるまで飲んで、そこのマダムから云われた。
 
「わかり合わないという優しさもある」
 
 
     *     *     *
 
今日は久しぶりに落款を彫った。彫ったと云っても僕のは消しゴムだけど(笑)。僕の屋号は「壺中天」の故事になぞらえて「壺中堂」という。そして僕が易の「六十四卦」の中で尤も好きな卦が「山風蠱(さんぷうこ)」。風は八方に神を宿し「風動いて蟲(ちゅう)を生ず」と説文にあるが、啓蟄の季語宜しく、僕は「蟲」には生命の律動という象(イマージュ)があると思っている。甲骨での「風」は、鳥が大気をつかまえて飛翔するさま(いつも、つげ義春の鳥師を思い出す・笑)。
 
「蠱(こ)」の象は皿の上の食物に虫が湧くさま。一見、宜しくない。易経の注釈曰く、山の下に風があるのは「蠱」。草木果実みな散乱し、土に落ちて腐る。腐れればそれ土に帰る。それ故に一見、宜しくない「山風蠱」には、大地からあらためて生まれ清まるイマージュがある。
 
それは「蟲」、生命の律動であり、「風」、大気を得て飛翔する鳥。果ててはまた生まれ清まる、永遠に生々流転する生命現象と創造の営み。久遠(くおん)にわかり合えぬコトバの応酬と往復。不在の郵便物。それでも人間は語り合うことをやめることも出来ないし、やっぱりそれは「わかり合わないという優しさ」なのだった。
 
ふと思い立って僕は、落款を「壺中(こちゅう)」ならぬ、「蠱中(こちゅう)」としてみた。
 
 
 
おしまい

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【徒然に思うこと】

【徒然に思うこと】
 
政治的ないし、思想信条は万人公平に尊重されるべきで、(個人的感情はさておき、)現行の政府も、各々の思想信条にのっとって仕事を遂行している。昨今巷を騒がす「安保法案」も、建設的議論がなされてほしいモノだと思う。
 
先日の衆院憲法審査会で、自民党推薦を含む憲法学者3人全員が、法案を「憲法違反」とした件に対し、最近ちらほら下記のような反論をみつける。
 
例えば、そもそも厳密な意味での憲法9条に照らせば「自衛隊」の存在も「違憲」であって、「安保法案」の違憲性を今更指摘すること自体おかしいと云った内容。これは読みようによっては、現在審議されている「安保法案」も、従来政府による憲法解釈の延長にある、というような錯覚もする。
 
確かに、憲法9条はかつての「芦田修正」以来、様々な政府解釈によって「警察予備隊」から「自衛隊」へ、またはPKOによる「自衛隊海外派遣」等、その解釈の幅を広げてきた、と思う。一概に「違憲」という言葉を適応させることが難しい、デリケートな問題でもある。
 
     *     *     *
 
しかしながら今回の憲法学者にしても、決して憲法9条を「芦田修正」以前の見解で四角四面にとらえて、またかつ、修正以後の政府解釈の推移も視野に入れず、短絡的に「違憲」としたわけではないであろう。
 
例えば毎日新聞の取材に対し、当の長谷部恭男早稲田大大学院教授も「従来の政府見解の基本的枠組みでは説明がつかず、法的安定性が損なわれている」と、指摘している点からも推察できる。
 
たとえいかに「内閣法制局」等が、この法案の内容を良く吟味し、満を持して国会に提出したモノとしても、今回の「違憲」の指摘は重く受け止めるべきだと思う。
 
更に云うと、「合憲」と「違憲」、政府にしろ学者にしろ、どちらも法律のプロであることには変わりないし、同じ「憲法」を扱いながら、「合憲」と「違憲」、各々の見解の相違がいったい何故、どこから生じるものか、もっと論点をすり合わせ、論旨も明快に、国民の前で議論を展開してもらいたいモノだと思った。
 
実は本日、下記ブログの記事を観て、こうしたブログの論法に、問題の本質がすり替えられるのが今の日本の現状なのかと、ひとり胸が痛んだ次第。
 
http://blogos.com/article/115893/

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東洋の思想思索を読み解く上で抑えるべきポイントは、認識論と存在論が同時に一つの論理上に併存していることだと思う。
 
そのことに最初に気づかされたのは、井筒俊彦氏の「意識の形而上学『大乗起信論』の哲学」を読んだ際だった(意識の形而上学では「存在論から意識論へ」とある)。
 
たとえば道家思想の代表である荘子と老子に次のコトバがある。
 
・一与言為二 二与一為三 自此以往巧歴 不能得 (中略) 故自無適有 以至於三
 
「一と言と二と為り、二と一と三と為る。此れよりのちは巧歴も得る能わず(中略)故に無より有にゆきて以て三に至る」『荘子 斉物論篇』
 
たとえばこの「一と言と二と為り」の「一」とは、非常に大雑把に言えば存在のリアリティーである、と思う。さらに敷衍して言えばそのリアリティーを直接に体験すること。その直接的体験と「言(コトバ)」とで二に為ると言うのは、そのリアルな体験をコトバでもって表現し、定義してしまうと、本来のリアリティーは限定され、あくまでもコトバというフィルターを介したモノになるので「二」という。
 
では「二と一と三と為る」とはどういう意味か。たとえばそうしてコトバ的フィルターを介した「二」以降であっても、まだコトバで限定される前のリアリティの残響はある。言い換えればコトバ以前の感覚。感覚の記憶。
 
人間の脳細胞の中には、今生で体験した全記憶が畳み込まれていると言うが、そうした言語で表現された「二」と、その存在記憶でもって「三」になる。
 
本来のリアリティーの「一」と、コトバの「二」と、体験記憶の「三」。
 
荘子はコトバというものを介して、人間の認識にはこの三重構造があると言っていて、更に「三」以降の、この認識の分化はたとえ算術に秀でた巧歴(天文学者)でも数え尽くすことはできない。
 
そして老子。
 
・道生一。一生二。二生三。三生萬物。萬物負陰而抱陽。冲氣以爲和
 
「道は一を生じ、一は二を生じ、二は三を生じ、三は万物を生ず。万物は陰を負うて陽を抱き、冲気、以て和することを為す」『老子 四十二章』
 
老子は荘子に於ける「一」と「二」と「三」の認識論を、存在の生成過程として語る。
 
東洋の思想思索の中には、この存在と認識(井筒センセイ風に言えば「存在論から意識論」)の二重構造がある。
 
例えば龍樹(ナーガ―ルジュナ)の三諦偈に於いても存在は有と無の中道(空)だと言ったとき、この論は存在論でもあり認識論でもあって、ここには我思うゆえの我が無い(天台の三諦偈の解釈に於いては「空亦復空」と言うが、僕はその論はとらない)。
 
          *     *     *
 
ではいったい人間の存在認識と存在そのモノはどこで一つになり、どこで分かたれるのか。その一つの回答が、弘法大師の三部書の一つ「声字実相義」に読み取れる、と思う(この文章はその覚書)。
 
荘子に於いては存在のリアリティを混沌と分化させるコトバの作用については、いささか否定的であった。それは釈迦以降の原始仏教に於いても、龍樹以降の大乗仏教に於いても同様で、真理はコトバには顕わせないとする。
 
しかしこの空海ただ一人だけが、長い仏教史において、コトバには真理があると言い、声字実相の義を著わした。
 
内容をかい摘まめば次のような論旨だ、と思う。
 
先ず彼は「大日経」という密教の根本経典の一書から偈を引いて、声字に実相があると言う自説の論拠とする。更にその「大日経」偈の真の意味を、彼は不遜にも彼自身の偈で、その大義を説明する。
 
「五大に皆響き有り 十界に言語を具す 六塵悉く文字なり 法身は是れ実相なり」
 
以下は僕流の読み解き(覚書)。
 
空海がまず響きや声といったとき、それはただ人間が語る声という意味だけではない、と思う。「声の本体、音響はすなわち用なり」とあり、それは作用するモノとしての、あらゆる存在の表現行為。
 
いわば「五大に皆響き有り」と彼、空海が言ったとき、そこには五大、地水火風空(五大の「空」は空間的広がりのこと。三諦偈に謂う「空」とは別)の表現行為、例えば雄大な風景や美しい花々がその存在を以て語りかけてくる、そうした表現行為というビジョンがある、と思う。
 
そうしてこの内外わずかに響きあう声から、如来の深い悟りのコトバ(名教)が生まれたと言う。
 
次に「十界に言語を具す」とは。
 
ここで空海は考察対象を変える。五大云々がこの世界の構成要素に視座を置いた解釈であったのに対し、「十界に言語を具す」とは、その環境の相違によって顕れてくるコトバというモノを考察し始める。注意を要するのは五大云々と十界云々とでは、その考察する対象と、その視点が違うということ。
 
十界とは仏菩薩の世界から人間世界、はては餓鬼、阿修羅の世界まで。空海はここで環境ごとに使われるコトバの在り様を考察し、環境という側面で見たとき、その各々で使われるコトバには確かに真言と妄言があるという。
 
次に「六塵悉く文字なり」とは。
 
ここで空海は更に考察視点を変える。
 
六塵とは「色塵」「声塵」「香塵」「味塵」「触塵」「法塵(物質の本質)」のことを言い、それは人間が感覚する対象であり、「六塵悉く文字なり」の偈には、僕は観察者の視点が増えている、と思う。そして空海はここで観察者の視点、いわば「心」の定義に入っていく。
 
物質そのモノを考察対象にした場合、そこには幽玄な響きがあり、それが如来の名教(コトバ)のもといであり、そしてこの五大(物質)の響き(声)には、実相(真実)があるという。
 
そして次に環境世界というテーマで考察の視点を変えた場合、仏菩薩の世界から人間、はては餓鬼、阿修羅に至って使われるコトバには、その生まれた環境によって人生が分かたれるように、真妄の差別があるという。
 
ではその差別はどこから生じるのか?
 
ここで空海は「大日経住心品」の記述を論拠に、観察者の「心」とは色彩でもなく、カタチでもなく、動作行為でもないと定義し、主観的にも客観的にも、「心」は知ることは出来ないと断ずる。
 
いわば「心」とは根本的不明であり、その根本的不明な何モノかが、この世界を観察し、差別している。「前に謂う所の十界の依正の色差別なるが故に」十界における差別相とは、こうして生み出されるという。
 
しかし、このことを逆説的にとらえるなら、かえって「心」とは何であるかと固定的に定義してしまうと、その観察対象の善悪美醜も、その「心」の定義に従って限定されざるを得ない。とすれば、その「心」の差別相をのり越えて、その奥の奥、根源まで至れば、空海はその差別をする「心」とは「根本的不明」だというのである。翻って「根本的不明」では、差別の仕様も無いのだ。
 
          *     *     *
 
この「六塵悉く文字なり」の解釈を以て、「声字実相義」は終わる。空海の立場からいえば、この物質世界は、観察者の心の囚われからどこまでも自由であり、かくも美しく響きあっていて、この真実在を感得すれば、その人のコトバはそれ自体「真言」になるという。僕はここに、存在論と認識論の地平を観る気がする。
 
「かくのごとく内外の諸色(色は物質世界)、愚においては毒になり、智においては薬となる、故によく迷い、またよく悟るという」
 
ここに空海密教の、レトリック(声字・コトバ)の面白さがある。
 
          *     *     *
 
以下は蛇足。
 
西洋に於いてデカルトは「我思うゆえに我あり」と言い、その思考の根拠を神に置いたが、空海は「即身成仏義」に於いて、人間の意思決定の根拠は「決断簡択(ケツダンケンチャク)」決断して選びとることだと言った。
 
ここで僕独自に解釈すれば、荘子にいう「体験」と「コトバ」と「記憶」の、認識の三層は、真言密教にいう「身(密)」「口(密)」「意(密)」の三密と比較出来そうである。
 
例えば「即身義」に於ける「三密加持」して物事が成就するとは、「声字実相義」風に釈せば、「心(認識)」の在り様ひとつで、この世界はいか様にでも変わるということ。かるがゆえに、この世界の善悪一切は、人間の「決断簡択」に託されている。なぜならば、この世界を定義する「心」とは、根本的不明にすぎないからだ。
 
我田引水すれば、「易筮」の本質も、この「決断簡択」にすぎない。
 
おしまい

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【雑文】

【雑文】

オリエントの偉大な思想家「荘子」は、その著作「内篇」の中で、存在のリアリティというものは、コトバで表した途端に、表現されたコトバと、コトバから取りこぼされた本質(リアリティ)とに分かたれ、二重性を帯びると謂った。

ではそのように、本来のリアリティが寸断されるような事態がしょうじるのならば、発したコトバを掻き消してでも、そのリアリティそのものに帰れば良いのではないか。そう発議してみても、彼はもう手遅れだと謂う。

既にこの存在者(現実)の世界は、コトバで分かたれて二重性を帯びている。本来の姿に戻ろうという善意は、コトバで寸断された残響をよすがにするしかない。このようにして世界は、コトバによって二重性をおび、人間の中の善意によって、その残響を愛慕する三になる。

先達の「老子」は、そのことをとらまえて、一は二を生じ、二は三を生じ、三は万物を生じると謂った。

(かつて詩人の中原中也は自身の弟に、この美しい夕暮れを、安易にコトバにするなと、沈黙をしいた)
 
 
   *   *   *
 
 
こうしてこの存在リアリティの二重性は、オリエンタルな思索の、永遠のテーマとなった。釈迦は因縁の諸相を克服して「中道」を求め、(およそ)五百年のちの龍樹(ナーガリュジュナ)はその釈迦を愛慕して、存在のリアリティとは、「(仮)有」と「空 (クウ)」のあわいにあるのだ理論化する。

いったい東洋哲学一般において、この「間(あわい)」とは、不変のテーゼとなった。

曰く、はじまりが有るということは因縁が有るので、それを名づけて「(仮)有」という。 

曰く、因縁によって生じるものは、自らの性 (サガ) 有ることは無いので。故に是を「空 (クウ)」という。

曰く、即ち唯一の真実(存在リアリティ)とは、この「(仮)有」と「空 (クウ)」の境にある。即ち是「中道」である。

孔子の孫の「子思 (シシ)」は、祖父の真意が失われることを恐れて「中庸」を著わしたというが、いったい中庸とは、いわば「真ん中」である。人間にとってその存在リアリティとは、この揺れ動く「真ん中」にあったのだ。
 
 
   *   *   *
 
 
はたしてこの揺れ動く、”ゆきかい” と ”おとづれ” の ”あわい” はいかに生ずるか滅するか。

西欧では、デカルトという偉大な哲学者が生じて、「コギト・エルゴ・スム(我思うゆえに我あり)」と謂ったそうだが、その ”思う” 主体のコギトですら、たとえばユングなどに謂わせれば、そこにも「自我」と「自己」の二重性を帯びることになる。
 
 
   *   *   *
 
 
そして僕はここに、もう一人の、オリエントの偉大なる思想家のコトバを想起する。

「自らに求めても、他に求めても、自分自身の本性は、自身の心をはなれない(抄訳)」空海のコトバ。

彼は謂う。

この存在の本源(大日如来)からこそ、(コトバの)本不生である始まりの音源(パロール)が生じるのだと。

(やんぬるかな、近代言語学の祖・ソシュールは、パロールを分析の対象から外した)
 
 
   *   *   *
 
 
僕は空海の名前を出すまでに手間取った。

僕は今、実は彼の次のテーゼにまいっているのだ。

即身成仏義に曰く、「智(悟り)とは、決断簡択(決断し、択び取る)の義である」。

僕はここに、デカルトの遥か先を夢想する。

オリエントにおける、主体性の義を、夢想するわけである。
 
 
 
おしまい 
 
※写真は弘法大師・画像

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7月1日の閣議決定後、集団的自衛権に関する憲法解釈の変更について、5月の「総理記者会見」および「質疑応答」全文、7/1の「閣議決定」に関する文書全文、閣議決定後の「総理記者会見」および「質疑応答」の全文を通読してみました。

そうして見て思うこと、ひとつ、ふたつ。

「積極的平和主義」という視点から、もはやどの国も一国のみでは平和を守ることができないとする政府見解が、世界の共通認識であるという考えと、そしてあくまでも、そうした国際情勢を踏まえたうえで、集団的自衛権の限定的行使を容認することが、積極的に国民の自由と平和を守るための、戦争「抑止力」になると、現在の日本国政府が、そうした強い思いを抱いていることが、今回の「閣議決定」に関する文書からくみ取れます。

並びにその武力行使も、あくまでも「自衛の措置」であり、決して同盟国の戦争に参戦するモノではない旨も、テクストの読みのレベルでは理解されました。

しかしながら、政府の掲げる戦争「抑止力」を別の視点で見れば、個別的自衛権に対し、集団的自衛権までも容認することで、限定的とはいえ、武力衝突の起こる可能性が拡大されるという見方もできます。仮に日本国政府はそのことを「戦争」と表現しなかったにしても、衝突した他国において、「戦争」状態であるとみなされる危険性が、可能性において有り、かつその視点において、日本が戦争に巻き込まれる恐れも拡大します。

     *     *     *

安倍総理は5月の記者会見において、次のような具体的事例も提示しています。同盟国であるアメリカが突然おこった紛争から逃げ遅れた海外の日本人を救助、輸送しているとき、日本海近海で攻撃があるかも知れない。もしかしたらその船には、子供や母親がたくさん乗っているかも知れない。そうした際に「集団的自衛権」は必要になると。

それはもちろん人情としては助けたいし、決して助けないという結論にも至らないだろうと思います。しかし次のような視点も重要ではないでしょうか。

それは、限定的武力行使をおこなうであろう「自衛隊」は、決して映画の中に出てくるヒーローではありません。彼らにも、もちろん子供や母親がいる。それは「生身の人間」であるという視点。

その点において、政府の見解からは、限定的武力行使の「主体」である「自衛隊」も生身の人間であり、かつ家庭に帰ればなお更ひとりの個人であるという様子が、テクストの読みのレベルからは伝わってきませんでした。

     *     *     *

仮に政府の見解も、一つの「理念的立場」として正しいと考えてみましょう。百歩譲って「憲法9条」の平和主義的思想を、「積極的」なレベルで実現しようとしている、と。

(確かにこの点に関し、安倍総理も立憲主義にのっとって政治を行っていくことを当然としています。)

しかしながら僕はこのようにも考えます。

「集団的自衛権」の限定的行使を積極的な戦争「抑止力」とする考えに対し、日本はかつて大きな負の戦争を行い、世界で唯一の「被爆国」となった。その特殊な歴史性を踏まえて描かれた、「戦争と、武力による威嚇又は武力の行使は、国際紛争を解決する手段としては、永久にこれを放棄する」という高い理想を、あらためて世界へ「積極的」に発信してゆくことで、かえって、そのことが強い戦争「抑止力」となるのだ。そしてこのような「戦争抑止」は、かつて世界に前例がないからこそ、日本が守るべきなのだと。

もちろんこの国の国民が、いったいどちらの立場を最終的に選択してゆくのかはわかりません。しかし僕は、日本国というマクロな単位ではなく、個人というミクロなレベルで、このような考えを堅持していきたいと、今回改めて思った次第です。

おしまい

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